暁の山羊

春野 サクラ

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 赤心女子学園。“赤心=まごころ”の名のもとに、心の育成を主眼とした中高一貫の学校法人。文武両道も併せ持ち、社会福祉や剣道を必修科目としている。また、高等部では毎年多くの生徒が旧帝大に合格をしている。
 四月になり、葉奈はパールホワイトのブレザーに黒のスカートを身に着け、毎日電車とバスを使って通学していた。
 「いってきまーす」
 葉奈はリュックを背負うと、ショートヘアーより少し伸ばした黒髪をふんわり宙に遊ばせ玄関を跳び出る。
 「葉奈ーッ、待ってよー!」
 三十九歳の明日夏が葉奈の後を追いかける、いつもの光景。二人は駅の改札口に入ると別々のプラットフォームに進む。葉奈は三番線に来る電車に乗って六番目の駅で降りる。そこから学園前行きのバスに乗る。座席はすでにいっぱい。ギュウギュウ詰めの中、十分ほど揺られてやっとその密室から解放される。そしてバスを降りるタイミングで、クラスメイトの真維に会う。
 「おっはよー、葉奈」
 ベリーショートの真維が手を上げて葉奈に挨拶をする。
 「おっはよー、真維」
 葉奈も手を上げて挨拶する。
 「今日、英語のテストあるんだよね。勉強やった?」
 真維は不安な顔で葉奈に問いかける。
 「あー。昨日さぁ、晩ゴハン食べたら眠くなっちゃってェ、そのまま寝ちゃった」
 葉奈は笑顔で答えた。
 「ほんとぉ?」
 「ウソウソ。一応やったけど、自信ないや」
 「葉奈は頭良いもんなー。うらやましい」
 「そう? えへへ」
 話をしながら二人は大勢の生徒と共に中等部の校門に入って行った。

 「……であるからぁ」
 窓際の席に座っている葉奈は、ほおづえを付いて先生の説明を聞いていたが、ふと窓の外に目をやった。遥か遠くに都市のビル群が見える。空には綿雲がふんわりと気持ちよさそうに浮かんでいた。
 〈……ん?〉
 ふと二賀斗の照れた顔が一瞬、脳裏に浮かんだ。
 〈なに? 今の。……ニーちゃん? なんか……すごい、若かった〉
 葉奈はまぶたをパチクリさせた。
 「如月ィ、黒板こっちだぞー」
 先生がよそ見をしている葉奈を見つけて声をかけた。
 「あ、はい」
 前の席の真維が振り返った。
 「どしたの?」
 「う、うん。……何でもない。へへっ」

 学校の授業が終わり、部活のバスケットボールの練習をして午後六時。校門前のバス停からバスに乗り、それから電車を使って自宅最寄りの駅に着く頃には、午後七時を過ぎていた。
 改札口を出ると、駅のロータリーに母の乗った軽自動車が葉奈の帰りを待っていた。葉奈は助手席のドアを開け、車に乗り込む。
 「ただいまー」
 「おかえりなさい」
 葉奈がシートベルトを締めたのを確認すると、容子は車をゆっくりと走らせた。
 「乗り継ぎとか、大変でしょ」
 運転をしながら容子が話しかける。
 「うん。まあね」
 葉奈はサイドガラス越しに夜の街を見つめる。
 「……あのね、今日ね」
 急に葉奈が母の方を向いた。
 「うん、なあに」
 母は前を向いたまま聞き返したが、葉奈は口を閉じて、再びサイドガラスの方に顔を戻した。
 「……うん。……先生に怒られちゃった」
 「ええっ? どうしたの?」
 「へへ。よそ見してたら怒られちゃった」
 「あらぁ、葉奈もそんなことするんだ」
 容子は笑みを浮かべた。
 〈あれって、ニーちゃんだよね。……ニーちゃんの若い時の顔なんて一度も見たことないのに、なんでニーちゃんのあんな顔が頭に浮かんだんだろ。あんな若い顔が……。でもかわいかったなァ、あの照れた顔〉
 葉奈は過ぎゆく街並みを見ながら一人、にやけた顔をしていた。



 そして葉奈の中学一年生の時期は足早に過ぎ去り、次の学年に進級する前の春休みを迎える。森林公園の並木桜のつぼみは、日ごとに紅みを帯びた白い花へと成長していき、芝生広場ではあちらこちらに鮮やかな黄色のたんぽぽが可愛らしい産声を上げていた。
 「はい、もしもーし」
 二賀斗は、自宅の作業机で明日夏からの電話を取った。
 「あー、ニーさん。お昼にゴメンね。今大丈夫?」
 二賀斗は、パソコンから手を離して椅子の背にもたれ掛かった。
 「うん、なんだい」
 「あのね、ちょっとしたお願いがあるんだけど……」
 「んん……。まぁ、俺でよければ……」
 二賀斗は、身構えながら答えた。
 「あのね、……葉奈が原宿に行きたいって言ってるのよ。それでね、一緒に行ってほしいんだけど、どうかな?」
 「ええっ! 俺が行くの? 俺もう四十過ぎのオッサンだぞ! どっちかって言うと明日夏の方がいいんじゃないのか?」
 「私仕事だし、うちの両親だってもう七十近いのよ。一緒に行けるのニーさんしかいないし、……ダメ?」
 「逆に俺が恥ずかしくなっちまうよ、あんな若い奴らの溜まり場じゃ……」
 二賀斗は頭を掻きながら返答した。
 「えーっ? ニーさん、さっき俺でよければって言ったじゃない」
 スマホから明日夏のすがるような声が聞こえる。
 「えー? そんなァ。……葉奈だって、こんなオッサンとじゃ嫌がるだろ?」
 「ううん。そんなことないわよ。だって葉奈がニーさんと行きたいって言ったんだもの。あの子のためなら何でもするんでしょ、ニーさん。……ダメ?」
 「ええッ? ……うーん。葉奈がいいっていうんじゃあ、まあ。都合がつけば……」
 二賀斗は渋い顔をしながら答えた。
 「ほんと! ニーさんゴメンね。よーく葉奈に言っておくから。ニーさんに借りができたよって」
 「いや、まあ。……うん」
 「じゃあ、また電話するね」
 正午過ぎに発生した、一陣の風が去って行った。

 「はぁ。……なんのこっちゃ」
 二賀斗はそう言うと、気を取り直して仕事を始めた。

 そしてその日の宵。作業机に噛り付いている二賀斗をよそにスマホの着信音が再び鳴る。
 「んん? ……また明日夏か。何だよ、今度は」
 二賀斗は、苦い顔で電話に出た。
 「あっ、ニーさん。何度もゴメンね。ちょっと待ってて。……葉奈ァ、自分で言いなさいよ。ほら」
 「……あ、もしもし。ニーちゃん、こんばんは」
 葉奈のすました声が聞こえてきた。
 「おお。こんばんは」
 「あの……、一緒に行ってもらっていい? 原宿に」
 「ああー。いいよー。いつでもいいからね」
 「ホント? 明日とか明後日とかでもいい? 春休みの間に行きたいの」
 「えっ? えっ? ……ち、ちょっと待ってて」
 二賀斗は慌てて手帳を開いて予定を確認した。
 〈明日とか明後日とか、急過ぎだろ! ……えーっと、とりあえずこれを何とか終わせば明後日くらいなら時間がつくれるかなぁ〉
 「えーっと、葉奈ちゃん。明後日なら大丈夫かなぁ」
 自信なさげに二賀斗が答える。
 「えっ! ホント! 何時くらいに行けるの?」
 「……じゃ、じゃあ、十時に迎えに行くよ」
 「やったー。じゃあ、待ってるね。……はい、お姉ちゃん」
 「葉奈ア! ちゃんとお礼言いなさいよ! ……ニーさんゴメンね。生意気なことしたらちゃんと叱ってね」
 「ああ、うん。ははっ」
 二賀斗は苦笑いをしながらも、葉奈と出掛けることに少し胸が高鳴っていることを自覚していた。

 翌々日。青い空には薄い雲が所々に棚引いている。空から暖かな日差しが舞い降りているが、時折冷たい風が通り過ぎる。
 ダイニングのドアホンが鳴る。
 「あっ、ニーちゃんだ!」
 葉奈が小走りでドアホンに寄って行く。
 「はーい」
 「おはようございまーす」
 ドアホンから二賀斗の声が聞こえてきた。
 「今開けまーす」
 葉奈は飛び跳ねるように玄関に向かい、扉を開けた。
 「ニーちゃん、おはようございまーす」
 葉奈が笑顔で挨拶をする。
 「おはよーっ」
 「陽生さん、今日はゴメンなさいね。あがって下さい」
 葉奈の後ろから容子が顔を出した。
 「ええと。電車で行こうと思ってるんで、時間が……」
 「あらそう? じゃあ、気を付けて行ってらっしゃい」
 「じゃ、行ってきまーす」
 二人は家を後にした。
 道すがら、すれ違う人々がいちいち二賀斗達に視線を向ける。
 〈なんなんだ、いちいち。……変な関係って見られてんのかなァ〉
 「どしたの?」
 葉奈が顔を上げて二賀斗の顔を覗き込んだ。
 「ああ、うん。……行くとこ決まってるの?」
 「うん。洋服買いたいの!」
 「ふーん。行く店の場所はわかってるんかい?」
 「もっちろんよ! 昨日、最高に調べたんだから」
 葉奈は二賀斗を従え、意気揚々と駅に向かって行った。

 電車に乗って数十分後、葉奈の目的地に到着した。
 〈なんじゃ、こりゃ……〉
 まるでアリの群れ。人の形をした洪水。建築物以外の空間がすべて人で埋め尽くされている光景に二賀斗は圧倒された。
 「……原宿って、すごいね。こんなに人がいるんだァ」
 葉奈が目を輝かせて、そう言った。
 「これ、かき分けていくのかぁ……」
 二賀斗が尻込みした声を出したとたんに、葉奈が大きく足を踏み出した。
 「行こ! ニーちゃん」
 葉奈は、人の波に飛び込んでいった。
 「おーい! はぐれるぞっ」
 二賀斗は急いで葉奈の後を追った。

 人のうねりの中、葉奈は軽快に泳ぎ回る。二賀斗は溺れそうになりながら、見失わないよう必死で葉奈の後を追った。
 「ニーちゃん、ここ!」
 葉奈はホットピンクに塗られたクレイジーな店を指さした。
 「うはーっ。すげー店だな。……じゃあ、俺はここで待ってるから、終わったら呼んでよ」
 「うん」
 葉奈は店の中に入っていく。
 十数分後、葉奈が店から出てきた。
 「ニーちゃん、次行こ! 次」
 葉奈は再び波の中に沈んでいった。

 「ニーちゃん、今度はねえ……」
 二人は、歩道の隅で次の店を探していた。
 「あの、ちょっとよろしいでしょうか」
 スーツ姿の若い女性が二賀斗に声をかけてきた。
 「……はい?」
 「私、モデル事務所の者ですが、お嬢さまって、モデルにご興味おありですか?」
 「……へ?」
 二賀斗は目を丸くしてその女性を見た。
 「……あ、モデルにご興味はありますか?」
 「えっ? スカウト、ですか?」
 「ええ! はい」
 「は、葉奈ちゃん、スカウトだってよ! おい」
 二賀斗は慌てて葉奈を見た。
 「えー? 別にいいです」
 葉奈は首を横に振った。
 「ああっ、何か、間に合ってるそうですが……」
 二賀斗は苦笑いをしながら女性に話した。
 「そうですか。じゃ、あの、これ私の名刺ですので、ご興味が湧きましたらぜひともご連絡ください!」
 女性は二賀斗に名刺を渡すと、一礼してその場を離れた。
 それからまた二人で通りを歩いていると、スーツ姿の中年の男性が話しかけてきた。
 「こ、こんにちは。私こういうものですが、お子様は芸能界に興味はございませんか?」
 「は? えっと、お子様じゃないんだけど……葉奈ちゃん、芸能界だって」
 「あー。……別にィ」
 葉奈は困った顔をすると、二賀斗の背中に隠れた。
 「なんか、本人は興味なさそうで……」
 二賀斗は取り繕った笑顔で、男性に答えた。
 「で、では、もしご興味がありましたらご連絡ください! よろしくお願いします」
 男性は深々とおじぎをして、去って行った。
 「ニーさん、あそこ! あそこ行こ」
 葉奈は店を指さすと、一直線に走って行った。

 夕方。太陽が姿を隠すのと同じ頃に葉奈と二賀斗は、葉奈の自宅に帰って来た。
 「ただいまー!」
 葉奈は、玄関先から大きな声を出して母を呼んだ。家の奥から足音が近づいてくる。
 「ああっ、葉奈ちゃんお帰りなさい。陽生さん、今日はお世話になりました。どうぞ上がってください」
 容子が笑顔で出迎えた。
 「ニーちゃん、上がって」
 葉奈はスニーカーを脱ぎ捨てると、先に家の中に入って行った。
 「はい、じゃあ少しだけお邪魔します」
 二賀斗も靴を脱ぐと、自分と葉奈の靴を揃えて、容子と一緒に家の奥に入って行った。

 「ただいまぁ……」
 夜八時過ぎ。明日夏の気だるそうな声が玄関から聞こえてきた。
 「あら、ニーさん。居たのね。今日はお疲れさまー」
 「ああ、いや。先に頂いちゃってて申し訳ない」
 ダイニングテーブルには、明日夏を除いた四人がすでに食事を取っていた。明日夏はバッグをリビングのソファに投げ置くと、キッチンで手を洗い、定位置である二賀斗の隣の椅子に腰を落とした。すると、明日夏と入れ替わるように今度は葉奈が立ち上がり、リビングの方に歩いて行った。
 「おねーちゃん、見てー」
 ミントグリーンのブルゾンを身に着けた葉奈が、嬉しそうに明日夏にお披露目をする。
 「あら、かわいい。今日買ってきたの?」
 「ニーちゃんに買ってもらったー」
 「ええっ! 自分で出さなかったの?」
 明日夏はしかめた顔をして声を上げた。
 「あ、あーちゃん。俺からのプレゼントだからさ、ここは穏便に。ねっ」
 二賀斗は、静かな口調で明日夏に話しかけた。
 「あとねー、ブラウスも買ってもらった」
 葉奈は笑顔で報告した。
 「ニーさん。……ほんっと甘いんだから」
 明日夏は目を細めて二賀斗を見る。
 「まあまあ。それより明日夏、すごいぞ」
 「ええっ? なに、お父さん」
 しかめた顔のまま明日夏は父の方を向いた。父は視線を出して二賀斗に話すよう促した。
 「あっ、はい。……今日さぁ、原宿に行ったんだけどさぁ、四人だよ、四人」
 そう言うと、テーブルの隅に置いてある四枚の名刺を掴んで、明日夏の前に並べた。
 「芸能事務所だってさ。……今日は葉奈ちゃんの実力を見せつけられたよ」
 「えっ? ほんと? なに、入るの?」
 明日夏は目を丸くすると、上擦った声で聞き返した。
 「いや、葉奈ちゃん興味ないって全部断ったけど、すごいねー。スカウトされるって」
 リビングにいた葉奈がテーブルに戻ってくる。
 「物好きねェ」
 明日夏は名刺を手に取りながら一言漏らす。
 「お姉ちゃん、うらやましんでしょー」
 葉奈は目を細めてほくそ笑んだ。
 「別にィー」
 明日夏は手に取った名刺をテーブルに置いた。
 「うらやましいくせにー」
 葉奈がニンマリと笑っている。
 「葉奈ちゃん。お姉さんはね、大学の時すごいモテてたんだぞー」
 「ちょっ、ニーさんやめてよ。逆に恥ずかしくなっちゃうでしょ」
 明日夏は二賀斗の右腕を掴み、話を制止しようとした。
 「そうだ、明日夏だって昔はかわいい、かわいいって近所じゃあ評判だったんだ。はははっ」
 鐡哉が豪快に笑った。
 「へェー」
 葉奈は冷ややかな顔で相づちを打った。

 春休みも終わり、四月。柔らかな風とともにテントウムシやアゲハチョウが顔を出してきた。
 五月、近くの堤が菜の花で鮮やかな黄色に彩られる。
 六月水無月、田んぼに水が入る時期。カエルの鳴く声が響き渡る。
 画家が筆でキャンバスに一つ一つ色を重ねるように、葉奈の容姿も日々を重ねるごとに佳麗な姿に形を変えていった。そして、葉奈が街に出ていくと、その度に必ず数枚の芸能事務所のスカウトの名刺を持って帰ってきた。名刺達は、必ずその日のうちにゴミ箱に消えていったが、名刺の数に反比例するかのように葉奈の心には、少しづつ暗い陰が差していった。
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