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選択肢の外 2
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ようやく落ち着いてきた。
だが、そうなると気分が落ち込んでくる。
子爵家にいた頃は、なんとか自分で対処をしていた。
ハインリヒに従うことで、その場をやり過ごしてきたのだ。
勤め人たちが巻き込まれないようにと、距離を置いた暮らしもしてきた。
なのに、今夜は、そのどちらもできずにいる。
ハインリヒに従うこともできなかったし、ジョバンニを頼った。
穏便にすませるなら、子爵家に戻ると言い、ジョバンニを遠ざけるべきだったのかもしれない。
今は、そんなふうに考える余裕もあった。
だから、落ち込んでいる。
「私……子爵家には戻りたくないの……」
ジョバンニに抱き着いたまま、ぽつんと、つぶやいた。
甘えている自覚はある。
ジョバンニは、公爵に仕えているのだ。
婚約者との立場なので大事にはしてもらえている。
とはいえ、それ以上ではない。
(ジョバンニは、大人だから……子供をあやしているって感じているのよ)
それでも、甘えたくなっていた。
子供扱いでもいいから、こうしていたいと思う。
ひどく離れがたかった。
実感はなくとも、アシュリーとて自らの立場はわきまえている。
本当には、こんなことをしてはいけないのだ。
誰かに見られ、誤解をされれば、公爵の面目にかかわる。
頭の片隅では、小さく警鐘が鳴らされていた。
それを、アシュリーは、わざと無視している。
「帰ることなどありませんよ、姫様」
「でも……婚約が解消されたら、どうなるか……」
「あのかたのことを、気にされておられるのですか?」
「……違うわ……ただ、私は子供で……2年後のことなんて想像できないもの……その前に帰されてしまうかもしれないし……」
本当に甘えている、と思った。
こんなのは、子供が「ぐずっている」のと同じだ。
これでは、大人扱いしてもらえなくてもしかたがない。
きっと大人の女性なら、ぐずったりせず、聞き分けるのだろうから。
「想像ができないと仰られるなら、心配なさることはないでしょう? 先のことは、その時々で決めていけばいいのです」
「だけど……」
「もし婚約が……」
「おや、こんなところにいたのかい?」
ジョバンニが体をこわばらせた。
そのことに、アシュリーは、ハッとなる。
慌てて、自分から体を離した。
声のしたほうに顔を向け、曖昧に笑みを浮かべる。
「ジェレミー様……」
公爵は気にしたふうもなく、すたすたと歩み寄ってきた。
アシュリーの前に立つと、頬に手をあててくる。
「何事もなかったようだね」
「は、はい。ジョバンニが助けてくれました」
「きみの従兄弟が来ていたことには気づいていたが、いつまでも挨拶に来なかったのでね。きみの元気な姿を遠目で見て、満足しているのかと思っていたよ」
緩やかにアシュリーの頬をなでたあと、公爵は額に軽く口づけを落とした。
怒ってはいなさそうで、安心する。
が、しかし。
「ジョバンニ、きみは間違えてはいないだろうね」
アシュリーに対するものとは違い、声も口調も冷ややかだった。
怒っているとまでは感じられないものの、穏やかとは言い難い。
自分の言動がジョバンニを巻き込んだのだと、アシュリーは焦る。
やはり、あんなふうに甘えるべきではなかったのだ。
「もちろんにございます、旦那様」
落ち着いた声で言い、頭を下げるジョバンニの姿に、胸がちくっとする。
どうしてかは、わからない。
けれど、なぜかジョバンニの言葉に「落胆」していた。
その感情に、アシュリーは戸惑っている。
ジョバンニは「間違い」などしていない。
肯定するのは当然だ。
正しい答えに、胸が痛むほうがおかしい。
ジョバンニがどう答えていれば、こんな気持ちにならずにすんだのか。
それも、わからなかった。
「それならいい」
公爵の返事は、ひどくそっけない。
まるでジョバンニの答えを信じていないかのようだ。
なにか言うほうがいいのか、黙っていたほうがいいのか、逡巡する。
ジョバンニを庇いたかったが、自分が出しゃばったがために逆効果になったらと思うと、口を挟むのが怖かった。
「アシュリー」
公爵が、視線をアシュリーに戻している。
少し見上げた先には、優しい笑みがあった。
黒い瞳に、自分が大事にされていることだけは伝わってくる。
瞬間、あっと思った。
「ジェレミー様、サマンサ様が、お1人になられているのではないですか?」
公爵もジョバンニも、ここにいる。
今夜は4人で夜会に来た。
その内の3人がここにいるのだから、誰もサマンサのエスコートをしていない、ということになる。
『俺の近くにいるんだぞ。夜会で女が1人だと碌なことにならねぇからな』
社交界デビューの夜会で、ハインリヒに、そう言われた。
碌なことにならない、というのが、なにを指しているのかはともかく、良くない状況なのは確かだ。
サマンサが困ったことになっているのではないかと心配になる。
「きみは、本当に優しいね」
公爵が目を細め、アシュリーを見ていた。
なんとなく、気まずいような気分になる。
公爵の言う「優しい」の意味がつかめずにいる。
建屋は別でも、サマンサは同じローエルハイドの屋敷で暮らしているのだ。
夜会にも一緒に来たのだし、サマンサだけ1人ぼっちにするのは気が引ける。
さっきの自分のように、怖い思いをしているかもしれないし。
(優しいというのとは、ちょっと違う気もするけれど……うまく言えないわ……)
アシュリーには、サマンサに対抗する感情が、ほとんどない。
ジョバンニに大人の女性として扱われているのが羨ましかった、という程度だ。
それも今は解消されている。
自分が、いかに「子供」かを痛感したからだ。
「彼女なら平気だと思うがね。きみの心配を拭い去る努力はするよ」
ホールかテラス席に戻るのだろうか。
サマンサは、どちらかにいるのだから、当然に、そうなるに違いない。
自分で「心配だ」と言い出したものの、アシュリーは怯んでいた。
ハインリヒと出食わすかもしれないのが、恐ろしかったのだ。
「ジョバンニ、彼女を頼むよ。私はアシュリーと一緒に、ひと足先に帰る」
「かしこまりました」
え?と、公爵を見上げる。
アシュリーの髪を、公爵がやわらかく撫でた。
「きみのお披露目は終わったからね。長く、ここにいることはないさ」
ぱちん。
軽く指を弾く音がする。
とたん、柱が2本現れた。
その向こうに、ローエルハイドの屋敷が見える。
アドラント領の屋敷だった。
「さあ、帰ろう。アシュリー」
差し出された手に、自分の手乗せる。
柱を抜ける前、少しだけ振り向いたが、そこにジョバンニの姿はなかった。
だが、そうなると気分が落ち込んでくる。
子爵家にいた頃は、なんとか自分で対処をしていた。
ハインリヒに従うことで、その場をやり過ごしてきたのだ。
勤め人たちが巻き込まれないようにと、距離を置いた暮らしもしてきた。
なのに、今夜は、そのどちらもできずにいる。
ハインリヒに従うこともできなかったし、ジョバンニを頼った。
穏便にすませるなら、子爵家に戻ると言い、ジョバンニを遠ざけるべきだったのかもしれない。
今は、そんなふうに考える余裕もあった。
だから、落ち込んでいる。
「私……子爵家には戻りたくないの……」
ジョバンニに抱き着いたまま、ぽつんと、つぶやいた。
甘えている自覚はある。
ジョバンニは、公爵に仕えているのだ。
婚約者との立場なので大事にはしてもらえている。
とはいえ、それ以上ではない。
(ジョバンニは、大人だから……子供をあやしているって感じているのよ)
それでも、甘えたくなっていた。
子供扱いでもいいから、こうしていたいと思う。
ひどく離れがたかった。
実感はなくとも、アシュリーとて自らの立場はわきまえている。
本当には、こんなことをしてはいけないのだ。
誰かに見られ、誤解をされれば、公爵の面目にかかわる。
頭の片隅では、小さく警鐘が鳴らされていた。
それを、アシュリーは、わざと無視している。
「帰ることなどありませんよ、姫様」
「でも……婚約が解消されたら、どうなるか……」
「あのかたのことを、気にされておられるのですか?」
「……違うわ……ただ、私は子供で……2年後のことなんて想像できないもの……その前に帰されてしまうかもしれないし……」
本当に甘えている、と思った。
こんなのは、子供が「ぐずっている」のと同じだ。
これでは、大人扱いしてもらえなくてもしかたがない。
きっと大人の女性なら、ぐずったりせず、聞き分けるのだろうから。
「想像ができないと仰られるなら、心配なさることはないでしょう? 先のことは、その時々で決めていけばいいのです」
「だけど……」
「もし婚約が……」
「おや、こんなところにいたのかい?」
ジョバンニが体をこわばらせた。
そのことに、アシュリーは、ハッとなる。
慌てて、自分から体を離した。
声のしたほうに顔を向け、曖昧に笑みを浮かべる。
「ジェレミー様……」
公爵は気にしたふうもなく、すたすたと歩み寄ってきた。
アシュリーの前に立つと、頬に手をあててくる。
「何事もなかったようだね」
「は、はい。ジョバンニが助けてくれました」
「きみの従兄弟が来ていたことには気づいていたが、いつまでも挨拶に来なかったのでね。きみの元気な姿を遠目で見て、満足しているのかと思っていたよ」
緩やかにアシュリーの頬をなでたあと、公爵は額に軽く口づけを落とした。
怒ってはいなさそうで、安心する。
が、しかし。
「ジョバンニ、きみは間違えてはいないだろうね」
アシュリーに対するものとは違い、声も口調も冷ややかだった。
怒っているとまでは感じられないものの、穏やかとは言い難い。
自分の言動がジョバンニを巻き込んだのだと、アシュリーは焦る。
やはり、あんなふうに甘えるべきではなかったのだ。
「もちろんにございます、旦那様」
落ち着いた声で言い、頭を下げるジョバンニの姿に、胸がちくっとする。
どうしてかは、わからない。
けれど、なぜかジョバンニの言葉に「落胆」していた。
その感情に、アシュリーは戸惑っている。
ジョバンニは「間違い」などしていない。
肯定するのは当然だ。
正しい答えに、胸が痛むほうがおかしい。
ジョバンニがどう答えていれば、こんな気持ちにならずにすんだのか。
それも、わからなかった。
「それならいい」
公爵の返事は、ひどくそっけない。
まるでジョバンニの答えを信じていないかのようだ。
なにか言うほうがいいのか、黙っていたほうがいいのか、逡巡する。
ジョバンニを庇いたかったが、自分が出しゃばったがために逆効果になったらと思うと、口を挟むのが怖かった。
「アシュリー」
公爵が、視線をアシュリーに戻している。
少し見上げた先には、優しい笑みがあった。
黒い瞳に、自分が大事にされていることだけは伝わってくる。
瞬間、あっと思った。
「ジェレミー様、サマンサ様が、お1人になられているのではないですか?」
公爵もジョバンニも、ここにいる。
今夜は4人で夜会に来た。
その内の3人がここにいるのだから、誰もサマンサのエスコートをしていない、ということになる。
『俺の近くにいるんだぞ。夜会で女が1人だと碌なことにならねぇからな』
社交界デビューの夜会で、ハインリヒに、そう言われた。
碌なことにならない、というのが、なにを指しているのかはともかく、良くない状況なのは確かだ。
サマンサが困ったことになっているのではないかと心配になる。
「きみは、本当に優しいね」
公爵が目を細め、アシュリーを見ていた。
なんとなく、気まずいような気分になる。
公爵の言う「優しい」の意味がつかめずにいる。
建屋は別でも、サマンサは同じローエルハイドの屋敷で暮らしているのだ。
夜会にも一緒に来たのだし、サマンサだけ1人ぼっちにするのは気が引ける。
さっきの自分のように、怖い思いをしているかもしれないし。
(優しいというのとは、ちょっと違う気もするけれど……うまく言えないわ……)
アシュリーには、サマンサに対抗する感情が、ほとんどない。
ジョバンニに大人の女性として扱われているのが羨ましかった、という程度だ。
それも今は解消されている。
自分が、いかに「子供」かを痛感したからだ。
「彼女なら平気だと思うがね。きみの心配を拭い去る努力はするよ」
ホールかテラス席に戻るのだろうか。
サマンサは、どちらかにいるのだから、当然に、そうなるに違いない。
自分で「心配だ」と言い出したものの、アシュリーは怯んでいた。
ハインリヒと出食わすかもしれないのが、恐ろしかったのだ。
「ジョバンニ、彼女を頼むよ。私はアシュリーと一緒に、ひと足先に帰る」
「かしこまりました」
え?と、公爵を見上げる。
アシュリーの髪を、公爵がやわらかく撫でた。
「きみのお披露目は終わったからね。長く、ここにいることはないさ」
ぱちん。
軽く指を弾く音がする。
とたん、柱が2本現れた。
その向こうに、ローエルハイドの屋敷が見える。
アドラント領の屋敷だった。
「さあ、帰ろう。アシュリー」
差し出された手に、自分の手乗せる。
柱を抜ける前、少しだけ振り向いたが、そこにジョバンニの姿はなかった。
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