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第12話 金稼ぎと童壺仙法
【クルルの餌代】
薄い夜霧が山腹を静かに覆っていた。
霧獣法流の山々には淡い灯籠の灯が連なり、その揺れる光は水面へ映り込み、砕けた星屑のように遠くの峰々へ散っていく。
弟子たちの居住区は深い静寂に沈み、遥か山奥からは、霊狼の遠吠えが細く長く響いていた。月は隠れている。それなのに星だけが異様なほど鮮明で、夜空はどこか不気味な透明感を帯びていた。
――そんな幻想的な景色とは裏腹に。
正雪の部屋には、重苦しい溜め息ばかりが満ちていた。小さな石卓の前に座り込んだ正雪は、髪をぐしゃぐしゃに掻き乱しながら、帳面を睨みつけている。
「……強くなるって、修行だけじゃ駄目なのかよ……」
卓上に広げられた帳面には、細かな文字がびっしりと並んでいた。霊薬。霊器。霊札。修行衣。霊獣飼育費。そして、その中でも赤い丸が何重にも付けられている項目――。
『クルルの餌代』
正雪は頭を抱えた。布団の横では、蛇頸鳥の幼体――クルルが丸くなって眠っている。
「くるる、くるる」と鳴くから、そのまま名付けられた。
寝返りを打つたび、異様に長い首が布団からぬるりとはみ出し、灰色の柔らかな羽毛がふわりと揺れる。まだ幼い。だが、その食欲だけは既に怪物だった。
「……お前、本当に成長期なんだな」
正雪は帳面を見ながら呻く。
「霊魚三十匹って、俺の三日分の飯代より高いぞ……」
その声には、修行者というより貧乏学生の悲哀が滲んでいた。彼は疲れた目を河童の壺へ向ける。
「翠ちゃん。お前、金を稼ぐ方法とか知らないのか?」
すると壺の縁から、仙蛙・翠夏がぴょこんと顔を出した。
「あるなら、とっくにやっておる!」
胸を張り、偉そうに言い放つ。
「蛙が金持ちという話、聞いたことあるか? ないだろ! つまり金はない!」
「威張るなよ……」
正雪は脱力した。その時だった。壺の奥から、水面を撫でるようなしっとりとした声が響く。
「正雪。わたくし、妙案があるのだけれど――」
声の主は梨花だった。以前の刺々しさは薄れ、今では壺の中の生活にもすっかり慣れているらしい。翠夏とも奇妙なほど息が合っていた。
正雪は眉を上げる。
「……妙案?」
「ええ。ただし、条件があるわ」
「先に条件を言うのかよ」
「蛙が教えたの」
横で翠夏が胸を張る。
「交渉は先手必勝だ!」
「変な知識ばっかり増やすな……」
正雪は額を押さえた。
「で、条件は?」
梨花は静かに答える。
「わたくしを壺から解放する約束。そして――利益の三分の一」
「高い!」
正雪は即座に叫んだ。
「五分の一だ!」
「なら四分の一」
「二割。三年後、俺が参階になったら解放する。利益は二割。それでどうだ」
壺の中が静かになる。しばらくして、梨花の困惑した声が漏れた。
「……二割と五分の一って、どっちが多いの……? 二の方が大きい気が……」
小さく咳払いする。
「……二割で成立だわ」
翠夏が感心したように呟いた。
「正雪、お前……交渉強いな……」
こうして契約は成立した。
その後、梨花は静かに計画を語り始める。壺の第三層も海へ改造し、第二層と合わせて養殖場にする。霊魚を育て、阿古屋貝などを増やし、霊真珠を生成して販売する。
得た金で霊薬や霊液を購入し、さらに霊魚を増やす――。
つまり、小規模な霊産業だった。
「魚はクルルちゃん用。真珠は資金用。完璧でしょう?」
梨花はどこか得意げだった。正雪は思わず唸る。
「……天才か?」
「当然よ」
「利益の三分の一にあげるよ」
「ありがとう。嬉しい」
その日から、正雪の生活は一変した。朝は修行。昼は宗門の雑務。夜は壺の管理と養殖作業。
クルルは毎日大量の霊魚を平らげ、翠夏は金勘定をしながらにやにや笑い、梨花は海水層で優雅に霊真珠を育てている。
正雪だけが、日に日にやつれていった。
【月光珠】
すべては順調だった。――あの夜までは。中元の夜。満月が天頂を満たし、天地の霊気が最高潮へ達する特別な夜だった。
その月は異様だった。白い。あまりにも白すぎる。まるで天そのものが巨大な眼となって、地上を見下ろしているかのようだった。
空気は張り詰め、虫の声すら消えている。霊獣たちも気配を潜め、世界は不気味な静寂へ沈んでいた。
その時。正雪の背筋に、ぞくりと悪寒が走る。
「……っ」
嫌な予感。次の瞬間――胸が焼けた。
「がっ……!?」
心臓が炎になったようだった。熱が骨を焼き、血を沸騰させ、全身を内側から裂いていく。
正雪は慌てて呼吸を整える。梨花に教わった、海の呼吸。波の満ち引きのように、ゆっくりと霊力を巡らせる。
だが――。
駄目だった。熱は消えない。むしろ増していく。
(なんでだ……!?)
灼熱は胸から喉へ昇り、さらに頭蓋へ突き抜け――。次の瞬間。ゴッ――!正雪の口から、光の玉が吐き出された。
それは月光そのものだった。淡い銀白色の球体。脈打つように明滅し、宙へ浮かび上がる。部屋中が静かな月光に満たされた。
クルルが驚いて目を覚まし、翠夏は目を見開き、梨花は壺の奥で息を呑む。
誰も言葉を発せなかった。
光玉はゆっくりと天井近くへ浮かび、窓から差し込む満月の光を吸収し始める。その輝きは、時間と共に強くなっていった。
まるで生きている。いや――呼吸しているようだった。やがて夜が明け始める。東の空が白み始めた頃、光玉は徐々に薄れていき、細かな光粒となって、再び正雪の胸へ吸い込まれていった。
その場に残されたのは――。
灰色に濁った、小さな塊。まるで体内の穢れだけを抜き出し、凝縮したような異物だった。
正雪は荒い息を吐きながら、それを見つめる。
「……俺の体、何が起きてるんだ……?」
誰も答えられなかった。それから。月の出る夜ごとに、同じ現象が起きた。光玉は日ごとに変化していく。朝に残る灰色の穢れは増え続ける。
そして何より――。正雪自身の修為が、静かに、だが確実に変質し始めていた。
霊力の質が変わる。呼吸が変わる。肉体が変わる。その異変は、百夜以上続いた。
誰にも理解できぬまま。ただ満月だけが、静かに彼を見下ろしていた。
【名乗らぬ敵】
――そして今宵。
細く削られた銀月が夜空に懸かり、淡い光だけが山野を静かに照らしていた。
正雪は玉泉寮の部屋をそっと抜け出し、人影のない山道を辿っていく。月光を遮るもののない場所――それを求めて、宗門の外縁へ向かったのだ。
やがて辿り着いたのは、山腹に突き出た黒岩の上だった。冷えた夜風が絶え間なく吹き抜け、眼下には深い谷が広がっている。ここならば、月光を真正面から浴びることができる。
それこそが、今夜の修行に必要な条件だった。壺の内部では、翠夏と梨花もまた、それぞれの術式を練り上げている。
周囲に灯火はない。人の気配もない。ただ、梢を揺らす風の音と、遠い虫の声だけが夜を満たしていた。山そのものが深い瞑想へ沈んでいるような静寂。その静けささえ、修行の一部に思えるほどだった。
正雪はゆっくりと呼吸を整え、胸奥に眠る珠を解き放つ。
――潮音珠。
いや、もはやそれは、月光珠と呼ぶべき存在へ変わりつつあった。
淡白い光の珠が胸元から浮かび上がり、静かに宙を巡る。月光を浴びるたび、珠の表面には波紋のような霊紋が広がり、内部で銀色の霊気が脈動した。
その光は、正雪の丹田へゆっくりと流れ込む。濁りを洗い流し、血流を巡らせ、霊力を澄ませる。
月の呼吸と共に、身体が浄化されていく感覚――。
――そのはずだった。
ドォォォォンッ!!!
突如として、大地が震えた。岩肌が跳ね、衝撃が地脈を伝って山腹を揺るがす。正雪は反射的に月光珠を体内へ戻し、即座に身を翻した。
空から、二つの影が落下してくる。まるで隕石のような勢いで地へ叩きつけられ、土煙が吹き上がった。月光が煙を裂き、その姿を露わにする。
「――紗綾!?」
紫衣は裂け、鮮血と泥に染まっていた。その傍らには、巨大な緑孔雀の霊禽が横たわっている。翼は折れ、既に息絶えていた。
紗綾は苦しげに唇を震わせ、かすかに正雪を見上げた。
「……逃げろ……。あいつらは……参階だ……。お前じゃ……勝てない……」
その声は掠れ、血泡が混じっていた。正雪は迷わず彼女の肩を支え、岩陰へ座らせる。懐から霊薬を取り出し、慎重に口元へ運んだ。
それは、今朝ようやく稼いだ金で買った高級霊薬だった。
「喋るな。まず治療だ」
霊薬が体内へ巡り、紗綾の顔色がわずかに戻る。
だが――その瞬間。月影の奥から、二つの気配が滲み出た。音もなく現れたのは、黒漆の長弓を背負う男と、妖気を纏う湾刀を携えた男だった。
二人とも、月下に溶け込むような黒衣をまとっている。その眼光だけが獣のように鋭かった。
「重傷の参階に、壱階の小僧か」
刀使いが嗤う。
「逃げ切れると思ったのか?」
弓使いもまた、冷たい目を向けた。
「見られた以上、生かして帰す理由はない」
紗綾が唇を噛み、血を吐きながら叫ぶ。
「卑怯者……!」
その双眸には、怒りの炎が宿っていた。
「名を言え! せめて墓に刻む名くらい、残してみろ!」
弓使いは鼻で笑った。
「死にゆく者へ名乗る価値などない」
その声は、死人へ向ける弔辞より冷たい。
「知りたければ――冥土で聞け」
次の瞬間。二人の姿が消えた。紗綾が咄嗟に剣を振り上げ、刀使いの斬撃を受け止める。火花が散り、骨の軋む音が響いた。
正雪もまた、飛来した矢を霊盾で防ぐ。
しかし――。
ドガァンッ!!
盾ごと身体を吹き飛ばされた。衝撃で肺から空気が抜け、十歩以上も後方へ転がる。岩肌へ叩きつけられ、視界が白く霞んだ。
(強い……!)
参階。それは壱階の修行者が抗える領域ではない。正雪は歯を食いしばりながら立ち上がる。クルルは宗門に置いてきた。護衛もない。完全な判断ミスだった。
このままでは、自分も紗綾も殺される。呼吸が荒れる。背後には岩壁。逃げ道は狭い。だが、その瞬間――正雪の脳裏に、翠夏の声が蘇った。
(……ここなら、使える)
【童壺仙法】
――童壺仙法。
仙蛙・翠夏より授かった秘術。ただし、その代償はあまりにも重い。一度放てば、霊力を完全に使い切る“一発限り”の仙法。
使えば、その後は無防備になる。だが――選択肢はなかった。正雪は腰の河童壺を呼び出した。小さかった壺は霊力を吸い込みながら急速に膨張し、瞬く間に人の背丈ほどへ巨大化する。
壺の表面に刻まれた霊紋が青白く輝いた。
「――行けッ!!」
正雪は咆哮し、巨大壺を頭上へ掲げる。そして、全霊を込めて大地へ叩きつけた。轟音。地脈が裂けた。亀裂は蛇のように走り、一直線に弓使いへ襲いかかる。
足元へ絡みつき――。爆ぜた。轟ッ!!爆風と岩片が夜空を舞い、弓使いの身体が悲鳴と共に吹き飛ばされる。
正雪は荒い息を吐いた。膝が崩れる。体内の霊力は完全に空だった。指一本動かすだけで、全身が鉛のように重い。
「……やった、のか……」
だが。砂煙の向こうで、影がゆらりと立ち上がった。弓使いだった。片腕は不自然に折れ曲がり、全身から血を滴らせている。
それでも、その双眼だけは獣のように燃えていた。
「小僧……」
怨毒に満ちた声。
「よくも……やってくれたな……」
一歩。また一歩。足を引きずりながら、それでも確実に近づいてくる。
「殺す……」
その殺意は夜気すら凍らせた。
「必ず殺す。今すぐにだ……!」
正雪は立ち上がろうとする。だが身体は動かない。霊力は尽き、呼吸すら苦しい。声も出ない。壺も、珠も、もう応えない。
月だけが、静かに山を照らしていた。
――絶体絶命。
薄い夜霧が山腹を静かに覆っていた。
霧獣法流の山々には淡い灯籠の灯が連なり、その揺れる光は水面へ映り込み、砕けた星屑のように遠くの峰々へ散っていく。
弟子たちの居住区は深い静寂に沈み、遥か山奥からは、霊狼の遠吠えが細く長く響いていた。月は隠れている。それなのに星だけが異様なほど鮮明で、夜空はどこか不気味な透明感を帯びていた。
――そんな幻想的な景色とは裏腹に。
正雪の部屋には、重苦しい溜め息ばかりが満ちていた。小さな石卓の前に座り込んだ正雪は、髪をぐしゃぐしゃに掻き乱しながら、帳面を睨みつけている。
「……強くなるって、修行だけじゃ駄目なのかよ……」
卓上に広げられた帳面には、細かな文字がびっしりと並んでいた。霊薬。霊器。霊札。修行衣。霊獣飼育費。そして、その中でも赤い丸が何重にも付けられている項目――。
『クルルの餌代』
正雪は頭を抱えた。布団の横では、蛇頸鳥の幼体――クルルが丸くなって眠っている。
「くるる、くるる」と鳴くから、そのまま名付けられた。
寝返りを打つたび、異様に長い首が布団からぬるりとはみ出し、灰色の柔らかな羽毛がふわりと揺れる。まだ幼い。だが、その食欲だけは既に怪物だった。
「……お前、本当に成長期なんだな」
正雪は帳面を見ながら呻く。
「霊魚三十匹って、俺の三日分の飯代より高いぞ……」
その声には、修行者というより貧乏学生の悲哀が滲んでいた。彼は疲れた目を河童の壺へ向ける。
「翠ちゃん。お前、金を稼ぐ方法とか知らないのか?」
すると壺の縁から、仙蛙・翠夏がぴょこんと顔を出した。
「あるなら、とっくにやっておる!」
胸を張り、偉そうに言い放つ。
「蛙が金持ちという話、聞いたことあるか? ないだろ! つまり金はない!」
「威張るなよ……」
正雪は脱力した。その時だった。壺の奥から、水面を撫でるようなしっとりとした声が響く。
「正雪。わたくし、妙案があるのだけれど――」
声の主は梨花だった。以前の刺々しさは薄れ、今では壺の中の生活にもすっかり慣れているらしい。翠夏とも奇妙なほど息が合っていた。
正雪は眉を上げる。
「……妙案?」
「ええ。ただし、条件があるわ」
「先に条件を言うのかよ」
「蛙が教えたの」
横で翠夏が胸を張る。
「交渉は先手必勝だ!」
「変な知識ばっかり増やすな……」
正雪は額を押さえた。
「で、条件は?」
梨花は静かに答える。
「わたくしを壺から解放する約束。そして――利益の三分の一」
「高い!」
正雪は即座に叫んだ。
「五分の一だ!」
「なら四分の一」
「二割。三年後、俺が参階になったら解放する。利益は二割。それでどうだ」
壺の中が静かになる。しばらくして、梨花の困惑した声が漏れた。
「……二割と五分の一って、どっちが多いの……? 二の方が大きい気が……」
小さく咳払いする。
「……二割で成立だわ」
翠夏が感心したように呟いた。
「正雪、お前……交渉強いな……」
こうして契約は成立した。
その後、梨花は静かに計画を語り始める。壺の第三層も海へ改造し、第二層と合わせて養殖場にする。霊魚を育て、阿古屋貝などを増やし、霊真珠を生成して販売する。
得た金で霊薬や霊液を購入し、さらに霊魚を増やす――。
つまり、小規模な霊産業だった。
「魚はクルルちゃん用。真珠は資金用。完璧でしょう?」
梨花はどこか得意げだった。正雪は思わず唸る。
「……天才か?」
「当然よ」
「利益の三分の一にあげるよ」
「ありがとう。嬉しい」
その日から、正雪の生活は一変した。朝は修行。昼は宗門の雑務。夜は壺の管理と養殖作業。
クルルは毎日大量の霊魚を平らげ、翠夏は金勘定をしながらにやにや笑い、梨花は海水層で優雅に霊真珠を育てている。
正雪だけが、日に日にやつれていった。
【月光珠】
すべては順調だった。――あの夜までは。中元の夜。満月が天頂を満たし、天地の霊気が最高潮へ達する特別な夜だった。
その月は異様だった。白い。あまりにも白すぎる。まるで天そのものが巨大な眼となって、地上を見下ろしているかのようだった。
空気は張り詰め、虫の声すら消えている。霊獣たちも気配を潜め、世界は不気味な静寂へ沈んでいた。
その時。正雪の背筋に、ぞくりと悪寒が走る。
「……っ」
嫌な予感。次の瞬間――胸が焼けた。
「がっ……!?」
心臓が炎になったようだった。熱が骨を焼き、血を沸騰させ、全身を内側から裂いていく。
正雪は慌てて呼吸を整える。梨花に教わった、海の呼吸。波の満ち引きのように、ゆっくりと霊力を巡らせる。
だが――。
駄目だった。熱は消えない。むしろ増していく。
(なんでだ……!?)
灼熱は胸から喉へ昇り、さらに頭蓋へ突き抜け――。次の瞬間。ゴッ――!正雪の口から、光の玉が吐き出された。
それは月光そのものだった。淡い銀白色の球体。脈打つように明滅し、宙へ浮かび上がる。部屋中が静かな月光に満たされた。
クルルが驚いて目を覚まし、翠夏は目を見開き、梨花は壺の奥で息を呑む。
誰も言葉を発せなかった。
光玉はゆっくりと天井近くへ浮かび、窓から差し込む満月の光を吸収し始める。その輝きは、時間と共に強くなっていった。
まるで生きている。いや――呼吸しているようだった。やがて夜が明け始める。東の空が白み始めた頃、光玉は徐々に薄れていき、細かな光粒となって、再び正雪の胸へ吸い込まれていった。
その場に残されたのは――。
灰色に濁った、小さな塊。まるで体内の穢れだけを抜き出し、凝縮したような異物だった。
正雪は荒い息を吐きながら、それを見つめる。
「……俺の体、何が起きてるんだ……?」
誰も答えられなかった。それから。月の出る夜ごとに、同じ現象が起きた。光玉は日ごとに変化していく。朝に残る灰色の穢れは増え続ける。
そして何より――。正雪自身の修為が、静かに、だが確実に変質し始めていた。
霊力の質が変わる。呼吸が変わる。肉体が変わる。その異変は、百夜以上続いた。
誰にも理解できぬまま。ただ満月だけが、静かに彼を見下ろしていた。
【名乗らぬ敵】
――そして今宵。
細く削られた銀月が夜空に懸かり、淡い光だけが山野を静かに照らしていた。
正雪は玉泉寮の部屋をそっと抜け出し、人影のない山道を辿っていく。月光を遮るもののない場所――それを求めて、宗門の外縁へ向かったのだ。
やがて辿り着いたのは、山腹に突き出た黒岩の上だった。冷えた夜風が絶え間なく吹き抜け、眼下には深い谷が広がっている。ここならば、月光を真正面から浴びることができる。
それこそが、今夜の修行に必要な条件だった。壺の内部では、翠夏と梨花もまた、それぞれの術式を練り上げている。
周囲に灯火はない。人の気配もない。ただ、梢を揺らす風の音と、遠い虫の声だけが夜を満たしていた。山そのものが深い瞑想へ沈んでいるような静寂。その静けささえ、修行の一部に思えるほどだった。
正雪はゆっくりと呼吸を整え、胸奥に眠る珠を解き放つ。
――潮音珠。
いや、もはやそれは、月光珠と呼ぶべき存在へ変わりつつあった。
淡白い光の珠が胸元から浮かび上がり、静かに宙を巡る。月光を浴びるたび、珠の表面には波紋のような霊紋が広がり、内部で銀色の霊気が脈動した。
その光は、正雪の丹田へゆっくりと流れ込む。濁りを洗い流し、血流を巡らせ、霊力を澄ませる。
月の呼吸と共に、身体が浄化されていく感覚――。
――そのはずだった。
ドォォォォンッ!!!
突如として、大地が震えた。岩肌が跳ね、衝撃が地脈を伝って山腹を揺るがす。正雪は反射的に月光珠を体内へ戻し、即座に身を翻した。
空から、二つの影が落下してくる。まるで隕石のような勢いで地へ叩きつけられ、土煙が吹き上がった。月光が煙を裂き、その姿を露わにする。
「――紗綾!?」
紫衣は裂け、鮮血と泥に染まっていた。その傍らには、巨大な緑孔雀の霊禽が横たわっている。翼は折れ、既に息絶えていた。
紗綾は苦しげに唇を震わせ、かすかに正雪を見上げた。
「……逃げろ……。あいつらは……参階だ……。お前じゃ……勝てない……」
その声は掠れ、血泡が混じっていた。正雪は迷わず彼女の肩を支え、岩陰へ座らせる。懐から霊薬を取り出し、慎重に口元へ運んだ。
それは、今朝ようやく稼いだ金で買った高級霊薬だった。
「喋るな。まず治療だ」
霊薬が体内へ巡り、紗綾の顔色がわずかに戻る。
だが――その瞬間。月影の奥から、二つの気配が滲み出た。音もなく現れたのは、黒漆の長弓を背負う男と、妖気を纏う湾刀を携えた男だった。
二人とも、月下に溶け込むような黒衣をまとっている。その眼光だけが獣のように鋭かった。
「重傷の参階に、壱階の小僧か」
刀使いが嗤う。
「逃げ切れると思ったのか?」
弓使いもまた、冷たい目を向けた。
「見られた以上、生かして帰す理由はない」
紗綾が唇を噛み、血を吐きながら叫ぶ。
「卑怯者……!」
その双眸には、怒りの炎が宿っていた。
「名を言え! せめて墓に刻む名くらい、残してみろ!」
弓使いは鼻で笑った。
「死にゆく者へ名乗る価値などない」
その声は、死人へ向ける弔辞より冷たい。
「知りたければ――冥土で聞け」
次の瞬間。二人の姿が消えた。紗綾が咄嗟に剣を振り上げ、刀使いの斬撃を受け止める。火花が散り、骨の軋む音が響いた。
正雪もまた、飛来した矢を霊盾で防ぐ。
しかし――。
ドガァンッ!!
盾ごと身体を吹き飛ばされた。衝撃で肺から空気が抜け、十歩以上も後方へ転がる。岩肌へ叩きつけられ、視界が白く霞んだ。
(強い……!)
参階。それは壱階の修行者が抗える領域ではない。正雪は歯を食いしばりながら立ち上がる。クルルは宗門に置いてきた。護衛もない。完全な判断ミスだった。
このままでは、自分も紗綾も殺される。呼吸が荒れる。背後には岩壁。逃げ道は狭い。だが、その瞬間――正雪の脳裏に、翠夏の声が蘇った。
(……ここなら、使える)
【童壺仙法】
――童壺仙法。
仙蛙・翠夏より授かった秘術。ただし、その代償はあまりにも重い。一度放てば、霊力を完全に使い切る“一発限り”の仙法。
使えば、その後は無防備になる。だが――選択肢はなかった。正雪は腰の河童壺を呼び出した。小さかった壺は霊力を吸い込みながら急速に膨張し、瞬く間に人の背丈ほどへ巨大化する。
壺の表面に刻まれた霊紋が青白く輝いた。
「――行けッ!!」
正雪は咆哮し、巨大壺を頭上へ掲げる。そして、全霊を込めて大地へ叩きつけた。轟音。地脈が裂けた。亀裂は蛇のように走り、一直線に弓使いへ襲いかかる。
足元へ絡みつき――。爆ぜた。轟ッ!!爆風と岩片が夜空を舞い、弓使いの身体が悲鳴と共に吹き飛ばされる。
正雪は荒い息を吐いた。膝が崩れる。体内の霊力は完全に空だった。指一本動かすだけで、全身が鉛のように重い。
「……やった、のか……」
だが。砂煙の向こうで、影がゆらりと立ち上がった。弓使いだった。片腕は不自然に折れ曲がり、全身から血を滴らせている。
それでも、その双眼だけは獣のように燃えていた。
「小僧……」
怨毒に満ちた声。
「よくも……やってくれたな……」
一歩。また一歩。足を引きずりながら、それでも確実に近づいてくる。
「殺す……」
その殺意は夜気すら凍らせた。
「必ず殺す。今すぐにだ……!」
正雪は立ち上がろうとする。だが身体は動かない。霊力は尽き、呼吸すら苦しい。声も出ない。壺も、珠も、もう応えない。
月だけが、静かに山を照らしていた。
――絶体絶命。
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転生したらスライムの突然変異だった。
レアらしくて、成長が異常に早いよ。
せっかくだから、自分の特技を活かして、日本の魚屋技術を異世界に広めたいな。
出刃包丁がない世界だったので、スライムの体内で作ったら、名刀に仕上がっちゃった。
元万能技術者の冒険者にして釣り人な日々
於田縫紀
ファンタジー
俺は神殿技術者だったが過労死して転生。そして冒険者となった日の夜に記憶や技能・魔法を取り戻した。しかしかつて持っていた能力や魔法の他に、釣りに必要だと神が判断した様々な技能や魔法がおまけされていた。
今世はこれらを利用してのんびり釣り、最小限に仕事をしようと思ったのだが……
(タイトルは異なりますが、カクヨム投稿中の『何でも作れる元神殿技術者の冒険者にして釣り人な日々』と同じお話です。更新が追いつくまでは毎日更新、追いついた後は隔日更新となります)
クラス転移で無能判定されて追放されたけど、努力してSSランクのチートスキルに進化しました~【生命付与】スキルで異世界を自由に楽しみます~
いちまる
ファンタジー
ある日、クラスごと異世界に召喚されてしまった少年、天羽イオリ。
他のクラスメートが強力なスキルを発現させてゆく中、イオリだけが最低ランクのEランクスキル【生命付与】の持ち主だと鑑定される。
「無能は不要だ」と判断した他の生徒や、召喚した張本人である神官によって、イオリは追放され、川に突き落とされた。
しかしそこで、川底に沈んでいた謎の男の力でスキルを強化するチャンスを得た――。
1千年の努力とともに、イオリのスキルはSSランクへと進化!
自分を拾ってくれた田舎町のアイテムショップで、チートスキルをフル稼働!
「転移者が世界を良くする?」
「知らねえよ、俺は異世界を自由気ままに楽しむんだ!」
追放された少年の第2の人生が、始まる――!
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