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「ほらっ、有子、そっちいったよ!」
 放課後の体育館に、バスッ、バスッとボールの跳ね返る音が響く。その音に合わせて、体操服の女の子たちが声をかけ合い、ボールをめぐって動き回る。実は、高校のバスケ部の練習風景なのだ。今は試合形式の紅白戦をしている。その中で、しゃにむにボールにくらいついていくポニーテールの女の子がいた。名前を高梨有子という。一年生ながらも、ジャンプ力のあるほうで、いつも積極的にダンクシュートを決めに行くタイプである。
 その日も有子は、ひたすらボールを追ってダンクシュートを決めようとしていた。だが、予期せぬ事故が起きてしまった。横からボールを奪おうと走ってきた女の子と、有子は正面衝突してしまったのだ。頭を強く打ってしまい、有子の意識は途切れてしまった。
 どれくらい時間がたったろう?
「う……う~ん……あれ? あたし、どうしてたんだろう? 確か、ぶつかって……」
 有子が目覚めてみると、周囲の景色は、それまでいた高校の体育館ではなく、レンガ造りの家々が立ち並ぶ、見知らぬ街だった。行き交う人々も、白人もいれば、アラブ人のように色黒なのもいるし、エルフのように耳のとがったのもいる。彼らは皆、中世ヨーロッパのような服装で、有子には聞き取れない外国語のような言葉を話していた。
 街路には数軒の露店が出ており、焼き鳥のような食べ物や、瓜のような果物も売られてはいたが、体操服の有子には、金の持ち合わせが無いのだ。バスケ部で運動した後なので、腹はグゥ~ッと盛大に鳴っている。
「どうしよう……。とりあえず、食事と泊まる所だけでも確保しないと……」
 といっても、皆は有子を見もせずに素通りしていくだけで、手を差し伸べる者など皆無だ。有子の体操服が珍しいのか、時折り、チラチラと振り返るだけである。たまたま、一人の老女が、防寒用の肌色のマフラーをかけてくれた程度だ。有子は厚く礼を言う。
そのうち、日が暮れてくると、寒くなってきた。有子はガタガタ震えながら、レンガの壁に身を寄せる。防寒用のマフラーを必死で抱きしめる。
(ああ、あたし、このまま死んじゃうのかな……)
 そう思ったとき、ふいに黒猫がどこからともなく現れて、有子の握り締めていたマフラーを奪うと、路地の奥へと駆け去っていったのだ。
「きゃああ……ちょっと、何、あたしのマフラー盗っていってんのよぉ!」
 怒りで空腹も忘れて、有子は黒猫を追って路地の奥へと駆けていく。有子が全力で走っているにもかかわらず、黒猫はスイスイと路地を駆けながら、奥へ奥へと駆けていく。やがて、一軒のレンガ造りの古びた家の扉の前まで来ると、黒猫は立ち止まった。
「……はぁ……はぁ……ようやく立ち止まったわね。さあ、あたしのマフラー返しなさい」
 そのとき、ふいに扉が開いて、中から黒い頭巾と黒い外套を着た女性が現れた。年の頃は二十代ぐらいか。女性は猫を抱き上げると、有子に向き直り、流暢な日本語で語りかける。
「私の魔法が未熟だったせいで、召喚する座標がずれてしまって、迷惑をかけましたね。まあ、入りなさい。あなた、お腹ペコペコでしょう。まずは夕食にしましょう」
 そこでようやく、有子は空腹だったのを思い出した。おりしも、家の中からは、美味そうなスープのにおいがただよってくる。有子は迷わずに家に入った。女性は有子をテーブルに座らせると、扉を閉め、有子にパンとスープと紅茶をふるまう。パンは焼きたてのカリカリで、スープは豆の香りがして野菜の風味が良く出ており、紅茶は口の中をさっぱりさせてくれる。食べ終えると、有子は「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。
「いえいえ、逆にお礼を言わねばならないのは私のほうです。よく、遠い異世界から、この国『ベオグラード王国』まで来てくださいました。実は、あなた様を召喚したのは、この私なのです。奥の部屋の床に魔法陣が描いてあるでしょう」
 そこで有子がキッチンの奥の部屋をのぞいてみると、確かに魔法陣が描かれていた。ただ、子供の落書きの延長かと思うほどに、きれいな円にならずに、あちこちがゆがんでいたりしていたのは残念だったが。
「ご覧いただいてわかる通り、線がゆがみまくっているでしょう。なにしろ、国王の目を逃れるために、私があわてて描いたので、子供の落書きのようになってしまったのです。本来ならこの円の中心にあなたをお迎えできるはずだったのですが、だいぶ外れてしまったため、使い魔である黒猫のパウに命じて、街中駆け回ってあなたを探させて、ようやくこの隠れ家まで連れてきたというしだいです。ご無礼のほど、平にお許しください」
 女性は深々と頭を下げる。
「あのさ……いまいち話が見えないんだけど、あなたはあたしに何をさせたいわけ? あと、あなたのことは何て呼べば良いの?」
「これは失礼いたしました。私のことは、ルイズとお呼びください。ボルフガング元国王の侍女をさせていただいていた者です。それで、あなたにしていただきたいのは、元国王の復位です。数日前、宮廷内で下克上が起こり、ボルフガング国王陛下は王子の一人に王位を奪われ、命からがら宮城から逃げ延びてきました。理由などは、一介の侍女に過ぎない私にはわかりません。ただ、うわさでは、王位を奪ったトログリム王子は体が弱く、戦に出ても戦功もたてられずに全軍の足を引っ張るだけでしたし、学問もまるでできなかったそうなので、いつもご兄弟にバカにされておりましたゆえ、この国で異端とされている邪教の魔力を借りて王族全員に復讐しようとしたのだとか。そこで、あなたには、この王都から逃れて、地方に潜伏されている元国王と合流し、復位させていただきたいのです」
 ルイズがそこまで言うと、扉の前でガチャガチャと金属の鳴る音がした。
「何の音? まさか、テレビでやってる時代劇みたいに、鎧の鳴る音じゃないの?」
「そのまさかです。どうやら、この隠れ家はトログリム国王の兵士にかぎつけられたようです。踏み込まれるのも時間の問題でしょう。今すぐにでも逃げたいところですが、あなたの異世界の服装では目立ちます。私の服を貸しますから、すぐに着替えて、食糧の入ったリュックだけを持って逃げましょう。あと、この丸薬もお飲みください。この国の言葉がわかるようになります」
 有子はすぐに丸薬を飲み、ルイズの差し出した服に着替える。だが、それは修道女の着る黒衣だった。有子の世界の黒衣と違うところといえば、白い部分が無くて黒一色で、首からさげているロザリオが三日月の形をしていることである。
「何なの、この喪服みたいなのは……。これって本当に修道女の服?」
「あなたの世界ではどうか存じませんが、この国では昼を表す白と、夜を表す黒が一対になって、世界を構成しているとされています。ですから、修道女の服は、黒い夜空に輝く月をかたどっているのですよ。さあ、もう灯りを消して出ますから、早く準備なさい!」
 ルイズの叱咤する声に、有子はあわてて準備して、扉を開ける。
 だが、扉の外には、西欧風の鎧を着込んだ兵士が、十人ばかりウロウロしていた。当然、彼らの注意は、扉から出てきたばかりの有子たちに向く。
「何だ、おまえら? 女二人が、こんな時間にどこへ行こうというんだ?」
 兵士たちは剣を抜いて有子たちに向ける。槍も持っているが、路地の奥では通路が狭いので、長い槍は使えないからだ。
「申し訳ありません。実は、宮城をはさんで街の反対側に住んでいる弟が重病だと知らせがあり、今から食糧を持って看病に行くところです。どうか見逃してくださいまし」
 ルイズは懐から金貨を取り出すと、兵士たちの隊長と思しき者の手に握らせる。
「そなたは都の作法を知らんとみえるな。やはり連行しよう」
 ルイズは今度は金貨を二枚取り出すと、それも隊長と思しき者の手に握らせる。
「まあ、いいだろう。気をつけて行けよ」
 隊長の指示に従い、兵士たちは剣をおさめたので、有子たちは一目散に駆け出す。それからは兵士に出くわさないように、物陰に隠れながら進み、何とか無事に城門まで行き着く。
「問題はここからです。城門は都の防衛の要ですから、トログリム国王も精鋭を配置しているはずです。先ほどのような賄賂で簡単に通してくれるような兵士たちはいません。場合によっては、戦闘も覚悟していただきますが、そうなると他の部署から増援を呼ばれるはめになりかねません。そこで、黒猫のパウの出番です」
 ルイズはパウに何事か耳打ちし、額をくっつけて目を閉じる。パウはうなずくと、ポンと煙を発して、若い男に変身する。その男は、着ている服こそ金糸や銀糸で飾り付けていたが、チビで太っているだけでなく、無精ひげが伸びていて頭も悪そうだった。
「パウに頼んで、トログリム国王に変身してもらいました。もっとも、パウは国王に会ったこともないので、私が念を送り込んで全体像を想像させましたが。変身魔法はパウの特技の一つですが、十五分しかもちませんので、急いで城門を抜けましょう」
 有子とルイズとパウは、城門まで走っていく。城門の衛兵は槍をかまえながら、「こんな時間に誰だ?」とどなったが、パウが変身した国王を見て、「ああっ、これは陛下。ご無礼を」と叫ぶと、槍を脇に置いて平伏した。
「これより、陛下は私たちと一緒に城門を出る。すぐに開けられよ」
 ルイズが大声をはりあげるが、衛兵たちは「こんな時間に、どこへ行かれるんですか?」と不審そうに尋ねるので、ルイズはギロリと衛兵たちをにらみつけると、
「黙れッ! 陛下はお忍びで旅に出られるところなのだ! 私たち二人は、陛下の護衛だ! 邪魔するつもりなら、この場で斬り捨てるぞ!」
と言い放ち、懐に隠しておいた短刀を抜いてかまえる。衛兵は完全にルイズの気迫に呑まれた。
「わかりました。城門を開けますよ。何も物騒な刃物まで持ち出さなくても……」
などと文句を言いながら、しぶしぶ城門を開ける。ルイズは「ご苦労」と言い置くと、街道を全速力で走る。有子がついていくだけで精一杯の速度だった。走っている途中で、パウの変身が解けてしまったが、その頃には、都の城門が小さく見えるだけの距離を走りきっていた。
「とりあえず一安心ですね。でも、いつ追手が来るかもしれませんので、先を急ぎましょう。もっとも、この後は歩きながらでも大丈夫ですので、水を飲みながら進みましょう」
 ルイズは有子に、水の入った革袋を差し出す。有子はのどを鳴らして飲み、その後でルイズも飲む。一行は灯りもつけずに夜通し歩き続けた。

 
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