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前編

人でなしの心の裡は 3

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 彼は街で最も高い建物の上にいる。
 アドラント王族の所有していた城のひとつだ。
 今は王族の所有から外され、裁判所などの公共施設として使われている。
 その尖塔の突先に、彼は立っていた。
 
 月の出ていない真っ暗な空の下、ぽつぽつと家の灯が光っている。
 この時間に明かりが灯せる家は少ない。
 本国ほどではないが、アドラントにも多少は貧富の格差があった。
 
 貴族がいないため、雇われ魔術師という存在はいない。
 領民たちの「快適さ」は、魔術道具の有る無しで決まる。
 明かりひとつとっても、魔術道具の照明器具を持っているかどうか。
 持っていなければ、昔ながらの油や蝋燭に頼ることになる。
 必然的に節約を意識しなければならず、夜遅くまで明かりを灯したりはしない。
 
(私は、なにか間違えたのだろうな。だとしても、彼女の欲しいものを、私は与えられない。妻や子を愛するとは言えないのだから)
 
 あれで、サマンサは、よりいっそうかたくなになる。
 彼も「正式な婚姻」を撤回した。
 はっきり言って、腹が立っていたからだ。
 彼なりに、できうる限りの譲歩をしている。
 サマンサの希望に近い形にするべく、歩み寄ったのだ。
 
 愛することはできなくても、大事にすることはできる。
 
 それ以上を求めるより、サマンサにも譲歩してほしかった。
 彼に歩み寄ってほしかったのだ。
 だが、結果として、彼女は彼の言葉を後ろ脚で蹴飛ばしている。
 
(私とフレディを秤にかけるような言い草には頭にきたよ、まったく)
 
 彼は小さく溜め息をついた。
 あれほど頭に来たのは初めてだ。
 本当に、サマンサと出会ってから「初」なことが多い。
 
 彼は、街の点々とした灯りを見つめながら、顔をしかめる。
 どうにも気が散ってしかたなかった。
 集中しなければならないのに、サマンサの表情が頭をよぎる。
 強気な視線と態度で、サマンサは彼を見据えていた。
 
 だが、彼女は傷ついていたようにも見えたのだ。
 
 その顔が頭から離れない。
 とはいえ、彼は頭を冷やしに外に出てきたのではなかった。
 何度か、頭を横に振り、サマンサのことを心から締め出す。
 今は「それどころ」ではないのだ。
 
 ふっと息をついた。
 
 サマンサがつけたマーカーを探す。
 血というのは「個」を示すものとなるのだ。
 魔術師ならば魔術痕で追えるが、あの民服姿の男は魔力を持たない者だった。
 もちろん、彼は、それを予測している。
 王族護衛の魔術師になるしか、魔力持ちがアドラントに入ることは許されないからだ。
 
 彼はサマンサの血を追う。
 魔術痕とは違い、かなり追いづらい。
 魔術痕がたなびく糸のようなものだとすれば、サマンサの血は点だ。
 星空から、たったひとつの目的の星を見つけるに等しい。
 
 彼はサマンサを治癒した際に、その血の「特質」を手に入れている。
 星にたとえて言うなら、その形や色、光の度合いなどといったものだ。
 似たものは数々あっても、星と違うのは、そこにサマンサの「個」が乗っていることだった。
 この世界にサマンサという女性は1人しかいない。
 
(見つけた……あれか……)
 
 あの民服姿の男を、彼は特定する。
 言うなれば、サマンサ・ティンザーと刺繍の入った、この世界にたった1枚しかないハンカチを持っている人物を探した、といったところだ。
 直接にさわることができれば手っ取り早かったのだが、こちらの動きを悟らせることなく動きたかったので、あえて避けた。
 遠回りではあっても、見つけてしまえば一瞬で事足りるからだ。
 
 あの民服姿の男には、ごく微量だがローエルハイドの血が混じっている。
 彼が探していたのは、ジェシーに成り損なった者たちだった。
 
 ジェシーにえた、もう1本の血脈。
 それは彼と繋がっており、カウフマンのものと同等に濃かった。
 対して、彼と民服姿の男との間に繋がる血脈は薄く、細い。
 ローエルハイドの血が薄いということだ。
 
 彼は、今、蜘蛛の巣の端にいる。
 
 張り巡らされたカウフマンの血脈の蜘蛛の巣は広く、大きい。
 糸の数も複雑に絡み合っていた。
 いくら彼に血脈が見えるとしても、見分けるのは困難だ。
 
 だが、やりようは、ある。
 
 まずカウフマンの血しか持たない者は後回しにすることにした。
 脅威という観点でいえば、優先順位を低く見積もれるからだ。
 ローエルハイドの血が混じっている者のほうが遥かに脅威となる。
 次のジェシーの元と成り得る血は、確実に断っておかなければならない。
 
 そして、その血は、どれほど細くても、彼と繋がっている。
 
 彼は、見つけた男との血脈を辿っていった。
 ほかの血脈は、いったん、すべて無視する。
 その男は、蜘蛛の巣の中央まで、彼を案内するのだ。
 巣の端から血脈を見分けるのではない。
 巣の中央から、糸を辿る。
 
 一斉に。
 
 白い糸を真っ赤に染め上げていくようにして、彼は一瞬で事を終わらせていた。
 ローエルハイドの血の混じるカウフマンが創り上げた者たちを、全員、把握したのだ。
 
 どこに住み、なにをしている者か。
 誰から生まれ、誰と婚姻しているのか、していないのか。
 
 情報は、すべて血脈を通じて、彼の元に届けられていた。
 他人ではこうはいかないが、彼らにはローエルハイドの血が流れている。
 考えていることまでは読めなくても、「個」としての情報は手に入れられる。
 
 カウフマンの間違いは、ジェシーを彼に見せたことだ。
 
 ジェシーの存在を知らなければ、彼はあえて血脈を辿ろうとは考えなかった。
 彼にとって血脈を辿ることは、少なくない不快を身に受ける。
 当面、吐き気や苛立ちを感じ続けることになるだろう。
 積極的に取りたい手立てではなかった。
 
 彼は、ほとんどの者に無関心なのだ。
 どうでもいい者たちの情報など、用もなく手に入れたいとは考えない。
 日頃、血脈の切れ端が見えるのだけでも煩わしいくらいだった。
 
 おまけに血脈で繋がっているとはいえ、彼からすれば赤の他人も同然だ。
 意図的に創られた連中など遠縁とも呼べない。
 そんな者たちの情報を、彼は身の内に取り込んでいる。
 膨大な量でもあった。
 
(アドラントで、約3千人……ロズウェルドにも、千人はいるな……)
 
 つまり、4千人は確実に始末する必要がある。
 すぐにでも消し去りたいが、これはまだ下準備の段階だ。
 消すのは、ほかの問題に解決の目途を立ててからのことになる。
 でなければ、カウフマンに逃げられるのは分かり切っていた。
 
 ローエルハイドの血を持つ者たちが一斉に消されれば、カウフマンともども、ジェシーも姿をくらますだろう。
 今回と同じ手を使い、血脈を辿りジェシーを追尾することはできない。
 ジェシーは、より赤の他人に近かった。
 あの蜘蛛の巣の中にはいない。
 
 だからこそ、ジェシーは奇跡の子、なのだ。
 
 カウフマンの屋敷に行った際、ジェシーが姿を現したことで、彼はジェシーと自分との血脈の繋がりを視た。
 逆に言えば、ジェシーが姿を現すまでは、視えなかった、ということだ。
 
 蜘蛛の巣の中にいる連中よりも、よほど濃い血の繋がりがあるにもかかわらず、目視できなければジェシーとの繋がりは認識できない。
 カウフマンの血の濃さによるものなのかもしれないが、彼にも、その理由はわからなかった。
 まさしく「奇跡」というよりほかないのだ。
  
 結果、血脈を辿り、ジェシーの居場所を特定することはできない。
 行方をくらまされれば面倒なことになる。
 どれほど大勢の血を断ち切ろうと、ジェシーを逃がしては意味がなかった。
 最も脅威になりえる「血」は、ジェシーのものなのだから。
 
(この気分の悪さを、しばらく引きずらなければならないとは、煩わしいことだ)
 
 思った時、ふいっと彼の中を、ひとつの情報が横切る。
 瞬間、彼の思考が、ぴたりと止まった。
 
 迷うはずのない計画。
 
 彼は己のすべきことを知っている。
 それを成すためなら、いくらでも残酷に冷徹になれた。
 同情も憐憫も、ない。
 
 なのに、わずかな迷いが生じている。
 
 彼は、無意識に両手を握り締めた。
 目を伏せると、サマンサの顔が浮かぶ。
 
(……邪魔をしないでくれ……サミー……)
 
 迷いの元は、サマンサだ。
 彼女の顔や声が、彼を邪魔している。
 
 『意外だったわ』
 『あなたは、子供が嫌いではないのね』
 
 そう言った時のサマンサは、どことなく嬉しそうだった。
 彼との子を望むようなことも言ってくれた。
 
 そんな彼女に、自分のすることをどうやって話せばいいのか。
 それがわからなくなっている。
 計画だから、必要なことだから、脅威だから。
 どれも正当性はあるが、果たしてサマンサはどう思うだろう。
 
 広く大きな蜘蛛の巣の中、そこには小さな生まれたばかりの赤ん坊がいた。
 
 まだ名もついていない子だ。
 彼の計画を進めるなら、その子も「例外なく」殺さねばならない。
 
 彼は目を開け、空を見上げた。
 真っ暗な闇が広がっている。
 その視界こそが、自分の心なのだ。
 
(サミー……迷わせないでくれ……)
 
 彼が容赦なく計画を進めたら、サマンサを永遠に失う気がした。
 それを彼は恐れている。
 その理由にも気づいていた。
 もう誤魔化しは効かない。
 
(……私は……彼女を、愛しかけている……)
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