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澄みきった明るい薄青色の空が、天空の遥か彼方にまで広がる。東から西に向かって飛行機が一直線に駆け抜けると、追いかけるように航跡雲が伸びてゆく。爽やかな小風が木の葉に触れる秋涼の候、十月。
葉奈と過ごしていたあの小屋を離れてから、すでに一週間が経っていた。
秋日和の空の下、近くの公園では子どもたちが大声ではしゃぎながら元気に駆けずり回っている。二賀斗はアパートの部屋の隅のほうにジッとうずくまりながらその声を耳に入れる。立てた膝に腕を乗せて、その上に顎を置き、背を丸めたままジッとうずくまっている。……何かを見ているようで、何も見ていない眼。ただぼんやりと掃き出し窓から見える景色を、その目に映していた。
時たま、作業机に置かれたノートパソコンからメールを受信する音がピピッと鳴るが、表情一つ変えないで景色を眺めたまま二賀斗は部屋の隅で固まっていた。
窓に差し込む陽の光が、東から南に徐々に向きを変える。それに合わせて空の色も夕映えから黄昏へと姿を変えてゆく。
そのうち街灯に灯がともり始めると、夜の色も深みを増し、空には無数の星が輝き始める。明かりも点けず、静まり返った部屋には、膝を抱えた二賀斗の眼だけが怪しく光っている。そしてしばらくすると、その目も閉じられ静寂な夜が過ぎていく。
「チュン、……チュンチュン」
雑然とした部屋の隅でだらしなく横になったまま二賀斗は、掃き出し窓に差し込んだ陽の光で目を覚ます。
「……ん、うう」
二賀斗は上半身をゆっくりと起こすと、しばらく呆けたままで部屋の床を黙って見つめた。そして重い腰を上げると、そのまま洗面台の方に向かって歩き出した。
「…………」
一人黙ったままで洗面台の鏡をジッと見つめる。鏡に映されたその姿は紛れもなく今の二賀斗の心の奥をあからさまに映していた。寝乱れた髪、伸びきったヒゲ、やつれた頬。
突然、喉の奥底から得も言えぬ何かが込み上げてきた。二賀斗は両手で洗面台の縁を強くつかむと勢いよく顔を洗面台に沈めた。
「ッガアッ! アッ、グゥ……。ハア、ハア……」
込み上げてくる怒りを唾とともに排水溝に吐き捨てる。鏡に映っている男は紛れもなく葉奈を死に追いやった罪人。……葉奈の声に耳を貸さず、葉奈の気持ちに寄り添わず、結果として葉奈を見殺しにした咎人。二賀斗は口元を右手の甲で雑にふき取ると、そのまま下を向いて部屋に戻ってゆく。
カーテンが開いたままになっている部屋に戻ると、また隅の方に腰を落とし、壁にもたれ掛かりながら掃き出し窓から見える景色をぼんやりと見つめた。窓から差し込む陽の光が、まるで雲の間から差し込む薄明光線のように暗い部屋を照らし出す。
不意に、隣の部屋からスマホの着信音が聞こえてきた。二賀斗は、その音を聞いても特に気にする訳でもなくただぼんやりと外を見つめ続ける。それでも着信音が何十回と鳴り続けると、力なく立ち上がり、隣の部屋の作業机に置かれたスマホを手に取って通話に出た。
「……もしもし」
薄暗く、沈んだ声が二賀斗の口から漏れる。
「ああ、二賀斗さん? 俺だけど、昨日メールしたやつ読んだ?」
「あ、どうも。お世話になります。えっと、……すいません。あの、まだ読んでません。すみません」
二賀斗は、通話しながら頭を下げた。
「おい、大丈夫かァ? どうしちゃったんだよ、申請日のケツ決まってんだからさぁ」
「すいません。あの……、ちょっと自分、今まで入院していたもので」
「えっ? あ、そうなの?」
「は、はい。……ほんと、すみませんでした」
震えそうな声で二賀斗は言葉少なく話をする。そうしなければ声が震えて自分でも制御できなくなりそうだった。少しでも気を抜けばそれこそ涙がこぼれてしまう。二賀斗は必死で口元を抑えた。
「からだ、大丈夫? どうしちゃったの」
「すいません。ち、ちょっと、胃けいれんで……」
小刻みに唇が震えだした。
「……そうなんだ。ま、まあ、仕事頑張り過ぎないでよ。……じゃあ、とりあえずメールは見てよ、よろしくね」
あからさまに二賀斗の震えた声を聞かされ、電話の相手方もそれ以上、話をするに忍びなかったのか、早々に通話は切れた。
二賀斗は通話の切れたスマホを作業机にそっと置くと、力なくその場に腰を落とし、机の足にもたれ掛かった。二賀斗は手のひらを見つめると、そのまま顔に押し付けて唇の震えを無理矢理に抑えた。……そして気持ちを落ち着かせると頭を上げて窓の外に目をやった。
〈……行く場がない。目標もない。……夢も希望も、今の俺には何にも……ない〉
外の景色を目に写しながら二賀斗はぼんやりと考える。
“ひろき、生きていこう”
明日夏の放った力強い声が二賀斗の頭を過ぎる。
「生きていこう……か。一体、誰のために生きる。生きるべき者は、俺じゃない!」
二賀斗は唇を噛みしめると、膝を抱えてその間に頭を沈めた。
〈ハア。……苦しいよ。愛する人を失うっていうことがこんなにも苦しいものだなんて、全然分からなかった!……でも、今までとは何かが違う、何か違う感覚だ。俺だって人を好きになったことが無い訳じゃないのに。中学の時とか、高校の時とか、好きな子はいた! 振られて飯も喉を通らなかったことだってあった。……でも、でも今回は全然違う、絶望感がまるで違う。苦しい。……苦しいんだ。……ほんとに何にも手に付かない。この荒んだ気持ち、自分じゃもうどうしようもできない!〉
「チュンチュン……チュン」
スズメが一羽、ベランダの手すりで羽を休める。
〈明日夏。……お前も収を失ってこんな気持ちになっていたのか? こんな、こんなにつらい気持ちをたった一人で抱え込んでいたのか? ほんとはおとなしくて優しい性格なのに、気丈に振る舞って。……お前は強い、俺なんかと比べものにならないくらい強いよ。それなのに俺はあの時、お前にも罪を被せちまった。俺がお前の立場だったら、もっと小癪なマネをして葉奈を利用していただろうに……。最低だッ! 俺は!〉
二賀斗は、こぶしを強く握り締めて自分を呪った。
「お大事にしてくださーい」
「お世話になりました。マロンちゃん行くよ」
飼い主は受付で会釈をすると、犬を抱きかかえて動物病院を後にした。
「胡桃田先生、午前の患者さんはこれで終わりでーす」
受付窓口から女性看護師が、診察室にいる胡桃田獣医師に大きな声で報告をする。
「ああ、そう。……じゃあ、後は僕が片づけしとくからお昼入っちゃって」
「あっ、はい」
「如月センセー。お昼どうぞォー」
胡桃田は、少し声を高くして奥の倉庫にいる明日夏に話しかけた。
「あっ、はーい」
明日夏は、午後の診察に向けた準備をしながら、胡桃田院長の声に適当な返事を返す。
胡桃田動物病院。ここは明日夏の勤務している動物病院。院長である胡桃田獣医も、明日夏に劣らぬ程の動物愛護の志を持っている。方々の動物愛護団体の求めに応じて、手弁当で犬猫の不妊手術をしている、明日夏が尊敬してやまない人物。
午後の診察に向けた準備が一通り終わり、明日夏が休憩室の扉を開けると、女性看護師が休憩室に置かれた小型テレビを見ながら昼食を取っていた。
「あ、如月先生。お先にいただいてます」
「うん。なんか面白いのやってる?」
明日夏は、何気にテレビを覗き込んだ。
「何かァ、木が変わったとか言ってんですよ。リポーターが」
看護師は、にやけながら明日夏に話しかける。
「えッ?」
明日夏は表情を曇らせてテレビ画面を注視した。
ヘリコプターのブレードスラップ音が、容赦なく明日夏の耳に突き刺さる。高く上空を飛翔するヘリの中から年配の女性リポーターが声を張り上げて現場の状況を報告している。
「……上空からでは、どこからどこまで変化したのかははっきりと確認できません。ただ、ここから見ましても森は広く大地を埋め尽くしておりますッ」
明日夏は振り向くと、矢継ぎ早に看護師に尋ねた。
「ね、ねえ。なんだって言ってるの? これっ!」
「えっ?」
食ってかかったような明日夏の問いかけに、看護師は思わず箸を止め、目をパチクリさせた。
「あ、あの。な、なんか森の木が変わったって言ってましたけど……」
「どう変わったの!」
目を見開いて問いかける明日夏の表情に看護師は仰け反って答えた。
「な、なんか杉林が柿の木とかに変わっちゃったって、……言ってましたけどォ」
その言葉を聞くと、明日夏は急いで休憩室のドアを開けて外に飛び出した。
「……せ、先生?」
看護師は、あっけにとられた表情で開け放たれたドアを見つめた。
作業机にもたれたまま、膝を立てて丸くなっている二賀斗の頭上から着信音が聞こえてきた。二賀斗は、ぼんやりとした目をしながらダランと落とした右手をだるそうに持ち上げると、スマホを手にとり相手を確認する。
〈……明日夏か〉
画面をタップして電話に出る。
「……もしもし」
二賀斗は無機質で灰色を帯びた声で応える。
「ニーさんッ! テレビ見た? 大騒ぎになっちゃってるよッ!」
大通りの喧騒を背に、声を殺しながらも興奮した明日夏の声が二賀斗の耳を突き刺す。
「……どうしたんだ」
二賀斗は魂の抜けたような顔で明日夏の声を聞いている。
「あの森のことがテレビで流れてるのよォッ!」
〈えっ!〉
二賀斗が目を覚ました。さっきまで灰色に沈んでいた二賀斗の瞳の色が瞬く間に青く色付く。二賀斗は直ぐさま床から起き上がると、居間の方に走り出した。そして、急いでテレビを点けると、件のチャンネルボタンを押した。
空を切り裂くヘリコプターのブレード音がけたたましくテレビのスピーカーから聞こえてくる。
「……上空からでははっきりと確認することはできませんが、この辺り一帯の杉林が柿の木などに変わっているとのことです」
ヘリコプターの中から、女性リポーターが声を張り上げて現場の中継をしている。テレビ画面には上空からどこかの山が映し出されていた。
〈……どの辺りなんだ? 俺たちがいた場所じゃないようだけど〉
二賀斗はテレビを見つめながら、その場所を確認しようとした。
「ニーさん! テレビ見てるの? ねえ、どうしよう! 人が押し寄せてきちゃうかもしれないよ! そしたら、そしたら森が荒らされちゃうよ! 葉奈ちゃんの作った森が荒らされちゃうよッ!」
スマホからは明日夏の泣きそうな声が聞こえてきた。
〈葉奈の森。そうだ、あれは葉奈がつくった森だ! あの森だけは絶対に何とかしないと!〉
二賀斗はテレビの画面を強く睨みつけると、怒気を含んだ声で明日夏に告げた。
「そんなこと絶対させない! でも明日夏、しばらくはあそこに行くのはよそう。行けば周りから余計な詮索受けるかもしれないし、行くから野次馬も増えるんだ」
「えっ? じゃあ木の実どうなるの? やだよッ! それじゃ私が葉奈ちゃんに誓ったことができなくなっちゃうよッ! 私、嘘つきになっちゃうよ!」
明日夏は駄々をこねる幼児のような声を出した。強い想いを抑えられない明日夏の声。
「心配するな、明日夏。大体こんな話題、ひと月もすればみんな忘れちまうよ。見てみろよ、ちょっと前まであんなに騒いでいた国会議員の買収事件だって、結局いま何処の局も報道すらしていないし、誰も話題にさえしちゃいない。新しい話題ってのは毎日毎日引っ切り無しに生まれてるんだ。それを追いかけるのに忙しくって、こんな森のことなんかいつまでも構ってらんないって。マスコミなんて所詮、情報出しっぱなしで終わりなんだよ。だからそれまで待つんだ。……お前、いま仕事中なんだろ?」
「……うん、昼休み」
明日夏は落ち着いた様子で答える。
「大丈夫だよ、アイツはお前を待ってる。……今年ダメだって、来年もまた木の実は成るよ」
「……うん。何個かポケットに入れて持っては来たんだけど」
「はっ、……はははッ。そっか、転んでもタダじゃ起きなかったんだ。はははッ、明日夏って、意外に器用なところがあるんだな」
明日夏の言葉に二賀斗は声を上げて笑った。
「もうっ! 人のこと、そんな意地汚く言わないでよ。……また連絡するねッ」
「ああ、じゃあ」
通話を終えると二賀斗はそのまま居間のソファに腰を落とした。そして右手で掴んでいたスマホをソファの上に放り投げる。スマホは何度かバウンドして、そのままソファに寝転がった。
二賀斗は表情を沈めると、天井を見上げた。
〈……やっぱり、現実だったんだ。……葉奈が、森になっちまったこと〉
二賀斗は強く瞼を閉じた。
その日以降、新聞やテレビを見ながら二賀斗はあの森の話題が一刻も早く埋もれていくのを心の中で静かに待ち望んでいた。
その後、結果として森の話題はひと月も経たずに風化していった。事実、その間にも世間ではあんな話題とは比べものにならないほどに風味豊かなニュースが、国の内外を問わず生まれては消え、生まれては消えていたのだから。
葉奈と過ごしていたあの小屋を離れてから、すでに一週間が経っていた。
秋日和の空の下、近くの公園では子どもたちが大声ではしゃぎながら元気に駆けずり回っている。二賀斗はアパートの部屋の隅のほうにジッとうずくまりながらその声を耳に入れる。立てた膝に腕を乗せて、その上に顎を置き、背を丸めたままジッとうずくまっている。……何かを見ているようで、何も見ていない眼。ただぼんやりと掃き出し窓から見える景色を、その目に映していた。
時たま、作業机に置かれたノートパソコンからメールを受信する音がピピッと鳴るが、表情一つ変えないで景色を眺めたまま二賀斗は部屋の隅で固まっていた。
窓に差し込む陽の光が、東から南に徐々に向きを変える。それに合わせて空の色も夕映えから黄昏へと姿を変えてゆく。
そのうち街灯に灯がともり始めると、夜の色も深みを増し、空には無数の星が輝き始める。明かりも点けず、静まり返った部屋には、膝を抱えた二賀斗の眼だけが怪しく光っている。そしてしばらくすると、その目も閉じられ静寂な夜が過ぎていく。
「チュン、……チュンチュン」
雑然とした部屋の隅でだらしなく横になったまま二賀斗は、掃き出し窓に差し込んだ陽の光で目を覚ます。
「……ん、うう」
二賀斗は上半身をゆっくりと起こすと、しばらく呆けたままで部屋の床を黙って見つめた。そして重い腰を上げると、そのまま洗面台の方に向かって歩き出した。
「…………」
一人黙ったままで洗面台の鏡をジッと見つめる。鏡に映されたその姿は紛れもなく今の二賀斗の心の奥をあからさまに映していた。寝乱れた髪、伸びきったヒゲ、やつれた頬。
突然、喉の奥底から得も言えぬ何かが込み上げてきた。二賀斗は両手で洗面台の縁を強くつかむと勢いよく顔を洗面台に沈めた。
「ッガアッ! アッ、グゥ……。ハア、ハア……」
込み上げてくる怒りを唾とともに排水溝に吐き捨てる。鏡に映っている男は紛れもなく葉奈を死に追いやった罪人。……葉奈の声に耳を貸さず、葉奈の気持ちに寄り添わず、結果として葉奈を見殺しにした咎人。二賀斗は口元を右手の甲で雑にふき取ると、そのまま下を向いて部屋に戻ってゆく。
カーテンが開いたままになっている部屋に戻ると、また隅の方に腰を落とし、壁にもたれ掛かりながら掃き出し窓から見える景色をぼんやりと見つめた。窓から差し込む陽の光が、まるで雲の間から差し込む薄明光線のように暗い部屋を照らし出す。
不意に、隣の部屋からスマホの着信音が聞こえてきた。二賀斗は、その音を聞いても特に気にする訳でもなくただぼんやりと外を見つめ続ける。それでも着信音が何十回と鳴り続けると、力なく立ち上がり、隣の部屋の作業机に置かれたスマホを手に取って通話に出た。
「……もしもし」
薄暗く、沈んだ声が二賀斗の口から漏れる。
「ああ、二賀斗さん? 俺だけど、昨日メールしたやつ読んだ?」
「あ、どうも。お世話になります。えっと、……すいません。あの、まだ読んでません。すみません」
二賀斗は、通話しながら頭を下げた。
「おい、大丈夫かァ? どうしちゃったんだよ、申請日のケツ決まってんだからさぁ」
「すいません。あの……、ちょっと自分、今まで入院していたもので」
「えっ? あ、そうなの?」
「は、はい。……ほんと、すみませんでした」
震えそうな声で二賀斗は言葉少なく話をする。そうしなければ声が震えて自分でも制御できなくなりそうだった。少しでも気を抜けばそれこそ涙がこぼれてしまう。二賀斗は必死で口元を抑えた。
「からだ、大丈夫? どうしちゃったの」
「すいません。ち、ちょっと、胃けいれんで……」
小刻みに唇が震えだした。
「……そうなんだ。ま、まあ、仕事頑張り過ぎないでよ。……じゃあ、とりあえずメールは見てよ、よろしくね」
あからさまに二賀斗の震えた声を聞かされ、電話の相手方もそれ以上、話をするに忍びなかったのか、早々に通話は切れた。
二賀斗は通話の切れたスマホを作業机にそっと置くと、力なくその場に腰を落とし、机の足にもたれ掛かった。二賀斗は手のひらを見つめると、そのまま顔に押し付けて唇の震えを無理矢理に抑えた。……そして気持ちを落ち着かせると頭を上げて窓の外に目をやった。
〈……行く場がない。目標もない。……夢も希望も、今の俺には何にも……ない〉
外の景色を目に写しながら二賀斗はぼんやりと考える。
“ひろき、生きていこう”
明日夏の放った力強い声が二賀斗の頭を過ぎる。
「生きていこう……か。一体、誰のために生きる。生きるべき者は、俺じゃない!」
二賀斗は唇を噛みしめると、膝を抱えてその間に頭を沈めた。
〈ハア。……苦しいよ。愛する人を失うっていうことがこんなにも苦しいものだなんて、全然分からなかった!……でも、今までとは何かが違う、何か違う感覚だ。俺だって人を好きになったことが無い訳じゃないのに。中学の時とか、高校の時とか、好きな子はいた! 振られて飯も喉を通らなかったことだってあった。……でも、でも今回は全然違う、絶望感がまるで違う。苦しい。……苦しいんだ。……ほんとに何にも手に付かない。この荒んだ気持ち、自分じゃもうどうしようもできない!〉
「チュンチュン……チュン」
スズメが一羽、ベランダの手すりで羽を休める。
〈明日夏。……お前も収を失ってこんな気持ちになっていたのか? こんな、こんなにつらい気持ちをたった一人で抱え込んでいたのか? ほんとはおとなしくて優しい性格なのに、気丈に振る舞って。……お前は強い、俺なんかと比べものにならないくらい強いよ。それなのに俺はあの時、お前にも罪を被せちまった。俺がお前の立場だったら、もっと小癪なマネをして葉奈を利用していただろうに……。最低だッ! 俺は!〉
二賀斗は、こぶしを強く握り締めて自分を呪った。
「お大事にしてくださーい」
「お世話になりました。マロンちゃん行くよ」
飼い主は受付で会釈をすると、犬を抱きかかえて動物病院を後にした。
「胡桃田先生、午前の患者さんはこれで終わりでーす」
受付窓口から女性看護師が、診察室にいる胡桃田獣医師に大きな声で報告をする。
「ああ、そう。……じゃあ、後は僕が片づけしとくからお昼入っちゃって」
「あっ、はい」
「如月センセー。お昼どうぞォー」
胡桃田は、少し声を高くして奥の倉庫にいる明日夏に話しかけた。
「あっ、はーい」
明日夏は、午後の診察に向けた準備をしながら、胡桃田院長の声に適当な返事を返す。
胡桃田動物病院。ここは明日夏の勤務している動物病院。院長である胡桃田獣医も、明日夏に劣らぬ程の動物愛護の志を持っている。方々の動物愛護団体の求めに応じて、手弁当で犬猫の不妊手術をしている、明日夏が尊敬してやまない人物。
午後の診察に向けた準備が一通り終わり、明日夏が休憩室の扉を開けると、女性看護師が休憩室に置かれた小型テレビを見ながら昼食を取っていた。
「あ、如月先生。お先にいただいてます」
「うん。なんか面白いのやってる?」
明日夏は、何気にテレビを覗き込んだ。
「何かァ、木が変わったとか言ってんですよ。リポーターが」
看護師は、にやけながら明日夏に話しかける。
「えッ?」
明日夏は表情を曇らせてテレビ画面を注視した。
ヘリコプターのブレードスラップ音が、容赦なく明日夏の耳に突き刺さる。高く上空を飛翔するヘリの中から年配の女性リポーターが声を張り上げて現場の状況を報告している。
「……上空からでは、どこからどこまで変化したのかははっきりと確認できません。ただ、ここから見ましても森は広く大地を埋め尽くしておりますッ」
明日夏は振り向くと、矢継ぎ早に看護師に尋ねた。
「ね、ねえ。なんだって言ってるの? これっ!」
「えっ?」
食ってかかったような明日夏の問いかけに、看護師は思わず箸を止め、目をパチクリさせた。
「あ、あの。な、なんか森の木が変わったって言ってましたけど……」
「どう変わったの!」
目を見開いて問いかける明日夏の表情に看護師は仰け反って答えた。
「な、なんか杉林が柿の木とかに変わっちゃったって、……言ってましたけどォ」
その言葉を聞くと、明日夏は急いで休憩室のドアを開けて外に飛び出した。
「……せ、先生?」
看護師は、あっけにとられた表情で開け放たれたドアを見つめた。
作業机にもたれたまま、膝を立てて丸くなっている二賀斗の頭上から着信音が聞こえてきた。二賀斗は、ぼんやりとした目をしながらダランと落とした右手をだるそうに持ち上げると、スマホを手にとり相手を確認する。
〈……明日夏か〉
画面をタップして電話に出る。
「……もしもし」
二賀斗は無機質で灰色を帯びた声で応える。
「ニーさんッ! テレビ見た? 大騒ぎになっちゃってるよッ!」
大通りの喧騒を背に、声を殺しながらも興奮した明日夏の声が二賀斗の耳を突き刺す。
「……どうしたんだ」
二賀斗は魂の抜けたような顔で明日夏の声を聞いている。
「あの森のことがテレビで流れてるのよォッ!」
〈えっ!〉
二賀斗が目を覚ました。さっきまで灰色に沈んでいた二賀斗の瞳の色が瞬く間に青く色付く。二賀斗は直ぐさま床から起き上がると、居間の方に走り出した。そして、急いでテレビを点けると、件のチャンネルボタンを押した。
空を切り裂くヘリコプターのブレード音がけたたましくテレビのスピーカーから聞こえてくる。
「……上空からでははっきりと確認することはできませんが、この辺り一帯の杉林が柿の木などに変わっているとのことです」
ヘリコプターの中から、女性リポーターが声を張り上げて現場の中継をしている。テレビ画面には上空からどこかの山が映し出されていた。
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スマホからは明日夏の泣きそうな声が聞こえてきた。
〈葉奈の森。そうだ、あれは葉奈がつくった森だ! あの森だけは絶対に何とかしないと!〉
二賀斗はテレビの画面を強く睨みつけると、怒気を含んだ声で明日夏に告げた。
「そんなこと絶対させない! でも明日夏、しばらくはあそこに行くのはよそう。行けば周りから余計な詮索受けるかもしれないし、行くから野次馬も増えるんだ」
「えっ? じゃあ木の実どうなるの? やだよッ! それじゃ私が葉奈ちゃんに誓ったことができなくなっちゃうよッ! 私、嘘つきになっちゃうよ!」
明日夏は駄々をこねる幼児のような声を出した。強い想いを抑えられない明日夏の声。
「心配するな、明日夏。大体こんな話題、ひと月もすればみんな忘れちまうよ。見てみろよ、ちょっと前まであんなに騒いでいた国会議員の買収事件だって、結局いま何処の局も報道すらしていないし、誰も話題にさえしちゃいない。新しい話題ってのは毎日毎日引っ切り無しに生まれてるんだ。それを追いかけるのに忙しくって、こんな森のことなんかいつまでも構ってらんないって。マスコミなんて所詮、情報出しっぱなしで終わりなんだよ。だからそれまで待つんだ。……お前、いま仕事中なんだろ?」
「……うん、昼休み」
明日夏は落ち着いた様子で答える。
「大丈夫だよ、アイツはお前を待ってる。……今年ダメだって、来年もまた木の実は成るよ」
「……うん。何個かポケットに入れて持っては来たんだけど」
「はっ、……はははッ。そっか、転んでもタダじゃ起きなかったんだ。はははッ、明日夏って、意外に器用なところがあるんだな」
明日夏の言葉に二賀斗は声を上げて笑った。
「もうっ! 人のこと、そんな意地汚く言わないでよ。……また連絡するねッ」
「ああ、じゃあ」
通話を終えると二賀斗はそのまま居間のソファに腰を落とした。そして右手で掴んでいたスマホをソファの上に放り投げる。スマホは何度かバウンドして、そのままソファに寝転がった。
二賀斗は表情を沈めると、天井を見上げた。
〈……やっぱり、現実だったんだ。……葉奈が、森になっちまったこと〉
二賀斗は強く瞼を閉じた。
その日以降、新聞やテレビを見ながら二賀斗はあの森の話題が一刻も早く埋もれていくのを心の中で静かに待ち望んでいた。
その後、結果として森の話題はひと月も経たずに風化していった。事実、その間にも世間ではあんな話題とは比べものにならないほどに風味豊かなニュースが、国の内外を問わず生まれては消え、生まれては消えていたのだから。
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