若輩当主と、ひよっこ令嬢

たつみ

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壊れた天秤 4

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 ハインリヒの言うことを聞かなければ、両親が死ぬ。
 
 そのことが、アシュリーの頭の中を、ぐるぐるしていた。
 ハインリヒは本気だ。
 ただ怯えさせるためだけに言ったのではない。
 もとより怒ると手のつけられない性格をしている。
 
(だけど……ヘンリーと婚姻なんて……)
 
 どうしても考えられなかった。
 世話になっていると感じていた時でさえ、ハインリヒのことは苦手だったのだ。
 少し前から、本当に1人でいるより「マシ」だったのかも疑わしくなっていた。
 その上、脅されては嫌悪感が募るばかりだ。
 
 アシュリーには、両親との思い出らしきものがない。
 望まれていなかったことも知っている。
 だからと言って、彼らがいなくなればいいと考えたことはない。
 ましてや、殺されてもかまわない、とは思えなかった。
 
 親に対する愛情からなのかは、不明なところだ。
 アシュリーと、彼らの繋がりは希薄だった。
 何度か、誕生日のパーティを開いてもらったことがある。
 とはいえ、抱き上げてもらったり頭を撫でてもらったり、といった記憶はない。
 
 ただ、彼らがいなければ、アシュリー自身も存在しないのだ。
 そして、彼らが両親でなければ公爵との繋がりはなく、ジョバンニという存在を知ることもなかっただろう。
 思うと、生まれてきたことに価値があるような気がする。
 
(ヘンリーと婚姻するのも……お父さまたちが殺されるのも嫌……)
 
 どちらも選ばないなんて、ハインリヒが許すはずがない。
 けれど、アシュリーの心は、どちらの選択にも「否」と応えていた。
 どうすればいいのかわからず、アシュリーは、ベッドの上で膝をかかえる。
 その彼女の心に、ふっと、ひとつの思いがよぎった。
 体が小さく震える。
 
(…………ジョバンニ……助けて……私……)
 
 かかえた膝に、額をくっつけた。
 目に涙が浮かぶ。
 子爵家ではなく、アドラントに帰りたかった。
 リビーがどうなったのかも、わからないままになっている。
 
(どうすればいいのかわからないけど……でも、私はジョバンニに会いたい……)
 
 あの穏やかな瞳を見ると、安心できるのだ。
 理由はともかく、ジョバンニは、ほかの人とは違う。
 ずっとそばにいたかったし、いてほしかった。
 
 ここで、じっとしていれば迎えに来てくれる。
 抱き上げて、アドラントに連れて帰ってくれる。
 両親のことも助けてくれるに違いない。
 
 自分にも、なにかできることがあれば良かった。
 だが、なにもない。
 外から音がしていたので、おそらく扉には鍵がかけられている。
 窓の外には空しか見えず、逃げ出せる高さではないと示していた。
 
 下手に動けば足手まといになる。
 あの時のように。
 
(……あの時……? それは、いつ……?)
 
 呼べば、ジョバンニは来てくれる。
 いつだって。
 
(いつだって、そうだった……? それは、いつから……?)
 
 頭の端が、ちくちくした。
 夢見の時と同じ、もどかしさが広がっている。
 ひどく混乱していた。
 
「また遅くなってしまいましたね」
 
 ハッとして、顔を上げる。
 ベッドの脇に、ジョバンニが立っていた。
 アシュリーは、なにかに弾かれたように立ち上がる。
 ベッドの上から、ジョバンニに抱き着いた。
 
「恐い思いをさせてしまい、申し訳ございません」
 
 首を横に、何度も振る。
 迎えに来てくれたのだから、それだけでいい。
 
「お、お父さまと……」
 
 心が震えていて、うまく話せなかった。
 混乱がおさまっていないアシュリーを、ジョバンニが抱きしめてくれる。
 アシュリーも、彼の首に強くしがみついた。
 離れたくなかったからだ。
 
「ご安心くださいませ。彼らには避難していただきました」
「リ、リビーは? 見つけられた?」
「はい。彼女は屋敷に帰り、ほかの者たちと一緒にいますよ」
「全部……全部……大丈夫……?」
「ええ。なにもかも」
 
 ゆるやかに頭を撫でられて、少しずつ混乱がおさまってくる。
 ジョバンニが言うのなら「なにもかも大丈夫」なのだ。
 安心して、涙が、ぽろぽろとこぼれる。
 
「アドラントに帰りましょうね」
 
 こくこくと、うなずいた。
 ハインリヒの顔を見る前に帰ってしまいたい。
 本当に、もう2度と会いたくなかった。
 どうやっても嫌悪感が拭いきれずにいる。
 
「帰ってきましたよ」
 
 声に、おずおずとジョバンニから少しだけ体を離した。
 あの「柱のやつ」を使ったに違いない。
 あっという間に、アドラントの屋敷の玄関ホールに帰ってきている。
 大きく息をついた。
 
 ここは安全。
 
 部屋でさらわれたが、あの時は1人だった。
 ジョバンニがいれば、危険はないと感じられる。
 アシュリーにとっては、彼の傍が、どこよりも安全なのだ。
 
「これから私は少し用をすませてまいります。その間は、リビーたちと一緒にいらしてください」
 
 アシュリーの体が、ホールにおろされる。
 嫌だと言って、しがみつきたくなるのを、ぐっとこらえた。
 なぜ、こんなにも離れたくないのか、わからない。
 けれど、ジョバンニの背を見送るのが怖かった。
 
「リビー、来てくれ!」
 
 ジョバンニが、中へと声をかける。
 その言葉に、アシュリーも後ろを振り返った。
 すぐにリビーが奥から玄関ホールへと駆けてくる。
 無事な姿に、ホッとした。
 
 が、ハッとなって、振り向く。
 すでに門が開いていた。
 ジョバンニの背中が消えようとしている。
 
「ジョバンニ……ッ……」
 
 ジョバンニは振り向かなかった。
 振り向かず、門の向こうに消える。
 その光景に、視界が揺らいだ。
 幾重にも重なった声が聞こえる。
 
 『あの花は冬にも強いので、種を蒔いておけば年明けまでには見られます。その時は、一緒に見ましょうね』
 『お嬢様、ここにいてくださいね』
 
 お嬢様。
 
 かつて、彼は、自分をそう呼んでいた。
 アシュリーの中に、幼い自分と彼の姿が、次々と蘇ってくる。
 
 彼は「ここにいてください」と言って、彼女に背を向けた。
 そして、振り向くことなく、帰ってくることもなく。
 スナップドラゴンの赤い花を、一緒に見ることはできなかった。
 
「姫様……っ……?!」
 
 へたん…と、アシュリーは、その場にへたりこんだ。
 リビーの声が、遠くから聞こえてくる。
 また涙が、ぽろぽろとこぼれた。
 
(ジョバンニが……ジョバンニだった……死んで、なかった……生きてた……)
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