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第1章 彼女の言葉はわからない
独占の空間 4
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本当に、皿を片付けると席を立ってしまったフィッツの背中を見つめる。
なかなか良い兆候なのではないか、と思っていた。
感情の機微に疎かったフィッツだが、いずれ「複雑な心境」も理解できるようになるはずだ。
(そうなれば、自分のやりたいことも考えられるようになるんじゃないかなぁ)
カサンドラのためだけに「作られた」存在。
それが、フィッツだ。
だから、カサンドラの命を最優先するのは、わかる。
とはいえ、このままでいいとは思えずにいた。
ちゃんと、自分のことは自分で決めてほしい。
そう思う。
彼女の複雑な心境の原因は、そこにあった。
正直、フィッツは頼りになるし、いると安心できる。
フィッツがいるのといないのとでは、大違いなのだ。
(なんていうか……今さら1人に戻るのはしんどい。単純に、フィッツといるのは楽しいしさ。でもさ、フィッツがどうなのかは、やっぱりわからないんだよね)
フィッツは、自分といて楽しいなどとは思っていないのだろう。
ヴェスキルの継承者を守り、世話をするのが使命だというだけなのだ。
そういう生きかたしか知らないから、そうやって生きている。
カサンドラに「いらない」と言われれば、自死を選ぶくらいには、自らの意思で動いてはいない。
本音を言えば、フィッツの存在はありがたかった。
だとしても、そこにフィッツの意思や心は存在しないのだ。
(私はさ、フィッツと、ずっと一緒に暮らしてもいい。地下だから、窮屈なこともあるのかもしれないけど、困らないと言えば困らないもんなぁ)
今のままなら、フィッツも不満は持たないと、わかっている。
むしろ、カサンドラの命が脅かされることはないと、安心できるに違いない。
(でも……フィッツが私を置き去りにしないのは、私がヴェスキルの継承者だからってだけで……私自身がどうこうじゃないんだよ……)
どうしても、そこに引っ掛かってしまう。
自分が、ヴェスキルの血を一滴も持っていなかったら、フィッツは余裕で見殺しにもするし、置き去りにもするのだ。
けして、彼女の傍にいたくているのではない。
実際、ディオンヌのことは気にかけてもいなかった。
彼女とて気にかけている、というほど思い悩んではいないのだけれど。
フィッツと鉱山の人たちを、命の天秤にかけたのは、ディオンヌだ。
その天秤をひっくり返さなければ「彼女の側」に犠牲が出ていた。
思えば、ディオンヌを可哀想だとは思えないし、ディオンヌまでをも救う方法はなかったかなど考える余地もない。
命の天秤を突き付けられた彼女だからこそ、そう思える。
綺麗事で、人は救えない。
ディオンヌの死を悼まないことで責める者がいたならば、同じ立場に立ってから言え、と言うだろう。
自ら決断した者にしか、その権利はないのだ。
だから、フィッツの行動を間違いだとはできなかった。
むしろ、フィッツと同じ船に乗る、と決めている。
自分では選択せず、フィッツにあずけたのだから。
(フィッツは私や鉱山の人を助けるために選択した。じゃあ、自分だったら、どういう選択をしたかって言われたら……やっぱりディオンヌを犠牲にしたかもね……フィッツに、もっと違った未来があれば良かったのに……ヴェスキルと関りのない人生っていうかさ……)
いくつもの可能性が、フィッツにもあったはずだと思える。
もし「普通」に産まれていたら、「普通」に育てられていたら。
「姫様?」
「あ……ああ、フィッツ、おかえり」
長々と「複雑な心境」に嵌まり込んでいたせいで、フィッツが戻って来たことに気づかずにいた。
相変わらずフィッツの表情に変化はないが「怪訝」そうにしているのは感じる。
「お疲れのようですね。湯につかってから、お休みください」
「ここにも、昼とか夜とかあるの? たぶん、外じゃ夜中くらいの時間だよね?」
坑道から出た時には、すでに夜になっていたのを思い出した。
中が昼だったので、感覚がおかしくなっている。
地下だと思えない環境のせいだろう。
まだ昼間のような気分だ。
「ずっと昼にしておくこともできますし、夜のままにもできますが、先ほど、外と時間を合わせておきました。明日からは、外との時間差は感じなくなりますよ」
「まぁ、外には出ないからいいんだけど、合わせておくに越したことはないね」
どのくらいの期間になるかは定かでないにしろ、現状、外に出る気はない。
ただ、いざ外に出た際に困るかもしれないと、頭の隅で考えている。
ここを出るとなれば、相応の覚悟がいるはずだ。
にもかかわらず、体調を崩して動けなくなったりすれば、危険が生じるだろう。
自分に、ではなく、フィッツに。
思えば、のらくら生きていくにしても、体調管理はしておかなければならない。
いざという時のためなんて考えたくはないが、考えておく必要は、ある。
「じゃあ、お湯につかって寝よっかな」
「では、こちらにどうぞ」
立ち上がり、フィッツの後ろについて行った。
薄金色の髪は、襟足にかかるほどではなく短い。
「あのさぁ、フィッツ」
「はい、姫様」
「フィッツは変わらないよね?」
「変わらないとは、どういう意味ですか?」
「いや、見た目? 髪とかさ、いつ切ってるのかなって。絶対、伸びるんだし」
ここ半年の間でも、フィッツは外見に変わりがないように見える。
髪の長さも表情も、いつも同じ。
表情に関しては、最近、なんとなく伝わってくるものも増えていた。
けれど、見た目に変わりはない。
「伸びる前に抜けるからです」
「は? 抜ける? 切ってない?」
「はい。長くなる前に抜けますから、切る必要はありません」
「じゃ、抜け毛が多いってこと?」
「そうなります」
「その毛は? マメに掃除しなきゃいけなくない?」
素朴な疑問が、とんでもない結果に繋がっている。
説明を聞いても、想像ができない。
浮かんできたのは、毛だらけの部屋を掃除しているフィッツの姿だ。
「いえ、抜けた毛は消滅するので掃除の必要はないですよ」
「はあ? 消滅?」
「基本的に、私の体は、そのようになっています。私の体から離れたものは細胞が死滅し、消滅する仕組みです。たとえば、手首が切り離されると、その手首は消滅します。髪の毛より時間はかかると思いますが」
フィッツの淡々とした説明に、唖然となる。
切り離された手首が消滅したら、くっつけられないではないか。
新しい手首が生えてくるわけではないのだろうし。
「なんで、そんなことになってるわけ?」
「時間効率の問題でしょう。どうせ伸びてくる髪を、定期的に切るのは非効率ですからね」
「私の髪は非効率なんだね……」
「姫様の髪は、私が切りますから、必要があれば言ってください」
「……その時は、頼むよ……」
あまりの衝撃に、返事をするので精一杯。
フィッツには、まだまだ感情の機微が足りていないようだ。
気遣いの精神は養われていない。
「浴室はこちらです、姫様」
大きな半透明のガラスドアが、左右に分かれて開かれていく。
ドアのすぐ脇が着替え用のスペースらしかった。
奥に、広い浴室があり、薄い湯気が漂っているのが見える。
「着替えは、そちらに用意しています」
着替え用スペースには、ドレッサーとチェストがあり、その上に折りたたまれた着替えが置いてあった。
おそらく、リネンのワンピース型をした寝間着、いわゆるネグリジェだろう。
女性用の寝間着は、たいていこれだが、ボロ小屋で着ていたものより上質なのは間違いない。
見ただけでわかるくらい高級感にあふれている。
「ここは広くていいね。足を伸ばして入れるなんて、すごい贅沢だよ」
宿屋でも鉱山でも湯にはつかった。
とはいえ、広い浴槽は上級貴族など特権階級にのみ許されている贅沢だ。
平民の使うものとしては、手足を折り曲げなければ入れない狭い浴槽が一般的。
ボロ小屋にあったものも、狭かった。
仮に、大きな浴槽を、フィッツが用意できていたとしても、小屋には設置できる空間なんてなかったのだ。
「ゆっくり疲れを落としてください。私は、ここで、お待ちしています」
「へ? 一緒に入らないの?」
てっきりフィッツも浴室に入ってくると思っていた。
が、すぐに思い直す。
「あれだ。あの、どこにいても私が見られる装置が、ここにもあるんだね」
「ありません」
「え? それだと目視が必要なんじゃない?」
「……いえ、ここは安全ですから……警護は外で行います」
らしくもなく、フィッツの歯切れが悪かった。
もしかすると、未だに「破廉恥」の汚名を忘れられずにいるのかもしれない。
アイシャに指摘されるまで気にも留めていなかったのが、逆にフィッツに打撃を加えたようだ。
「別にいいのに。どうせ、フィッツに見られてないとこなんてないんだしさ」
「必要がなければ……覗き見するつもりはありませんから」
めずらしく、フィッツが、ふいっとそっぽを向く。
やはり立ち直り切れていないらしい。
ちょっぴりおかしくなって、小さく笑った。
「目視が“必要”になったら、いつでも入ってきていいよ。フィッツならね」
言い残して、浴室に入る。
が、フィッツは入って来ないだろうなと思って、また少し笑った。
なかなか良い兆候なのではないか、と思っていた。
感情の機微に疎かったフィッツだが、いずれ「複雑な心境」も理解できるようになるはずだ。
(そうなれば、自分のやりたいことも考えられるようになるんじゃないかなぁ)
カサンドラのためだけに「作られた」存在。
それが、フィッツだ。
だから、カサンドラの命を最優先するのは、わかる。
とはいえ、このままでいいとは思えずにいた。
ちゃんと、自分のことは自分で決めてほしい。
そう思う。
彼女の複雑な心境の原因は、そこにあった。
正直、フィッツは頼りになるし、いると安心できる。
フィッツがいるのといないのとでは、大違いなのだ。
(なんていうか……今さら1人に戻るのはしんどい。単純に、フィッツといるのは楽しいしさ。でもさ、フィッツがどうなのかは、やっぱりわからないんだよね)
フィッツは、自分といて楽しいなどとは思っていないのだろう。
ヴェスキルの継承者を守り、世話をするのが使命だというだけなのだ。
そういう生きかたしか知らないから、そうやって生きている。
カサンドラに「いらない」と言われれば、自死を選ぶくらいには、自らの意思で動いてはいない。
本音を言えば、フィッツの存在はありがたかった。
だとしても、そこにフィッツの意思や心は存在しないのだ。
(私はさ、フィッツと、ずっと一緒に暮らしてもいい。地下だから、窮屈なこともあるのかもしれないけど、困らないと言えば困らないもんなぁ)
今のままなら、フィッツも不満は持たないと、わかっている。
むしろ、カサンドラの命が脅かされることはないと、安心できるに違いない。
(でも……フィッツが私を置き去りにしないのは、私がヴェスキルの継承者だからってだけで……私自身がどうこうじゃないんだよ……)
どうしても、そこに引っ掛かってしまう。
自分が、ヴェスキルの血を一滴も持っていなかったら、フィッツは余裕で見殺しにもするし、置き去りにもするのだ。
けして、彼女の傍にいたくているのではない。
実際、ディオンヌのことは気にかけてもいなかった。
彼女とて気にかけている、というほど思い悩んではいないのだけれど。
フィッツと鉱山の人たちを、命の天秤にかけたのは、ディオンヌだ。
その天秤をひっくり返さなければ「彼女の側」に犠牲が出ていた。
思えば、ディオンヌを可哀想だとは思えないし、ディオンヌまでをも救う方法はなかったかなど考える余地もない。
命の天秤を突き付けられた彼女だからこそ、そう思える。
綺麗事で、人は救えない。
ディオンヌの死を悼まないことで責める者がいたならば、同じ立場に立ってから言え、と言うだろう。
自ら決断した者にしか、その権利はないのだ。
だから、フィッツの行動を間違いだとはできなかった。
むしろ、フィッツと同じ船に乗る、と決めている。
自分では選択せず、フィッツにあずけたのだから。
(フィッツは私や鉱山の人を助けるために選択した。じゃあ、自分だったら、どういう選択をしたかって言われたら……やっぱりディオンヌを犠牲にしたかもね……フィッツに、もっと違った未来があれば良かったのに……ヴェスキルと関りのない人生っていうかさ……)
いくつもの可能性が、フィッツにもあったはずだと思える。
もし「普通」に産まれていたら、「普通」に育てられていたら。
「姫様?」
「あ……ああ、フィッツ、おかえり」
長々と「複雑な心境」に嵌まり込んでいたせいで、フィッツが戻って来たことに気づかずにいた。
相変わらずフィッツの表情に変化はないが「怪訝」そうにしているのは感じる。
「お疲れのようですね。湯につかってから、お休みください」
「ここにも、昼とか夜とかあるの? たぶん、外じゃ夜中くらいの時間だよね?」
坑道から出た時には、すでに夜になっていたのを思い出した。
中が昼だったので、感覚がおかしくなっている。
地下だと思えない環境のせいだろう。
まだ昼間のような気分だ。
「ずっと昼にしておくこともできますし、夜のままにもできますが、先ほど、外と時間を合わせておきました。明日からは、外との時間差は感じなくなりますよ」
「まぁ、外には出ないからいいんだけど、合わせておくに越したことはないね」
どのくらいの期間になるかは定かでないにしろ、現状、外に出る気はない。
ただ、いざ外に出た際に困るかもしれないと、頭の隅で考えている。
ここを出るとなれば、相応の覚悟がいるはずだ。
にもかかわらず、体調を崩して動けなくなったりすれば、危険が生じるだろう。
自分に、ではなく、フィッツに。
思えば、のらくら生きていくにしても、体調管理はしておかなければならない。
いざという時のためなんて考えたくはないが、考えておく必要は、ある。
「じゃあ、お湯につかって寝よっかな」
「では、こちらにどうぞ」
立ち上がり、フィッツの後ろについて行った。
薄金色の髪は、襟足にかかるほどではなく短い。
「あのさぁ、フィッツ」
「はい、姫様」
「フィッツは変わらないよね?」
「変わらないとは、どういう意味ですか?」
「いや、見た目? 髪とかさ、いつ切ってるのかなって。絶対、伸びるんだし」
ここ半年の間でも、フィッツは外見に変わりがないように見える。
髪の長さも表情も、いつも同じ。
表情に関しては、最近、なんとなく伝わってくるものも増えていた。
けれど、見た目に変わりはない。
「伸びる前に抜けるからです」
「は? 抜ける? 切ってない?」
「はい。長くなる前に抜けますから、切る必要はありません」
「じゃ、抜け毛が多いってこと?」
「そうなります」
「その毛は? マメに掃除しなきゃいけなくない?」
素朴な疑問が、とんでもない結果に繋がっている。
説明を聞いても、想像ができない。
浮かんできたのは、毛だらけの部屋を掃除しているフィッツの姿だ。
「いえ、抜けた毛は消滅するので掃除の必要はないですよ」
「はあ? 消滅?」
「基本的に、私の体は、そのようになっています。私の体から離れたものは細胞が死滅し、消滅する仕組みです。たとえば、手首が切り離されると、その手首は消滅します。髪の毛より時間はかかると思いますが」
フィッツの淡々とした説明に、唖然となる。
切り離された手首が消滅したら、くっつけられないではないか。
新しい手首が生えてくるわけではないのだろうし。
「なんで、そんなことになってるわけ?」
「時間効率の問題でしょう。どうせ伸びてくる髪を、定期的に切るのは非効率ですからね」
「私の髪は非効率なんだね……」
「姫様の髪は、私が切りますから、必要があれば言ってください」
「……その時は、頼むよ……」
あまりの衝撃に、返事をするので精一杯。
フィッツには、まだまだ感情の機微が足りていないようだ。
気遣いの精神は養われていない。
「浴室はこちらです、姫様」
大きな半透明のガラスドアが、左右に分かれて開かれていく。
ドアのすぐ脇が着替え用のスペースらしかった。
奥に、広い浴室があり、薄い湯気が漂っているのが見える。
「着替えは、そちらに用意しています」
着替え用スペースには、ドレッサーとチェストがあり、その上に折りたたまれた着替えが置いてあった。
おそらく、リネンのワンピース型をした寝間着、いわゆるネグリジェだろう。
女性用の寝間着は、たいていこれだが、ボロ小屋で着ていたものより上質なのは間違いない。
見ただけでわかるくらい高級感にあふれている。
「ここは広くていいね。足を伸ばして入れるなんて、すごい贅沢だよ」
宿屋でも鉱山でも湯にはつかった。
とはいえ、広い浴槽は上級貴族など特権階級にのみ許されている贅沢だ。
平民の使うものとしては、手足を折り曲げなければ入れない狭い浴槽が一般的。
ボロ小屋にあったものも、狭かった。
仮に、大きな浴槽を、フィッツが用意できていたとしても、小屋には設置できる空間なんてなかったのだ。
「ゆっくり疲れを落としてください。私は、ここで、お待ちしています」
「へ? 一緒に入らないの?」
てっきりフィッツも浴室に入ってくると思っていた。
が、すぐに思い直す。
「あれだ。あの、どこにいても私が見られる装置が、ここにもあるんだね」
「ありません」
「え? それだと目視が必要なんじゃない?」
「……いえ、ここは安全ですから……警護は外で行います」
らしくもなく、フィッツの歯切れが悪かった。
もしかすると、未だに「破廉恥」の汚名を忘れられずにいるのかもしれない。
アイシャに指摘されるまで気にも留めていなかったのが、逆にフィッツに打撃を加えたようだ。
「別にいいのに。どうせ、フィッツに見られてないとこなんてないんだしさ」
「必要がなければ……覗き見するつもりはありませんから」
めずらしく、フィッツが、ふいっとそっぽを向く。
やはり立ち直り切れていないらしい。
ちょっぴりおかしくなって、小さく笑った。
「目視が“必要”になったら、いつでも入ってきていいよ。フィッツならね」
言い残して、浴室に入る。
が、フィッツは入って来ないだろうなと思って、また少し笑った。
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