リバースアイデンティティー

海獺屋ぼの

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リバースアイデンティティー④

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 箱の中には私の相棒が横たわっていた。私の愛機。フェンダーのジャズベース。暗がりで見るブラックメタリックのボディはとても冷たく感じる。夜との境界線が分からないくらい。
 私はネックを掴んでベースを取り出した。手に冷え切った木のかんしょくが伝わる。奇跡的にベースは無傷だ。ケースに多少の擦り傷ができただけで特にネックが曲がっただとか、ボディにヒビが入ったということもない。
 弦を弾くと金属的で氷のような音がした。ああ、私のベースの音だ。懐かしい。そう感じる。実際は一昨日演奏したので懐かしいはずがないのだけれど。
 それから私はグラウンドの端でしばらくベースを弾いた。手に伝わる弦の感触を感じるだけ。それだけで良かった。リズムを刻むと現状を忘れることができた。地震も母の死も。その全てが見えなくなる。
 言い得て妙だけれど、私は前向きな現実逃避をしたかったのだ。もし、何もせずボーッと過ごしたら現実に押しつぶされてしまうだろう。戦略的撤退。逃げるが勝ち。そんな感じだ。
 ベースは私の心を元いた場所に戻してくれた。学校に通い、友達とバンドをし、母と喧嘩していた頃に。
 おそらく、しばらくすれば学校は再開するだろう。バンドだって。でも家族だけは再開されないだろう。母がいない。もう帰っては来ない。
 現実的な話、母がいないとなればその穴埋めを誰かがしなければいけない。言わずもがな私がその役割をすることになる。掃除、洗濯、炊事。そんな家事の全てが私の役割になる。
 別にそれが嫌と言うわけではない。母に甘えてはいたけれど、私だって多少は生活力がある。ただ……。父にとっての母、弟にとっての母の代わりは務まるだろうか?
 おそらく父はこれからずっと独り身でいるだろう。父は母のことを愛していたし、基本的に浮気をするようなタイプでもなかった。もし、父が浮気性で他に女を作るようなろくでもない男なら良かったのに。そう思うくらいには父は母を強く愛していたのだ。
 弟に関してはもっと深刻かもしれない。まず、母の死を受け止めきれるだろうか? それさえ怪しい。
 そんなことばかり考えていると頭が痛くなった。集中力がかき乱され、後ろ向きな考えが私を飲み込みそうになる。
 歯を食いしばるんだ。自分にそう言い聞かせる。生きると決めた以上は生きなければ。そう思う。
 指が痛い。たった二日休んだだけですっかり指が柔らかくなってしまったようだ。
 私はベースをケースに戻した。またベースは夜に溶けていった。
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