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後編

遠いのに近くて 3

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 結局、彼と皇女は夜会が終わるまで戻っては来なかった。
 残念に思っている貴族子息たちが大勢いたのは間違いない。
 だが、サマンサは、彼がいないことで気が楽になった。
 レジーやケニーとダンスをし、夜会を満喫している。
 
 彼らの従姉妹のエスティエラとも、いい雰囲気で会話ができた。
 赤茶色のふわふわとした髪に、薄茶色の大きな瞳が可愛らしい女性だ。
 最初は気後れした様子だったが、サマンサの気取りのない話しぶりに、少しずつ打ち解けてくれている。
 
 レジーから「サマンサ・ティンザー」について聞いたところによれば、自分は18歳だとのこと。
 エスティエラは17歳で、サマンサのひとつ年下になる。
 とても気立てが良くて、ほんわかした性格が好ましかった。
 
(私に話しかけてくる令嬢は、ほかにはいなかったわね。以前の私の影響……だけとは言えないわ。婚約者とあの調子なのだから、話しかけにくいわよね)
 
 お互いに別のパートナー連れ。
 しかも、彼は、その相手と個室に雲隠れ。
 それを無視して、ほかの男性と踊るサマンサ。
 
 周りから奇異に見られてもしかたがない。
 サマンサと彼がどうなっているのか訊きたかっただろうが、訊くのも不躾だ。
 なにやら、こそこそと噂話をしていたことには気づいている。
 だが、それは無視した。
 
(どうせ、すぐに森に帰るもの。レジーも夜会は趣味じゃないと言っていたし、たびたび来ることがないのなら、気にする必要もないわ)
 
 王都でどういう噂を流されようと、いっときのことだ。
 森にいれば聞こえては来ない。
 それに、と思う。
 
(彼の婚約者でいるのも、そう長くはないはず……婚約が解消されれば噂も立ち消えになるわよね……それまで家に迷惑がかからなければいいのだけれど……)
 
 まだ帰っていないティンザーの家。
 そこには家族がいる。
 あと半月で記憶が戻るとも思えなかったが、区切りをつけると決めていた。
 ただ、それまでの間、悪い噂が出回れば、家族に迷惑がかかるかもしれないとの心配はある。
 
「心配するな、サム」
「レジー?」
「ティンザーに迷惑がかかるのが気になってんだろ?」
「そうなの。私はともかく、家が悪く言われるのは本意ではないわ」
「それについちゃ、ケニーがうまく話してるはずだ」
「ケニーが?」
 
 言われて、ケニーの姿を探した。
 エスティエラと一緒に、何人かの貴族と話している。
 
「皇女のエスコート役を務められるのは公爵様しかいないってのは、事実だからな」
「私をないがしろにしているわけではないって話をしてくれているのね」
「実際、公爵様は皇女を優先せざるを得ないだろ?」
「慰めてくれなくてもいいのよ? 私、ちっとも気にしていないから」
 
 気にしていないと言えば、気にしていない。
 彼が自分の「婚約者」だという実感がないからだ。
 時々、頭や胸が痛くなったりはするが、長く続くものでもなかった。
 記憶のどこかが刺激されているに過ぎない。
 
 思い出そうとする意識と、思い出したくないとの感情とがぶつかり合っている。
 
 そんなふうに思えた。
 頭痛は、そのせいだろう。
 夜会という場も、影響しているのかもしれない。
 森にいれば、人と接することはなく、精神的にも安定していられる。
 人が大勢いれば、どうしても周りを気にしてしまうのだ。
 
「そろそろ帰るか? もう十分つきあったしな」
「そうね。ケニー様がいいと言うのなら、帰ることにしましょうか」
「兄上の許可なんていらねぇだろ」
「そうはいかないわよ。あなたのお兄様のお祝いなのに」
 
 レジーが、しかたなさそうに、うなずいた。
 さすがに黙って帰るのは失礼だ。
 ケニーは、サマンサの立場を守ろうとしてくれてもいるのだし。
 
 挨拶をしに、そちらに向かおうと歩き出す。
 その2人の前に、2階から降りてきた彼と皇女が現れた。
 彼の腕を引くようにして、皇女がサマンサのほうに近づいてくる。
 なぜか体がこわばった。
 
「久しぶりの夜会に、すっかり浮かれていたものだから、さっきは挨拶もさせてあげられなかったでしょう?」
 
 皇女が、レジーとサマンサに微笑みかけてくる。
 人を惹きつけずにはいられないような雰囲気が、皇女にはあった。
 とても護衛騎士を「とっかえひっかえ」しているような遊蕩さは感じない。
 むしろ、微笑まれると、無邪気さが強調される。
 
「シャートレー公爵家、次男のライナール・シャートレーにございます。本日は、兄のために足をお運びくださり、光栄にございます。マルフリート皇女殿下」
 
 スッと、皇女が手を差し出してきた。
 なんとも優雅な仕草だ。
 手を取り、レジーが、ほんの少し口を近づける。
 表情も硬く、いつものレジーらしくなかった。
 
 皇女の機嫌を損ねはしないかと、サマンサのほうがハラハラする。
 だが、皇女は気分を害した様子もなく、サマンサに視線を向けた。
 慌てて、頭を下げる。
 
「サマンサ・ティンザーにございます。お目にかかれて……」
「貴女が、ジェレミーの婚約者のかたなのでしょう?」
 
 挨拶を途中で遮られ、戸惑った。
 敵意のようなものは感じられないが、好意的でもなさそうだ。
 そして、サマンサは上手く返事ができずにいる。
 婚約者ではあるのだろうが、肯定していいものか判断に迷っていた。
 
「それはそうとしても、今夜のジェレミーは私のもの。そうよねえ?」
 
 ぴとっと、皇女が彼の腕に頬をくっつける。
 彼は無表情で、なにを考えているのかはわからない。
 隣から、レジーの苛立ちが伝わってくる。
 皇女の態度を不快に感じているのだ。
 
「今夜の私は、きみの言うなりさ」
 
 彼が皇女に微笑みかけながら、言う。
 皇女は楽しげに、くすくすと笑っていた。
 
「私も、貴方がする、どんな要求にも応じられたと思っているのだけれど?」
「完璧にね。わざわざ確認する必要もないほどだ」
「貴方の我慢の限界が、ぱちんと弾けたのを感じられたわ」
「私より、きみのほうが積極的だったのじゃないかな?」
 
 皇女が、サマンサに、ちらっと視線を投げてくる。
 彼との親密さを見せつけたいのかもしれないが、サマンサは動じずにいた。
 皇女の意図も、彼がなにを思っているのかも、知ったことではなかった。
 
 それより、今にも皇女に罵声を浴びせそうな気配を醸し出しているレジーを気にかけている。
 レジーの背中に手を回し、上着を必死で掴んでいるのだ。
 くいくいと引っ張り、気にすることはない、と意思表示もしている。
 祝いの夜会で、騒動を起こすわけにはいかない。
 
「婚約者を差し置いて私の相手をするなんて、悪い人ねえ」
「彼女は、気にしやしない。そうだろう、サマンサ?」
 
 彼に問われ、どきりとした。
 本当に、少しも気にかけていなかったのに、突然、居心地が悪くなる。
 ひどく嫌な気分になっていた。
 
 サマンサ。
 
 そう呼ばれたのは、久しぶりという気がする。
 記憶を失って以来、愛称で呼ばれていたからだろう、と思った。
 森にサマンサを訪ねてきた時から、彼はサマンサの名を呼んでいない。
 あの時だけだ。
 
 サマンサに駆け寄り、抱き締めてきた、あの時だけ。
 
 サマンサは、違和感を振りはらう。
 自分たちが、名ばかりの婚約者なのは確かだ。
 愛は存在しない。
 
「ええ。まったく気にしておりません」
「あらまぁ、とても心の広いかただわ。それなら、ね、ジェレミー、今夜は王都の貴方のところに泊まってもよくて?」
「まだ続きを望んでいるらしいね」
「貴方も、あれで満足したとは言えないのではない?」
「否定はできないな」
 
 サマンサは眉ひとつ動かさずにいる。
 心配したのか、レジーが肩を抱き寄せてきた。
 そのレジーに微笑みかける。
 だが、本当に、少しも気にならないのだ。
 
 なにかが、おかしい。
 
 会話からすれば、彼と皇女は、とても親密に思える。
 周りも、そう判断しているに違いない。
 だから、レジーも心配しているのだ。
 
「では、行こうか。ここでは、きみを満足させられはしないのでね」
 
 皇女に声をかける彼は、ほんのわずかにもサマンサに視線を向けなかった。
 皇女が、くすくすと笑う。
 
「わかったわ、せっかちさん」
 
 彼は皇女の腰を抱き、夜会会場を出て行った。
 その後ろ姿を見送る。
 すぐにレジーが舌打ちをした。
 
「公爵様は、いったいどういうつもりなんだ」
「いいのよ、レジー」
「けどな、婚約者だと言ったのは、公爵様だぞ? それを……」
「名ばかりってことじゃないかしら。私にも実感はないもの」
 
 最初は、イラッとさせられている。
 とはいえ、その後の2人の会話には、それほど苛々しなかった。
 頭痛も胸の痛みもなくなっている。
 
 なにかが、おかしい。
 
 なにがおかしいのかはともかく、違和感しかいだけずにいた。
 サマンサ自身、不思議なほど落ち着いている。
 レジーの言うように、名ばかりであろうと、一応は「婚約者」なのだ。
 多少なりショックを受けてもおかしくはなかった。
 
 なのに、サマンサは傷ついていない。
 
 わけがわからず、肩をすくめる。
 愛がないから平気なのだと、結論しようとした時だ。
 サマンサの頭に、ひとつの言葉が思い浮かんでいた。
 それが、違和感の正体だと気づく。
 
(……あの人は、本当に、どうしようもないろくでなしだわね)
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