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32 エピローグ

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エピローグ



オレンジ色の三角屋根を乗せたレンガ調の建物が街を埋め尽くし、そこかしこにバロック様式の教会が荘厳にそびえ立つ。石畳の通りは住民たちの闊達な話し声と観光客の楽しげな笑い声で溢れかえる。
アルプス山脈の北縁に位置するドイツ第三の都市、ミュンヘン。バイエルンの薫漂う中心部広場にほど近い都市公園にも多くの人々が足を運んでいた。
「Dann die nächsten Neuigkeiten (では、次のニュースです) ……調査機関の報告によりますと、減少傾向にあったアマゾンなどの熱帯林の地表に占める割合が、十年前と比べて劇的な回復傾向に転じているとのことです。原因は明らかとなっていませんが、研究者の話では……」
ラジオを聞きながらジョギングする人々をよそに、公園のほぼ中央に位置するその場所にはひと際多くの人達の姿があった。
人々が取り囲む二メートル近い台座。その上には右腕が欠けた短髪の女性像が置かれてある。白亜の女性像は左手を胸の前に置き、空を仰ぎ見ている。
人々は台座の足元に思い思いの花束を置くと、像に向かって手を合わせて祈る。
台座には短い文章が添えられていた。
”NIKADO, Yua (二賀斗 結愛)
Sie erschienen vor uns wie die aufgehende Sonne und gingen wie die untergehende Sonne
(あなたは私たちの前に朝日のように現れ、夕日のように去って行った)
……あなたは太陽のように我々を照らし、湧水のように潤してくれた。風のように我々を癒し、大地のように見守ってくれた。
あなたの言葉は我々を諭し、励まし、希望の未来へと導いてくれた。そして、我々人類にこの自然と再び融和する機会を与えてくれた。
……Wir nennen Sie so respektvoll (我々は、敬意をもってあなたをこう呼ぶ)
「Menschlicher und natürlicher Vermittler」 (「人と自然の調停者」、と)”

台座の周りは結愛を慕う多くの花束で埋め尽くされていた。祈る人達の間を縫ってサングラスにキャップを被った少女が台座に歩み寄ると、しゃがみ込んでその花束の上に一輪のクレマチスの花を置いた。そして少女は小さな声でつぶやく。
「Mom、I brought it again (ママ、また持ってきたよ) ……ちょっと時間がかかっちゃったけど、何とかここに無事戻ってこれたわ。それにしてもママがこの世からいなくなって二年が経つのに、見て。今でもこんなにいっぱいの人たちがママのことを想ってくれてるわよ。でもさ、母親が優秀だとその分子どもが苦労しちゃうね。あはッ。……まぁ実際、ママの作り上げた食料生産需給システムのおかげで食料奴隷だった家畜は解放され、枯渇寸前だった地下水も寸でのところで枯らさずに済んた。食料がくまなく行き渡ったことで世界の餓死者の数も急激に減少し、飢餓という言葉ももうすぐ使われなくなるかもしれない。……利き腕を失くしながらもそのチカラで世界をここまで安定に導いたあなたを、私は誰よりも誇りに思います。それにあなたのパパ、私のおじいちゃんが私たちのことをあそこまできちんと調べてくれてなかったら、私たちはもしかしたら今でも漫然と受動的な生き方を続けていたのかもしれない。……それとね、ママ。私、今日で十七になったの。どうやら機が熟したみたいだから、今日旅立つわ。私が向かう先は……この世のあらゆる紛争地帯。ここがどれだけの人を悲しませ、どれだけの不幸を世界にまき散らしているか。そのことを考えるだけで心が震えるわ。……私は、どうしてもこの理不尽を無くしたい!」
青いジーンズに白のTシャツ、カーキ色した作業服を身にまとった二賀斗侑は華奢な身体を立ち上がらせた。真珠色の肌は、人々の中にいても殊更目立つ。侑は白亜の像を見上げた。
「私も龍の血を受け継いでるなんて、ホントどんな偶然なのかしらね。もしかしたら、最初の”私”に急かされてるのかな、早く私を満足させろって。……でもね、ママ。私、感じるの。近い将来、どこかの”私”がこの輪廻を、この無限のループを打ち破ってくれるって。それに見て、ママ。ママのお兄さん、私の伯父さんが遥か遠くの日本から飛ばしてるこの光の粒子。これが植物達に絶え間なく膨大な成長エネルギーを与えているのよ。伸びて伸びてしょうがないくらいにね。……ってことで、取りあえず自然界のことは伯父さんに任せて、私は人間界のことに専念するわ!」
不意に侑は帽子とサングラスを取り払った。腰までかかる艶やかな黒髪が風になびく。そして強い意志を持った表情で像に一言、告げる。
「……Goodbye mom.The ship will never return (バイバイ、ママ。これでお別れです)」
空を仰ぐ結愛の石像に背を向けると、円を描くように漆黒の髪がはためいた。周りで祈っていた人々も侑のその仕草に思わず目を奪われた。
公園の出口に向かう長い一本の通路。侑はその道を小さなピンク色したトロリーバッグを引きながら歩いて行く。
「Es tut nus leid! (ごめーん!)」
そばの芝生広場でボール遊びをしていた小学生がボールをキャッチし損ない、ボールが通路に転がった。
ボールはコロコロと転がり侑の足元にたどり着く。侑はその赤いビニールボールを両手で拾い上げると、取りに走って来た男児に差し出した。
「Hier sind Sie ja (はい、どうぞ)」
天使のような輝く笑顔で話しかける侑の顔を男の子は恥ずかしそうに見つめる。
「Oh danke (あ、ありがと)」
侑は彼の金色の髪にやさしく触れると手を振って歩き出した。
少年はその場に佇み、ジッと侑の後ろ姿を見つめる。
「Was ist los mit dir (どうしたんだよ)」
一緒に遊んでいた友達が駆け寄ってくる。
「……korrekt、Yui! Dieses Kind Yui!(……そうだよ、侑だ! 侑だよ!)」
「Bedeutet Yui Nikado Yui?(ゆいって、あの二賀斗侑?)」
「Korrekt!(そうだってば!)」
「Ja wirklich!(ほんとか!) Nikado Yui hat im vergangenen jahr 120 Fluchtlinge aus dem Kampfgebiet gerettet! (去年、戦闘地域から120人の難民を救出した、あの二賀斗侑!)」
「Wo bist du!(何処なの!)」
少年が指さすと侑の姿はもう、そこには無かった。男の子たちは英雄、侑の姿を見つけ出そうと必死になって周りを見回した。

黒いサングラスをかけ、長い黒髪をキャップの中にしまい込んだ侑が、にぎやかなミュンヘンの大通りを歩く。
人々の笑顔と弾んだ声を背に、二賀斗侑の物語は今、始まる。待ち受けるはイバラ、あるいは苦難。……それでも山羊は荒野を歩み続ける。自らの血と肉と、わずかばかりの希望を持ちて。
                                                                                     (完)
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