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第十五話 名前
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蒼介が「ああ」と返事をしてから向き直ると、お春は「嫌ですね、もう来ないと思っていたのに……はぁ」と大きく息を吐いて立ち去って行った。
随分と嫌っているのだな。そう考えていると、善右衛門が「お春は、善一郎から尻を触られていたりしていたので……何度叱ってもやめないので、勘当した時は大喜びだったんです」と眉を寄せた。
雪太郎は「とんでもねぇ野郎だな」と呆れた表情を浮かべる。善右衛門は「善太郎。覚えていないと思うけれど、お前がよく庇ってやっていたんだよ」とお春の立ち去った方を見つめた。
店の者に聞こえても良いように言ったのだろうが、蒼介はどこか寂しい気持ちになった。長男と次男。まだ二人が揃っていた時の事を、善右衛門はどんな気持ちで話しているのだろうか。今はもう、どちらもいない。
寅次が風呂敷を胸に抱えて帰ってきた頃には、その場にいた全員の表情が暗くなっており、「何かあったんですかい」と向こうから訊いてきた。
遠くで犬の遠吠えが聞こえる。夜になり、冷え込んできた。
「今日の晩飯も美味かったなぁ!」
「それは良かったです」
満面の笑顔を浮かべる雪太郎に、善右衛門も朗らかな笑顔で答える。茶介も飯を平らげ満足しているようで、食後の毛づくろいを始めていた。
最近は雪太郎を交えて三人で晩御飯を食べるのが恒例になっている。蒼介は長火鉢で沸かしたお茶を、土瓶で湯呑に注いでいきながら「茶が入ったぞ」と声をかけた。
「おっ、すまねぇな。いやぁ、しかし寅次って人は善一郎のことを随分と憎んでいるんだなぁ」
「犬猿の仲でしたよ」
あの後、寅次に「善一郎が来た」と話すと般若のような顔つきになった。特に何も言わなかったが、恐らく善右衛門に気を遣ったのだろう。しかし舌打ちはしていたのを蒼介は聞き逃さなかった。
「だが、思ったよりも早く帰ってしまったな」
蒼介が二口目を啜るころには、雪太郎は茶を全て飲み干していた。
「尻尾を出すのが怖かったんじゃねぇかな。下手なことを言って疑いの目を向けられたら困るだろうし……まぁ、あいつが下手人だったらだけどな」
「私も、早く帰るようにとは言っていましたが……確かに、善一郎にしてはやけにあっさりとしていました」
善右衛門の言葉に雪太郎は頷く。
「なるほど、普段はしつけぇ男なんだな。そういやぁ、ちと気になったんだが。善一郎と善太郎っていう名前は、どちらも長男に付ける名前じゃないのかい?」
「ああ、そういえばそうだな」
善右衛門は気まずそうに襟首をかいてから、自分の幼い頃を思い出していた。
十歳の頃、近所に四男坊の四郎という子がいた。善右衛門より二つ年下だった。四郎は親から相手にされておらず、粗末な着物を着た、痩せっぽちで薄汚い子供だったのを覚えている。いつも暗い顔をしていたので、気になって声をかけた。
『おれっちは四男だから、いらねぇんだ。ちぇ、名前ですぐにわかっちまうだろ? だからおとっつあんは相手にもしてくれねぇんだ』赤らめた顔は左頬が腫れていた。
数年が経つうちに、いつの間にか四郎の姿を見る事はなくなった。やさぐれてどこかへ行ってしまったらしいが、四郎の悲しみと怒りが入り混じった表情が焼き付いていた。
同じ子供なのに。善右衛門の親は、分け隔てなく接してくれていた。だから自分もそうしようと思ったのだ。
「……兄弟で分け隔てなく、愛情を込めて育てようと思っていたんです。善一郎はそれが気に入らなかったようで」
『親父ははじめから、使える方を跡取りにする気だったんだろ! 俺よりも善太郎の方が役に立つって考えたんだろうが! 畜生が!』
「――そんなつもりじゃなかったのに……」
倅の言葉を思い出して、善右衛門は肩を丸め、頭を抱え込んだ。雪太郎が「あんま気にすんなよ、おとっつあん」と、背中をぽんぽんと叩いた。
「そうだよ。おとっつあん……」
俺の父親に比べたら、とても立派な父親だよ。そう言いかけて言葉を呑んだ。
「……湿っぽくして悪かったね。そうだ、これを渡しておこう」
善右衛門が、蒼介に長脇差を手渡した。脇差は庶民でも旅などの護身用として所持することができる。刀と見なされていないからだ。
鞘をにぎる手に自然と力が入った。脇差とはいえ久しぶりの感覚だ。
『清田屋』に町人として入るため愛刀を長屋に置いてきたが、こんなに長い間、帯刀していなかった日々はなかった。
「抜いてもいいか」
「もちろん」
抜き身にした長脇差は錆も無く、良く手入れをされていた。身体の調子も良くなってきたし、明日から鍛錬をはじめようか。
「使わないのに越したことはないのだがね。無理はしないでおくれ」
「まぁ、いざって時は俺が守ってやっからよ! 何たって用心棒だからな」
「いや待て。浪人とは言え、俺は武士だぞ」
芝居中の身ではあるので小声で訴える。やはり今晩から鍛錬をはじめようか。蒼介が歯を食いしばっていると、雪太郎は「分かってるって。お前さんの腕は、俺が良く知ってるさ。そういうんじゃなくてよ」と笑みを零した。
「どういうことだ」
まだ軽く苛立っていると、頭を撫でられた。よせ、と言って身をよじらせていると、善右衛門が笑っている。
「そういや最近、実吉の姿を見ねぇが……どこかに行ってるのか?」
雪太郎はお構いなしに話を逸らせた。
「ああ、実吉でしたら平太の実家のある甲斐国に行かせています。平太に話が聞ければ、何か手掛かりがあるかもしれません」
「そうか。それは気になるな」
蒼介は長脇差をもう一度握りしめた。一人になったらこっそりと庭に出て鍛錬をするつもりだった。
随分と嫌っているのだな。そう考えていると、善右衛門が「お春は、善一郎から尻を触られていたりしていたので……何度叱ってもやめないので、勘当した時は大喜びだったんです」と眉を寄せた。
雪太郎は「とんでもねぇ野郎だな」と呆れた表情を浮かべる。善右衛門は「善太郎。覚えていないと思うけれど、お前がよく庇ってやっていたんだよ」とお春の立ち去った方を見つめた。
店の者に聞こえても良いように言ったのだろうが、蒼介はどこか寂しい気持ちになった。長男と次男。まだ二人が揃っていた時の事を、善右衛門はどんな気持ちで話しているのだろうか。今はもう、どちらもいない。
寅次が風呂敷を胸に抱えて帰ってきた頃には、その場にいた全員の表情が暗くなっており、「何かあったんですかい」と向こうから訊いてきた。
遠くで犬の遠吠えが聞こえる。夜になり、冷え込んできた。
「今日の晩飯も美味かったなぁ!」
「それは良かったです」
満面の笑顔を浮かべる雪太郎に、善右衛門も朗らかな笑顔で答える。茶介も飯を平らげ満足しているようで、食後の毛づくろいを始めていた。
最近は雪太郎を交えて三人で晩御飯を食べるのが恒例になっている。蒼介は長火鉢で沸かしたお茶を、土瓶で湯呑に注いでいきながら「茶が入ったぞ」と声をかけた。
「おっ、すまねぇな。いやぁ、しかし寅次って人は善一郎のことを随分と憎んでいるんだなぁ」
「犬猿の仲でしたよ」
あの後、寅次に「善一郎が来た」と話すと般若のような顔つきになった。特に何も言わなかったが、恐らく善右衛門に気を遣ったのだろう。しかし舌打ちはしていたのを蒼介は聞き逃さなかった。
「だが、思ったよりも早く帰ってしまったな」
蒼介が二口目を啜るころには、雪太郎は茶を全て飲み干していた。
「尻尾を出すのが怖かったんじゃねぇかな。下手なことを言って疑いの目を向けられたら困るだろうし……まぁ、あいつが下手人だったらだけどな」
「私も、早く帰るようにとは言っていましたが……確かに、善一郎にしてはやけにあっさりとしていました」
善右衛門の言葉に雪太郎は頷く。
「なるほど、普段はしつけぇ男なんだな。そういやぁ、ちと気になったんだが。善一郎と善太郎っていう名前は、どちらも長男に付ける名前じゃないのかい?」
「ああ、そういえばそうだな」
善右衛門は気まずそうに襟首をかいてから、自分の幼い頃を思い出していた。
十歳の頃、近所に四男坊の四郎という子がいた。善右衛門より二つ年下だった。四郎は親から相手にされておらず、粗末な着物を着た、痩せっぽちで薄汚い子供だったのを覚えている。いつも暗い顔をしていたので、気になって声をかけた。
『おれっちは四男だから、いらねぇんだ。ちぇ、名前ですぐにわかっちまうだろ? だからおとっつあんは相手にもしてくれねぇんだ』赤らめた顔は左頬が腫れていた。
数年が経つうちに、いつの間にか四郎の姿を見る事はなくなった。やさぐれてどこかへ行ってしまったらしいが、四郎の悲しみと怒りが入り混じった表情が焼き付いていた。
同じ子供なのに。善右衛門の親は、分け隔てなく接してくれていた。だから自分もそうしようと思ったのだ。
「……兄弟で分け隔てなく、愛情を込めて育てようと思っていたんです。善一郎はそれが気に入らなかったようで」
『親父ははじめから、使える方を跡取りにする気だったんだろ! 俺よりも善太郎の方が役に立つって考えたんだろうが! 畜生が!』
「――そんなつもりじゃなかったのに……」
倅の言葉を思い出して、善右衛門は肩を丸め、頭を抱え込んだ。雪太郎が「あんま気にすんなよ、おとっつあん」と、背中をぽんぽんと叩いた。
「そうだよ。おとっつあん……」
俺の父親に比べたら、とても立派な父親だよ。そう言いかけて言葉を呑んだ。
「……湿っぽくして悪かったね。そうだ、これを渡しておこう」
善右衛門が、蒼介に長脇差を手渡した。脇差は庶民でも旅などの護身用として所持することができる。刀と見なされていないからだ。
鞘をにぎる手に自然と力が入った。脇差とはいえ久しぶりの感覚だ。
『清田屋』に町人として入るため愛刀を長屋に置いてきたが、こんなに長い間、帯刀していなかった日々はなかった。
「抜いてもいいか」
「もちろん」
抜き身にした長脇差は錆も無く、良く手入れをされていた。身体の調子も良くなってきたし、明日から鍛錬をはじめようか。
「使わないのに越したことはないのだがね。無理はしないでおくれ」
「まぁ、いざって時は俺が守ってやっからよ! 何たって用心棒だからな」
「いや待て。浪人とは言え、俺は武士だぞ」
芝居中の身ではあるので小声で訴える。やはり今晩から鍛錬をはじめようか。蒼介が歯を食いしばっていると、雪太郎は「分かってるって。お前さんの腕は、俺が良く知ってるさ。そういうんじゃなくてよ」と笑みを零した。
「どういうことだ」
まだ軽く苛立っていると、頭を撫でられた。よせ、と言って身をよじらせていると、善右衛門が笑っている。
「そういや最近、実吉の姿を見ねぇが……どこかに行ってるのか?」
雪太郎はお構いなしに話を逸らせた。
「ああ、実吉でしたら平太の実家のある甲斐国に行かせています。平太に話が聞ければ、何か手掛かりがあるかもしれません」
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