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日に染まる
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優しそうな笑顔、というのが彼女を目にして最初に思ったことだ。左手に持った白い布を流れる水に浸している。右手で髪をかきあげているからまずは首筋から鎖骨のあたりを拭うのだろうか、あるいはその前に髪を束ねるのかもしれない。ゆるやかに波打つ、栗色の髪。
露わになった上半身はふっくらとしており、それもまた彼女のもつ柔らかな雰囲気をつくりあげている。淡く晴れた空と生い茂る木々を背にして岩に腰かけ、腹部に衣服を広げてはいるが体を隠そうという様子はない。うつむき、けれどバラ色をした頬からは彼女が幸せな人であるということが伝わってきた。
ルノワールの「泉による女」
その絵を見た瞬間の僕は、いわゆるくぎ付けという状態だった。
大原美術館には小学校や中学校の美術の教科書で見たような画家の絵が惜しげもなく展示されている。たとえばモネやピカソなんて、絵画に詳しくない人間でも絶対に聞いたことのある名前だ。
好んで絵を見るようになって、まだ半年ほどにしかならない。きっかけは春のパリ旅行だった。
三月、大学の長すぎる春休みを持て余した僕はひとりパリへ行ってみることにしたのだけれど、ただパリにこだわりの理由があったわけではない。ゼミでお世話になっている教授に相談した結果そうなったというだけの、なかなかに無計画な旅行だ。大阪からなら直行便で行けるし、観光名所も多いからひとり旅には良いだろうということだった。
実は春休み中、ガールフレンドからどこかに旅行しようと誘われてもいたというのに、なんとなく内緒にしてひとりで旅だってしまったのだ。その結果、ものすごく怒られたうえ、泣かれてしまった。突然なんの連絡もなく十日間ほど音信不通になったことや、まるで待ち合わせに向う途中で買ってきたかのような気軽さでフランスのお土産──空港で買ったハンドクリームで、同じブランドのものが日本でも買えることをあとから知った──を渡したのがよほど気に障ったらしい。
それでも僕の旅行は、結果としてとても良い時間だった。せっかく来たのだからとルーヴル美術館にオルセー美術館、ヴェルサイユ宮殿やオランジュリー美術館など有名なところを見て回った。本当はもっと別の町にも行ってみようと思っていたのに、気が付いたらずっとパリで美術館や博物館に通い詰めていた。そしてそれがなかなか面白かった僕は、八月になりまたもや長すぎる夏休みを持て余していることもあって、大阪近辺で回ることができる美術館にいろいろと行ってみることにした。それでも夏休みはまだまだ終わらない。それで九月になった今日、岡山まで来たというわけだ。
新大阪から岡山まで、新幹線で一時間もかからなかった。そこから在来線に乗り換え二十分ほどで倉敷駅に到着する。あとは十五分も歩けば美観地区だ。朝早くに家を出れば、日帰り旅行でもじゅうぶん楽しむことができる。
大原美術館に着いたのは十時過ぎだった。平日なのが幸いしてかあまり人はいない。だから入館してすぐ、食い入るように一枚の絵を見ている女性に気が付いた。小柄で、ほっそりして、とても短い髪をした女性が部屋の奥の方で少し前のめりになって絵を見ている。
僕は何の絵だろうと思いつつ、一枚ずつ順番に絵を見始めた。
そうして短髪の彼女のところに辿り着いても、彼女はまだ変わらない姿勢で絵の前に立っていた。近くで見ると、僕と同じくらいの年齢に見える。彼女は僕に気が付くことなく、ほとんどうっとりするかのようにため息をついたりしながら絵を見つめている。
仕方がないので僕は彼女のうしろに立って絵を眺めることにした。そこにあるのはモネの「睡蓮」だった。
僕がうしろに立っているのにもやっぱり気が付かないようなので、次の絵へ移動することにした。モネの描く睡蓮ならオランジュリー美術館でもっと大きなものを見たしまあいいだろうと思ったからだ。
そのまま順番に一枚ずつ絵を見てゆき、でも突然、僕は先ほどの彼女のように動けなくなってしまった。それがルノワールの「泉による女」の前に来たときだ。
これまで生きてきて、女の子に一目惚れしたことなんてなかった。今付き合っているガールフレンドはもともと友だちで仲が良く、気が付いたらふたりで会うようになっていたということの延長に過ぎない。だから一目惚れという感覚がどんなものかを説明することはできないけれど、でも今ここで絵を前にしてくぎ付けになってしまったこれは、たぶんちょっとだけ一目惚れに近いんじゃないかと思う。
結局しばらくの間ルノワールの絵を眺め、同じ部屋にあった他の絵をまたちらちらと眺め、そうしてルノワールの絵の前に戻って来る、というのをくり返しているうちにその部屋だけで三十分以上は過ごしてしまった。待機している学芸員に不審な目で見られなかったか心配しつつ、もう一度だけ「泉による女」を眺めてから階段へ向かった。
そのあとだって藤田嗣治の「舞踏会の前」のようにとても迫力のある女性の絵はあった。それなのにどうしても最後まで「泉による女」の絵が頭の片隅にあり、なんだかぼんやりと絵を眺めてしまった。
途中、モネの彼女が暗い部屋でまた熱心に絵と向かい合っているのを見かけた。そこに飾られた絵は一枚のみで、部屋の暗さによって絵の迫力が増していた。
小さなミュージアムショップを通って建物の外へ出ると、時間は十二時前だった。分館もあるらしいが、そろそろ昼食を食べて新幹線に乗らなければならない。夕飯は大阪駅でガールフレンドと約束をしていた。
考えてみればガールフレンドとは夏休みに入ってから一度しか顔を合わせていないし、それもひと月近く前のことだ。お互いアルバイトやゼミの集まりなどなんだかんだと忙しかったこともあるし、あとは僕がほんの少しひとりになりたかったことも関係している。
でもそれは気が合わなくなったとかそういうことではなく、ただ単に学生最後の夏をのんびり過ごしてみたくなっただけだ。だから今夜の約束には遅れるわけにはいかない。だったらなぜわざわざ今日を選んで岡山に来たという話になるが、それは本当にただの思い付きだ。いつもより一時間ほど早く目が覚めたから、そのままなんとなく出かけることにした。本当にそれだけだった。
敷地の外に出ようと歩き出したところで、ふたたびモネの彼女を見かけた。建物の陰でしゃがみ込み、小一時間前に「睡蓮」を見ていたときと同じくじっと目をこらしてなにかを見つめている。そこには絵などなにもなく、ただ彼女の傍にある建物周辺に水路が引かれているだけだ。そのとき、僕が砂利を踏む音に反応してモネの彼女が顔を上げた。髪も瞳も薄い茶色をしている。どこかで会ったことがあるような気がするとぼんやり考えかけたところで、そんなわけないよなと我に返った。彼女はなにも言わずに僕を見ている。
「あ、その」
目が合ったことと彼女のまっすぐな視線に僕はおろおろとしてしまった。偶然出くわしたとはいえしばらく彼女を見ていたのは事実だし、変なやつだと思われたりしただろうかと不安になる。なんだかさっきから人の目を気にしてばかりだと気が付き、そんな自分が少し情けない。いやそもそも変かどうかといえば彼女の方がよっぽど不可解な行動をとっているのだけれど。
「見る?」
そう言って彼女がそのままの体勢で一歩となりに避けたので、僕はつられるようにしてその空いた場所へしゃがみ込んだ。
「睡蓮?」
「そう。可愛いよね」
そこにはピンク色をした小さな睡蓮の花が咲いていた。まばらではあるが花はいくつも開き、その隙間を埋めるようにして葉っぱが重なり合っている。睡蓮の葉っぱはまるくて、一カ所にだけ切り込みが入っており、まるで絵に描いたような形をしていた。
「これね、モネのお庭から持ってきたんだよ」
「え、モネって、あの?」
「そう。モネの睡蓮の、孫なんだって」
僕はもう一度目の前の花を見た。細長い花びらが並び、中央を囲むように三重の円を描いている。花びらのピンク色は内側、真ん中、外側の円の順に薄くなっていて、それがとてもきれいだ。花を見るふりをしてとなりの彼女を盗み見ると、やっぱりまたモネの絵を前にしていたときのようにうっとりとして見つめている。太陽が眩しくて、水面越しに空が見える。さっき彼女が向かい合っていた「睡蓮」はどんなのだったかな、と思い出そうとするがちっとも思い出せない。こんなにも鮮やかなピンク色ではなかったような気がするけれども。
そのまま僕らはしばらく黙って睡蓮の花を眺めていた。
特に声をかけ合うわけでもなく僕らは同時に立ち上がった。
「じゃあね」
そう言って、彼女は僕を残して歩き出す。美術館の横の狭まった道を、だから僕らは縦に並んで門まで歩いた。その間、彼女は一度も振り返らなかった。
時刻はすでに十二時を過ぎている。僕はおもいきり伸びをしてから、美術館のとなりにあるカフェへ向かった。
それはエル・グレコという名前のカフェで、倉敷駅からここまで歩いてくるときに見つけて気になっていた店だ。入り口が蔦で覆わていてなんだかお洒落だと思った。
今日は思い付きの日帰り旅行ということもあり、ガイドブックやなんかで下調べをして来たわけではなかったから、気になった店にふらりと入ろうと決めていた。とりあえずここでコーヒーでも飲んでから、美観地区を歩きつつ昼食の店を見つけるつもりだ。
そんなことを思いながら歩いていると、すぐ目の前で先ほどの彼女がエル・グレコの扉に手をかけているのが見えた。
このまま入店するとまるであとをつけているようにならないか? そんなことを思い立ち止まる。するとふいに彼女がこちらを振り返った。
「どうしたの?」
「いや、僕もここに」
「じゃあ一緒にどう?」
そう言うと、僕の返事も待たずに扉を開け「ふたりでーす」と言いながら入ってしまった。慌てて僕もあとに続く。
「ハルちゃん、今日はお友だちも一緒?」
「そうなんです。あそこでいい?」
ハルと呼ばれた彼女は僕の方を振り向きながら、窓際の席を指さした。先ほどのやりとりといい、どうやら彼女はここの常連客らしい。
「よく来るんだ?」
「そう。美術館に来たあとは大抵」
「地元の人?」
今度もまた「そう」と返事をしてくるかと思ったら、そうではなかった。
「君は違うの?」
ハルは注文するものが決まっているのかメニューを見ようともしない。だから僕はメニューを手に持ち、目を走らせながら返事をする。
「大阪から来た」
「あ、そうなの。近いね」
「うん」
「レアチーズケーキにするといいよ」
「え?」
聞き返すと、ハルはメニューに書かれたレアチーズケーキの文字を指さした。ほっそりとした白い指に、短い爪。
「おすすめ。ここの」
「じゃあそれにしようか」
「はーい、決まりましたぁ!」
ハルが突然店員の方へ振り向き呼びかけたので、僕は慌ててメニューに目を落とした。まだ飲み物を決めていない。
「カステラとミルクティーと、レアチーズケーキに、何飲むの?」
「えっ、あ、じゃあ同じので」
「ミルクティーふたつね」
それからハルは僕の方に向き直り、唐突にたずねてきた。
「どれが一番好きだった?」
どれが? なにが? もしかして飲み物だろうか、だったら本当はコーヒーの方がと言いかけたところでハルが説明を付け足した。
「絵。美術館の」
「ああ」
そういうことか。君は間違いなくモネの「睡蓮」だよなと思いながら、僕はこたえる。
「ルノワールの」
「浴女ね」
「そんなタイトルだっけ?」
「ううん。浴女はモチーフのこと。たくさん描いたみたいよ」
「詳しいんだ?」
「ううん、全然」
そこで飲み物とケーキが運ばれてきたので会話は一時中断となった。ミルクティーで乾杯、とはならないけれどほんの少しティーカップを相手に向って持ち上げるようにした。僕たちはふたりとも、それも同時に。
「私も好き。ルノワールのあの絵」
「優しそうな笑顔がいいなって思ったんだ」
「え?」
同じ絵を好きだと聞いて嬉しくなった僕はそう素直にこたえたけれど、ハルの反応を見て失敗したかと思った。もしかして、半裸の女性の絵を見てこんな感想をいう男は気持ち悪いのだろうか。
「あの絵、ちょっと憂鬱そうな表情じゃない?」
どうやら彼女が驚いたのは絵に対する印象の違いかららしいが、そう聞かれると僕は少し自信をなくしてしまう。大体さっき見たルノワールの絵はすべてがくっきり描かれていたわけではなかったから、どんな表情だったかを曖昧な記憶で断言することはできない。でもやっぱり、あの絵は確かに微笑んでいたはずだ。
「いや、あの絵は笑顔だったと思うけど」
「そうかなあ……でも、もしかしたらそうかもしれないね」
それ以上どう返事をしたものかわからなかった僕は、話題を変えることにした。
「君はモネの絵だろうね」
「え?」
フォークでカステラを切りながら、ハルが首をかしげる。人にはレアチーズケーキをすすめておいて自分はカステラ。なるほど。
「好きな絵。睡蓮の絵を食い入るように見てた」
「やだ、見てたの?」
「まあ」
「……もしかして、私、じゃまだった?」
もしかしなくてもそうだったのだが、迷惑するほどではなかったので「別に」と否定しておく。
「別に。僕の方が背が高いからうしろからでも見えたし。それに」
「それに?」
「モネの睡蓮なら、こないだパリでたくさん見たんだ」
ほんの少し自慢のつもりでそう言うと、でもなぜかハルは途方に暮れたような顔をした。え? どうして?
「だめよちゃんと見ないと。でも私のせいよね、ごめんなさい」
「なんだよ大袈裟だな。睡蓮の絵なら……」
「でも、ここの絵とパリにある絵は違うじゃない」
「それは、まあ」
でも同じ画家の同じ睡蓮の花じゃないか。
「ねえ、似たような人間だってみんな別人なんだよ」
「それはそうだね」
「だから絵も」
「ちょっと待って。なんで泣きそうな顔してるの」
「だって私、あの絵と君の……あれ? そういえば君の名前は?」
さきほどまで泣きだしそうだった顔が一瞬で消えてしまった。話題も表情もころころ変わるハルに僕はどこか力が抜けてゆくような感じがした。
「たいら。ヤスヨシって間違えられることが多いんだけど」
そう言いながら僕はテーブルの上に指で「泰良」と書いて見せた。
「ふぅん、たいらくん。苗字みたいね、たいらって」
「苗字は大友」
「ふぅん」
「そっちは?」
ハルだっていうのはとっくにわかっていたけれど、それでも彼女の名前をたずねてみる。
「ハル。よろしく」
「苗字は?」
「ねえ、カレー好き?」
「は?」
やっぱり話題がころころ変わる。なんだよ、一体。そう思いながら、でも僕はこうやって女の子に振り回されるのも悪くはないかなと思った。そんなことを思いながら、しばらく会っていないガールフレンドのことを考えてみる。
「きらい?」
その質問ではっと我に返る。きらい? まさか。真面目にお付き合いしているつもりですよ。
「カレー、好きじゃない?」
「ああ」なんだカレーか。「好きだけど」
「じゃあ食べに行こうよ、三宅カレー。おいしいよ。あとたいらって呼んでいい?」
「……どうぞ」
僕は観念してハルに振り回されることにした。こういうのも悪くない、と今度は完全に認める。
エル・グレコを出た僕らは並んで歩き出した。ハルは薄い水色の日傘をさして、日光アレルギーなのだと説明した。ちなみに日傘は元カレに買ってもらったとかで、彼のことはきらいだけれど傘は気に入っているとかなんだとか。結構どうでもいい話だけど、でもまあ面白いような気もした。
三宅カレーは美観地区にある三宅商店という店のカレーのことだった。歩きながら、ハルが教えてくれる。
「ブドウが入っててね、おいしいの。いっつも食べちゃう、絵を見にきたら」
「どのくらいのペースで来るの?」
「月一回くらいかなあ。ね、それよりたいらって本当に大阪から来たの?」
「どうして?」
「標準語」
「ああ」
大阪の大学に通い始めて今年で四年目になるのに、言葉はちっとも染まらない。地元を出る前に友人から関西弁は移るぞ、などと聞かされていたが僕の場合はそんなこともなかったようだ。そのかわり地元の言葉で話さないように気を付けてもいたからすっかり標準語になってしまった。
「稚内ってわかる?」
「北海道!」
ハルがクイズの答を言うかのように手をあげてハキハキとこたえた。
「そ。そこの出身」
「いいなあ、北海道。行きたい!」
「来る?」
「うん」
ハルが言うと本当に来そうだな、と思うとなんだか少し笑えた。ついさっき出会ったばかりなのに、なんとなく彼女がどんな人かわかってきたような気がする。
「ハルは? あ、ハルって呼んでいい?」
「いいよ。ハルちゃんも好きだけど」
「いや、ハルがいいな」
「ふぅん」
「で? ハルは?」
「なにが? あ、ここだよ」
そんなことを話しているうち、あっという間に三宅商店へ着いた。町屋を改装したカフェで、昼食時だからかなかなか賑わっている。
カレーを注文し、待つ間にもう一度たずねてみる。店の入口付近の、大きな木のテーブル席。まだまだ暑い気温に体が汗ばむので置かれたうちわでなまぬるい風を送る。
「ハルは岡山の人?」
するとハルが突然手にしたうちわで僕の顔におもいっきり風を送った。
「うわっ、なんだよ」
あははっと子供みたいな笑い声をあげながら、ハルがこちらを見ている。
「ちがいまーす、出身は鳥取」
「え、じゃあ鳥取から月一で来てるの?」
「ううん、今は大学院で……あ、来た」
運ばれてきたカレーにハルは目を輝かせた。彼女もまずは写真を撮るのかな? と僕はぼんやり手をつけずにカレーを眺める。ガールフレンドと一緒のときは、まず写真を撮るのを待たなければならない。
しかしハルはさっさと手をあわせると「いっただっきまーす」と嬉しそうに言いながらカレーを食べ始めた。
「食べないの? たいら」
「いや、食うよ」
それで僕も慌てて箸を持つ。プレートの上にはカレーの他に味噌汁や漬物もあったのでまずは味噌汁を口にした。
ハルの言った通り、カレーにはブドウがのっている。それからナスやトマトもたっぷりと盛り付けられ、決して辛くはないがとてもおいしい。
結構ボリュームあるけどな、と思いながら目の前のハルを見ると、嬉しそうに食べていた。その細い体のどこに? と思うほど、カレーはどんどんなくなってゆく。
「カレー、好きなんだ?」
「だいすき。でも」
「でも?」
「カレーをおいしそうに食べる人を見るのもすごく好き」
その言葉に、僕はわけもなく照れたりする。
「ね、たいらって大学生?」
互いに食べ終え、水を飲んでいたときだ。ふいにハルがたずねてきた。
「うん。そういやハルさっきさ、大学院って」
「そうなの」
なんとハルは年上だった。てっきり同じ大学生かと思っていたが僕より少しお姉さんだったらしい。まったくそうは見えない。
「大学院って何するの?」
「何って、何だろうね。論文を書いてるけど」
「何の?」
「うーん、説明するのめんどくさい」
「えっ」
そんなはっきり言う? と思いながらも傷ついたわけではないのでなんだか笑ってしまった。
「たいら、よく笑うね」
「ハルのせい」
「えー、私? あ、そういえばね、スペインの芸術だよ」
「なにが?」
「論文の内容」
「教えてくれるんだ?」
ハルは照れたような顔を見せた。
三宅商店をあとにした僕らは、また並んで美観地区を歩いた。まだまだ強い日差しを浴びながら、マスキングテープの店や古書店、観光地らしい土産もの屋なんかものぞいてゆく。歩きながら、最近なにか面白い本を読んだ? と聞かれ、そういえば本なんてずいぶん読んでいないことに気が付く。反対にハルはどんな音楽を聞くのかたずねると、そういえばあまり聞かないとのことだった。だから互いに本や音楽をすすめあったりもした。ずらりと並ぶ町屋の白い壁と、地面にのびる短い影。空がものすごく青い。
途中、なぜモネの「睡蓮」が好きなのかたずねてみた。するとハルは少し考え込み、「たぶんだけど」と切り出した。
「たぶんだけど、光を描いているみたいに見えるからかな」
「どういうこと?」
睡蓮の花を描いているんだろ? と続ける。
「眩しいの、モネの睡蓮を見ていると。ここにある絵も、違うところのも。実際のお花も」
よくわからないな、と思った。でもルノワールの絵が僕とハルとでは違った表情に見えていたのだから、きっと睡蓮の絵や花も同じようにハルの目には違って見えているのだろう。
僕は歩きながらさりげなく腕時計に目をやった。どんなに遅くても五時前には岡山駅に着いていたい。でもこの時間が惜しくてそんなことは言い出せなかった。だからそのまま歩き続ける。
「あのね、さっきの話だけど」
「どの話?」
さっきからずいぶん色々な話をしている。
「ルノワールの絵。表情」
「ああ」
僕には微笑んでいるように、ハルにはどこか憂鬱そうに見えたというルノワールの浴女。
「ミュージアムショップに行こうよ」
「どこって?」
「美術館のとなりに大きなお店があるの。ポストカードを売ってるから」
そこで僕らは美観地区を散歩したあと、ふたたび大原美術館へと道を引き返した。
「こっち」
ハルは店に入るなり僕の手を引く。なんだかそれがとても自然なことのように思えた。いつも飲み会で女の子が触れてこようものなら、それは作戦じみたものに思えるというのに──いやこれはちょっと自意識過剰か。
「買ってあげる」
そう言いながら、ハルは棚のポストカードを順番に目で追ってゆく。
「今日のおみやげ」
「じゃあ僕も……って、いらないか。持ってそうだね」
「なにを?」
「モネのポストカード」
するとハルは目をいっぱいに開いて「うれしい!」と、もちろん店内だからおさえた声でだけれど、嬉しい気持ちを叫んだ。まるで小さな女の子のようにはしゃいだ声だ。
「いいの? ほんとに?」
「えっ、持ってないの?」
「持ってるけど」
今度は当然でしょ、とでもいうかのようにけろりとそう口にする。じゃあどうして、と言おうとしたところでハルの言葉に先回りされた。
「だって、今日の絵は今日しか見られないから」
「え?」
「たいらと会えた思い出も、今日しかないから」
「そんな大袈裟な」
偶然出会って、そのままの流れで一緒にカレーを食べただけの仲なのだから、思い出だなんて言葉を使われるとなんだか少し気恥ずかしい。でもそんな僕のことはまったく気にせず、ハルは目当てのポストカードを探している。
本当だろうか。本当に僕との時間を思い出だと感じているのか目を見てたずねてみたい。でもやっぱりそんな僕のことは、まったくの無視だ。
「これだよね」
そう言ってポストカードを一枚手にとると、ハルはすぐさまレジへ向かった。
「見るのは外でゆっくりね」
だから僕も急いで「睡蓮」のポストカードを探して一枚とり出し、彼女のあとに続いた。
ミュージアムショップを出た僕らは美術館前の今橋から倉敷川を眺めた。九月はまだまだ夏だ、日差しがじりじりと照りつける。
「どこか入ろうか」
「え?」
「言ってただろ、日光アレルギーだって」
「平気。少しくらいなら」
つまりあと少ししたらハルは帰るのか、とそんなことをぼんやりと考える。
そういえばいつもなら汗ばむ体も貼り付くTシャツも不快だと感じるのに、今日はちっとも気にならなかった。むしろ、汗をかきながら晴れた空を見上げていると爽やかな気分にさえなる。
ハルが買ったばかりのポストカードを渡してくれた。それは二つ折りの用紙に包まれている。黒い紙に、赤くOHARA MUSEUM OF ARTと印刷されたものだ。僕は受け取り、引き換えに自分の買った方を渡した。
「ありがとう。大切にするね」
「僕の方こそ」
そうしてどちらからともなくポストカードを取り出す。
「あれ?」
僕の手の中で、浴女はでも少し悲し気な顔をして見えた。
「どうしたの?」
ハルが隣から覗き込んでくる。
「表情が……」
「どう見えたの?」
「笑ってなかった」
「そっか。うん、そうかもしれないね」
どこかで聞いたようなせりふ、と言いかけたところで思い当たった。エル・グレコでミルクティーを飲みながら、あのときは微笑んで見えたと言う僕に、ハルはやっぱり「そうかもしれないね」と言ったのだ。
「なんで?」
「なにが?」
「そうかもしれないね、って。ハルは最初に憂鬱そうな表情だって言って、でもそのあとで僕の意見をそうかもって言った」
「そうだった? だって、そうかもって思ったから」
「じゃあ今は?」
今さっきは、笑っていないという僕に対して「そうかもしれないね」と言った。だったら、一度は笑っていると言ったあの言葉は何だったのだ。いや別に、何だったのだなんて言うほどのことではないとわかってはいるのだけれど。
「ちょっとね、うらやましかった」
「え?」
今日一日をハルと過ごしてわかったことは、彼女がいつも僕の思いもしない言葉を発するということだ。ガールフレンドや大学の友人たちと話しているときはいつも話しながら相手の返事を予想しているし、それが外れることはあまりない。別に人の考えが読めるだとかそんな大それた話ではなく、つまり僕らはいつもそんなに深く考えるような話をしてもいなければ、悩みもしていないということだ。考えた通りに進む会話や予想通りの日々しか送っていないということに過ぎない。そしてそれは一言で表すなら何の感動もない、ということなのだ。
「あの絵が優しい笑顔に見えたっていうことは、彼女がたいらに向って笑ったってことだから」
「いや、そんなことは」
あり得るのか? 絵が? 僕に笑いかける?
もしこれが友人たちとの会話なら、なに馬鹿なことを言っているんだと呆れてしまうような話だ。でも今日の僕は真面目に受け取ってしまった。なんだかハルがそういうと、本当にそんなことがありそうに思えてくる。
「あるよ」
僕の顔を覗き込みながらハルが笑った。
「だって、あの絵を描いた人たちは本当に生きていた人たちだもの」
「どういう意味?」
「そのままの意味。ルノワールも、モネも。他の人たちもみんな本当に生きていた人たち。美術の教科書の中だけじゃなくて、私たちみたいに息をして」
「川を眺めて?」
僕は目の前に流れる倉敷川を眺めながら言葉をつなぐ。ハルも同じように川を眺めながら続けた。
「私もね、少し前にパリへ行ったの」
「いつ?」
「今年の三月」
「同じだ、僕も」
「そうなの?」
「向こうですれ違ったりしたのかな」
「それはないと思うけれど」
僕としては少しロマンチックな雰囲気にならないかと言ってみたのに、ハルにはあっさり流されてしまった。
「そのときにも思ったの。セーヌ川のところでね、ああ、ここをピカソもゴッホも、モネもルノワールもみんな歩いたんだろうなって」
「だろうね」
「そうしたらなんだか泣きたくなっちゃって」
「どうして?」
ハルは僕の目をじっと見た。
「美術館にかけられてる絵って、絵なのよね。たくさんの人が見に来て、きれいな絵だな、すごい絵だなって見ていくじゃない」
「そうだね」
「でも、ただの絵じゃないなって。だってみんな本当に生きていたんだもの。手紙みたいに、自分の感じたことや見たものを表現したのよねって思ったら」
「思ったら?」
「私、どうして同じ時代に生きてなかったのって悔しくなっちゃった。でも今だからこそみんなの絵は評価されてこうして展示されてもいるのねって、それもなんか悔しくて」
「なんでハルが悔しいんだよ」
「ねえ」
ハルが突然まじめな表情になる。いやおそらく彼女はずっとまじめに話しているとは思うのだけれど。
「今日たいらが初めてあのルノワールの絵を見て、それで笑っているように見えたのなら間違いなく彼女は笑ったんだよ」
「それは……」
何と返事をして良いのかわからなくなり僕は言葉につまる。正直に言って、これまで絵を誰かの生きた証として見たことなんてなかった。ただなんとなく色々な作風があって面白いな、程度に見ていただけだ。そこに込められた画家の人生や想いなんて気にしたこともなければ、目の前の絵が百年以上もの時を経て今ここにあるその壮大さについても考えたことはなかった。
「たいらは今日、あの絵と出会う運命だったんだよ。よかったね、無事に会えたね」
「そんな大袈裟な」
するとハルは小さく笑った。
「いいの、君が私の言うことを大袈裟だって言うならそれで。でも私は、こうやって今自分が生きている意味を考えちゃうから」
生きている、意味。
「めんどくさい女だなっていつも思うんだけれど、たとえば空が青いなあとかそういうことを考えていたいわけ。ごめんね、うまく言えないの」
「うん」
「もしまたたいらがあの絵を見る日がきたら、次はどんな風に見えるんだろうね」
そう言われ、僕はなんとなく手のなかのポストカードを見た。表情はもちろん先ほどと変わらない。
「違うよ、ちゃんと本物を見たとき」
「でも、もう見たからなあ。またわざわざ見には来ないかも」
「やだ、何度だって会えばいいのに。たいら、友だちとは一回会えば終わりなの?」
「そんなわけないだろ」
「それと一緒。同じ友だちに何度だって会うのと一緒」
その瞬間、なんとなくだけれどハルがモネの「睡蓮」を見ていたときの気持ちがわかった気がした。彼女はあの絵に会いに来ていたのだ。
「私ね、文学と美術の研究をしているの。いろんなドラマがあってなんだか途方に暮れそうになるけれど、でもすっごく楽しい。こんな研究に何の意味があるの、なんて聞かれるときがあっても」
「それはひどいな」
僕は本心からそう言った。
「意味なんて、私の心が動くかどうかでいいの」
そう言って、ハルは笑う。
「不思議ね。この美術館を建てるために一生懸命になった人もいれば、ほとんど絵を見ることなんてないまま人生が終わる人もいて」
「生き方は人それぞれだから」
「でも私、たいらがルノワールの絵と出会えてよかったなって思う」
「そうだね」
「今日はありがとう。またね」
そう言ったかと思うとハルが突然歩き出したので僕はぎょっとした。急すぎやしないか?
「ちょっと待って」
「なに?」
「いや、その」
あまりにも急すぎてどうしたものかと僕が目を泳がせていると、ハルはちらりと腕時計を見やった。ブレスレットのように華奢なそれが時計だとは今の今まで気が付かなかった。
「えっと、またねって。連絡先とか、交換しない?」
「どうして?」
「またね、って言ったし」
「私、毎月最初の火曜日に美術館にいるよ」
「僕はもう来ないかもしれないし。いや、来るかもしれないけど」
「もし来たら、会えるじゃない」
「それはそうだけど」
ハルがまた腕時計を気にした。もうあまり長くは引き止められなさそうだ。
「私、メールとかまめにしないよ」
「僕は割とまめだ」
どの口が、と思うようなせりふだ。
「……手紙の方がすきなんだけどな」
「手紙?」
「じゃあとりあえず」
ハルはそういうとバッグから手帳を取り出し、ページをちぎって電話番号を走り書きして渡してくれた。
「ごめんね、もう行かなきゃ。五時過ぎの新幹線なの」
「へ?」
「私も大阪から来たの。じゃあ今度はあっちで。電話番号渡したし」
「えっ、あ、僕も」
これから新幹線に、と言おうとしたところでどきりとした。夕日を受けたハルの顔が、今朝美術館で見たルノワールの浴女と重なって見えた。そんな気がした。僕はまばたきをし、もう一度よくハルの顔を見る。
「どうしたの?」
「……いや、うん。僕は一泊していこうかな」
「え?」
「本当は僕も帰る予定だったんだけど、その、ちょっと確かめたいことができたし」
それを聞くとハルは嬉しそうに笑った。
「そっか、彼女によろしく」
そう言うと手を振り、今度こそ向きを変え足早に立ち去ってゆく。僕はしばらくハルのことを見送っていたけれど、ハルが振り向くことはなかった。
すっかりハルの姿が見えなくなってから先ほどの言葉を思い出す。
──彼女によろしく。
僕にガールフレンドがいることをハルに話しただろうか? と、そこでハッとした。もうどう考えても今夜の約束に間に合わない。
僕は慌てて携帯電話を取り出すとガールフレンドに電話をかけた。
「あ、たいらくん? もうすぐ家を出るところ」
「ごめん、それなんだけど」
今朝から岡山にいて一泊したいから夕飯の約束は日を改めさせてほしいと伝えると、ガールフレンドは少し驚いたあと、怒ったような声を出した。
「どうしてもっと早く言ってくれないの?」
「ごめん、今さっき急に」
「急になに?」
それは、と口ごもる。説明してわかってもらえるだろうか──もう一度「泉による女」を見に行きたいのだと言って。
ポストカードでもインターネットでも構わないのではと言われてしまいそうだし、そんなことを言われるとたぶん僕は悲しくなってしまう。そこで苦し紛れの嘘をついた。
「ごめん、実は家の鍵をなくして。多分美術館のなかだから、明日の朝いちばんに聞きに行きたくて」
そう言うと、さきほどまですねたような声音だった彼女が急に心配そうになった。
「えっ、そうなの? うそ、大丈夫?」
「たぶんね。じゃあまた連絡するから」
そうして電話を切ったときだった。
「あ」
思わず声がこぼれる。
──彼女によろしく。
ハルの言う彼女は僕のガールフレンドではなく、泉で体を洗う名前も知らないあの彼女のことだったのだ。
翌朝、僕はもう一度ルノワールの「泉による女」の前に立ち彼女をじっと見つめる。
昨日と変わらず日差しを浴びる彼女は、でも笑っていなかった。
露わになった上半身はふっくらとしており、それもまた彼女のもつ柔らかな雰囲気をつくりあげている。淡く晴れた空と生い茂る木々を背にして岩に腰かけ、腹部に衣服を広げてはいるが体を隠そうという様子はない。うつむき、けれどバラ色をした頬からは彼女が幸せな人であるということが伝わってきた。
ルノワールの「泉による女」
その絵を見た瞬間の僕は、いわゆるくぎ付けという状態だった。
大原美術館には小学校や中学校の美術の教科書で見たような画家の絵が惜しげもなく展示されている。たとえばモネやピカソなんて、絵画に詳しくない人間でも絶対に聞いたことのある名前だ。
好んで絵を見るようになって、まだ半年ほどにしかならない。きっかけは春のパリ旅行だった。
三月、大学の長すぎる春休みを持て余した僕はひとりパリへ行ってみることにしたのだけれど、ただパリにこだわりの理由があったわけではない。ゼミでお世話になっている教授に相談した結果そうなったというだけの、なかなかに無計画な旅行だ。大阪からなら直行便で行けるし、観光名所も多いからひとり旅には良いだろうということだった。
実は春休み中、ガールフレンドからどこかに旅行しようと誘われてもいたというのに、なんとなく内緒にしてひとりで旅だってしまったのだ。その結果、ものすごく怒られたうえ、泣かれてしまった。突然なんの連絡もなく十日間ほど音信不通になったことや、まるで待ち合わせに向う途中で買ってきたかのような気軽さでフランスのお土産──空港で買ったハンドクリームで、同じブランドのものが日本でも買えることをあとから知った──を渡したのがよほど気に障ったらしい。
それでも僕の旅行は、結果としてとても良い時間だった。せっかく来たのだからとルーヴル美術館にオルセー美術館、ヴェルサイユ宮殿やオランジュリー美術館など有名なところを見て回った。本当はもっと別の町にも行ってみようと思っていたのに、気が付いたらずっとパリで美術館や博物館に通い詰めていた。そしてそれがなかなか面白かった僕は、八月になりまたもや長すぎる夏休みを持て余していることもあって、大阪近辺で回ることができる美術館にいろいろと行ってみることにした。それでも夏休みはまだまだ終わらない。それで九月になった今日、岡山まで来たというわけだ。
新大阪から岡山まで、新幹線で一時間もかからなかった。そこから在来線に乗り換え二十分ほどで倉敷駅に到着する。あとは十五分も歩けば美観地区だ。朝早くに家を出れば、日帰り旅行でもじゅうぶん楽しむことができる。
大原美術館に着いたのは十時過ぎだった。平日なのが幸いしてかあまり人はいない。だから入館してすぐ、食い入るように一枚の絵を見ている女性に気が付いた。小柄で、ほっそりして、とても短い髪をした女性が部屋の奥の方で少し前のめりになって絵を見ている。
僕は何の絵だろうと思いつつ、一枚ずつ順番に絵を見始めた。
そうして短髪の彼女のところに辿り着いても、彼女はまだ変わらない姿勢で絵の前に立っていた。近くで見ると、僕と同じくらいの年齢に見える。彼女は僕に気が付くことなく、ほとんどうっとりするかのようにため息をついたりしながら絵を見つめている。
仕方がないので僕は彼女のうしろに立って絵を眺めることにした。そこにあるのはモネの「睡蓮」だった。
僕がうしろに立っているのにもやっぱり気が付かないようなので、次の絵へ移動することにした。モネの描く睡蓮ならオランジュリー美術館でもっと大きなものを見たしまあいいだろうと思ったからだ。
そのまま順番に一枚ずつ絵を見てゆき、でも突然、僕は先ほどの彼女のように動けなくなってしまった。それがルノワールの「泉による女」の前に来たときだ。
これまで生きてきて、女の子に一目惚れしたことなんてなかった。今付き合っているガールフレンドはもともと友だちで仲が良く、気が付いたらふたりで会うようになっていたということの延長に過ぎない。だから一目惚れという感覚がどんなものかを説明することはできないけれど、でも今ここで絵を前にしてくぎ付けになってしまったこれは、たぶんちょっとだけ一目惚れに近いんじゃないかと思う。
結局しばらくの間ルノワールの絵を眺め、同じ部屋にあった他の絵をまたちらちらと眺め、そうしてルノワールの絵の前に戻って来る、というのをくり返しているうちにその部屋だけで三十分以上は過ごしてしまった。待機している学芸員に不審な目で見られなかったか心配しつつ、もう一度だけ「泉による女」を眺めてから階段へ向かった。
そのあとだって藤田嗣治の「舞踏会の前」のようにとても迫力のある女性の絵はあった。それなのにどうしても最後まで「泉による女」の絵が頭の片隅にあり、なんだかぼんやりと絵を眺めてしまった。
途中、モネの彼女が暗い部屋でまた熱心に絵と向かい合っているのを見かけた。そこに飾られた絵は一枚のみで、部屋の暗さによって絵の迫力が増していた。
小さなミュージアムショップを通って建物の外へ出ると、時間は十二時前だった。分館もあるらしいが、そろそろ昼食を食べて新幹線に乗らなければならない。夕飯は大阪駅でガールフレンドと約束をしていた。
考えてみればガールフレンドとは夏休みに入ってから一度しか顔を合わせていないし、それもひと月近く前のことだ。お互いアルバイトやゼミの集まりなどなんだかんだと忙しかったこともあるし、あとは僕がほんの少しひとりになりたかったことも関係している。
でもそれは気が合わなくなったとかそういうことではなく、ただ単に学生最後の夏をのんびり過ごしてみたくなっただけだ。だから今夜の約束には遅れるわけにはいかない。だったらなぜわざわざ今日を選んで岡山に来たという話になるが、それは本当にただの思い付きだ。いつもより一時間ほど早く目が覚めたから、そのままなんとなく出かけることにした。本当にそれだけだった。
敷地の外に出ようと歩き出したところで、ふたたびモネの彼女を見かけた。建物の陰でしゃがみ込み、小一時間前に「睡蓮」を見ていたときと同じくじっと目をこらしてなにかを見つめている。そこには絵などなにもなく、ただ彼女の傍にある建物周辺に水路が引かれているだけだ。そのとき、僕が砂利を踏む音に反応してモネの彼女が顔を上げた。髪も瞳も薄い茶色をしている。どこかで会ったことがあるような気がするとぼんやり考えかけたところで、そんなわけないよなと我に返った。彼女はなにも言わずに僕を見ている。
「あ、その」
目が合ったことと彼女のまっすぐな視線に僕はおろおろとしてしまった。偶然出くわしたとはいえしばらく彼女を見ていたのは事実だし、変なやつだと思われたりしただろうかと不安になる。なんだかさっきから人の目を気にしてばかりだと気が付き、そんな自分が少し情けない。いやそもそも変かどうかといえば彼女の方がよっぽど不可解な行動をとっているのだけれど。
「見る?」
そう言って彼女がそのままの体勢で一歩となりに避けたので、僕はつられるようにしてその空いた場所へしゃがみ込んだ。
「睡蓮?」
「そう。可愛いよね」
そこにはピンク色をした小さな睡蓮の花が咲いていた。まばらではあるが花はいくつも開き、その隙間を埋めるようにして葉っぱが重なり合っている。睡蓮の葉っぱはまるくて、一カ所にだけ切り込みが入っており、まるで絵に描いたような形をしていた。
「これね、モネのお庭から持ってきたんだよ」
「え、モネって、あの?」
「そう。モネの睡蓮の、孫なんだって」
僕はもう一度目の前の花を見た。細長い花びらが並び、中央を囲むように三重の円を描いている。花びらのピンク色は内側、真ん中、外側の円の順に薄くなっていて、それがとてもきれいだ。花を見るふりをしてとなりの彼女を盗み見ると、やっぱりまたモネの絵を前にしていたときのようにうっとりとして見つめている。太陽が眩しくて、水面越しに空が見える。さっき彼女が向かい合っていた「睡蓮」はどんなのだったかな、と思い出そうとするがちっとも思い出せない。こんなにも鮮やかなピンク色ではなかったような気がするけれども。
そのまま僕らはしばらく黙って睡蓮の花を眺めていた。
特に声をかけ合うわけでもなく僕らは同時に立ち上がった。
「じゃあね」
そう言って、彼女は僕を残して歩き出す。美術館の横の狭まった道を、だから僕らは縦に並んで門まで歩いた。その間、彼女は一度も振り返らなかった。
時刻はすでに十二時を過ぎている。僕はおもいきり伸びをしてから、美術館のとなりにあるカフェへ向かった。
それはエル・グレコという名前のカフェで、倉敷駅からここまで歩いてくるときに見つけて気になっていた店だ。入り口が蔦で覆わていてなんだかお洒落だと思った。
今日は思い付きの日帰り旅行ということもあり、ガイドブックやなんかで下調べをして来たわけではなかったから、気になった店にふらりと入ろうと決めていた。とりあえずここでコーヒーでも飲んでから、美観地区を歩きつつ昼食の店を見つけるつもりだ。
そんなことを思いながら歩いていると、すぐ目の前で先ほどの彼女がエル・グレコの扉に手をかけているのが見えた。
このまま入店するとまるであとをつけているようにならないか? そんなことを思い立ち止まる。するとふいに彼女がこちらを振り返った。
「どうしたの?」
「いや、僕もここに」
「じゃあ一緒にどう?」
そう言うと、僕の返事も待たずに扉を開け「ふたりでーす」と言いながら入ってしまった。慌てて僕もあとに続く。
「ハルちゃん、今日はお友だちも一緒?」
「そうなんです。あそこでいい?」
ハルと呼ばれた彼女は僕の方を振り向きながら、窓際の席を指さした。先ほどのやりとりといい、どうやら彼女はここの常連客らしい。
「よく来るんだ?」
「そう。美術館に来たあとは大抵」
「地元の人?」
今度もまた「そう」と返事をしてくるかと思ったら、そうではなかった。
「君は違うの?」
ハルは注文するものが決まっているのかメニューを見ようともしない。だから僕はメニューを手に持ち、目を走らせながら返事をする。
「大阪から来た」
「あ、そうなの。近いね」
「うん」
「レアチーズケーキにするといいよ」
「え?」
聞き返すと、ハルはメニューに書かれたレアチーズケーキの文字を指さした。ほっそりとした白い指に、短い爪。
「おすすめ。ここの」
「じゃあそれにしようか」
「はーい、決まりましたぁ!」
ハルが突然店員の方へ振り向き呼びかけたので、僕は慌ててメニューに目を落とした。まだ飲み物を決めていない。
「カステラとミルクティーと、レアチーズケーキに、何飲むの?」
「えっ、あ、じゃあ同じので」
「ミルクティーふたつね」
それからハルは僕の方に向き直り、唐突にたずねてきた。
「どれが一番好きだった?」
どれが? なにが? もしかして飲み物だろうか、だったら本当はコーヒーの方がと言いかけたところでハルが説明を付け足した。
「絵。美術館の」
「ああ」
そういうことか。君は間違いなくモネの「睡蓮」だよなと思いながら、僕はこたえる。
「ルノワールの」
「浴女ね」
「そんなタイトルだっけ?」
「ううん。浴女はモチーフのこと。たくさん描いたみたいよ」
「詳しいんだ?」
「ううん、全然」
そこで飲み物とケーキが運ばれてきたので会話は一時中断となった。ミルクティーで乾杯、とはならないけれどほんの少しティーカップを相手に向って持ち上げるようにした。僕たちはふたりとも、それも同時に。
「私も好き。ルノワールのあの絵」
「優しそうな笑顔がいいなって思ったんだ」
「え?」
同じ絵を好きだと聞いて嬉しくなった僕はそう素直にこたえたけれど、ハルの反応を見て失敗したかと思った。もしかして、半裸の女性の絵を見てこんな感想をいう男は気持ち悪いのだろうか。
「あの絵、ちょっと憂鬱そうな表情じゃない?」
どうやら彼女が驚いたのは絵に対する印象の違いかららしいが、そう聞かれると僕は少し自信をなくしてしまう。大体さっき見たルノワールの絵はすべてがくっきり描かれていたわけではなかったから、どんな表情だったかを曖昧な記憶で断言することはできない。でもやっぱり、あの絵は確かに微笑んでいたはずだ。
「いや、あの絵は笑顔だったと思うけど」
「そうかなあ……でも、もしかしたらそうかもしれないね」
それ以上どう返事をしたものかわからなかった僕は、話題を変えることにした。
「君はモネの絵だろうね」
「え?」
フォークでカステラを切りながら、ハルが首をかしげる。人にはレアチーズケーキをすすめておいて自分はカステラ。なるほど。
「好きな絵。睡蓮の絵を食い入るように見てた」
「やだ、見てたの?」
「まあ」
「……もしかして、私、じゃまだった?」
もしかしなくてもそうだったのだが、迷惑するほどではなかったので「別に」と否定しておく。
「別に。僕の方が背が高いからうしろからでも見えたし。それに」
「それに?」
「モネの睡蓮なら、こないだパリでたくさん見たんだ」
ほんの少し自慢のつもりでそう言うと、でもなぜかハルは途方に暮れたような顔をした。え? どうして?
「だめよちゃんと見ないと。でも私のせいよね、ごめんなさい」
「なんだよ大袈裟だな。睡蓮の絵なら……」
「でも、ここの絵とパリにある絵は違うじゃない」
「それは、まあ」
でも同じ画家の同じ睡蓮の花じゃないか。
「ねえ、似たような人間だってみんな別人なんだよ」
「それはそうだね」
「だから絵も」
「ちょっと待って。なんで泣きそうな顔してるの」
「だって私、あの絵と君の……あれ? そういえば君の名前は?」
さきほどまで泣きだしそうだった顔が一瞬で消えてしまった。話題も表情もころころ変わるハルに僕はどこか力が抜けてゆくような感じがした。
「たいら。ヤスヨシって間違えられることが多いんだけど」
そう言いながら僕はテーブルの上に指で「泰良」と書いて見せた。
「ふぅん、たいらくん。苗字みたいね、たいらって」
「苗字は大友」
「ふぅん」
「そっちは?」
ハルだっていうのはとっくにわかっていたけれど、それでも彼女の名前をたずねてみる。
「ハル。よろしく」
「苗字は?」
「ねえ、カレー好き?」
「は?」
やっぱり話題がころころ変わる。なんだよ、一体。そう思いながら、でも僕はこうやって女の子に振り回されるのも悪くはないかなと思った。そんなことを思いながら、しばらく会っていないガールフレンドのことを考えてみる。
「きらい?」
その質問ではっと我に返る。きらい? まさか。真面目にお付き合いしているつもりですよ。
「カレー、好きじゃない?」
「ああ」なんだカレーか。「好きだけど」
「じゃあ食べに行こうよ、三宅カレー。おいしいよ。あとたいらって呼んでいい?」
「……どうぞ」
僕は観念してハルに振り回されることにした。こういうのも悪くない、と今度は完全に認める。
エル・グレコを出た僕らは並んで歩き出した。ハルは薄い水色の日傘をさして、日光アレルギーなのだと説明した。ちなみに日傘は元カレに買ってもらったとかで、彼のことはきらいだけれど傘は気に入っているとかなんだとか。結構どうでもいい話だけど、でもまあ面白いような気もした。
三宅カレーは美観地区にある三宅商店という店のカレーのことだった。歩きながら、ハルが教えてくれる。
「ブドウが入っててね、おいしいの。いっつも食べちゃう、絵を見にきたら」
「どのくらいのペースで来るの?」
「月一回くらいかなあ。ね、それよりたいらって本当に大阪から来たの?」
「どうして?」
「標準語」
「ああ」
大阪の大学に通い始めて今年で四年目になるのに、言葉はちっとも染まらない。地元を出る前に友人から関西弁は移るぞ、などと聞かされていたが僕の場合はそんなこともなかったようだ。そのかわり地元の言葉で話さないように気を付けてもいたからすっかり標準語になってしまった。
「稚内ってわかる?」
「北海道!」
ハルがクイズの答を言うかのように手をあげてハキハキとこたえた。
「そ。そこの出身」
「いいなあ、北海道。行きたい!」
「来る?」
「うん」
ハルが言うと本当に来そうだな、と思うとなんだか少し笑えた。ついさっき出会ったばかりなのに、なんとなく彼女がどんな人かわかってきたような気がする。
「ハルは? あ、ハルって呼んでいい?」
「いいよ。ハルちゃんも好きだけど」
「いや、ハルがいいな」
「ふぅん」
「で? ハルは?」
「なにが? あ、ここだよ」
そんなことを話しているうち、あっという間に三宅商店へ着いた。町屋を改装したカフェで、昼食時だからかなかなか賑わっている。
カレーを注文し、待つ間にもう一度たずねてみる。店の入口付近の、大きな木のテーブル席。まだまだ暑い気温に体が汗ばむので置かれたうちわでなまぬるい風を送る。
「ハルは岡山の人?」
するとハルが突然手にしたうちわで僕の顔におもいっきり風を送った。
「うわっ、なんだよ」
あははっと子供みたいな笑い声をあげながら、ハルがこちらを見ている。
「ちがいまーす、出身は鳥取」
「え、じゃあ鳥取から月一で来てるの?」
「ううん、今は大学院で……あ、来た」
運ばれてきたカレーにハルは目を輝かせた。彼女もまずは写真を撮るのかな? と僕はぼんやり手をつけずにカレーを眺める。ガールフレンドと一緒のときは、まず写真を撮るのを待たなければならない。
しかしハルはさっさと手をあわせると「いっただっきまーす」と嬉しそうに言いながらカレーを食べ始めた。
「食べないの? たいら」
「いや、食うよ」
それで僕も慌てて箸を持つ。プレートの上にはカレーの他に味噌汁や漬物もあったのでまずは味噌汁を口にした。
ハルの言った通り、カレーにはブドウがのっている。それからナスやトマトもたっぷりと盛り付けられ、決して辛くはないがとてもおいしい。
結構ボリュームあるけどな、と思いながら目の前のハルを見ると、嬉しそうに食べていた。その細い体のどこに? と思うほど、カレーはどんどんなくなってゆく。
「カレー、好きなんだ?」
「だいすき。でも」
「でも?」
「カレーをおいしそうに食べる人を見るのもすごく好き」
その言葉に、僕はわけもなく照れたりする。
「ね、たいらって大学生?」
互いに食べ終え、水を飲んでいたときだ。ふいにハルがたずねてきた。
「うん。そういやハルさっきさ、大学院って」
「そうなの」
なんとハルは年上だった。てっきり同じ大学生かと思っていたが僕より少しお姉さんだったらしい。まったくそうは見えない。
「大学院って何するの?」
「何って、何だろうね。論文を書いてるけど」
「何の?」
「うーん、説明するのめんどくさい」
「えっ」
そんなはっきり言う? と思いながらも傷ついたわけではないのでなんだか笑ってしまった。
「たいら、よく笑うね」
「ハルのせい」
「えー、私? あ、そういえばね、スペインの芸術だよ」
「なにが?」
「論文の内容」
「教えてくれるんだ?」
ハルは照れたような顔を見せた。
三宅商店をあとにした僕らは、また並んで美観地区を歩いた。まだまだ強い日差しを浴びながら、マスキングテープの店や古書店、観光地らしい土産もの屋なんかものぞいてゆく。歩きながら、最近なにか面白い本を読んだ? と聞かれ、そういえば本なんてずいぶん読んでいないことに気が付く。反対にハルはどんな音楽を聞くのかたずねると、そういえばあまり聞かないとのことだった。だから互いに本や音楽をすすめあったりもした。ずらりと並ぶ町屋の白い壁と、地面にのびる短い影。空がものすごく青い。
途中、なぜモネの「睡蓮」が好きなのかたずねてみた。するとハルは少し考え込み、「たぶんだけど」と切り出した。
「たぶんだけど、光を描いているみたいに見えるからかな」
「どういうこと?」
睡蓮の花を描いているんだろ? と続ける。
「眩しいの、モネの睡蓮を見ていると。ここにある絵も、違うところのも。実際のお花も」
よくわからないな、と思った。でもルノワールの絵が僕とハルとでは違った表情に見えていたのだから、きっと睡蓮の絵や花も同じようにハルの目には違って見えているのだろう。
僕は歩きながらさりげなく腕時計に目をやった。どんなに遅くても五時前には岡山駅に着いていたい。でもこの時間が惜しくてそんなことは言い出せなかった。だからそのまま歩き続ける。
「あのね、さっきの話だけど」
「どの話?」
さっきからずいぶん色々な話をしている。
「ルノワールの絵。表情」
「ああ」
僕には微笑んでいるように、ハルにはどこか憂鬱そうに見えたというルノワールの浴女。
「ミュージアムショップに行こうよ」
「どこって?」
「美術館のとなりに大きなお店があるの。ポストカードを売ってるから」
そこで僕らは美観地区を散歩したあと、ふたたび大原美術館へと道を引き返した。
「こっち」
ハルは店に入るなり僕の手を引く。なんだかそれがとても自然なことのように思えた。いつも飲み会で女の子が触れてこようものなら、それは作戦じみたものに思えるというのに──いやこれはちょっと自意識過剰か。
「買ってあげる」
そう言いながら、ハルは棚のポストカードを順番に目で追ってゆく。
「今日のおみやげ」
「じゃあ僕も……って、いらないか。持ってそうだね」
「なにを?」
「モネのポストカード」
するとハルは目をいっぱいに開いて「うれしい!」と、もちろん店内だからおさえた声でだけれど、嬉しい気持ちを叫んだ。まるで小さな女の子のようにはしゃいだ声だ。
「いいの? ほんとに?」
「えっ、持ってないの?」
「持ってるけど」
今度は当然でしょ、とでもいうかのようにけろりとそう口にする。じゃあどうして、と言おうとしたところでハルの言葉に先回りされた。
「だって、今日の絵は今日しか見られないから」
「え?」
「たいらと会えた思い出も、今日しかないから」
「そんな大袈裟な」
偶然出会って、そのままの流れで一緒にカレーを食べただけの仲なのだから、思い出だなんて言葉を使われるとなんだか少し気恥ずかしい。でもそんな僕のことはまったく気にせず、ハルは目当てのポストカードを探している。
本当だろうか。本当に僕との時間を思い出だと感じているのか目を見てたずねてみたい。でもやっぱりそんな僕のことは、まったくの無視だ。
「これだよね」
そう言ってポストカードを一枚手にとると、ハルはすぐさまレジへ向かった。
「見るのは外でゆっくりね」
だから僕も急いで「睡蓮」のポストカードを探して一枚とり出し、彼女のあとに続いた。
ミュージアムショップを出た僕らは美術館前の今橋から倉敷川を眺めた。九月はまだまだ夏だ、日差しがじりじりと照りつける。
「どこか入ろうか」
「え?」
「言ってただろ、日光アレルギーだって」
「平気。少しくらいなら」
つまりあと少ししたらハルは帰るのか、とそんなことをぼんやりと考える。
そういえばいつもなら汗ばむ体も貼り付くTシャツも不快だと感じるのに、今日はちっとも気にならなかった。むしろ、汗をかきながら晴れた空を見上げていると爽やかな気分にさえなる。
ハルが買ったばかりのポストカードを渡してくれた。それは二つ折りの用紙に包まれている。黒い紙に、赤くOHARA MUSEUM OF ARTと印刷されたものだ。僕は受け取り、引き換えに自分の買った方を渡した。
「ありがとう。大切にするね」
「僕の方こそ」
そうしてどちらからともなくポストカードを取り出す。
「あれ?」
僕の手の中で、浴女はでも少し悲し気な顔をして見えた。
「どうしたの?」
ハルが隣から覗き込んでくる。
「表情が……」
「どう見えたの?」
「笑ってなかった」
「そっか。うん、そうかもしれないね」
どこかで聞いたようなせりふ、と言いかけたところで思い当たった。エル・グレコでミルクティーを飲みながら、あのときは微笑んで見えたと言う僕に、ハルはやっぱり「そうかもしれないね」と言ったのだ。
「なんで?」
「なにが?」
「そうかもしれないね、って。ハルは最初に憂鬱そうな表情だって言って、でもそのあとで僕の意見をそうかもって言った」
「そうだった? だって、そうかもって思ったから」
「じゃあ今は?」
今さっきは、笑っていないという僕に対して「そうかもしれないね」と言った。だったら、一度は笑っていると言ったあの言葉は何だったのだ。いや別に、何だったのだなんて言うほどのことではないとわかってはいるのだけれど。
「ちょっとね、うらやましかった」
「え?」
今日一日をハルと過ごしてわかったことは、彼女がいつも僕の思いもしない言葉を発するということだ。ガールフレンドや大学の友人たちと話しているときはいつも話しながら相手の返事を予想しているし、それが外れることはあまりない。別に人の考えが読めるだとかそんな大それた話ではなく、つまり僕らはいつもそんなに深く考えるような話をしてもいなければ、悩みもしていないということだ。考えた通りに進む会話や予想通りの日々しか送っていないということに過ぎない。そしてそれは一言で表すなら何の感動もない、ということなのだ。
「あの絵が優しい笑顔に見えたっていうことは、彼女がたいらに向って笑ったってことだから」
「いや、そんなことは」
あり得るのか? 絵が? 僕に笑いかける?
もしこれが友人たちとの会話なら、なに馬鹿なことを言っているんだと呆れてしまうような話だ。でも今日の僕は真面目に受け取ってしまった。なんだかハルがそういうと、本当にそんなことがありそうに思えてくる。
「あるよ」
僕の顔を覗き込みながらハルが笑った。
「だって、あの絵を描いた人たちは本当に生きていた人たちだもの」
「どういう意味?」
「そのままの意味。ルノワールも、モネも。他の人たちもみんな本当に生きていた人たち。美術の教科書の中だけじゃなくて、私たちみたいに息をして」
「川を眺めて?」
僕は目の前に流れる倉敷川を眺めながら言葉をつなぐ。ハルも同じように川を眺めながら続けた。
「私もね、少し前にパリへ行ったの」
「いつ?」
「今年の三月」
「同じだ、僕も」
「そうなの?」
「向こうですれ違ったりしたのかな」
「それはないと思うけれど」
僕としては少しロマンチックな雰囲気にならないかと言ってみたのに、ハルにはあっさり流されてしまった。
「そのときにも思ったの。セーヌ川のところでね、ああ、ここをピカソもゴッホも、モネもルノワールもみんな歩いたんだろうなって」
「だろうね」
「そうしたらなんだか泣きたくなっちゃって」
「どうして?」
ハルは僕の目をじっと見た。
「美術館にかけられてる絵って、絵なのよね。たくさんの人が見に来て、きれいな絵だな、すごい絵だなって見ていくじゃない」
「そうだね」
「でも、ただの絵じゃないなって。だってみんな本当に生きていたんだもの。手紙みたいに、自分の感じたことや見たものを表現したのよねって思ったら」
「思ったら?」
「私、どうして同じ時代に生きてなかったのって悔しくなっちゃった。でも今だからこそみんなの絵は評価されてこうして展示されてもいるのねって、それもなんか悔しくて」
「なんでハルが悔しいんだよ」
「ねえ」
ハルが突然まじめな表情になる。いやおそらく彼女はずっとまじめに話しているとは思うのだけれど。
「今日たいらが初めてあのルノワールの絵を見て、それで笑っているように見えたのなら間違いなく彼女は笑ったんだよ」
「それは……」
何と返事をして良いのかわからなくなり僕は言葉につまる。正直に言って、これまで絵を誰かの生きた証として見たことなんてなかった。ただなんとなく色々な作風があって面白いな、程度に見ていただけだ。そこに込められた画家の人生や想いなんて気にしたこともなければ、目の前の絵が百年以上もの時を経て今ここにあるその壮大さについても考えたことはなかった。
「たいらは今日、あの絵と出会う運命だったんだよ。よかったね、無事に会えたね」
「そんな大袈裟な」
するとハルは小さく笑った。
「いいの、君が私の言うことを大袈裟だって言うならそれで。でも私は、こうやって今自分が生きている意味を考えちゃうから」
生きている、意味。
「めんどくさい女だなっていつも思うんだけれど、たとえば空が青いなあとかそういうことを考えていたいわけ。ごめんね、うまく言えないの」
「うん」
「もしまたたいらがあの絵を見る日がきたら、次はどんな風に見えるんだろうね」
そう言われ、僕はなんとなく手のなかのポストカードを見た。表情はもちろん先ほどと変わらない。
「違うよ、ちゃんと本物を見たとき」
「でも、もう見たからなあ。またわざわざ見には来ないかも」
「やだ、何度だって会えばいいのに。たいら、友だちとは一回会えば終わりなの?」
「そんなわけないだろ」
「それと一緒。同じ友だちに何度だって会うのと一緒」
その瞬間、なんとなくだけれどハルがモネの「睡蓮」を見ていたときの気持ちがわかった気がした。彼女はあの絵に会いに来ていたのだ。
「私ね、文学と美術の研究をしているの。いろんなドラマがあってなんだか途方に暮れそうになるけれど、でもすっごく楽しい。こんな研究に何の意味があるの、なんて聞かれるときがあっても」
「それはひどいな」
僕は本心からそう言った。
「意味なんて、私の心が動くかどうかでいいの」
そう言って、ハルは笑う。
「不思議ね。この美術館を建てるために一生懸命になった人もいれば、ほとんど絵を見ることなんてないまま人生が終わる人もいて」
「生き方は人それぞれだから」
「でも私、たいらがルノワールの絵と出会えてよかったなって思う」
「そうだね」
「今日はありがとう。またね」
そう言ったかと思うとハルが突然歩き出したので僕はぎょっとした。急すぎやしないか?
「ちょっと待って」
「なに?」
「いや、その」
あまりにも急すぎてどうしたものかと僕が目を泳がせていると、ハルはちらりと腕時計を見やった。ブレスレットのように華奢なそれが時計だとは今の今まで気が付かなかった。
「えっと、またねって。連絡先とか、交換しない?」
「どうして?」
「またね、って言ったし」
「私、毎月最初の火曜日に美術館にいるよ」
「僕はもう来ないかもしれないし。いや、来るかもしれないけど」
「もし来たら、会えるじゃない」
「それはそうだけど」
ハルがまた腕時計を気にした。もうあまり長くは引き止められなさそうだ。
「私、メールとかまめにしないよ」
「僕は割とまめだ」
どの口が、と思うようなせりふだ。
「……手紙の方がすきなんだけどな」
「手紙?」
「じゃあとりあえず」
ハルはそういうとバッグから手帳を取り出し、ページをちぎって電話番号を走り書きして渡してくれた。
「ごめんね、もう行かなきゃ。五時過ぎの新幹線なの」
「へ?」
「私も大阪から来たの。じゃあ今度はあっちで。電話番号渡したし」
「えっ、あ、僕も」
これから新幹線に、と言おうとしたところでどきりとした。夕日を受けたハルの顔が、今朝美術館で見たルノワールの浴女と重なって見えた。そんな気がした。僕はまばたきをし、もう一度よくハルの顔を見る。
「どうしたの?」
「……いや、うん。僕は一泊していこうかな」
「え?」
「本当は僕も帰る予定だったんだけど、その、ちょっと確かめたいことができたし」
それを聞くとハルは嬉しそうに笑った。
「そっか、彼女によろしく」
そう言うと手を振り、今度こそ向きを変え足早に立ち去ってゆく。僕はしばらくハルのことを見送っていたけれど、ハルが振り向くことはなかった。
すっかりハルの姿が見えなくなってから先ほどの言葉を思い出す。
──彼女によろしく。
僕にガールフレンドがいることをハルに話しただろうか? と、そこでハッとした。もうどう考えても今夜の約束に間に合わない。
僕は慌てて携帯電話を取り出すとガールフレンドに電話をかけた。
「あ、たいらくん? もうすぐ家を出るところ」
「ごめん、それなんだけど」
今朝から岡山にいて一泊したいから夕飯の約束は日を改めさせてほしいと伝えると、ガールフレンドは少し驚いたあと、怒ったような声を出した。
「どうしてもっと早く言ってくれないの?」
「ごめん、今さっき急に」
「急になに?」
それは、と口ごもる。説明してわかってもらえるだろうか──もう一度「泉による女」を見に行きたいのだと言って。
ポストカードでもインターネットでも構わないのではと言われてしまいそうだし、そんなことを言われるとたぶん僕は悲しくなってしまう。そこで苦し紛れの嘘をついた。
「ごめん、実は家の鍵をなくして。多分美術館のなかだから、明日の朝いちばんに聞きに行きたくて」
そう言うと、さきほどまですねたような声音だった彼女が急に心配そうになった。
「えっ、そうなの? うそ、大丈夫?」
「たぶんね。じゃあまた連絡するから」
そうして電話を切ったときだった。
「あ」
思わず声がこぼれる。
──彼女によろしく。
ハルの言う彼女は僕のガールフレンドではなく、泉で体を洗う名前も知らないあの彼女のことだったのだ。
翌朝、僕はもう一度ルノワールの「泉による女」の前に立ち彼女をじっと見つめる。
昨日と変わらず日差しを浴びる彼女は、でも笑っていなかった。
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この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
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この物語はフィクションです。
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- - - - - 非公開予定でしたがもうしばらく公開します。- - - -
◉2025.7.2~……本文を少し見直ししています。
" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
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「静かな夜のあとに」― 大人の再生を描く愛の物語
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