極星 青と赤 《希望の山羊》

春野 サクラ

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結愛が旅立ってからすでに二年の月日が流れた。桜の花はすっかり葉桜となり、黄色い菜の花が畦道いっぱいに咲き誇っていた。いつの間にかチョウも姿を現し、陽生の家の庭先に咲き乱れる数十本のチューリップの蜜を我が物顔で堪能していた。
暖かな陽射しの下、昼食を摂り終え特にやることもなく手持ち無沙汰になっていた七十歳近い陽生は、庭の草花に水を撒いていた。
「こんちはー」
郵便局員が通りから陽生に声をかける。
「郵便でーす」
「ああ、どうも」
郵便局員は陽生に一枚の封筒を手渡すと、そのままバイクを吹かして足早に去って行った。
赤青白の縁取りされた封筒。表面には英語でつらつらと文字が書かれている。
”……From  Yua  Nikado”
「ゆ、結愛ッ!」
突然の結愛からの手紙に陽生は興奮の声を上げた。手を震わせながらその場で封筒の封を開けると、中に入っている手紙を強引に抜き取り、読み始めた。
「…………」
手紙を持つ手を微かに震わせて陽生は読み進める。筒に入っていた手紙には、ごくごく短い文章しか記されていなかったが、陽生は最後の文字を読み終えると、静かに目を閉じて深い溜め息を吐いた。

翌日。太陽が真南に登り切るまでもう少しの時間を要する午前、庭では明日夏が洗濯物を干していた。
「ゥワン! ハッハッ、ワンッ」
庭にいるイチが勢いよく吠え出した。
「……イチ、おはよう」
聞き慣れたその声を耳にすると、明日夏は家事の手を止めて思わず後ろを振り向いた。
「に、ニーさん! ……どう、したの。こんな時間に」
「ごめん。連絡もしないで来ちまって」
「……ううん。それよりニーさんも随分老けたわね。顔を見るの何年ぶりかしら。えーっと……」
「それよりさ、結愛から手紙が届いたんだよ」
「……そう。……何、わざわざ持って来てくれたの?」
「ああ。……読んでほしいなって思ってさ」
陽生は肩掛けバッグから手紙を取り出すと、明日夏に渡した。明日夏は手紙を受け取ると、陽生とともに南側に置かれた縁側に腰を下ろして手紙を読み始めた。
”――親愛なるパパへ
パパの温かいぬくもりに別れを告げてからすでに二年の月日が経ったのですね。あれから私はいろいろな国を渡り歩きました。北米から南米に進み、それからオセアニアを通ってアフリカに行き、中東をめぐりました。
この世界を取り巻く食料環境は、とてもひどい。その言葉に尽きます。巨大なサプライチェーンによって大量の食料品が市場に放出され、それを享受する人々がいる一方で、一グラムの小麦さえ口にできずに骨と皮の姿でこの世を去る子どもたちがいます。人々の、過剰ともいえる穀物の生産にともなって使用される大量の肥料により耕作地はやせ衰え、土地に吸収されなかった大量の窒素類が河川に流れ込み、水質を悪化させています。灌漑農業によって地下水は過剰に揚水され枯渇の危機に瀕していますし、食肉家畜を養うために必要な穀物を栽培するために森林は伐採され、プランテーションに姿を変えています。
巨大サプライチェーンが提供する低価格の食料品を生産するために、生産者は常にギリギリの生活に喘ぎ、借金のためにその農地を放棄することさえできない状況です。
そして、その食料を得るために人々は銃を握り、暴力へと進んでいきます。殺人、レイプ、暴行、盗み。これらの行為が日常の生活の一部と化している状況には今でも慣れることはありません。
私事ですが、未だ発砲の音が止まない或る国に入り、親を亡くした子ども達が集まっている施設を訪問しました。そこに身を寄せる子どもたちは食事もままならず皆、悲しく不安な表情をしていましたが、それでも彼らの瞳は困難を乗り越えようという強い意志に満ち溢れていました。あいにくその時の私の持ち物と言えば腰まで伸びた髪くらいしかありませんでしたが、試しに市場で売ってみたところ、いい値が付いたのでそのお金で買えるだけの食料を買い込み、施設の子どもたちに配りました。高校球児みたいな頭になって子どもたちの前に現れたので、みんなびっくりしていました。
今、この世界に敷設された食料生産供給システムは明らかに自然環境を歪め、食料が必要な多くの人々を貧困から救う作りとはなっていません。ではどうすればいいのか、どのようにすればいいのか。私たちが見て見ぬふりをしてきたこの課題に対して真剣に向き合い早急に手をつけなければ、崩壊という名の大蛇は確実に私たちを飲み込むでしょう。
最早、サプライチェーンやその手先の政治家達に問題解決のための時間を与えている余裕はないでしょう。彼らがすることといえばいつも小手先の延命治療の様な対応に終始しているのですから。であればこそ、このシステムを根本的に変えることができたなら、別の革新的なシステムを構築できたなら、あるいはそこに飢餓を克服するための新たな活路が見いだせることになるかもしれません。

この手紙がパパの手元に届く頃には、私はイギリスに着いていることでしょう。”

イギリス、コーンウォールズ州の西端に位置するランズ・エンド。高くそびえた花崗岩の崖から結愛は碧い海を黙ったままで眺めている。空はイギリス特有の厚い曇で白く濁っていた。打ち寄せる重たい波の音。……しかし海風は何時になく優しかった。
結愛はそっと右手を空にかざすと、垂れこめていた雲がゆっくりと道を開けた。すると、そこから暖かい日差しが顔を出し、結愛を照らし出した。

”二年の月日が経ったとはいえ、私の旅はまだ始まったばかりです。この先も苦く険しい旅路となるはずです。でも、だからといって後ろを振り返ってばかりもいられません。
パパ。私からの手紙はこれが最初で最後となるでしょう。もう、生きて再びお目にかかることもありません。
二賀斗陽生様 幾久しくお健やかに。
追伸 先日、私の分身がこの世に生まれました。女の子です。私はこの子に”ゆい”という名前をつけました。”

陽の光を一身に浴びる結愛の胸には彼女の分身、侑が静かに眠っている。結愛は左手で侑の背中をやさしくさする。

”この子が生まれたということは、私の命も終わりが近いということでしょう。ですが次の”私”が白い翼を広げられるその日まで、私は走り続けたいと思います。
あなたの娘 二賀斗 結愛より”

手紙を読み終えた明日夏は、唇をそっと噛みしめた。
「…………もう、会えないのね。結愛ちゃん」
陽生が口を開く。
「これでみんな、いなくなっちまったよ。葉奈、収友、結愛。……収、お義父さん、お義母さん、親父、お袋」
鼻先を右の親指で二回擦ると、陽生は話し続けた。
「学生時代、何て言うか……自分がモテてたってことはわかってたよ。うん。……でも、俺は一人でいたかった。ずっと、ずっと気楽に一人で生きていたかった。大学を卒業しても、独り自由気ままな暮らしをしていたある日、葉奈と出会い、一緒の時間を過ごし、そしてアイツは消えていった……」
陽生は空を仰いだ。
「あのとき、葉奈を埋めながらやっとわかったんだ。俺は、独りでいたかった訳じゃない。……独りになりたくなかっただけなんだ。愛しい誰かを失って、独りぼっちになるのが……怖かっただけなんだよ」
明日夏は静かに手紙を折りたたむ。
「……幸せだった。あーちゃん、お義父さんお義母さん、葉奈、収友、結愛。みんなに囲まれて、本当に幸せな毎日だった。……それを思うと、本当に寂しい。あの家には、暖かな思い出があり過ぎて……もう、……帰りたくない」
そう言って陽生は下を向いた。
「……引き払っちゃいなさいよ」
「……え?」
陽生は顔を上げて明日夏を見る。
「あの家引き払って、ここで一緒に住めば」
明日夏はすがすがしい笑顔で答える。
「……あ、……え、と。…………い、いいのかい?」
「実際、ニーさんとこんなに長く付き合うなんて思いもしなかったけど、これも運命なんだろうね。……でも、これだけは約束して」
明日夏は真剣な顔で陽生を見つめた。
「私より先に死なないで。……もう、置いてかれるのは絶対にイヤ」
陽生は明日夏の哀傷に染まった言葉を耳に入れると、視線を落とし、顔をうつむかせた。そしてしばらく黙っていたが、やおら顔を上げて笑い出した。
「よっし! わかった。あーちゃんのこと見送ってやるよ。安心してくれ。だから、好きなだけ山に行ってくれよ。炊事洗濯は全部、俺がやるから!」
「ふふっ。そんな、無理しないでよ? ……あっ! ……ふふふ、あははは」
不意に明日夏が小さな笑い声を出す。
「……なに。どうしたの」
「ああ、うん。……ちょっとね、昔話のくだりを思い出しちゃったわ。ふふっ」
「なんて」
「うん。……おばあさんは山に柴刈りに、おじいさんは川に洗濯に、ってね」
「なんだよそれ、ははっ。現代版桃太郎って感じだな……」
陽生も軽く笑い声を出すが、しばらくすると急に冷めた顔になった。
「……どうなんだろ。案外、流れてくるかもよ。ドンブラコッコ、ドンブラコッコって……あの山から」
陽生は明日夏に向いていた視線を正面にそびえる裏山の方に移した。
「……え?」
明日夏は怪訝な顔で陽生を見る。
「なんだかんだ言って、葉奈だって生まれ変わったろ? もしかしたらアイツも……。こりゃあ、長生きする価値、あるかもしれねえぞ」
陽生は口元を上げた顔を明日夏に見せつけた。
「……そ、そんなこと言われたら、トコトンまで生きたくなっちゃうじゃない! もうッ! 私、めいいっぱい生きてやるから! そして収友に痛ったいゲンコツくらわしてやるわッ。私に内緒で勝手なことして! 私が死なないんだから、ニーさんも死ねないんだからね!」
「よ――しッ! 俺も付き合うぞ! アイツに説教しなくちゃいけねえからなッ。学校さぼって何やってたんだって!」
陽生と明日夏の暗く濁った灰色の瞳が、一気にまばゆい輝きに満ち溢れた。……かすかな希望。二人は生まれたばかりの一縷の望みを胸に抱いて新緑色に映える山の頂きを笑顔で見守った。
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