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茜色

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出張の帰り

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 24才の冬。私、庄野鞠子はもう二度と逢うことのない人に処女を捧げました。                        


                                                      ☆                                           

「藤堂さん、おばんざい弁当とすき焼き風弁当、どっちがいいですか?」
 東京行きの新幹線に乗り、窓際の席に座るとすぐに藤堂次長に尋ねた。既に日の落ちた群青色の空がガラスの向こうに広がり、京都の街並みがあっという間に視界から消え去って行く。
二人分の荷物を棚に上げてくれた藤堂さんは、長い脚を窮屈そうに曲げて通路側の席に腰を下ろした。指でネクタイをくいっと緩め、リラックスした表情で私を見る。未だにこの瞳に見つめられるとドギマギするのは、私が意識しすぎなせいだろうか。

「んー、すき焼きかな」
「だと思いました!じゃあ、私はおばんざい」
「いいのか、おばんざいで」
「いいんです。だってお昼もイマダコーヒーのカツサンド食べすぎたし、カロリー摂りすぎで」
「たしかにな。今回の出張で、おまえの食べっぷりには驚かされたよ」
「私は藤堂さんの飲みっぷりに驚かされました」
 私はそれぞれの席の備え付けテーブルにお弁当をひとつずつ置く。藤堂さんには缶ビールを一本、自分にはお茶のペットボトルを添える。
藤堂さんはさっそくプルトップを開けて一口飲み、フウッと満足げに息をついた。昨夜もまあまあ飲んでいたはずだが、この人は本当にいくら飲んでも顔に出ない。悪酔いもしない。言動も変わらず足もふらつかない。・・・私とは大違いだ。

「藤堂さん、2日間お疲れさまでした」
「庄野もな。いろいろ気疲れしただろ。よく動いてくれて助かったよ。ありがとう」
「いえ、そんな、全然!足手まといにならないよう必死でした」
「いや、やっぱり7年目社員ともなると、頼りになるよ。俺はまだここのやり方に慣れてないとこがあるから、庄野がいてくれて助かった」
「私こそ、ご一緒できて勉強になりました。藤堂さんはやっぱりすごいです」
 お世辞ではなく本心からそう言ったものの、なんとなく気恥ずかしくなって私は自分のおばんざい弁当をガサガサと開けた。隣で藤堂さんもすき焼き風弁当を開けている。と思ったら、自分が食べる前にお肉をゴソッと箸で取り、私のお弁当のご飯の上に乗せてくれた。
「おすそわけ」
「わぁ、ありがとうございます!じゃあ、私も」
 煮物を少し取り分けて藤堂さんのお弁当の上に乗せる。それからなんとなくクスッと笑いあって、私たちは東京に向かう新幹線の中で夕食を食べ始めた。

 藤堂さんがうちの会社に中途入社してきたのが7月の初め。あれから2ヶ月が過ぎ、今や彼は規模の小さな我が社の「顔」になりつつある。
 もともとの彼は、誰もが名前を聞いたことがある大手商社の社員だった。あのまま勤めていれば将来も安泰だったはずの彼が、何を思ったかうちの社長の図々しいヘッドハンティングを受け入れてくれたこと自体、奇跡だった。34歳の途中入社でありながらいきなりの次長職待遇は異例中の異例だったが、それが藤堂さんなのだから異論などあるはずもなく、社内は歓迎ムード一色だった。
 5年前の12月。輸入食材を扱ううちの会社が、大規模なフードフェスティバルに出店することになった。そういったイベントに大々的に参加するのは会社としても初めての試みだったので、勝手が分からず社長も社員も右往左往していた。当時入社2年目だった私も毎日遅くまで残業し、まるで文化祭の準備のようなお祭り騒ぎに翻弄されていた。
 そのフェスティバルを主催していた大手企業の中のひとつが、当時藤堂さんが勤めていた商社だった。フェスティバルに出店する各グループには、指南役としてイベント主催者側から担当者がついてくれた。そのときうちの会社の面倒を見ていろいろ指導してくれたのが、商社側から来た藤堂さんだったのだ。

 藤堂達矢。当時29歳だった彼は、溜め息が出るほど素敵で有能な商社マンだった。
 恵まれたルックスに快活な表情と明確な言葉。颯爽とした立ち居振る舞いは、いかにも仕事のできる男という感じだった。実際、イベント初心者で慣れない私たちを親切かつ丁寧にフォローしてくれ、藤堂さんのおかげでうちの会社も無事に出店を成功させることができたのだと思う。当然、私たち社員の間では藤堂さんは憧れの的となった。
 私にとってはカッコ良くて仕事もできて雲の上の人という感じだったが、偶然にも私が藤堂さんと同じ大学の後輩だと分かり(学部の偏差値は全然違ったけれど)、それ以来藤堂さんは私を「庄野」と呼び捨てにして妹のように可愛がってくれた。とは言っても、ほんの数週間のつきあいだったのだが。

 あれからいくつもの季節が過ぎていき、私ももう29歳になった。
 藤堂さんは34歳か・・・。ふと隣の席に眼をやると、藤堂さんは眼を閉じていつの間にか眠ってしまっている。年齢相応のごく小さな皺が目元にある。それがかえって大人の色気を滲ませていて、なんとなく落ち着かない気持ちになった。
 時計を見ると午後8時を回っていた。私は藤堂さんの穏やかな寝顔をそっと盗み見ながら、5年前にもこの寝顔を暗闇の中で見ていたことを想い出した。なんて不思議な巡り合わせだろう。もう二度と、この人に逢うことはないと想っていたのに。

 あのとき、私はフェスティバルの準備に誰よりも没頭していた。自分の身に起きた悲しいことを忘れたい一心で、とにかく仕事をしたかった。
 つきあって3ヶ月の、同い年の彼氏にフラれたところだった。原因は、私が尻込みしてセックスに応じなかったから。
 身体を重ねることが嫌だったわけじゃない。つきあうなら真面目に将来を考える関係になりたくて、慎重になっていただけだ。でも相手から見ると、私は24にもなって頑なに処女を守っているお堅い女に映ったらしい。なんとなく電話の声が冷たいな・・・と気づいた頃、その人は新しい彼女と既に深い仲になっていた。
「3ヶ月待たせたら、ヤリたい盛りの男は逃げるでしょうよ」
 恋愛体質の友達にそう言われ、そうか、世の中そんなものなのかと思った。じゃあ私ももっと恋愛を気軽に考えるべきなんだなと思ったけれど、もともとの性格がどうにも邪魔をした。だんだんクリスマスが近づいてきて、今年こそはひとりじゃないイブを過ごせると期待していただけにかなり落ち込んだ。そんなとき会社がフードフェスティバルに参加することになり、私は俄然張り切って仕事に打ち込んだのだ。仕事をしている間は、失恋のことも忘れられると思ったからだ。

 フェスティバルが終わった瞬間、達成感に満たされると同時に自分が空っぽになった気がした。
ひとりきりの淋しい年末がやってくる。別れた相手への未練などほとんどなかったけれど、フラれたという事実が改めて我が身に突き刺さった。
 この臆病な性格が災いして、このままいつまで経っても大人の恋はできないのだろうか。そんな虚しさを感じながら、打ち上げの席でテーブルの斜め向かい側に座っている藤堂さんの横顔をこっそり眺めていた。
 うちの社長にいたく気に入られ、あの日の打ち上げにも半ば強引に参加させられた藤堂さん。社員みんなから尊敬の眼で見られていた藤堂さん。独身らしいけれど、この人はきっとモテモテで恋愛上手で、遊び方もスマートなんだろうなと想像した。

 あの日の私はイベントが終わった高揚感と喪失感、失恋の痛手でいつも以上に不安定だったのだと思う。気づいたら、珍しく少々飲みすぎていた。フワフワいい気持ちになって、いつの間にか個室の壁に背中を預けて眠ってしまったらしい。そんな醜態をさらすのは滅多にないことだった。
 社長も同僚も、二次会に行きたくて私の世話が面倒だったのだろう。信じられないことに、私が眼を覚ましたときに辛抱強く待っててくれたのは、別会社の藤堂さんだけだった。
 眼を開けて、誰もいない個室に藤堂さんだけが残っているのに気付いた私はひどく狼狽した。
「すみません!ごめんなさい!私は大丈夫なので、今からみんなと合流してください!」
 必死に謝る私を見て、藤堂さんは笑いながら言った。
「二次会はパスして帰りたかったから、自分から庄野の世話を買ってでたんだ。おかげで助かった」
 秘密を打ち明けるようにちょっと悪戯っぽく笑った藤堂さんの顔に、思わず見惚れてしまったのを覚えている。もしかしたら、この人は案外パッと見のイメージとは違う人なのかもしれないと思った。明朗で爽やかで物怖じしないように見えるけれど、本当は賑やかな場所がそれほど好きではない、静けさを好むな人なのかもしれないと。
 私と少し似ている・・・?そんな錯覚すら覚えてしまうほど、ゆったりと心地良い空気を感じた。そしてせっかくそんな優しい空気に気付けたのに、藤堂さんが週明けには札幌の支社に転勤してしまう事実が私の胸に鈍く刺さった。

 あのときの自分は本当にどうかしていたと思う。
 あんなことを藤堂さんにお願いした自分が今でも信じられない。でも、後悔はしていない。あの夜のことは、5年近く経った今でも私にとって大切で忘れられない想い出になっているのだから。
 もう二度と逢うことはないと諦めていた。だから東京に戻ってきた藤堂さんとこうして再会し、あろうことか彼がうちの会社に中途入社してくるという展開に心底慌てた。しかも昨日から1泊で、私は藤堂さんと二人きりで京都まで出張に行っていたのだ。
 ・・・嬉しかったけれど。激しく動揺しながら、すごく嬉しかったけれど。


「藤堂さん、そろそろ品川に着きますよ」
 私は藤堂さんのワイシャツの腕にそっと手を伸ばした。筋肉の締まった腕の感触。藤堂さんが眼を開ける直前に、さっと手を引っ込める。
「ああ・・・俺、寝てたのか。悪い」
 そう言って長い腕をストレッチしようとしたとき、テーブルの上に置いた藤堂さんのスマートフォンが振動した。手に取って画面を見た藤堂さんが、一瞬怪訝そうな顔をする。
「管理会社?なんだ・・・?」
 賃貸マンションの管理会社から電話が入っているらしい。とりあえず下車してからかけ直すことにして、私たちは棚の上から急ぎ荷物を下ろし始めた。


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