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第一章
プロローグ
……寒い。
極寒の監獄の様な修道院で、ベアトリーチェは寒さに自身の両手を擦り合せている。暖を取るはずのストーブには燃え尽きそうな火が冷たい風に揺られていた。
もうすぐ、消えそう…。
何か燃えそうなものを部屋中探すが、今着ている服以外目ぼしいものは見当たらない。罪を犯したベアトリーチェに優しくしてくれる人などいない。いや、もっと以前、正確には母親が死んだ時からいなかったのだ。だから、新しい薪も補充されていない。それに、いつ終わるかもしれない命に貴重な薪を与える必要もないと判断したのだろう。
粗末な身なりをしていても、元は公爵令嬢…。どこか貴族令嬢らしい気品だけは残っている。だが、艶やかだった銀色の髪も折れた櫛で梳く所為か、痛んでぼさぼさになっていた。長年身に付いている貴族としての矜持は残っているのか、誰も見ていなくても彼女は常に身だしなみには気を付けていた。だが、今ではここに入った当時の高慢な態度も無くなって、彼女の心には後悔しか残っていない。
どうして、わたしはあんなことをしてのだろう…。
どれ程、過去を振り返っても、自分の犯した罪は無くならない。
愚かで弱い自分…。愛されたがりの自分…。憎しみや悲しみ、嫉妬心、醜い感情に衝き動かされるように行動した結果、捨てられたのだ。父や、婚約者や全ての人から見放され、こんな所まで追いやられた。
「自業自得よね…」
ベアトリーチェの小さな呟きを拾う者はここにいない。誰もいない部屋には苦しい息遣いだけが響く…。
ベアトリーチェは半年前から胸の病気を患っていた。最初は、院長も医師を呼んでくれたが、ベアトリーチェの実家が落ちぶれた一報を受け取ると、掌を返して彼女に厳しく当たった。
実家のチェスター公爵家が落ちぶれたのは、世間で噂されるような悪女の所為ではない。
平民上がりの義母エレナは公爵夫人としての義務を果たしていなかった。天使の様な容姿に平民だった時の思考しか持たないジュリアに貴族の善悪を判断できる能力はない。
彼女の基準は常に清廉潔白なものが全てなのだから…。
貧しい身なりの人間が本当に貧しいのかということは見かけでは分からない。もしかして人を騙す為に態と貧しいふりをして、他人の懐を狙っているかもしれない事に気付かない程、おめでたい性格なのだ。平民なら美徳かもしれないが、貴族では通用しない。家門を繁栄に導く為なら、その手を血に染める者は少なくない。
お腹を空かせた子供達に施しをしてやることが善意で、知らぬふりをしている事を悪だと信じている。貴族の腹芸も見破れず、発せられた言葉のみを鵜呑みにし、苦言を呈した者は悪で、甘い言葉を囁くものが善。ああなんて異母妹は純粋で天使のような存在なのだろう。父が用意した純粋培養の楽園で育ったジュリアは貴族の世界を知らな過ぎた。だから、異母姉の婚約者にも近い距離を簡単に取ってしまう。
最初は婚約者のいる異性に近付きすぎると注意した者も、殿下の一言で黙り込む。その内、当事者のベアトリーチェだけが、その距離感がおかしい事を指摘すると、その態度や言葉がジュリアを虐げていると受け取られて行った。
そんなやり取りが日常的になってきた頃、レイノルドから婚約破棄を言い渡された。
10歳から王太子妃になるための妃教育を寝る間を惜しんで励み、いつの日かレイノルドの隣で彼を支える事だけを夢見て来たのに、その夢は儚く砕け散ってしまった。
使い道の無くなったベアトリーチェを父であるベンジャミンは簡単に切り捨てた。元々、ベアトリーチェには興味の欠片も示さなかった。というより、死んだ妻を思い出すようで避けていたという方が正しい。
隣国から連れ帰った「銀の妖精姫」と呼ばれていた美しい前妻リリエンヌに良く似たベアトリーチェ。彼女を見ると前妻の最期を思い出して、痛む気持ちや後悔、懺悔よりも嫌悪感の方が勝っていた。だから、その子供であるベアトリーチェも疎んじて遠ざけてきた。
公爵家でのベアトリーチェの立場危ういもので、衣食住は整えられていたし、十分な教育もなされていた。しかし、それだけだ。ベンジャミンにとって、ベアトリーチェは何処か他家に売りつける為の価値ある商品に過ぎない。それも王家というこの国最高の取引相手に嫁がせるという最大の価値…。
しかし、レイノルドに婚約を破棄されて、その価値も無くなってしまった。ベアトリーチェには何も残っていない。その先の未来にあるものは、修道院か何処かの後妻ぐらいしか行先が無い。
部屋に閉じこもって鬱々としていたベアトリーチェが久々に社交界に姿を現したお茶会で、池の前でレイノルドと楽しそうに語らう異母妹ジュリアに嫉妬した。
どうして彼の隣にいるのが、ジュリアなのか?自分の何がいけなかったのか?
心を病んでいるベアトリーチェは魔がさした。ふらふらと二人に近付いてジュリアを後ろから押してしまった。
ドボンという音と共に水飛沫がベアトリーチェの顔にかかった。薄らと口元に弧を描いて嗤いを浮かべた彼女を見た者は「魔女だ」と思ってしまうほど、正気の沙汰ではない。
その場で傷害罪で捕えられ、牢に一週間、投獄された後、裁判によって極寒の地にある修道院に収容されたのだ。本来なら死刑にされてもおかしくないのだが、ジュリアの嘆願によって減刑されたと後から伝え聞いていた。
だが、ベアトリーチェの心を抉ったのは、別の知らせだった。
それは、レイノルドが他国の王女と結婚したという報…。それも王女は既に妊娠しているという。つまり、ベアトリーチェとの婚約を解消する為に、色々と細工されていたのだ。何も知らなかったベアトリーチェは、ジュリアとレイノルドの仲を疑い、嫉妬して破滅した。
誰よりもそれを望んでいたのはレイノルドだったのだろう。
ジュリアがどこまで知っていたのか分からないが、公爵家が落ちぶれた事を考えれば、ジュリアも良い様に使われたのかも知れない。
死にゆくベアトリーチェにとって今ではどうでもいいことだ。でも、もしも過去に戻れるなら、レイノルドにも父や継母、異母妹らと関わりなく生きたい。そんな事を考えていた。
奇跡でも起きない限り、人生をやり直せるなんてことは御伽噺にしか出てこない事だ。
ゴホッ…。
激しい咳をしてベアトリーチェは、大量の吐血をした。
もうすぐ死ぬのね。なら、次の世ではあの人達には関わらないわ。…レイノルド、二度とあなたを愛したりはしないから…。ジュリア…酷いことをしてごめんなさい。どうか幸せになって…。
ベアトリーチェは目を静かに閉じようとした時、母の形見の指輪が僅かな月の光に照らされて輝いた様に見えた。
そして、目が覚めると見知った天蓋が目に入った。
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