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無二夢中 4

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 つい「親の顔が見てみたい」なんて言ったことを後悔する。
 知らなかったとはいえ、あまりに無神経な発言だった。
 キーラ自身、両親には会えていない。
 この先、会える見込みも、ほぼない。
 
(でも……私には思い出があるけど、この人には、それもないんだ)
 
 両親に抱かれた記憶だって、彼にはないのだろう。
 いつも王太子はあっけらかんとしていて呑気。
 だから「寂しい」ことがあるなんて、想像もしなかった。
 王宮で、のんべんだらりとした生活をしていたのだろう、としか。
 
「キーラ」
 
 せせこましい隙間の中で、王太子が体をひねっている。
 わざわざ身を縮こまらせて、キーラのほうへと向きを変えようとしていた。
 なんとなくキーラも体を持ち上げ、隙間を作る。
 
 ようやくといった感じに、王太子が仰向けになった。
 そして、キーラを抱きしめてくる。
 
「お前は心根の優しい女だ」
 
 こんなことをしている状況ではない、とは思う。
 けれど、キーラは、王太子の胸に顔をうずめてみた。
 心が穏やかになるのを感じる。
 
「案ずるな。なければないほうが良いやもしれん」
 
 王太子が狭い空間から手を動かし、キーラの頭を撫でてくる。
 長くこんなふうに人の優しさを感じたことがなかった。
 
「あればあったで、つらい想いもあろうな」
 
 書棚からの音は止まっている。
 少し前にあった、あの泣いていた朝と同じだ。
 王太子は下心を持っていない。
 純粋にキーラを慰めようとしている。
 
(残念王子のくせに……生意気……)
 
 彼と一緒にいると「普通に」笑えた。
 不思議と、気持ちが明るくなる。
 魔術の発動もあって、気が休まるはずはないのに、なぜか落ち着くのだ。
 ひどく安心している自分を意識する。
 
「寂しくは、ありませんでしたか?」
「わからん。最初からおらぬものは、おらぬのだ」
 
 少しだけ「そうか」と思った。
 
 6歳までだけれど、キーラには、両親と話したり、笑ったりして過ごした日々の記憶がある。
 が、王太子には、なにもない。
 彼には、恋しがる気持ちさえわからないのだ。
 物心をつく以前、産まれた時から「いなかった」ので。
 
そばには誰かしらがおったゆえ、親がおらずとも平気であったのやもしれん」
 
 キーラは「親の顔が見てみたい」と言った。
 それは、王太子の言動による。
 
 大雑把で、無茶苦茶で、突飛な勘違いばかり。
 楽観的で呑気で、自己主張は、ほとんどせず。
 プライドだの自尊心だのに、こだわりもなく。
 うっかり具合が半端なくて、なにに関しても無頓着。
 
(たぶん……この人は“1人”で育っちゃったんだ)
 
 大勢に囲まれていても、彼に「家族」はいない。
 気兼ねなく甘えたり、遠慮なく叱られたりすることもなかったに違いない。
 だからこそ、こんなふうなのだ。
 
 陽当たりのいい場所ではあっても、1本しか植えられていない木のように。
 
 誰も邪魔をしない。
 陽を遮るものもいない。
 ひたすら、彼は「まっすぐ」に伸びることしかできなかったのだ。
 結果、王太子は、残念王子になった。
 
 無駄に威張ったり、身分や権力を振りかざしたりしないのも当然に思える。
 元々、そんな発想が、彼にはないのだ。
 
 あまりに「1人」に過ぎて。
 
 胸が、きゅうきゅうと締めつけられる。
 情けない姿は、たくさん見てきた。
 けれど、暗いところや、怒っているところは見たことがない。
 夜会の時の彼も、そうだった。
 
 本来的な彼の感情は、きっと、とても平坦なのだ。
 
 人から悪意を向けられてすらも、王太子の感情は波立たないのだろう。
 ありとあらゆる、ほとんどのことを「どうでもいい」と、内心では切り捨てている気がする。
 もちろん、人に悪意をいだけとか声を荒らして怒れ、とは言わない。
 が、王太子は、淡々とし過ぎている。
 
 それは、とても寂しいことではなかろうか。
 
 元の世界と、この世界。
 キーラは、自分の知らないところに、いくつもの世界があると知っていた。
 けれど、どんなに多くの世界があろうと、おそらく彼は「1人ぼっち」なのだ。
 そんな気がした。
 
「私は、お前とおるのが良い。楽しい気分になれるというのもあるが、それより、心がとても凪ぐのだ」
 
 キーラは、王太子の背中に両腕を回す。
 そっと抱きしめ返してみた。
 
「お前がおらぬと落ち着かん。よそよそしくされると、寂しく思う」
 
 狭い中だというのに、王太子がキーラの額に本当に小さなキスを落とす。
 
「さっきのように、笑っておるのが良い」
 
 侍女との身分も、諜報員との立場も忘れ、キーラは、王太子に罵声を浴びせた。
 それでも王太子はキーラをとがめようとはしない。
 むしろ、微笑ましいとばかりに目を細めている。
 
「本当に、残念王子ですね、殿下は」
 
 キーラは小さく笑った。
 笑って、ダドリュースの胸に頬をすりつける。
 
 心を強く持ち、情には流されない。
 諜報員ならば、基礎中の基礎。
 ほかの国では、うまくやれていた。
 なのに、彼の前でだけは「うまく」やれずにいる。
 
 キーラは、判断を誤ったのだ。
 
 自分が、欲張りになりつつあるのも自覚済み。
 こうやって抱きしめ合っていることが、なによりの証だった。
 
 ここにいたい。
 この、どうしようもなく残念で、たまらなく寂しい心の持ち主の傍にいたい。
 ずっと。
 
 けれど、肝心なことを思い出す。
 キーラは王太子を騙しているのだ。
 キーラのなにもかもが「嘘」で出来ている。
 
 本当には、この、あったかい腕の中に居続ける資格なんてないのに。
 
(騙してる身で、言えることじゃないじゃんね……)
 
 キーラは顔を上げる。
 無理に表情を変え、王太子に、そっけなく言った。
 
「これでは身動きが取れません。サシャ様を、お呼びください」
「キーラ」
「書棚の下敷きになりたいのですか?」
 
 少し厳しめの口調で言う。
 小さな溜め息が聞こえて、胸が痛んだ。
 
(この人は王子様だけど、私は、お姫様じゃない。ハッピーエンドはないんだよ)
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