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前編
節度と程度 3
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最近はナタリーのおかげで、ファニーの部屋は、ずいぶんと快適になった。
床と変わらないようなベッドは、ふんわかしたものに変わり、ヘタっていた枕も頭をやわらかく受けとめてくれるものになっている。
だが、伯爵邸とは比べようがない。
「1泊するだけなのに、広過ぎじゃないかな……」
屋敷の中をすべて知っているわけではないが、ファニーの見たことのある場所は、どこもシンプルな造りだった。
彫刻や刺繍は施されているものの、華美な装飾品は置かれていない。
城塞自体は石造りで堅牢なイメージがあるのに、室内はほとんど木製だ。
「たとえ1泊でも、ファニー様がお使いになられるのですから、この程度は普通にございます」
ナタリーは、いそいそとファニーの着替えを手伝っている。
手伝ってもらうほどのことはないのだが、「専属メイドとして」と言われると、断り切れなくなるのだ。
家でも、だんだんとナタリーの世話になることが多くなっていた。
丁寧口調なナタリーだが、なぜか最初から親しみ易かったのだ。
それに、ナタリーには少しすっとぼけたところがある。
仕事の手際はいいし、頭もいいし、知識も豊富。
なのに、時々、ものすごくズレたことを言うのだ。
「今日は、こういうのなんだ。これって……」
「当然、ファニー様用に仕立てたものにございます。この屋敷、いえ、城塞に使用人以外の女性が泊まったことはございませんので」
やはり自分は分かり易いらしい。
ほかの女性の寝間着を借りるのが嫌だとは言えないが、気になった。
ファニーの一族の女性が「婚約者」という口実をもらったのは、伯爵が眠りにつく数年前の話だ。
長く眠っていたとはいえ、それ以前に、伯爵に親しい女性がいても不思議はない。
ベージュ色のワンピース型をした寝間着に着替え、ファニーはベッドにぽすんと腰掛ける。
思いきり飛び込んでも衝撃を吸収しそうだと思うほど、ふわふわだった。
枕も大きくて、ベッド自体も広い。
「こちらの本館に泊まっておられるのは、ファニー様だけにございます」
「公爵夫人とディエゴさんは?」
「別館におります。こちらには伯爵様がおられますから」
きっと公爵夫人に気を遣ったのだろう。
伯爵は未婚の男性だ。
たとえ部屋が別だろうが、公爵夫人にも「落ち度がある」などと変な言いがかりをつけられる恐れがある。
「それはそうと、ファニー様は驚かれませんでしたね」
「なにに?」
「伯爵様がディエゴに男爵位を与えたことにございます」
ファニーは、きょとんと首をかしげた。
理由を言われても、驚く「理由」がなかったからだ。
「だって、帝国法に書かれてるもん」
帝国法では、領地を侵害された側が、侵害した側を罰することができるとされている。
その際、元の爵位や領主の座に空きができる事態も想定されていた。
穴埋めをする者を指名する権利は、侵害された側が有するのだ。
ただし、力のない貴族の場合、そもそも相手を罰することが難しい。
そのため侵害されても申し立てすらできなかった。
事実上、侵害した側の領地になるも同然なのだ。
現に、カーズデン男爵家に領地を侵害されていても、ファニーは棍棒1本で立ち向かうことくらいしかできずにいた。
「領地侵害の申し立てをする必要があるのは知ってるけど、伯爵様は法の番人。裁定を下す権利も持ってるから、指名が決定になるはずだよね」
だから、驚く「理由」がない、と思う。
帝国法に「オスカー・キルテス伯爵を法の番人とする」という1文がある限り、伯爵は、その場で裁定を下すことができるのだ。
「それに、伯爵様は判断できる者、だし」
「ファニー様は、帝国法をすべて覚えていらっしゃるのでしょうか?」
「それは、まぁ……」
「失礼ながら、平民は帝国法を学ぶことすら稀だと存じます。仮に学んだとしても、すべて覚えておられるかたは非常に少ないのではないでしょうか」
「ぇえっと……それにはわけがあって……」
「父君のジャスパーが厳しいかただったとか?」
「いやぁ、父さんは、そこまで厳しくはなかったよ」
ナタリーの目が「では、なぜ?」という輝きに満ちている。
その気持ちはわからなくはない。
逆の立場なら、ファニーも同じように思っただろう。
平民に帝国法を覚える必要なんてないのだから。
「もし、もしも!の話ね。伯爵様から話しかけてもらえた時に答えられないと恥ずかしいし……せっかくの機会に会話できないっていうのが……もったいなくて」
「まあ! 伯爵様とお話がされたかったということにございますね!」
前掛かり気味に言うナタリーに、はは…と、小さく笑ってみせた。
正直、ものすごく恥ずかしい。
「ちっとも高尚な動機じゃなくて、なんか申し訳ないよ」
「いいえ、とても素晴らしいお気持ちにございます! 私、胸を打たれました!」
どこに胸を打たれる要素があったのか、わからなかった。
とはいえ、ナタリーのこうした少しすっとぼけたところに安心する。
平民なので、大目に見てもらえているのだろうけれども。
「伯爵様も、きっとお喜びになられるでしょう」
「それはない」
ファニーは、きっぱりと言い切った。
ナタリーが困惑したような顔をしている。
「貴族でもない私が、伯爵様と話す機会のために帝国法を覚えてるなんて……そこまでするか?って感じでしょ? 気持ち悪いって思われるよ」
「まさか」
「絶対に、そう思われるって!」
ただでさえ、伯爵には自分の気持ちを知られているのだ。
口実の「婚約者」に過ぎない相手からの強い情は、迷惑にしかならない。
好意を寄せられるのは嫌ではないだろうが、限度がある。
「伯爵様は優しいかただから、気づいてないフリしてくれるかもしれないけど」
「……私には、どうにも理解しがたいのですが……人というのは、そういうものなのでしょうか」
「そういうものだよ」
ナタリーは、よく「人というのは」と言うが、それはおそらく「平民」のことを指しているに違いない。
伯爵家に長く勤めているので、あまり平民のことを知らないようだ。
貴族と平民とでは、思考も物の見方も違う。
「公爵夫人みたいに貴族の出ならともかく、さっきナタリーが言ってたみたいに、平民は帝国法を覚えたりしない。知ってたって、使いどころがないもんね」
貴族は、領地を治めるため、国のために帝国法を学ぶのだ。
なので、自分の動機が「不純」だと、ファニーは思っている。
帝国法を学ぶ時、貴族のような「立派」な理由なんて考えてもいなかった。
(伯爵様と話すためっていうのは、結局、自分のためってことだからなぁ)
つくづくと、自分は利己的な人間だと思う。
いずれは、伯爵が「ちゃんとした」貴族令嬢と婚姻するのは、わかっていた。
それでも、もう少しだけ「婚約者」でいたいと感じている。
名目だけであれ、伯爵に気にかけてもらえるのが嬉しかったのだ。
(でも、それって、どうなの? 伯爵様の優しさにツケ込んでるんじゃ……)
自分から「恐れながら」と言い出すべきではないか、と悩む。
ベッドに入って、ファニーの悩みは、なおさら深くなった。
(こんなふわふわで寝ちゃったら、またここで寝たいって思いそう……)
床と変わらないようなベッドは、ふんわかしたものに変わり、ヘタっていた枕も頭をやわらかく受けとめてくれるものになっている。
だが、伯爵邸とは比べようがない。
「1泊するだけなのに、広過ぎじゃないかな……」
屋敷の中をすべて知っているわけではないが、ファニーの見たことのある場所は、どこもシンプルな造りだった。
彫刻や刺繍は施されているものの、華美な装飾品は置かれていない。
城塞自体は石造りで堅牢なイメージがあるのに、室内はほとんど木製だ。
「たとえ1泊でも、ファニー様がお使いになられるのですから、この程度は普通にございます」
ナタリーは、いそいそとファニーの着替えを手伝っている。
手伝ってもらうほどのことはないのだが、「専属メイドとして」と言われると、断り切れなくなるのだ。
家でも、だんだんとナタリーの世話になることが多くなっていた。
丁寧口調なナタリーだが、なぜか最初から親しみ易かったのだ。
それに、ナタリーには少しすっとぼけたところがある。
仕事の手際はいいし、頭もいいし、知識も豊富。
なのに、時々、ものすごくズレたことを言うのだ。
「今日は、こういうのなんだ。これって……」
「当然、ファニー様用に仕立てたものにございます。この屋敷、いえ、城塞に使用人以外の女性が泊まったことはございませんので」
やはり自分は分かり易いらしい。
ほかの女性の寝間着を借りるのが嫌だとは言えないが、気になった。
ファニーの一族の女性が「婚約者」という口実をもらったのは、伯爵が眠りにつく数年前の話だ。
長く眠っていたとはいえ、それ以前に、伯爵に親しい女性がいても不思議はない。
ベージュ色のワンピース型をした寝間着に着替え、ファニーはベッドにぽすんと腰掛ける。
思いきり飛び込んでも衝撃を吸収しそうだと思うほど、ふわふわだった。
枕も大きくて、ベッド自体も広い。
「こちらの本館に泊まっておられるのは、ファニー様だけにございます」
「公爵夫人とディエゴさんは?」
「別館におります。こちらには伯爵様がおられますから」
きっと公爵夫人に気を遣ったのだろう。
伯爵は未婚の男性だ。
たとえ部屋が別だろうが、公爵夫人にも「落ち度がある」などと変な言いがかりをつけられる恐れがある。
「それはそうと、ファニー様は驚かれませんでしたね」
「なにに?」
「伯爵様がディエゴに男爵位を与えたことにございます」
ファニーは、きょとんと首をかしげた。
理由を言われても、驚く「理由」がなかったからだ。
「だって、帝国法に書かれてるもん」
帝国法では、領地を侵害された側が、侵害した側を罰することができるとされている。
その際、元の爵位や領主の座に空きができる事態も想定されていた。
穴埋めをする者を指名する権利は、侵害された側が有するのだ。
ただし、力のない貴族の場合、そもそも相手を罰することが難しい。
そのため侵害されても申し立てすらできなかった。
事実上、侵害した側の領地になるも同然なのだ。
現に、カーズデン男爵家に領地を侵害されていても、ファニーは棍棒1本で立ち向かうことくらいしかできずにいた。
「領地侵害の申し立てをする必要があるのは知ってるけど、伯爵様は法の番人。裁定を下す権利も持ってるから、指名が決定になるはずだよね」
だから、驚く「理由」がない、と思う。
帝国法に「オスカー・キルテス伯爵を法の番人とする」という1文がある限り、伯爵は、その場で裁定を下すことができるのだ。
「それに、伯爵様は判断できる者、だし」
「ファニー様は、帝国法をすべて覚えていらっしゃるのでしょうか?」
「それは、まぁ……」
「失礼ながら、平民は帝国法を学ぶことすら稀だと存じます。仮に学んだとしても、すべて覚えておられるかたは非常に少ないのではないでしょうか」
「ぇえっと……それにはわけがあって……」
「父君のジャスパーが厳しいかただったとか?」
「いやぁ、父さんは、そこまで厳しくはなかったよ」
ナタリーの目が「では、なぜ?」という輝きに満ちている。
その気持ちはわからなくはない。
逆の立場なら、ファニーも同じように思っただろう。
平民に帝国法を覚える必要なんてないのだから。
「もし、もしも!の話ね。伯爵様から話しかけてもらえた時に答えられないと恥ずかしいし……せっかくの機会に会話できないっていうのが……もったいなくて」
「まあ! 伯爵様とお話がされたかったということにございますね!」
前掛かり気味に言うナタリーに、はは…と、小さく笑ってみせた。
正直、ものすごく恥ずかしい。
「ちっとも高尚な動機じゃなくて、なんか申し訳ないよ」
「いいえ、とても素晴らしいお気持ちにございます! 私、胸を打たれました!」
どこに胸を打たれる要素があったのか、わからなかった。
とはいえ、ナタリーのこうした少しすっとぼけたところに安心する。
平民なので、大目に見てもらえているのだろうけれども。
「伯爵様も、きっとお喜びになられるでしょう」
「それはない」
ファニーは、きっぱりと言い切った。
ナタリーが困惑したような顔をしている。
「貴族でもない私が、伯爵様と話す機会のために帝国法を覚えてるなんて……そこまでするか?って感じでしょ? 気持ち悪いって思われるよ」
「まさか」
「絶対に、そう思われるって!」
ただでさえ、伯爵には自分の気持ちを知られているのだ。
口実の「婚約者」に過ぎない相手からの強い情は、迷惑にしかならない。
好意を寄せられるのは嫌ではないだろうが、限度がある。
「伯爵様は優しいかただから、気づいてないフリしてくれるかもしれないけど」
「……私には、どうにも理解しがたいのですが……人というのは、そういうものなのでしょうか」
「そういうものだよ」
ナタリーは、よく「人というのは」と言うが、それはおそらく「平民」のことを指しているに違いない。
伯爵家に長く勤めているので、あまり平民のことを知らないようだ。
貴族と平民とでは、思考も物の見方も違う。
「公爵夫人みたいに貴族の出ならともかく、さっきナタリーが言ってたみたいに、平民は帝国法を覚えたりしない。知ってたって、使いどころがないもんね」
貴族は、領地を治めるため、国のために帝国法を学ぶのだ。
なので、自分の動機が「不純」だと、ファニーは思っている。
帝国法を学ぶ時、貴族のような「立派」な理由なんて考えてもいなかった。
(伯爵様と話すためっていうのは、結局、自分のためってことだからなぁ)
つくづくと、自分は利己的な人間だと思う。
いずれは、伯爵が「ちゃんとした」貴族令嬢と婚姻するのは、わかっていた。
それでも、もう少しだけ「婚約者」でいたいと感じている。
名目だけであれ、伯爵に気にかけてもらえるのが嬉しかったのだ。
(でも、それって、どうなの? 伯爵様の優しさにツケ込んでるんじゃ……)
自分から「恐れながら」と言い出すべきではないか、と悩む。
ベッドに入って、ファニーの悩みは、なおさら深くなった。
(こんなふわふわで寝ちゃったら、またここで寝たいって思いそう……)
応援ありがとうございます!
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