月の女神と夜の女王

海獺屋ぼの

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下弦の月

裏月 ボアンカレ

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 私はバイトを終えると自転車で帰り道を急いでいた。昨日は台風でひどい天気だったけど今日は極端に天気がいい。自転車で走れば走るほど全身から汗が噴き出す。太陽さん頼むからもう少し手加減してほしい。
 シェアハウスに戻ると共用スペースで湯野さんがゆったりしていた。彼女は相も変わらずだらしない格好で新聞を読みながらガリガリ君を食べている。
「ただいま! あれ? 今日は茜ちゃん一緒じゃないんだね?」
「おかえり京極さん! 茜ちゃんなら午前中から友達と会うって言って出かけて行ったよ! そういえば帰り遅いねー」
「友達? 茜ちゃんこっちで友達なんていたっけ?」
 私は茜ちゃんの友達に心当たりがなかった。あの子がこのシェアハウスに来てから知り合った相手なんて大志とジュンくらいだろう。
「なんか女の子だって言ってたよ! 一緒にご飯食べにいくんだってさ!」
「ふーん……」
 私はそれを聞いて誰なのか何となく察した。おそらくルナだ。
「ちょっと京極さん、悪いんだけど茜ちゃんに連絡してくんないかな? いくら何でも遅すぎるからさ。午前中から今までじゃちょっと遅いよ。さすがに心配だ」
 私は湯野さんに言われて茜ちゃんに連絡しようとした。

 バンッ!! ドタァ

 シェアハウスのドアの前で大きな音がして誰かが倒れるような気配を感じた。私と湯野さんが顔を見合わせてから表に出ると、菊丸さんが地面に倒れている。
「ちょっと菊さん! どうしたの!?」
 私は菊丸さんに駆け寄る。彼の目の前には二〇代前半くらいの茶髪でつり目がちな女の人が立っていた。
「痛てて……。いきなり殴ることねーだろ!?」
「よう菊坊、久し振りだね! 今のは挨拶だよ。まったく、急に家出とかどういうことだよ! 藤乃叔父さん心配してたよ!」
 彼女はそう言うと長い髪をかきあげた。私と湯野さんは二人の様子をただ呆然と見ているしかなかった。
「あやちゃんがなんでここにいんだよ? だいたいなんで俺の居場所がわかったんだ!?」
「叔父さんがあんたら兄妹の居場所教えてくれたの! まったくあんたは……」
「あの……。お姉さん、菊丸さんの知り合い?」
 私が訊ねるとその女の人は表情を変えることなく私の方を向いた。
「えーと……。とりあえずそんなとこだよ。お嬢ちゃんは誰?」
「私は菊丸さんの部屋の隣に住んでる京極って言います」
 私は何となく簡単な自己紹介をした。
「私は咲冬菖蒲。菊丸と茜の従兄弟だよ! この子の親から連れ戻すように頼まれてね!」
「とりあえず、外で立ち話もなんだから家の中入ったら?」
 湯野さんは菊丸さんと菖蒲さんにシェアハウスの中に入るように促した。
 シェアハウスに入ると共用スペースのソファーに座った。なぜか私もそこに同席する。湯野さんは麦茶を入れて私たちの前に置いた。
「ああ、大家さんお気遣いなく。ウチはこの子迎えに来ただけだからすぐ帰りますから」
「あのよー、あやちゃん! 俺は帰らねーぞ! 帰って親父にそう伝えてくれよ!」
「まぁ話聞けよ菊坊! ウチだって無理矢理あんたを連れ帰ろうとは思ってないよ! とにかく事情を聞かせてくんない? 藤乃会で何があったのか聞かないことにゃウチも判断できないからさ!」
 私は彼らの話を黙って聞いていた。菊丸さんの実家がヤクザだってのは聞いていたけど、そんな面倒な問題があるとは知らなかった。菊丸さんの話だと実家で他の組との内通者がいて情報が漏れているってことらしい。
「で? その内通者が誰かって目星くらいついてんの?」
「それがわかんねーんだよなー……。親父も疑ってはいるみてーだけどなかなかしっぽ掴めねーようだし。でも茜が車に轢かれそうになったり、攫われそうになったりしたんだよ! あのまま実家にいたらあぶねーしさ」
「ふむふむ……。わかった。そこらへん洗ってみるよ。つーか菊坊、あんたじゃなくて茜が危ないってどういうことなんだろうね? あんたは次期当主だからわかるけどさー。茜は関係ないよね?」
「そうなんだよなー……。茜は別になんも関係ないと俺も思うんだ……」
 それを聞いて私は茜ちゃんが未だに帰らないことを思い出した。
「そういえばさー菊さん。茜ちゃん今日出かけるって言ってたの? 私、朝から通しでバイトだったから朝飯以来あの子に会ってないんだよねー」
「ああ、今日はお前の妹と出かけるって言ってたよ! なんかルナちゃん水戸駅まで来てくれるんだとさ」
「あのさー、わかってんなら一応私に一言いってくれてもよくない?」
 私が少し菊丸さんを責めるようにそう言うと、彼はバツが悪そうにしていた。
「ちょっとさー! 茜、今出かけてんの? どーりでいないと思ったよ!」
 菖蒲さんは呆れるようにそう言った。
「つーかウラ! 茜まだ帰ってきてねーのか!?」
「そうなんだよ! いくらルナと出かけたからってこんな時間まで連絡もなく帰って来ないなんてどうしたんだろうね?」
「ちょっと待って!」
 菖蒲さんはリュックから大きめなタブレットを取り出すと何かを調べ始めた。彼女はタブレットを睨むように見ると私の方を向いた。
「あの京極さん? つかぬ事を聞くけどさ。あんたの家ってヤクザかい?」
 私は菖蒲さんの質問の意味が分からなかった。どうしてそんなことを聞くのだろう?
「違いますよ! ウチは普通の家です。父も母も普通な仕事してましたから」
「ふーん……。だとしたら……」
 菖蒲さんは頭を掻きながら考え事をしているようだった。
「なんだよあやちゃん!? 急にどうした?」
 菊丸さんは菖蒲さんに詰め寄った。
「菊坊……。これみてみ? これはあんたんとこの黒服から預かったGPS端末なんだ。これで茜の居場所がわかるわけだけどさ……」
 そう言うと菖蒲さんはタブレットを菊丸さんに手渡した。
 菊丸さんは菖蒲さんからタブレットを受け取って画面を食い入るように見た。彼の顔がみるみる内にこわばっていくのがわかる。
「あやちゃん! なんかの間違いじゃねーの? だってこれ小早川の事務所だぞ!?」
「だーかーらー! 京極さんに確認したんだよ! 京極さんちがヤクザならともかく、関係ないなら茜になんかあったってことだろ!?」
 二人の話を要約するとどうやら茜ちゃんはヤクザの事務所にいるらしい。なんでそうなったかはわからないけど、とにかくただ事ではない。
「ちょっと! つーことはルナも一緒に!?」
「それはわかんねー……。でも茜になんかあったのは確かだ! クソっ!!」
 菊丸さんはそう言うと立ち上がった。
「ちょっと待ちな!! 菊坊まさか小早川の事務所行くつもりじゃないだろうね?」
「行くに決まってんだろ!? 茜になんかあったらどうすんだ!?」
 菊丸さんはかなり取り乱していた。つーか私もかなり取り乱している。茜ちゃんも当然心配だけど、ルナの身に何かがあったとすればジッとなんかしてられない。
「まぁ菊坊、落ち着きな! 仮に攫われたとしたって小早川だってそこまで手荒な真似はしねーと思うよ? 大事な人質なら尚更ね。おそらく、茜を攫って何かしら要求をしてくんじゃねーの?」
 菖蒲さんはとても落ち着いていた。まるでいつものことだと言わんばかりに平然と言い放つ。
「でもよー……」
「いいよ。ウチが小早川の事務所行って話つけてきてやるよ! あんたは黙ってここで待ってな! 無事に茜つれて帰ってきてやるから」
「ちょっとあやちゃん! そしたら俺も行……」
 菊丸さんはそこまで言いかけると倒れ込んだ。どうやら菖蒲さんが何かしたらしいけど私にはよく見えなかった。
「大家さん! 悪いんだけど菊丸をどっか適当なとこに寝かしといてください。ウチは茜を迎えに行ってきます!」
 菖蒲さんはそう言うと立ち上がり、外に出て行った。
「ちょっと!! 待ってください!」
 私は菖蒲さんを追いかける。
 彼女はバイクに股がるとセルを回している。
「京極さんの妹も、もし捕まってるなら一緒に連れ帰るから待っててね!」
「菖蒲さん! 私も行きます! もし妹が捕まってんなら黙って待ってるなんてできないよ」
 私がそう言うと菖蒲さんは恐い目で私を睨め付けた。
「お嬢ちゃん! これは遊びじゃねーんだよ! 素人さんは黙って待ってりゃいい」
「遊びじゃねーのはわかってるよ! それでも私は……。行かないときっと一生後悔するから!」
 私がそう言うと菖蒲さんはさっきより恐ろしい目で私を見つめてきた。まるで蛇のようなその目は私を今にも食い殺そうとしているようだ。
「しゃーないね! 乗りな! そのかわり向こう着いたらウチの指示には従ってもらうよ!」
 私は菖蒲さんのバイクの後ろに股がった。さすがの私もヤクザの事務所に行くのは初めてだ。手に汗が滲み、クソ暑いというのに冷や汗が背中に滲むのを感じた。
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