脱鼠の如く

朝森雉乃

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第二章:カゲリ

闇に落ち夢にたゆたう

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 ヒカリは昏々と眠り続け、目を覚ましたのは日も高くなってからだった。びくりと体を震わせると、例の機械を取り上げた。そして「遅刻だ」とうめくと、慌てふためいた様子で部屋を飛び出していった。私はたんすの上に置き去りである。
 それにしても魔窟が――片づけられたこの部屋はもはや魔窟とは呼べない。床には邪魔なもの一つ落ちていないし、机の上も整頓されている。この部屋にあったとは知らなかった、クッションや、本や、よく分からないこまごまとしたものが、あるべきところに収まっているといった風情で整然と並び、鼠の目から見ても人が棲みやすい部屋になっている。
 唯一そぐわないのが私の檻で、上から見ると思ったよりも大きい。金属の檻が窓から差す太陽の光をてらてらと反射して、片づけられた部屋の中で異様な存在感がある。いつもはあの中に入っているのだと思うと、ほんの少しだが優越感のようなものを感じた。
 囚われていることにだいぶ慣れてきたようだと、自嘲的に笑ってから、それが皮肉でもなんでもなく事実であることに思い当たって、笑っていられなくなった。さらに、昨日からなにも食べていないせいで、腹が内側からかじられているように痛む。
 狭いかごの中で、自尊心は傷つけられ、その上空腹となれば、惨めな気分になるのに申し分なかろう。泣くまいと尻尾をはたはたと振っていたが、堪えきれずに私はうずくまった。
 だが、希望がないわけではない。氷雲が外に出たのだ。私を助けるべく、なにかしらの行動をしているはずである。まだ幼い弟に頼らなければならないのは心苦しいが、なにもかも失ったわけでもないと自分にいい聞かせた。
 うずくまっているうちにうたた寝していたらしい。気づくと部屋は薄暗くなっていて、静かな夜の気配が忍び寄っていた。そろそろヒカリが帰ってくる頃合いかと思って、小さなかごの中で少し体をほぐしていたが、いつまで経っても扉の音は鳴らない。そのうち、部屋の闇はずんずんと深くなり、いよいよおかしいと思った時にはほとんど暗闇になっていた。
 ヒカリは帰ってくるのだろうか。ふと、そんな考えが頭をもたげた。復縁を果たしたシュンタロウの棲み処へ行ったのなら、そのまま帰ってこないこともありえるのではないか。
 まさかこのままなにも出来ずに餓死するのではないかと心配になって、私は焦った。焦ると下らないことを考えるもので、万が一小さなかごの戸を打ち壊せないかと体当たりをしていた。金属のかごに当たった肩が猛烈に痛み、軽率な行動をひどく後悔したが、そんなことはその次に起こったことですっかりどうでもよくなってしまった。
 体当たりの衝撃でかごが動き、たんすの端からはみ出したのだ。

 置き去りにされた時のことを思い出すに、たんすはかなりの高さがあるはずだった。はみ出したところに寄って下を見ても、部屋が暗く床までの距離をしっかりと確認することは出来なかったが、この高さから落ちれば、さすがのかごの戸も壊れて開くのではなかろうか。
 ちょうど、魔窟は部屋に戻ったところで、かごから出ることさえ出来ればあとは逃げるのもたやすい。私は勇んでもう一度体当たりを試みた。
 ところが、今度はかごは動かないで、肩が痛くなっただけだった。どうやら勢いが足りないようで、何度か当たってみても上手くいかない。そのうち、肩がひりひりとしてきたので、腰を落ち着けて考えてみることにした。
 先ほどは焦っていて、肩にぶつかる痛みも知らなかったから、思い切りよくぶつかっていくことが出来たのだろう。一方、今は肩をかばいながら体当たりをするから、助走が足りない。全身全霊をかけて戸を壊そうという気持ちでぶつかって、初めてかごを少しずらすことが出来るわけだ。改めて、人間と鼠の体格差というものを思い知る。ヒカリは、このかごを造作もなく持ち上げるられるし、私を投げ飛ばして壁にぶつけ、私の正気を奪うことも出来る。
 そんなヒカリも女である以上、チュダイの雌と同じように人間の中では非力だろう。では、シュンタロウとやらは、きっととんでもない力を持っているに違いない。もし、シュンタロウに鷲掴みにされたら、肋骨の数本は砕かれるだろう。恐ろしい想像に総毛が逆立った。
 人間の男には会いたくないものだと思いながら、私はゆっくりと後ずさりをした。全身全霊をかけるなら、かごの端から端まで駆け抜ける方が勢いもつくだろう。そして、迫りくる壁を見なくて済むように目を閉じた。じっくりと気を落ち着かせて、見えていた金網までの距離を忘れるようにする。
 私は盤桜家の縄張りにいる。まっすぐな道を歩いてゆけば、本家の棲み処が見えてくる。その門戸で、盤桜由依花嬢が私を待ってくれている。頬を赤らめて、伏し目がちな瞳を瞬間だけ私に向ける。前足をもじもじと組み合わせて、お帰りなさい、あなた、と声をかけてくれる。あなたこそ、私の運命のねずみ。どうか、一生連れ添ってはいただけませんか。
 ああ、由依花よ。待っていてくれ、必ず幸せにしてみせる。私は前へ飛び出した。一刻も早く、彼雌を抱きしめてやるために。
 私は鼻面から金網にぶつかった。痛いと思ったのもつかの間、ぐらりと床が揺れたように感じた。星が散った。そして部屋の闇がいっそう濃くなって、なにも見えなくなった。

 まぶたに明るさを感じて、ぐらぐらする頭をもたげた。細目を開けると、ぼんやりとした視界にヒカリの足が映った。足音が耳を聾さんばかりに響く。仮にも女なら、もう少し淑やかにふるまってほしいものだ。
 鼻柱がずきずきと痛むので、どうにも全身に力が入らない。いったい、ねずみは人間とは違ってヒゲの根でいろいろなことを感じるものだから、鼻がおかしくなると大変なのだ。分かっていたことではあるが、覚悟するのと実際に鼻を痛めるのとではわけが違う。立ち上がろうと前足を踏ん張っても、ぐずぐずと胸からくずれてしまう。
 それから、そもそもの目的を思い出してはっとした。かごの戸はほんの少しひしゃげてすき間が出来ていたが、とうてい私が通れるほどではなかった。もはや残念に思う気力もなく、ぐったりと体を横たえて、ヒカリがなにか早口でまくし立てはじめたのを聞いていた。
 ヒカリはたいそう驚いている様子だった。それだけでなく、何度もカゲリと名を呼んだ。恐らく、心配されているのだろうと見当をつけたが、細かいところはなにも聞き取れなかった。ただ、「死」という一言だけ聞こえたので、死んでいないことを示すために私は気力を振り絞って目を見開いた。
 ヒカリの頬に涙が伝っていた。
 そこまで心配されるものかと、今度はこちらが驚く番だった。ヒカリはかごの戸を開けると、私をそっと外へ出した。両手で体を包み込むように持ち上げて、ゆっくりと広い檻の中へ移す。身じろぎすれば逃げられるかもしれなかったが、こんなに頭がくらくらしている時に逃げなくてもよかろうと思い、私はされるがままになっていた。
 檻の中のねぐらに私を横たえると、ヒカリはいつまでも私のことを見つめ続けた。
「病院、連れてった方がいいのかなあ」
 ぽつりといった言葉の意味は、私にはよく分からない。ただ、ヒカリの目は、傷の手当てをしてくれた時の由依花の目とよく似ているなと思った。そのまま私は眠った。
 夢を見た。私は下水道を走っている。隣を走るのはヒカリなのだが、姿がヒイクである。どうしてそんな姿になったのかと問うと、ヒカリは、足を止めて後ろ足だけで立ち上がり、カゲリも真似して、という。いわれたとおりにすると、背がぐんと伸びて、ヒカリは人間に戻る。私の目の高さもヒカリと同じところにある。ヒカリが伸ばした手を、私の手がつかむ。人間になった私は、人間の言葉をしゃべる。ヒカリが笑う。ヒカリがまた雌ヒイクになる。そして、私の前足をつかんだままで、お待ちしていました、お兄さん、といった。
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