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楽しさと淋しさと
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私と藤堂さんは、二人での共同生活に馴染んでいった。それは想像以上に心地良くて楽しくて、毎日が急に生き生きと色づいたようだった。
日曜日は朝から思い切り布団を干し、普段私だけでは手が回らない場所を二人で掃除した。
脚立に乗るのが怖くて先延ばしにしていた電球替えも藤堂さんがやってくれたし、少し気温が低くて過ごしやすかったので庭の雑草抜きまで一緒にやってしまった。普段なら面倒なこの手の作業も、二人でするととても捗るし、何より楽しくて笑い声が絶えなかった。
平日もまた、夕食の後にテレビを見ながら一緒に晩酌をしたり、仕事の資料を持ち帰って一緒に作業する日もあった。他愛ない会話をしていても黙って同じ空間にいるだけでも、不思議なくらい居心地が良くて心が安らいだ。
同居してちょうど一週間めの週末、夕飯を食べた後で藤堂さんが私の家族の写真を見たいと言い出した。
この家をとても気に入ってくれた藤堂さんは、ここにもともと住んでいた私の祖父母に興味があると言う。私は押し入れから古いアルバムを引っ張りだしてきて、色の褪せた懐かしい写真を藤堂さんに見せた。
「あー、可愛い!庄野は眼の大きいところがお父さん似か?こんな小っちゃいときから髪が長かったんだ」
「私、母の着せ替え人形だったんです。あ、これが祖父母です。ほら、家も庭もあんまり変わってないでしょ?」
「本当だ。へぇ、ふたりとも優しそうだな。お祖母さんはオシャレだね。・・・この男の子は弟?」
「そうです。今は東北の大学の研究員。すごい変わってるんです。微生物にしか興味がないの」
「はははっ!面白い弟だな。たしかに子供の頃から気難しそうな顔してる」
藤堂さんは熱心にアルバムに見入っていた。
「・・・うちは親が早くに離婚して写真が少ないし、ずっと父親とマンション暮らしだったんだ。だからこういう家族写真に憧れるんだよな」
藤堂さんは小学生の頃から川崎のマンションでお父さんと二人暮らしだったそうで、食事や身の回りのことは家政婦さんや近くに住む伯母さんに頼っていたと言う。大学に入学するタイミングでお父さんが再婚したので、それを機に藤堂さんは家を出て都内で一人暮らしを始めたと教えてくれた。
初めて知った藤堂さんの過去に、なんだか胸がせつなくしめつけられた。藤堂さんがこの古い家を好んでくれるのは、家族のぬくもりのようなものに対する憧憬なのかもしれない。
そんなことを考えながら、その夜は遅くまで一緒にアルバムを見て過ごした。
平日の朝は慌ただしいので、パンとコーヒーなどで簡単に朝食を済ませる。
それから藤堂さんの方が先に出勤し、私が1本後の電車に乗る。夜は私の方が先に帰宅するので、有り合わせのものでごく簡単に料理するか、お惣菜を買って帰った。その代わり土日の朝食と晩ご飯は栄養を考えてできるだけ手料理にし、二人で一緒に食べるようにした。
私はもともとそんなに料理が得意ではない。でも藤堂さんがいると思うと、下手でもちゃんと作って栄養の偏りを少しでも減らしてあげたいと思い、俄然やる気になった。そして藤堂さんはとても優しいので、いつも「美味い」と言って残さず食べてくれた。
藤堂さんはマンションの部屋が消火活動で被害を受け、修繕することになったのを会社に黙っていた。
言えばいろいろ心配され話のネタにされるだろうし、そうすると仮住まいはどうしているのかと聞かれるのは避けようがない。当然、私たちは同居していることを周囲に隠していた。それがなんとなく秘密の同棲をしているように感じられ、私は一人で勝手にときめいて浮かれていた。
実際は何もないのに。夜はしっかり別々の部屋で眠り、健全な兄と妹みたいに仲良く暮らしているだけなのに。
「藤堂次長って、なんで結婚しないんでしょうね」
午後の会議室。輸入雑貨店に納品する紅茶やハーブティーの商品チェックをしていたとき、私より3年後輩の室井くんがぽつりと呟いた。
秘かに心臓が音をたてた。隣で退屈そうに作業をしていた入社2年目の松下さんが、興味津々と言った様子で話に乗ってくる。
「ねー!アタシもすっごい不思議です。だってあんなにカッコ良くて仕事もできて、めちゃくちゃモテそうなのになんでかなーって。彼女とか、いないんですかね?」
「どう思います?鞠子さん」
室井くんが何故か意味ありげに私の顔を覗き込んだ。私は落ち着かない気持ちになりながら、「さあ?なんでだろうね」と曖昧にはぐらかした。そんなの私が知りたいくらいだ。って言うか、商品チェック中に何故こんな話題になるのだ。
「いや、実はね、この前オレ偶然聞いちゃったんですよ。社長が藤堂次長に見合いを勧めてるの」
胸の奥がチクッと痛む感覚があった。お見合い・・・?お節介の社長なら言い出しそうなことだけれど・・・。
「でね、藤堂さん、ありがたいけど間に合ってますって笑って断っててさー」
「えー!そうなんですかー?てことは、やっぱ彼女いますよね?それともモテすぎて束縛されたくないとか?」
「社長がさ、『あれ、まだ札幌の女と続いてるの?』なんて言っててさ。藤堂さん、笑ってはぐらかしてたけど、あれってホントに札幌に女がいる感じだったなぁ」
「そんなぁ!アタシ藤堂次長のカノジョに立候補したかったのにー」
「いやいや、松下ちゃんにはオッサンすぎるでしょ。あの人もう34だよ」
「えー、オトナの男って感じで憧れますー。エッチとか上手そうだし」
「うわ、最近の若い子はストレートだねー。ねえ、鞠子さん?」
心臓がさっきから痛いくらいに鳴り響いていて、私は今すぐこの場から逃げ出したくなっていた。
お見合い?札幌の女の人・・・?室井くんの口から出る言葉のひとつひとつが、浮かれていた私の胸にいちいち鋭く突き刺さる。
「鞠子さんも、藤堂さんみたいなタイプって好み?昔から知り合いでしょ?」
「え・・・私はほら、偶然大学の先輩だったから、兄妹みたいなノリと言うか・・・」
「じゃあ、男としては好きじゃないよね?オレ、安心していいですよね?」
「あのね、室井くん、何言って・・・」
「まーた室井さん、鞠子さんのこと口説いてるー。ホント諦めないですよねー。不屈の精神」
「だってオレ、絶対鞠子さんと結婚するって決めてるもん。鞠子さんはオレのものだもんねー」
「ちょっと、そういうこと・・・」
「あー、藤堂次長!」
松下さんが会議室の入口を見てあっけらかんとした声をあげたので、私はビクッと身を震わせて振り向いた。開け放していた戸口に、営業カバンとスーツの上着を抱えた藤堂さんが立っている。私の顔を見た瞬間、藤堂さんの表情は少しだけ強張った。
・・・今のやり取りを聞かれた。室井くんが余計なことをべらべら喋っているのを、藤堂さんに確実に聞かれてしまった。私はカーッと頬が熱くなるのを感じ、誤解されたのではないかと動揺した。
「あ・・・邪魔してすまない。・・・庄野、これから『イノクニヤ』に行ってくるから、俺が着くまでに請求明細をあっちにFAX入れといてもらえないか?ちょっと時間なくて」
「あっ、はい、分かりました!すぐやります」
「よろしく」
それだけ言って、藤堂さんはいつもよりほんの少しよそよそしい態度で行ってしまった。
胸がズキンと痛み、室井くんに文句を言いたくなった。でもここで私がムキになったら、室井くんにも松下さんにも変に勘繰られる。
「あー、藤堂次長にオレと鞠子さんの仲がバレちゃいましたねー」
「バカなこと言わないでよ。もうそのネタ、笑えないからやめて」
「ネタじゃないし。オレ、本気って言ってるじゃないですかー」
もう随分前から冗談交じりに口説いてくる室井くんに、今日はいつにも増して腹が立った。私はFAXを送るのを口実に、作業を後輩二人に任せて会議室を出た。
会社を出て帰りの電車に乗っているとき、藤堂さんからスマートフォンにメッセージが入った。
『社長のつきあいで接待があるので遅くなります。先に寝ててください』
心なしか文章が硬い。なんだか距離を感じる。
せっかく仲良くなれていたのに、室井のバカ・・・!
私は気持ちが一気に暗くなるのを感じながら電車を降りた。歩きながら自分の足を見下ろす。藤堂さんに買ってもらったお気に入りのパンプス。似合うと言ってくれた。嬉しくて、お手入れしながら大事に履いているのに。
室井くんとの仲を誤解されたかもしれない。そしてそれ以上に、『札幌の女性』というキーワードがさっきからモヤモヤと胸の奥で渦巻いている。
藤堂さんとの間に特別な何かを感じ合えているような気がしていたけれど、やっぱり私の自惚れであり、そもそも高望みだったのだろうか。一緒に暮らすようになって、女性の影は感じなかったから内心ホッとしていた。でも札幌に遠距離恋愛の相手がいるのだとしたら、間近に気配が見えなくて当たり前なのかもしれない。
その夜の食事は手を抜いた。冷凍しておいたご飯をレンジで温め、レトルトのカレーをかけて食べた。冷蔵庫に藤堂さんが買っておいてくれたプリンがあったので、それも食べた。
遅くなるって、何時に帰ってくるのだろう。合鍵を渡してあるので、気に掛ける必要はないのだけれど・・・。
食べ終わってもすぐにお皿を洗う気にもなれない。居間がやけに広く感じて、時計の針の音が耳に響く。一人の食卓はこれほど淋しかっただろうか。今までずっとこうだったのに、藤堂さんの存在にすっかり慣れてしまったから、一人の夜は想像以上に応える。
スマートフォンが振動したので、急いで手に取って画面を見た。藤堂さんではなくて室井くんからだった。
『取引先のオッサンに連れてこられてキャバクラにいまーす。藤堂さん、こーいうとこでもモテモテ!オレはやっぱり鞠子さんの方がいいな♪』
添付された画像に、露出度の高いドレスを着た女の子とニヤけているうちの社長、その横で髪を盛った派手な女の子に腕を触られている藤堂さんが写っていた。藤堂さんの表情は陰になっていて良く分からなかった。
男の人の仕事の延長にこういう付き合いが含まれるのは、ある程度仕方ないことなのだろう。29にもなって、こんなことにイライラするほど私も子供じゃないはずだ。
けれども、私はものすごく悲しくなった。一人きりの家の中で、藤堂さんとの距離感に不安になっているときに見たい種類の写真ではなかった。
室井くんには返信しなかった。あの子はどこまで本気なのか疑わしいけれど、私とつきあいたいとか結婚したいなどと恥ずかしげもなく何度もアプローチしてくる。その彼がやたらと藤堂さんのことを私に吹き込んでくるのは、私が藤堂さんに惹かれていることに気付いているからだろうか?
「室井のバカ・・・!」
メッセージを削除した。胸が痛くてキリキリする。
お風呂に入って、嫌な気持ちは全部洗い流してしまおう。不安も嫉妬心も悲しみも。どうってことない。藤堂さんと再会する前の自分に戻るだけだ。
洗面所で歯を磨こうとして、藤堂さんの使っている歯ブラシが視界に入った。私が以前買い置きしておいたものだから、柄の部分がオレンジ色だった。今度はブルーのを買ってあげようと楽しみにしていたけれど、そうなる前に藤堂さんはここを出ていってしまうだろう。
この歯ブラシも、男物のシャンプーも、玄関にある革靴も。たぶんあと2週間もしたら、藤堂さんの痕跡は全部私の家からなくなってしまうのだろう。
日曜日は朝から思い切り布団を干し、普段私だけでは手が回らない場所を二人で掃除した。
脚立に乗るのが怖くて先延ばしにしていた電球替えも藤堂さんがやってくれたし、少し気温が低くて過ごしやすかったので庭の雑草抜きまで一緒にやってしまった。普段なら面倒なこの手の作業も、二人でするととても捗るし、何より楽しくて笑い声が絶えなかった。
平日もまた、夕食の後にテレビを見ながら一緒に晩酌をしたり、仕事の資料を持ち帰って一緒に作業する日もあった。他愛ない会話をしていても黙って同じ空間にいるだけでも、不思議なくらい居心地が良くて心が安らいだ。
同居してちょうど一週間めの週末、夕飯を食べた後で藤堂さんが私の家族の写真を見たいと言い出した。
この家をとても気に入ってくれた藤堂さんは、ここにもともと住んでいた私の祖父母に興味があると言う。私は押し入れから古いアルバムを引っ張りだしてきて、色の褪せた懐かしい写真を藤堂さんに見せた。
「あー、可愛い!庄野は眼の大きいところがお父さん似か?こんな小っちゃいときから髪が長かったんだ」
「私、母の着せ替え人形だったんです。あ、これが祖父母です。ほら、家も庭もあんまり変わってないでしょ?」
「本当だ。へぇ、ふたりとも優しそうだな。お祖母さんはオシャレだね。・・・この男の子は弟?」
「そうです。今は東北の大学の研究員。すごい変わってるんです。微生物にしか興味がないの」
「はははっ!面白い弟だな。たしかに子供の頃から気難しそうな顔してる」
藤堂さんは熱心にアルバムに見入っていた。
「・・・うちは親が早くに離婚して写真が少ないし、ずっと父親とマンション暮らしだったんだ。だからこういう家族写真に憧れるんだよな」
藤堂さんは小学生の頃から川崎のマンションでお父さんと二人暮らしだったそうで、食事や身の回りのことは家政婦さんや近くに住む伯母さんに頼っていたと言う。大学に入学するタイミングでお父さんが再婚したので、それを機に藤堂さんは家を出て都内で一人暮らしを始めたと教えてくれた。
初めて知った藤堂さんの過去に、なんだか胸がせつなくしめつけられた。藤堂さんがこの古い家を好んでくれるのは、家族のぬくもりのようなものに対する憧憬なのかもしれない。
そんなことを考えながら、その夜は遅くまで一緒にアルバムを見て過ごした。
平日の朝は慌ただしいので、パンとコーヒーなどで簡単に朝食を済ませる。
それから藤堂さんの方が先に出勤し、私が1本後の電車に乗る。夜は私の方が先に帰宅するので、有り合わせのものでごく簡単に料理するか、お惣菜を買って帰った。その代わり土日の朝食と晩ご飯は栄養を考えてできるだけ手料理にし、二人で一緒に食べるようにした。
私はもともとそんなに料理が得意ではない。でも藤堂さんがいると思うと、下手でもちゃんと作って栄養の偏りを少しでも減らしてあげたいと思い、俄然やる気になった。そして藤堂さんはとても優しいので、いつも「美味い」と言って残さず食べてくれた。
藤堂さんはマンションの部屋が消火活動で被害を受け、修繕することになったのを会社に黙っていた。
言えばいろいろ心配され話のネタにされるだろうし、そうすると仮住まいはどうしているのかと聞かれるのは避けようがない。当然、私たちは同居していることを周囲に隠していた。それがなんとなく秘密の同棲をしているように感じられ、私は一人で勝手にときめいて浮かれていた。
実際は何もないのに。夜はしっかり別々の部屋で眠り、健全な兄と妹みたいに仲良く暮らしているだけなのに。
「藤堂次長って、なんで結婚しないんでしょうね」
午後の会議室。輸入雑貨店に納品する紅茶やハーブティーの商品チェックをしていたとき、私より3年後輩の室井くんがぽつりと呟いた。
秘かに心臓が音をたてた。隣で退屈そうに作業をしていた入社2年目の松下さんが、興味津々と言った様子で話に乗ってくる。
「ねー!アタシもすっごい不思議です。だってあんなにカッコ良くて仕事もできて、めちゃくちゃモテそうなのになんでかなーって。彼女とか、いないんですかね?」
「どう思います?鞠子さん」
室井くんが何故か意味ありげに私の顔を覗き込んだ。私は落ち着かない気持ちになりながら、「さあ?なんでだろうね」と曖昧にはぐらかした。そんなの私が知りたいくらいだ。って言うか、商品チェック中に何故こんな話題になるのだ。
「いや、実はね、この前オレ偶然聞いちゃったんですよ。社長が藤堂次長に見合いを勧めてるの」
胸の奥がチクッと痛む感覚があった。お見合い・・・?お節介の社長なら言い出しそうなことだけれど・・・。
「でね、藤堂さん、ありがたいけど間に合ってますって笑って断っててさー」
「えー!そうなんですかー?てことは、やっぱ彼女いますよね?それともモテすぎて束縛されたくないとか?」
「社長がさ、『あれ、まだ札幌の女と続いてるの?』なんて言っててさ。藤堂さん、笑ってはぐらかしてたけど、あれってホントに札幌に女がいる感じだったなぁ」
「そんなぁ!アタシ藤堂次長のカノジョに立候補したかったのにー」
「いやいや、松下ちゃんにはオッサンすぎるでしょ。あの人もう34だよ」
「えー、オトナの男って感じで憧れますー。エッチとか上手そうだし」
「うわ、最近の若い子はストレートだねー。ねえ、鞠子さん?」
心臓がさっきから痛いくらいに鳴り響いていて、私は今すぐこの場から逃げ出したくなっていた。
お見合い?札幌の女の人・・・?室井くんの口から出る言葉のひとつひとつが、浮かれていた私の胸にいちいち鋭く突き刺さる。
「鞠子さんも、藤堂さんみたいなタイプって好み?昔から知り合いでしょ?」
「え・・・私はほら、偶然大学の先輩だったから、兄妹みたいなノリと言うか・・・」
「じゃあ、男としては好きじゃないよね?オレ、安心していいですよね?」
「あのね、室井くん、何言って・・・」
「まーた室井さん、鞠子さんのこと口説いてるー。ホント諦めないですよねー。不屈の精神」
「だってオレ、絶対鞠子さんと結婚するって決めてるもん。鞠子さんはオレのものだもんねー」
「ちょっと、そういうこと・・・」
「あー、藤堂次長!」
松下さんが会議室の入口を見てあっけらかんとした声をあげたので、私はビクッと身を震わせて振り向いた。開け放していた戸口に、営業カバンとスーツの上着を抱えた藤堂さんが立っている。私の顔を見た瞬間、藤堂さんの表情は少しだけ強張った。
・・・今のやり取りを聞かれた。室井くんが余計なことをべらべら喋っているのを、藤堂さんに確実に聞かれてしまった。私はカーッと頬が熱くなるのを感じ、誤解されたのではないかと動揺した。
「あ・・・邪魔してすまない。・・・庄野、これから『イノクニヤ』に行ってくるから、俺が着くまでに請求明細をあっちにFAX入れといてもらえないか?ちょっと時間なくて」
「あっ、はい、分かりました!すぐやります」
「よろしく」
それだけ言って、藤堂さんはいつもよりほんの少しよそよそしい態度で行ってしまった。
胸がズキンと痛み、室井くんに文句を言いたくなった。でもここで私がムキになったら、室井くんにも松下さんにも変に勘繰られる。
「あー、藤堂次長にオレと鞠子さんの仲がバレちゃいましたねー」
「バカなこと言わないでよ。もうそのネタ、笑えないからやめて」
「ネタじゃないし。オレ、本気って言ってるじゃないですかー」
もう随分前から冗談交じりに口説いてくる室井くんに、今日はいつにも増して腹が立った。私はFAXを送るのを口実に、作業を後輩二人に任せて会議室を出た。
会社を出て帰りの電車に乗っているとき、藤堂さんからスマートフォンにメッセージが入った。
『社長のつきあいで接待があるので遅くなります。先に寝ててください』
心なしか文章が硬い。なんだか距離を感じる。
せっかく仲良くなれていたのに、室井のバカ・・・!
私は気持ちが一気に暗くなるのを感じながら電車を降りた。歩きながら自分の足を見下ろす。藤堂さんに買ってもらったお気に入りのパンプス。似合うと言ってくれた。嬉しくて、お手入れしながら大事に履いているのに。
室井くんとの仲を誤解されたかもしれない。そしてそれ以上に、『札幌の女性』というキーワードがさっきからモヤモヤと胸の奥で渦巻いている。
藤堂さんとの間に特別な何かを感じ合えているような気がしていたけれど、やっぱり私の自惚れであり、そもそも高望みだったのだろうか。一緒に暮らすようになって、女性の影は感じなかったから内心ホッとしていた。でも札幌に遠距離恋愛の相手がいるのだとしたら、間近に気配が見えなくて当たり前なのかもしれない。
その夜の食事は手を抜いた。冷凍しておいたご飯をレンジで温め、レトルトのカレーをかけて食べた。冷蔵庫に藤堂さんが買っておいてくれたプリンがあったので、それも食べた。
遅くなるって、何時に帰ってくるのだろう。合鍵を渡してあるので、気に掛ける必要はないのだけれど・・・。
食べ終わってもすぐにお皿を洗う気にもなれない。居間がやけに広く感じて、時計の針の音が耳に響く。一人の食卓はこれほど淋しかっただろうか。今までずっとこうだったのに、藤堂さんの存在にすっかり慣れてしまったから、一人の夜は想像以上に応える。
スマートフォンが振動したので、急いで手に取って画面を見た。藤堂さんではなくて室井くんからだった。
『取引先のオッサンに連れてこられてキャバクラにいまーす。藤堂さん、こーいうとこでもモテモテ!オレはやっぱり鞠子さんの方がいいな♪』
添付された画像に、露出度の高いドレスを着た女の子とニヤけているうちの社長、その横で髪を盛った派手な女の子に腕を触られている藤堂さんが写っていた。藤堂さんの表情は陰になっていて良く分からなかった。
男の人の仕事の延長にこういう付き合いが含まれるのは、ある程度仕方ないことなのだろう。29にもなって、こんなことにイライラするほど私も子供じゃないはずだ。
けれども、私はものすごく悲しくなった。一人きりの家の中で、藤堂さんとの距離感に不安になっているときに見たい種類の写真ではなかった。
室井くんには返信しなかった。あの子はどこまで本気なのか疑わしいけれど、私とつきあいたいとか結婚したいなどと恥ずかしげもなく何度もアプローチしてくる。その彼がやたらと藤堂さんのことを私に吹き込んでくるのは、私が藤堂さんに惹かれていることに気付いているからだろうか?
「室井のバカ・・・!」
メッセージを削除した。胸が痛くてキリキリする。
お風呂に入って、嫌な気持ちは全部洗い流してしまおう。不安も嫉妬心も悲しみも。どうってことない。藤堂さんと再会する前の自分に戻るだけだ。
洗面所で歯を磨こうとして、藤堂さんの使っている歯ブラシが視界に入った。私が以前買い置きしておいたものだから、柄の部分がオレンジ色だった。今度はブルーのを買ってあげようと楽しみにしていたけれど、そうなる前に藤堂さんはここを出ていってしまうだろう。
この歯ブラシも、男物のシャンプーも、玄関にある革靴も。たぶんあと2週間もしたら、藤堂さんの痕跡は全部私の家からなくなってしまうのだろう。
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