上 下
10 / 13
3 不明で不快なそれぞれの思惑

3-2 建前と本音

しおりを挟む
真守は、御神と共に前田の病室を訪ねた。
病院でレンタルしたパジャマに身を包んだ前田は、ベッドに体を起こして顔をタオルに押し付けている。
声をかけるとちらっと二人を確認してまたタオルに顔を押し付けた。
「昨日から涙が止まらないんです」
真守は、前田の体に異常が出たことに少しホッとした。
これで「体に異常が出る可能性があるから入院してもらった」という苦しい説明に納得してもらえる。

「いつ自殺するか分からない状態にしてしまい、監視が必要だから」
という本当の理由なんて言えるわけがない。

本来であれば、カウンセリングというのは日常に反動がこない程度に進めるのが正解である。
なぜなら、人は変わることを本能的に嫌がるため、急激に変化すると急激に元に戻ろうとするからだ。
しかし、御神は、心が変わる「体験」をしてもらうことを大事にしているため、最初に急激な変化で感動を促すことを基本姿勢としていた。
「変わった」と感動すれば、「もっと変わりたい」という欲が出る。
最初に急激な変化で感動を印象付けさせ、心を掴んだそのあとはゆっくりと心を育てていく。

けれど、今回、明らかに御神はやりすぎていた。
反応を見るため強い言葉を使い強制退出になることはよくあるが、直後にもう一度装置を使って心を整えないといけない事態になったのは初めてだ。
原因は分かっている。
真守は、棒人間ポワの話に飽きたときの御神の顔を見逃さなかった。
あのときの御神は目が据わっており、頭が働いてなかったに違いない。

タオルを顔に押し付けたまま、前田は言葉を重ねる。
「本当は帰りたかったのに、御神さんがこんなところに押しこむから」
前田は、子供のためにも家へ帰りたかったが全く止まらない涙を見せるわけにいかずに断念したそうだ。
「旦那に、気持ち悪くなって病院にいるって言いました。
友達のところに泊まるって言いたかったけど、そこまでの友達いないこと、旦那が一番知ってるから嘘つけなくて。
念のため一泊して検査だけしたら帰るからって無理やり旦那に子供を押し付けたんです。
手続きもこっちでできるからいらないって言っちゃったんです。
身体がツライから一人にしてほしいって。
あの人の優しさを断ったことなんてないのに、どうしても見せたくなくて。
こんなこと子供が生まれてから初めてです。
一体私に何が起こったんでしょうか」

クライアントに装置での記憶はない。
深層心理の奥底を治療するためだ。
装置で得た情報を現実世界で伝えることもしない。
現実世界で必死に隠して見えなくしているものを伝えても全く理解できないことが多いからだ。
それに、内容を伝えたりしたら、純粋な装置の効果が見えなくなってしまう。

――何が起こっているのか分からないからこれから調べるんですよ。
と真守は心の中でつぶやいた。
真守はチラリと御神を見る。
御神はどう答えるのか期待で胸が膨らんだ。

「今、どんな気持ち?」
――そう来たか。
質問に質問で返した御神に真守は心の中で感嘆した。
前田は御神が「話したい気持ち」を汲んでくれたと感じたようだった。
タオルから少しだけ目を出してすぐに引っ込めながらしゃべりはじめる。
まだ涙が止まらないらしく、巣穴から外をうかがう小動物のようにぴょこぴょこタオルを上げ下げし続けていた。

「正直、急に旦那に子供を押し付けるなんてことさせられて御神さんに文句言いたいです。
でも、ずっと、うれしいって気持ちが止まらないんです。
意味が分からないけど、ずっと心があったかくてうれしいって跳ねてて、こんな気持ち初めてです。
御神さんずるい。
こんな気持ちになれたら、文句言えないじゃないですか。
こんなに大変なことになって、いろいろ考えないといけないのに、頭が回らないんです。
旦那に浮気を疑われたら説明してくださいね」

前田の精一杯の嫌味や意地悪が真守の胸をときめきで刺していった。
前田は「文句言いたい」や「説明しろ」だの、言い慣れない「人を責める言葉」を吐き出して拗ねた顔をしている。
――なぜ、この人は人妻なのか。

その横で何もかも分かった聖母のように微笑む御神を横で見て、「美人は得だな」と真守は呆れた。
――そうね、私は分かってるわよ。よく言えたわね。
と言いたげな顔をしているが、内心は「よし」とガッツポーズをしているに違いない。


御神は、病室に入るまで少し不安そうな顔をしていたから、前田がどんな状態でどんな気持ちになっているのか予想がつかなかったはずだ。
いつものように持ち前のトーク力と美人力で乗り切って病室から出たら得意げな顔をするに違いない。

「これからもう一度装置に入って状態を整えます。
その後にどんなことが起こっているのか、注意点など報告しますね。
ここを出る準備はできますか」
見上げた前田の目には信頼と決意が宿っていた。

御神は先に帰って準備に入り、真守は退院の手続きをしながら前田を待つ。
「化粧は諦めました」とタオルを押し当てたままの前田と病院を後にした。
しおりを挟む

処理中です...