日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―

紅連山

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第12話 金稼ぎと童壺仙法

【クルルの餌代】

 薄い夜霧が山腹を静かに覆っていた。

 霧獣法流の山々には淡い灯籠の灯が連なり、その揺れる光は水面へ映り込み、砕けた星屑のように遠くの峰々へ散っていく。

 弟子たちの居住区は深い静寂に沈み、遥か山奥からは、霊狼の遠吠えが細く長く響いていた。月は隠れている。それなのに星だけが異様なほど鮮明で、夜空はどこか不気味な透明感を帯びていた。

 ――そんな幻想的な景色とは裏腹に。

 正雪の部屋には、重苦しい溜め息ばかりが満ちていた。小さな石卓の前に座り込んだ正雪は、髪をぐしゃぐしゃに掻き乱しながら、帳面を睨みつけている。

 「……強くなるって、修行だけじゃ駄目なのかよ……」

 卓上に広げられた帳面には、細かな文字がびっしりと並んでいた。霊薬。霊器。霊札。修行衣。霊獣飼育費。そして、その中でも赤い丸が何重にも付けられている項目――。

 『クルルの餌代』

 正雪は頭を抱えた。布団の横では、蛇頸鳥の幼体――クルルが丸くなって眠っている。

 「くるる、くるる」と鳴くから、そのまま名付けられた。

 寝返りを打つたび、異様に長い首が布団からぬるりとはみ出し、灰色の柔らかな羽毛がふわりと揺れる。まだ幼い。だが、その食欲だけは既に怪物だった。

 「……お前、本当に成長期なんだな」

 正雪は帳面を見ながら呻く。

 「霊魚三十匹って、俺の三日分の飯代より高いぞ……」

 その声には、修行者というより貧乏学生の悲哀が滲んでいた。彼は疲れた目を河童の壺へ向ける。

 「翠ちゃん。お前、金を稼ぐ方法とか知らないのか?」

 すると壺の縁から、仙蛙・翠夏がぴょこんと顔を出した。

 「あるなら、とっくにやっておる!」

 胸を張り、偉そうに言い放つ。

 「蛙が金持ちという話、聞いたことあるか? ないだろ! つまり金はない!」

 「威張るなよ……」

 正雪は脱力した。その時だった。壺の奥から、水面を撫でるようなしっとりとした声が響く。

 「正雪。わたくし、妙案があるのだけれど――」

 声の主は梨花だった。以前の刺々しさは薄れ、今では壺の中の生活にもすっかり慣れているらしい。翠夏とも奇妙なほど息が合っていた。

 正雪は眉を上げる。

 「……妙案?」

 「ええ。ただし、条件があるわ」

 「先に条件を言うのかよ」

 「蛙が教えたの」

 横で翠夏が胸を張る。

 「交渉は先手必勝だ!」

 「変な知識ばっかり増やすな……」

 正雪は額を押さえた。

 「で、条件は?」

 梨花は静かに答える。

 「わたくしを壺から解放する約束。そして――利益の三分の一」

 「高い!」

 正雪は即座に叫んだ。

 「五分の一だ!」

 「なら四分の一」

 「二割。三年後、俺が参階になったら解放する。利益は二割。それでどうだ」

 壺の中が静かになる。しばらくして、梨花の困惑した声が漏れた。

 「……二割と五分の一って、どっちが多いの……? 二の方が大きい気が……」

 小さく咳払いする。

 「……二割で成立だわ」

 翠夏が感心したように呟いた。

 「正雪、お前……交渉強いな……」

 こうして契約は成立した。

 その後、梨花は静かに計画を語り始める。壺の第三層も海へ改造し、第二層と合わせて養殖場にする。霊魚を育て、阿古屋貝などを増やし、霊真珠を生成して販売する。

 得た金で霊薬や霊液を購入し、さらに霊魚を増やす――。

 つまり、小規模な霊産業だった。

 「魚はクルルちゃん用。真珠は資金用。完璧でしょう?」

 梨花はどこか得意げだった。正雪は思わず唸る。

 「……天才か?」

 「当然よ」
 
 「利益の三分の一にあげるよ」
 
 「ありがとう。嬉しい」

 その日から、正雪の生活は一変した。朝は修行。昼は宗門の雑務。夜は壺の管理と養殖作業。

 クルルは毎日大量の霊魚を平らげ、翠夏は金勘定をしながらにやにや笑い、梨花は海水層で優雅に霊真珠を育てている。

 正雪だけが、日に日にやつれていった。


【月光珠】

 すべては順調だった。――あの夜までは。中元の夜。満月が天頂を満たし、天地の霊気が最高潮へ達する特別な夜だった。

 その月は異様だった。白い。あまりにも白すぎる。まるで天そのものが巨大な眼となって、地上を見下ろしているかのようだった。

 空気は張り詰め、虫の声すら消えている。霊獣たちも気配を潜め、世界は不気味な静寂へ沈んでいた。

 その時。正雪の背筋に、ぞくりと悪寒が走る。

 「……っ」

 嫌な予感。次の瞬間――胸が焼けた。

 「がっ……!?」

 心臓が炎になったようだった。熱が骨を焼き、血を沸騰させ、全身を内側から裂いていく。

 正雪は慌てて呼吸を整える。梨花に教わった、海の呼吸。波の満ち引きのように、ゆっくりと霊力を巡らせる。

 だが――。

 駄目だった。熱は消えない。むしろ増していく。

(なんでだ……!?)

 灼熱は胸から喉へ昇り、さらに頭蓋へ突き抜け――。次の瞬間。ゴッ――!正雪の口から、光の玉が吐き出された。

 それは月光そのものだった。淡い銀白色の球体。脈打つように明滅し、宙へ浮かび上がる。部屋中が静かな月光に満たされた。

 クルルが驚いて目を覚まし、翠夏は目を見開き、梨花は壺の奥で息を呑む。

 誰も言葉を発せなかった。

 光玉はゆっくりと天井近くへ浮かび、窓から差し込む満月の光を吸収し始める。その輝きは、時間と共に強くなっていった。

 まるで生きている。いや――呼吸しているようだった。やがて夜が明け始める。東の空が白み始めた頃、光玉は徐々に薄れていき、細かな光粒となって、再び正雪の胸へ吸い込まれていった。

 その場に残されたのは――。

 灰色に濁った、小さな塊。まるで体内の穢れだけを抜き出し、凝縮したような異物だった。

 正雪は荒い息を吐きながら、それを見つめる。

 「……俺の体、何が起きてるんだ……?」

 誰も答えられなかった。それから。月の出る夜ごとに、同じ現象が起きた。光玉は日ごとに変化していく。朝に残る灰色の穢れは増え続ける。

 そして何より――。正雪自身の修為が、静かに、だが確実に変質し始めていた。

 霊力の質が変わる。呼吸が変わる。肉体が変わる。その異変は、百夜以上続いた。

 誰にも理解できぬまま。ただ満月だけが、静かに彼を見下ろしていた。


【名乗らぬ敵】

 ――そして今宵。

 細く削られた銀月が夜空に懸かり、淡い光だけが山野を静かに照らしていた。

 正雪は玉泉寮の部屋をそっと抜け出し、人影のない山道を辿っていく。月光を遮るもののない場所――それを求めて、宗門の外縁へ向かったのだ。

 やがて辿り着いたのは、山腹に突き出た黒岩の上だった。冷えた夜風が絶え間なく吹き抜け、眼下には深い谷が広がっている。ここならば、月光を真正面から浴びることができる。

 それこそが、今夜の修行に必要な条件だった。壺の内部では、翠夏と梨花もまた、それぞれの術式を練り上げている。

 周囲に灯火はない。人の気配もない。ただ、梢を揺らす風の音と、遠い虫の声だけが夜を満たしていた。山そのものが深い瞑想へ沈んでいるような静寂。その静けささえ、修行の一部に思えるほどだった。

 正雪はゆっくりと呼吸を整え、胸奥に眠る珠を解き放つ。

 ――潮音珠。

 いや、もはやそれは、月光珠と呼ぶべき存在へ変わりつつあった。

 淡白い光の珠が胸元から浮かび上がり、静かに宙を巡る。月光を浴びるたび、珠の表面には波紋のような霊紋が広がり、内部で銀色の霊気が脈動した。

 その光は、正雪の丹田へゆっくりと流れ込む。濁りを洗い流し、血流を巡らせ、霊力を澄ませる。

 月の呼吸と共に、身体が浄化されていく感覚――。

 ――そのはずだった。

 ドォォォォンッ!!!

 突如として、大地が震えた。岩肌が跳ね、衝撃が地脈を伝って山腹を揺るがす。正雪は反射的に月光珠を体内へ戻し、即座に身を翻した。

 空から、二つの影が落下してくる。まるで隕石のような勢いで地へ叩きつけられ、土煙が吹き上がった。月光が煙を裂き、その姿を露わにする。

 「――紗綾!?」

 紫衣は裂け、鮮血と泥に染まっていた。その傍らには、巨大な緑孔雀の霊禽が横たわっている。翼は折れ、既に息絶えていた。

 紗綾は苦しげに唇を震わせ、かすかに正雪を見上げた。

 「……逃げろ……。あいつらは……参階だ……。お前じゃ……勝てない……」

 その声は掠れ、血泡が混じっていた。正雪は迷わず彼女の肩を支え、岩陰へ座らせる。懐から霊薬を取り出し、慎重に口元へ運んだ。

 それは、今朝ようやく稼いだ金で買った高級霊薬だった。

 「喋るな。まず治療だ」

 霊薬が体内へ巡り、紗綾の顔色がわずかに戻る。

 だが――その瞬間。月影の奥から、二つの気配が滲み出た。音もなく現れたのは、黒漆の長弓を背負う男と、妖気を纏う湾刀を携えた男だった。

 二人とも、月下に溶け込むような黒衣をまとっている。その眼光だけが獣のように鋭かった。

 「重傷の参階に、壱階の小僧か」

 刀使いが嗤う。

 「逃げ切れると思ったのか?」

 弓使いもまた、冷たい目を向けた。

 「見られた以上、生かして帰す理由はない」

 紗綾が唇を噛み、血を吐きながら叫ぶ。

 「卑怯者……!」

 その双眸には、怒りの炎が宿っていた。

 「名を言え! せめて墓に刻む名くらい、残してみろ!」

 弓使いは鼻で笑った。

 「死にゆく者へ名乗る価値などない」

 その声は、死人へ向ける弔辞より冷たい。

 「知りたければ――冥土で聞け」

 次の瞬間。二人の姿が消えた。紗綾が咄嗟に剣を振り上げ、刀使いの斬撃を受け止める。火花が散り、骨の軋む音が響いた。

 正雪もまた、飛来した矢を霊盾で防ぐ。

 しかし――。

 ドガァンッ!!

 盾ごと身体を吹き飛ばされた。衝撃で肺から空気が抜け、十歩以上も後方へ転がる。岩肌へ叩きつけられ、視界が白く霞んだ。

 (強い……!)

 参階。それは壱階の修行者が抗える領域ではない。正雪は歯を食いしばりながら立ち上がる。クルルは宗門に置いてきた。護衛もない。完全な判断ミスだった。

 このままでは、自分も紗綾も殺される。呼吸が荒れる。背後には岩壁。逃げ道は狭い。だが、その瞬間――正雪の脳裏に、翠夏の声が蘇った。

 (……ここなら、使える)


【童壺仙法】

 ――童壺仙法。

 仙蛙・翠夏より授かった秘術。ただし、その代償はあまりにも重い。一度放てば、霊力を完全に使い切る“一発限り”の仙法。

 使えば、その後は無防備になる。だが――選択肢はなかった。正雪は腰の河童壺を呼び出した。小さかった壺は霊力を吸い込みながら急速に膨張し、瞬く間に人の背丈ほどへ巨大化する。

 壺の表面に刻まれた霊紋が青白く輝いた。

 「――行けッ!!」

 正雪は咆哮し、巨大壺を頭上へ掲げる。そして、全霊を込めて大地へ叩きつけた。轟音。地脈が裂けた。亀裂は蛇のように走り、一直線に弓使いへ襲いかかる。

 足元へ絡みつき――。爆ぜた。轟ッ!!爆風と岩片が夜空を舞い、弓使いの身体が悲鳴と共に吹き飛ばされる。

 正雪は荒い息を吐いた。膝が崩れる。体内の霊力は完全に空だった。指一本動かすだけで、全身が鉛のように重い。

 「……やった、のか……」

 だが。砂煙の向こうで、影がゆらりと立ち上がった。弓使いだった。片腕は不自然に折れ曲がり、全身から血を滴らせている。

 それでも、その双眼だけは獣のように燃えていた。

 「小僧……」

 怨毒に満ちた声。

 「よくも……やってくれたな……」

 一歩。また一歩。足を引きずりながら、それでも確実に近づいてくる。

 「殺す……」

 その殺意は夜気すら凍らせた。

 「必ず殺す。今すぐにだ……!」

 正雪は立ち上がろうとする。だが身体は動かない。霊力は尽き、呼吸すら苦しい。声も出ない。壺も、珠も、もう応えない。

 月だけが、静かに山を照らしていた。

 ――絶体絶命。
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