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第1章 彼女の言葉はわからない
感情の機微とはいかばかり 1
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ティニカの隠れ家で暮らすようになって5ヶ月目に入った。
もうすぐ夏が来る。
気温も調節できるのだが、昼夜の時刻と同じく、外の季節と合わせた。
夕食後、この住居内では小規模と言える部屋で過ごすのが日課になっている。
カサンドラは、カウチに寝そべり、時々、テーブルに手を伸ばして、お茶を口にするのだ。
テーブルを挟んで向かいのカウチに座り、その姿を見ているのが心地良かった。
穏やかな日々が過ぎている。
カサンドラは、よく笑うようになったし、住居の外に出かけることもあった。
偽物の太陽と空の下でも、彼女は明るく見える。
あれこれとフィッツに話しかけてくる姿は、いつも楽しげだ。
それでも。
フィッツは、日に1度は、これでいいのだろうか、と思う。
カサンドラの最終目的地は、ここではなかった。
なのに、ずっとここにいてもいいと言っている。
もちろん、ここにいれば安全だし、安心だ。
それがわかっているから、カサンドラも外に出ないことにしたのだろう。
(坑道での件が後を引いているのか……私を安心させるためか……)
どちらにしても、彼女自身のためでないのは、はっきりしていた。
だから、自分の存在が彼女の意思を阻害しているのではないかと、感じている。
あの時、フィッツの頭の中には、いくつかの回避策があった。
ディオンヌたちを拘束し、アイシャに指示を出して鉱山の者を避難させるとか。
いっそディオンヌたちを始末してしまうだとか。
が、外に敵がいるのは明白で、皇太子が追ってきているのも想定済み。
外にいたであろう敵も、あのフードを身に着けていただろうから、アイシャが易々と見つけられるとは考えにくかった。
逆に、アイシャが敵を探していると悟られれば、先手を打たれてしまう。
皇太子に追いつかれる懸念もあった。
要は、ディオンヌたちを拘束するにせよ、殺すにせよ、対処するには時間が足らなさ過ぎたのだ。
そして、カサンドラの目の前で人を殺すのに躊躇いがあった。
フィッツが選んだのは、生きているのかどうか判然としない、といった状況。
坑道を爆破して逃げることで、生死を曖昧にし、かつ、外の敵に「人質が人質にはならない」と示したのだ。
けれど、その件が後を引いているのなら、自分のした判断こそが、彼女を窮屈にしたことになる。
ここは広いが、地下であることに変わりはなく、外の世界に比べれば狭い。
それに。
(あと、ひと月ほどで、姫様は19歳になる)
そろそろ女王の喪も明け、皇太子との婚姻予定だった時期に差し掛かる。
カサンドラに皇太子と婚姻する意思はない、と確認はできていた。
だからといって、婚姻自体を否定しているとは限らない。
以前、無理に中断させた思考が、近頃は、頻繁に顔を覗かせる。
カサンドラは、いずれここを出て、誰かと婚姻するのだろうか。
たとえ、そうなったとしても、自分の使命は変わらない。
カサンドラの夫が誰であれ、子をもうけようとも、フィッツが守り、世話をするのは、彼女だけなのだ。
なにも変わらない。
はずなのだけれども。
「姫様」
「なに?」
「姫様は、婚姻しますか?」
「前に、あいつと婚姻なんかしないって言ったよね?」
「いえ、皇太子以外と、ということです」
カサンドラは寝そべったまま、一瞬、きょとんとした顔をする。
それから、のそっと体を起こして座り直した。
顔から表情が消えている。
以前には、よく見ていた、フィッツを遠ざける顔つきだ。
なにをかはともかく、なにかを間違えたことだけは、理解する。
「出過ぎたことをお訊きして、申……」
「フィッツ」
「はい、姫様」
話せば話すほど、カサンドラが遠ざかっていくような感覚が戻ってきていた。
そのことに、フィッツは「不安」をいだく。
敵を目の前にしても、危機的状況であってもいだいたことのない「不安」だ。
「フィッツは、私が婚姻するかどうかより、出産するかどうかを気にしてるんじゃない? わかるよ? ヴェスキルの血が絶える心配してるんだよね。次の継承者の期待をされてるっていうのは、私も理解できる。フィッツも、ラーザの人たちも、ヴェスキルの血に、こだわりがあるからさ」
確かに、ヴェスキルの血に、こだわりはある。
次の継承者について考えたこともあった。
だが、そういうこととは違うのだ。
感じてはいるのに、うまく言葉にできない。
「でも、そういうのは……まだ考えられない。もうちょっと待ってほしい……」
「姫様、私は……」
「フィッツは? 私に婚姻してほしいと思ってる? それとも出産のほう?」
突き放すような言いかたに、言葉にしがたい苦痛を感じる。
まるで心臓を握り潰されかけているかのように、胸が痛くて苦しい。
フィッツが言葉を失っている間にも、カサンドラは話し続けていた。
「ここにいれば安全だよね。だったら、ここで出産する?」
「ここには、ヴェスキルとティニカしか入れません」
反射的に、答えてしまう。
不安と、そして、ここでの2人の暮らしに、他者が介入するのを「嫌だ」とする感情が、フィッツに拒絶の言葉を口にさせたのだ。
「フィッツがいるじゃん」
「それはどういう……」
「前に、できるって言ってなかったっけ? 情報収集のためなら、男女を問わず、相手を篭絡できるんでしょ?」
カサンドラが、フィッツの目を、まっすぐに見ている。
言われていることはわかるのに、理解が追いつかない。
(私が……姫様のお相手を……?? 私と姫様が、そういう……)
考えたこともなかった。
ボロ小屋でもここでも、2人きりで過ごす時間は長い。
だが、カサンドラは「姫様」であって「女性」ではなかったのだ。
当然に、やましい気持ちをいだいたこともなく、下心で近づいたこともない。
そもそも、フィッツにとって性的な行為ですら「使命」のための手段のひとつに過ぎなかった。
情報収集や危険の回避と、カサンドラを守るためにこそ、すべき行為とされていたのだ。
必然的に、カサンドラ本人は、対象とは成り得ない。
(……姫様を抱きしめ、口づけ……肌にふれる……という……)
1度も考えたことのない状況を、初めて、フィッツは考える。
そんなことが許されるのだろうか。
なにより自分は、カサンドラを守る立場にある。
ティニカが、ヴェスキルと交わるなど聞いたことがない。
「冗談だよ」
「冗談、ですか?」
「さっき言ったけど、まだ考えられないんだよ、婚姻とか出産とか。だから、少し意地悪した。ごめん。フィッツが悪いんじゃないから。いよいよとなったら、私も考えるし、それまで時間がほしいってだけ」
カサンドラが、カウチから立ち上がった。
フィッツも立ち上がるが、サッと、背中を向けられてしまう。
「権力の濫用はしない。フィッツはさ、命に関わらないことなら、私の言うことに従っちゃうもんね。ヴェスキルの血は偉大過ぎるよ」
ははっと、力なく笑い、カサンドラが歩き出した。
その姿に、フィッツは動揺する。
「今日は、なんか疲れた。もう寝るね」
自分は、なにか間違えたのだ。
それはわかるが「なにを」間違えたのかが、わからなかった。
ただ、カサンドラが自分を遠ざけようとしているのは伝わってくる。
ここで暮らし始めて近づいていた彼女との距離が、また広がろうとしていた。
「おやすみ、フィッツ」
いつもは寝室まで、カサンドラをおくる。
ベッドに入るのを見とどけ、ドアを閉めるのも、日課だ。
けれど、それも拒絶されている。
短い言葉の中に「ついて来るな」との意思が感じられた。
フィッツは、感情の機微には疎いが、察しが悪いわけではない。
主が、してほしいこと、してほしくないことの区別はつく。
(姫様は……1人になりたがっている。私は……邪魔をしてはならない)
カサンドラを追いかけたいような、引き留めたいような気持ちを押し殺す。
主の意思に従わないようなティニカは「不要」なのだ。
絡みついたティニカの鎖が、フィッツを縛りつけていた。
無意識に、両手を握りしめる。
『私がいないとフィッツを動かせないって言われてさ。なんか、2人で1人みたいだったのが嬉しかったんだよ。けどさぁ、それはそれで問題というか、フィッツの意思はどこにあるんだっていう』
カサンドラの言葉を思い出していた。
フィッツには理解しきれなかった「複雑な心境」だ。
(私の意思……姫様の意思に従うことが、私の……)
考えかけて、なにかが違うと感じる。
以前、カサンドラに「したいことはないのか」と聞かれたことがあった。
その時は「使命」を口にしたのだが、おそらく、そういう話ではないのだろう。
(……私は、姫様に遠ざけられたくない。姫様の近くに……)
ほかの誰よりも、1番近くにいたいのだ、と気づく。
守護騎士であり、信用できる者であったアイシャでさえ「嫌だ」と感じた。
だが、それは「使命感」からだっただろうか。
カサンドラがヴェスキルの継承者だから、だろうか。
『権力の濫用はしない。フィッツはさ、命に関わらないことなら、私の言うことに従っちゃうもんね。ヴェスキルの血は偉大過ぎるよ』
力なく笑うカサンドラの声が、フィッツの耳に残っている。
もうすぐ夏が来る。
気温も調節できるのだが、昼夜の時刻と同じく、外の季節と合わせた。
夕食後、この住居内では小規模と言える部屋で過ごすのが日課になっている。
カサンドラは、カウチに寝そべり、時々、テーブルに手を伸ばして、お茶を口にするのだ。
テーブルを挟んで向かいのカウチに座り、その姿を見ているのが心地良かった。
穏やかな日々が過ぎている。
カサンドラは、よく笑うようになったし、住居の外に出かけることもあった。
偽物の太陽と空の下でも、彼女は明るく見える。
あれこれとフィッツに話しかけてくる姿は、いつも楽しげだ。
それでも。
フィッツは、日に1度は、これでいいのだろうか、と思う。
カサンドラの最終目的地は、ここではなかった。
なのに、ずっとここにいてもいいと言っている。
もちろん、ここにいれば安全だし、安心だ。
それがわかっているから、カサンドラも外に出ないことにしたのだろう。
(坑道での件が後を引いているのか……私を安心させるためか……)
どちらにしても、彼女自身のためでないのは、はっきりしていた。
だから、自分の存在が彼女の意思を阻害しているのではないかと、感じている。
あの時、フィッツの頭の中には、いくつかの回避策があった。
ディオンヌたちを拘束し、アイシャに指示を出して鉱山の者を避難させるとか。
いっそディオンヌたちを始末してしまうだとか。
が、外に敵がいるのは明白で、皇太子が追ってきているのも想定済み。
外にいたであろう敵も、あのフードを身に着けていただろうから、アイシャが易々と見つけられるとは考えにくかった。
逆に、アイシャが敵を探していると悟られれば、先手を打たれてしまう。
皇太子に追いつかれる懸念もあった。
要は、ディオンヌたちを拘束するにせよ、殺すにせよ、対処するには時間が足らなさ過ぎたのだ。
そして、カサンドラの目の前で人を殺すのに躊躇いがあった。
フィッツが選んだのは、生きているのかどうか判然としない、といった状況。
坑道を爆破して逃げることで、生死を曖昧にし、かつ、外の敵に「人質が人質にはならない」と示したのだ。
けれど、その件が後を引いているのなら、自分のした判断こそが、彼女を窮屈にしたことになる。
ここは広いが、地下であることに変わりはなく、外の世界に比べれば狭い。
それに。
(あと、ひと月ほどで、姫様は19歳になる)
そろそろ女王の喪も明け、皇太子との婚姻予定だった時期に差し掛かる。
カサンドラに皇太子と婚姻する意思はない、と確認はできていた。
だからといって、婚姻自体を否定しているとは限らない。
以前、無理に中断させた思考が、近頃は、頻繁に顔を覗かせる。
カサンドラは、いずれここを出て、誰かと婚姻するのだろうか。
たとえ、そうなったとしても、自分の使命は変わらない。
カサンドラの夫が誰であれ、子をもうけようとも、フィッツが守り、世話をするのは、彼女だけなのだ。
なにも変わらない。
はずなのだけれども。
「姫様」
「なに?」
「姫様は、婚姻しますか?」
「前に、あいつと婚姻なんかしないって言ったよね?」
「いえ、皇太子以外と、ということです」
カサンドラは寝そべったまま、一瞬、きょとんとした顔をする。
それから、のそっと体を起こして座り直した。
顔から表情が消えている。
以前には、よく見ていた、フィッツを遠ざける顔つきだ。
なにをかはともかく、なにかを間違えたことだけは、理解する。
「出過ぎたことをお訊きして、申……」
「フィッツ」
「はい、姫様」
話せば話すほど、カサンドラが遠ざかっていくような感覚が戻ってきていた。
そのことに、フィッツは「不安」をいだく。
敵を目の前にしても、危機的状況であってもいだいたことのない「不安」だ。
「フィッツは、私が婚姻するかどうかより、出産するかどうかを気にしてるんじゃない? わかるよ? ヴェスキルの血が絶える心配してるんだよね。次の継承者の期待をされてるっていうのは、私も理解できる。フィッツも、ラーザの人たちも、ヴェスキルの血に、こだわりがあるからさ」
確かに、ヴェスキルの血に、こだわりはある。
次の継承者について考えたこともあった。
だが、そういうこととは違うのだ。
感じてはいるのに、うまく言葉にできない。
「でも、そういうのは……まだ考えられない。もうちょっと待ってほしい……」
「姫様、私は……」
「フィッツは? 私に婚姻してほしいと思ってる? それとも出産のほう?」
突き放すような言いかたに、言葉にしがたい苦痛を感じる。
まるで心臓を握り潰されかけているかのように、胸が痛くて苦しい。
フィッツが言葉を失っている間にも、カサンドラは話し続けていた。
「ここにいれば安全だよね。だったら、ここで出産する?」
「ここには、ヴェスキルとティニカしか入れません」
反射的に、答えてしまう。
不安と、そして、ここでの2人の暮らしに、他者が介入するのを「嫌だ」とする感情が、フィッツに拒絶の言葉を口にさせたのだ。
「フィッツがいるじゃん」
「それはどういう……」
「前に、できるって言ってなかったっけ? 情報収集のためなら、男女を問わず、相手を篭絡できるんでしょ?」
カサンドラが、フィッツの目を、まっすぐに見ている。
言われていることはわかるのに、理解が追いつかない。
(私が……姫様のお相手を……?? 私と姫様が、そういう……)
考えたこともなかった。
ボロ小屋でもここでも、2人きりで過ごす時間は長い。
だが、カサンドラは「姫様」であって「女性」ではなかったのだ。
当然に、やましい気持ちをいだいたこともなく、下心で近づいたこともない。
そもそも、フィッツにとって性的な行為ですら「使命」のための手段のひとつに過ぎなかった。
情報収集や危険の回避と、カサンドラを守るためにこそ、すべき行為とされていたのだ。
必然的に、カサンドラ本人は、対象とは成り得ない。
(……姫様を抱きしめ、口づけ……肌にふれる……という……)
1度も考えたことのない状況を、初めて、フィッツは考える。
そんなことが許されるのだろうか。
なにより自分は、カサンドラを守る立場にある。
ティニカが、ヴェスキルと交わるなど聞いたことがない。
「冗談だよ」
「冗談、ですか?」
「さっき言ったけど、まだ考えられないんだよ、婚姻とか出産とか。だから、少し意地悪した。ごめん。フィッツが悪いんじゃないから。いよいよとなったら、私も考えるし、それまで時間がほしいってだけ」
カサンドラが、カウチから立ち上がった。
フィッツも立ち上がるが、サッと、背中を向けられてしまう。
「権力の濫用はしない。フィッツはさ、命に関わらないことなら、私の言うことに従っちゃうもんね。ヴェスキルの血は偉大過ぎるよ」
ははっと、力なく笑い、カサンドラが歩き出した。
その姿に、フィッツは動揺する。
「今日は、なんか疲れた。もう寝るね」
自分は、なにか間違えたのだ。
それはわかるが「なにを」間違えたのかが、わからなかった。
ただ、カサンドラが自分を遠ざけようとしているのは伝わってくる。
ここで暮らし始めて近づいていた彼女との距離が、また広がろうとしていた。
「おやすみ、フィッツ」
いつもは寝室まで、カサンドラをおくる。
ベッドに入るのを見とどけ、ドアを閉めるのも、日課だ。
けれど、それも拒絶されている。
短い言葉の中に「ついて来るな」との意思が感じられた。
フィッツは、感情の機微には疎いが、察しが悪いわけではない。
主が、してほしいこと、してほしくないことの区別はつく。
(姫様は……1人になりたがっている。私は……邪魔をしてはならない)
カサンドラを追いかけたいような、引き留めたいような気持ちを押し殺す。
主の意思に従わないようなティニカは「不要」なのだ。
絡みついたティニカの鎖が、フィッツを縛りつけていた。
無意識に、両手を握りしめる。
『私がいないとフィッツを動かせないって言われてさ。なんか、2人で1人みたいだったのが嬉しかったんだよ。けどさぁ、それはそれで問題というか、フィッツの意思はどこにあるんだっていう』
カサンドラの言葉を思い出していた。
フィッツには理解しきれなかった「複雑な心境」だ。
(私の意思……姫様の意思に従うことが、私の……)
考えかけて、なにかが違うと感じる。
以前、カサンドラに「したいことはないのか」と聞かれたことがあった。
その時は「使命」を口にしたのだが、おそらく、そういう話ではないのだろう。
(……私は、姫様に遠ざけられたくない。姫様の近くに……)
ほかの誰よりも、1番近くにいたいのだ、と気づく。
守護騎士であり、信用できる者であったアイシャでさえ「嫌だ」と感じた。
だが、それは「使命感」からだっただろうか。
カサンドラがヴェスキルの継承者だから、だろうか。
『権力の濫用はしない。フィッツはさ、命に関わらないことなら、私の言うことに従っちゃうもんね。ヴェスキルの血は偉大過ぎるよ』
力なく笑うカサンドラの声が、フィッツの耳に残っている。
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