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最終話 Ambitious!
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季節は秋を迎えようとしていた。
あれほど暑かった夏もようやく下り坂だ。
最初は苦労していた車椅子にもすっかり慣れ、電車も上手いこと乗り継いで日比谷くらいには行けそうだ――。
半年前、俺は鴨川月子に刺され生死の境を彷徨った。
数週間の入院生活の後、俺はどうにか退院できた。
医師の話だと前と同じように歩くことは困難らしい……。
ウラは俺の様子を見てすっかり元気をなくしてしまった。
俺の前では笑顔で振る舞ってくれてはいたけれど、ジュンや七星の話だと落ち込む日も多いらしい。
俺は仕事を休職し今はリハビリをしながら毎日過ごしている。
どうにか捉まって歩けるぐらいには回復したが、やはり普通に生活するのは厳しかった。
社会復帰出来るのか疑問さえ覚える。
例の事件の後、『アフロディーテ』の他のメンバーは俺のところに謝りに来てくれた。
特に健次さんは俺の前で土下座までした。
俺は別に彼らに対して怒ってはいない。
もっと言えば、鴨川月子にさえ……。
鴨川月子の裁判はまだまだ時間が掛かりそうだ。
今の彼女の精神状態では裁判をできるような状態ではないのだろう。
そう言った意味では同情の余地さえあると思う。
言うまでも無いが、『アフロディーテ』は事実上解散となった。
鴨川月子の夢だった武道館公演もなくなり、他のメンバーたちはそれぞれ別の道に進むようだ。
俺はこの怪我が原因で『バービナ』を脱退した。
どうやら西浦さんが新しいドラムを手配したようで、とりあえずはバンドとしては活動できるそうだ。
悲しいことだが俺の代わりのドラマーなど腐るほどいる。
とりあえず会社は無期限休職と言うことで話がまとまっている。
ありがたいことに他の社員が俺を庇ってくれたようだ。(真木さんも泣きながら談判してくれたらしい。)
俺が死にかけてから周りの人間はみんな気遣ってくれている。
会社にしてもバンドにしても家族にしても自分の時間を割いてまで俺を大切にしてくれた。
それでも俺は生きる気力がすっかり失せてしまった。
車椅子に乗って空を見上げるとこれから続く人生に嫌気が差した。
絶望や苦しみではない。
これはあまりにも何もない虚無感――。
俺が日比谷まで来たのには訳があった。
1ヶ月程前にジュンから連絡があり、『バービナ』の初の東京単独ライブが開催されると聞かされたからだ。
場所は日比谷野外音楽堂。
野音でのライブはウラにとっての念願だった。
話を聞いたとき俺は素直に嬉しかったし、ウラの喜ぶ顔も目に浮かんだ。
でもウラは俺に直接連絡して来なかった。
ジュン曰く、「京極さんは大志に合わせる顔がないと思ってるんだよ」とのことだ。
悲しいけれど仕方がない。
ジュンからチケットを受け取るとき、奴は渋い顔をしていた。
「必ず来いよ! 京極さんが待ってるんだから!」
ジュンは今にも降り出しそうな梅雨時の空のようにそう言った――。
ライブ当日。俺は地下鉄を乗り継いで日比谷へと向かった。
ありがたいことに手助けしてくれる人もいる。
「大志さん大丈夫ですか?」
「ああ、ありがとう。自分で押せるから問題ないよ」
俺は車椅子の車輪を回しながらどうにか電車から降りた。
「えーと、あっちにエレベーターあるんで行きましょう」
「悪いなールナちゃん。こんな時まで気を使わせて」
ウラの計らいで彼女の妹が俺のヘルパーになってくれていた。
彼女は以前見たときよりも幸せそうで、微笑みながら俺の手助けをしてくれた。
「もー! お姉も言ってたけど、困ってるときはお互い様ですよ! 大志さんまだ全快じゃないんですからもっと頼って下さいね!」
「ありがとう。恩に着るよ。ウラの奴なんか言ってたか?」
「うーん……。やっぱり大志さんが居なくなって寂しいみたいですね……。あの人ああ見えて寂しがり屋だし……。でも元気にはやってるみたいですよ! 新しいドラム君とも仲良くしてるみたいですし」
「そっか……。ならよかったよ! たしか新しいドラムは……。竹井君……? だっけか?」
「そうです! 七星君のいっこ上の子です! でもしっかり者らしいので私としては安心ですけどねー」
新しいドラマーは良い腕をしているらしい。
ジュンの話だと少し生意気なところはあるが実力は問題ないようだ。
七星とはいつも意見が割れているらしいが、少しずつ馴染んでは来ているようだ。
日比谷駅から人の波に飲まれ、どうにか野音の入り口までたどり着くことが出来た。
ルナちゃんは人混みが苦手なのか少し困惑している。
「うわぁー。すごい人ですねー! これがみんなお姉たちのバンド見に来てくれたと思うと感激ですー」
「だなー。ありがたい話だよ。たしかルナちゃんの友達も今日来てるんだろ?」
「ですよ! 中学の時の同級生が来ているはずです!」
「俺のことはいいからその子たちのところ行きなよ! どっちにしても車椅子じゃそんなに動けねーし、ルナちゃんは自分のやりたいようにやりな」
「いやいや、そういう訳にはいかないですよ! 今日はお姉から大志さんのお世話をしっかりするように頼まれてるんですから!」
結局ルナちゃんは俺に付き添ったままライブ鑑賞をするようだ。
会場は熱気を帯びていた。
屋外ステージでの演奏は『バービナ』としてはかなり珍しい。単独イベントとしての屋外ライブはこれが初めてのはずだ。
開演直前になると場内アナウンスにウラの声が聞こえてきた。
「あ、あ! えーとマイク入ってるよね? えー、皆様本日はお忙しい中『バービナ』ライブツアー2021ファイナルにお越し頂きありがとうございます。」
聞き慣れたウラの声だ。
彼女はマイペースにその日の挨拶と注意事項を話し始めた。
明らかにカンペ読みしている。
「……。というわけでもうすぐ開演です! 今しばらくお待ちください! では!」
俺は案内を読み上げているウラの姿を想像しながら聞いていた。
どことなく声が緊張している。
「お姉っぽいですね。なんか適当そうで」
「ほんとにな。あいつメジャーデビューしたってのに全然変わんねーのな!」
俺とルナちゃんはウラの声を聞いて互いに顔を見合わせて笑った。
ウラの挨拶があってから数分後、『バービナ』がステージ上に現れた。最初にジュン、次に七星、新メンバーの竹井。
ヴォーカル以外のメンバーたちは所定の位置に付くと、観客席に大きく手を振った。
七星も緊張しているようで変な笑いを浮かべている。
ジュンはいつも通りだ。まぁ、ジュンに関してはいつものことなので俺も特には気に留めなかった。
意外だったのは俺の後任のドラマーだった。
彼は落ち着いた様子でドラムセットの前に座ると何事もなかったかのように正面を向いて穏やかに笑った。
まるで緊張している様子はない。
もしかしたらこういう場に慣れているのかもしれない。
そして――。
遂にヴォーカルがステージに上がる。
彼女がステージ中央に立つと客席からは大きな歓声が上がった。
ウラはマイクを握ると客席全体を見渡した。
彼女がステージに立った瞬間。
野音の空気が一瞬で凜としたモノに変わった。
ウラは左手を天に掲げる。
会場にドラムロールが響き渡り、それに続くようにジュンと七星も弦を弾き始めた。
その曲は俺のよく知っている曲だった。
俺が曲を書き、ウラが詞を書いた曲――。
ウラはステージ上から客席に身を乗り出して激しく歌う。
ギターがない分、彼女の動きは以前より激しかった。
七星もこの半年でウラに鍛え上げられているようだ。
彼は『バービナ』の楽曲を完全に弾きこなしている。
新生『バービナ』は俺がいたときよりもクオリティが高かった。
ウラのステージパフォーマンスは格段に向上したし、ジュンも以前より安定している。
問題視していた七星もすっかり馴染んでいた……。
そして何より、新しいドラマーの技術は俺とは比較にならないくらい高かった。
正直に言おう。俺はその新しいドラマーに嫉妬した。
実に女々しいけれど俺の場所に別の人間がいるのは本当に悲しいものだ。
1曲目の演奏が走り抜けると休む間もなく2曲目の演奏が始まる。
横を見るとルナちゃんも楽しそうに手を振り上げていた。
2曲目の演奏が終わるとウラは仕切り直すようにステージの中央に戻った。
彼女は息を切らしながら汗を拭い、笑顔を浮かべる。
「改めましてこんにちは! 『The birth of Venus』です! 今日はねー。ウチらとしては初めての野外単独ライブなんだよねー」
ウラは笑みを浮かべた。顔には汗が浮かぶ。
「ツアーファイナルにこんなにたくさん来てもらえるなんて思ってもいなかったから、すんごい嬉しいです! いやマジで最高だよね!」
観客たちは絶叫に近い歓声を上げた。
中にはウラの名前を叫ぶ者もいる。
「ウラちゃん」と「ヘカテーさん」と2種類で呼ばれているのはファンになった時期の問題だろう。(「ウラちゃん」と呼ぶ観客が大半だ)
「したらねー。次の曲行っちゃうよ! みんな準備はいいー?」
観客たちはウラの声に応え、そしてライブは次の曲へ移行していった――。
ライブは大盛況で進んでいった。
まだ明るい時間に始まったのに、気がつけば辺りは夜に飲み込まれている。
『バービナ』の演奏はノンストップで続いた。
ジュンも今回ばかりは疲れた顔をしている。
七星と竹井君はまだまだ元気を持て余しているようだ。
「はい! いやー楽しいねー。半端なく気持ちよかったよー!」
ウラはステージから観客席全体を見渡した。
「この度、『Ambitious!』という私たちにとってとても大切なアルバムが出来ました。そのアルバムを引き下げてこのツアーが出来てすごくすごーく嬉しいです。本当に! ありがとうございます!」
ウラは耳に付けているイヤホンを直しながら続ける。
「このアルバムを作るに当たって、私たちは色んなモノを得て、そして失ってしまいました。得たモノは今回こうしてツアーが出来たこと、そして私たちの曲を聴いてもらえるファンの皆様に出会えたことです! ありがとうございます!」
ウラはそこまで言うと客席に深々と頭を下げた。
他のメンバーも同じように頭を下げる。
「そして……。失ったモノもたくさんありました。なくしてしまったモノにいつまでも執着していたくはないですが、私はその失ったモノを一生忘れずにいようと思います! やっぱり痛い思いとかもしないと学べないこともあるしね!」
ファンの大半はその失ったモノが何なのか理解しているようだ。
「そして、今回! 私たちにとってとても大切な曲が出来ました。これはバンド始まって以来初めて私が作詞作曲した曲です。みんなを笑顔にしたくて、もっとみんなに楽しい気持ちになって欲しいと思って曲を作ったんです。……。でも気がついたら私たちをずっと応援してほしいって楽曲になってしまいました」
実にウラらしい。観客席からも笑い声が溢れる。
「でも……。この曲がみんなを少しでも幸せにしたり、笑顔に出来たら良いなって思います! 今日はこの曲を歌うために来ました! それでは聴いて下さい! 最後の曲です! 『Ambitious!』」
『Ambitious!』のPOPなメロディが会場内を包みこんだ――。
普段の激しい『バービナ』の曲と違い、『Ambitious!』は優しく穏やかに会場に響き渡った。
新しい『バービナ』の姿を見た俺の瞳からは一筋の涙が流れていた。
この涙の意味が何なのか上手く説明することは出来ない……。
ウラの声が響き渡る野音で、俺は永遠に失われたモノについて考えていた。
あと少しで手が届いたはずなのに2度と届かなくなってしまった――。
高嶺裏月は俺にとって大切な人だった。
俺は歌うウラに手を伸ばそうとして、伸ばした手を下ろした。
夜空には大きな満月が浮かび、裏月のこれからを祝福しているようだった――。
END
あれほど暑かった夏もようやく下り坂だ。
最初は苦労していた車椅子にもすっかり慣れ、電車も上手いこと乗り継いで日比谷くらいには行けそうだ――。
半年前、俺は鴨川月子に刺され生死の境を彷徨った。
数週間の入院生活の後、俺はどうにか退院できた。
医師の話だと前と同じように歩くことは困難らしい……。
ウラは俺の様子を見てすっかり元気をなくしてしまった。
俺の前では笑顔で振る舞ってくれてはいたけれど、ジュンや七星の話だと落ち込む日も多いらしい。
俺は仕事を休職し今はリハビリをしながら毎日過ごしている。
どうにか捉まって歩けるぐらいには回復したが、やはり普通に生活するのは厳しかった。
社会復帰出来るのか疑問さえ覚える。
例の事件の後、『アフロディーテ』の他のメンバーは俺のところに謝りに来てくれた。
特に健次さんは俺の前で土下座までした。
俺は別に彼らに対して怒ってはいない。
もっと言えば、鴨川月子にさえ……。
鴨川月子の裁判はまだまだ時間が掛かりそうだ。
今の彼女の精神状態では裁判をできるような状態ではないのだろう。
そう言った意味では同情の余地さえあると思う。
言うまでも無いが、『アフロディーテ』は事実上解散となった。
鴨川月子の夢だった武道館公演もなくなり、他のメンバーたちはそれぞれ別の道に進むようだ。
俺はこの怪我が原因で『バービナ』を脱退した。
どうやら西浦さんが新しいドラムを手配したようで、とりあえずはバンドとしては活動できるそうだ。
悲しいことだが俺の代わりのドラマーなど腐るほどいる。
とりあえず会社は無期限休職と言うことで話がまとまっている。
ありがたいことに他の社員が俺を庇ってくれたようだ。(真木さんも泣きながら談判してくれたらしい。)
俺が死にかけてから周りの人間はみんな気遣ってくれている。
会社にしてもバンドにしても家族にしても自分の時間を割いてまで俺を大切にしてくれた。
それでも俺は生きる気力がすっかり失せてしまった。
車椅子に乗って空を見上げるとこれから続く人生に嫌気が差した。
絶望や苦しみではない。
これはあまりにも何もない虚無感――。
俺が日比谷まで来たのには訳があった。
1ヶ月程前にジュンから連絡があり、『バービナ』の初の東京単独ライブが開催されると聞かされたからだ。
場所は日比谷野外音楽堂。
野音でのライブはウラにとっての念願だった。
話を聞いたとき俺は素直に嬉しかったし、ウラの喜ぶ顔も目に浮かんだ。
でもウラは俺に直接連絡して来なかった。
ジュン曰く、「京極さんは大志に合わせる顔がないと思ってるんだよ」とのことだ。
悲しいけれど仕方がない。
ジュンからチケットを受け取るとき、奴は渋い顔をしていた。
「必ず来いよ! 京極さんが待ってるんだから!」
ジュンは今にも降り出しそうな梅雨時の空のようにそう言った――。
ライブ当日。俺は地下鉄を乗り継いで日比谷へと向かった。
ありがたいことに手助けしてくれる人もいる。
「大志さん大丈夫ですか?」
「ああ、ありがとう。自分で押せるから問題ないよ」
俺は車椅子の車輪を回しながらどうにか電車から降りた。
「えーと、あっちにエレベーターあるんで行きましょう」
「悪いなールナちゃん。こんな時まで気を使わせて」
ウラの計らいで彼女の妹が俺のヘルパーになってくれていた。
彼女は以前見たときよりも幸せそうで、微笑みながら俺の手助けをしてくれた。
「もー! お姉も言ってたけど、困ってるときはお互い様ですよ! 大志さんまだ全快じゃないんですからもっと頼って下さいね!」
「ありがとう。恩に着るよ。ウラの奴なんか言ってたか?」
「うーん……。やっぱり大志さんが居なくなって寂しいみたいですね……。あの人ああ見えて寂しがり屋だし……。でも元気にはやってるみたいですよ! 新しいドラム君とも仲良くしてるみたいですし」
「そっか……。ならよかったよ! たしか新しいドラムは……。竹井君……? だっけか?」
「そうです! 七星君のいっこ上の子です! でもしっかり者らしいので私としては安心ですけどねー」
新しいドラマーは良い腕をしているらしい。
ジュンの話だと少し生意気なところはあるが実力は問題ないようだ。
七星とはいつも意見が割れているらしいが、少しずつ馴染んでは来ているようだ。
日比谷駅から人の波に飲まれ、どうにか野音の入り口までたどり着くことが出来た。
ルナちゃんは人混みが苦手なのか少し困惑している。
「うわぁー。すごい人ですねー! これがみんなお姉たちのバンド見に来てくれたと思うと感激ですー」
「だなー。ありがたい話だよ。たしかルナちゃんの友達も今日来てるんだろ?」
「ですよ! 中学の時の同級生が来ているはずです!」
「俺のことはいいからその子たちのところ行きなよ! どっちにしても車椅子じゃそんなに動けねーし、ルナちゃんは自分のやりたいようにやりな」
「いやいや、そういう訳にはいかないですよ! 今日はお姉から大志さんのお世話をしっかりするように頼まれてるんですから!」
結局ルナちゃんは俺に付き添ったままライブ鑑賞をするようだ。
会場は熱気を帯びていた。
屋外ステージでの演奏は『バービナ』としてはかなり珍しい。単独イベントとしての屋外ライブはこれが初めてのはずだ。
開演直前になると場内アナウンスにウラの声が聞こえてきた。
「あ、あ! えーとマイク入ってるよね? えー、皆様本日はお忙しい中『バービナ』ライブツアー2021ファイナルにお越し頂きありがとうございます。」
聞き慣れたウラの声だ。
彼女はマイペースにその日の挨拶と注意事項を話し始めた。
明らかにカンペ読みしている。
「……。というわけでもうすぐ開演です! 今しばらくお待ちください! では!」
俺は案内を読み上げているウラの姿を想像しながら聞いていた。
どことなく声が緊張している。
「お姉っぽいですね。なんか適当そうで」
「ほんとにな。あいつメジャーデビューしたってのに全然変わんねーのな!」
俺とルナちゃんはウラの声を聞いて互いに顔を見合わせて笑った。
ウラの挨拶があってから数分後、『バービナ』がステージ上に現れた。最初にジュン、次に七星、新メンバーの竹井。
ヴォーカル以外のメンバーたちは所定の位置に付くと、観客席に大きく手を振った。
七星も緊張しているようで変な笑いを浮かべている。
ジュンはいつも通りだ。まぁ、ジュンに関してはいつものことなので俺も特には気に留めなかった。
意外だったのは俺の後任のドラマーだった。
彼は落ち着いた様子でドラムセットの前に座ると何事もなかったかのように正面を向いて穏やかに笑った。
まるで緊張している様子はない。
もしかしたらこういう場に慣れているのかもしれない。
そして――。
遂にヴォーカルがステージに上がる。
彼女がステージ中央に立つと客席からは大きな歓声が上がった。
ウラはマイクを握ると客席全体を見渡した。
彼女がステージに立った瞬間。
野音の空気が一瞬で凜としたモノに変わった。
ウラは左手を天に掲げる。
会場にドラムロールが響き渡り、それに続くようにジュンと七星も弦を弾き始めた。
その曲は俺のよく知っている曲だった。
俺が曲を書き、ウラが詞を書いた曲――。
ウラはステージ上から客席に身を乗り出して激しく歌う。
ギターがない分、彼女の動きは以前より激しかった。
七星もこの半年でウラに鍛え上げられているようだ。
彼は『バービナ』の楽曲を完全に弾きこなしている。
新生『バービナ』は俺がいたときよりもクオリティが高かった。
ウラのステージパフォーマンスは格段に向上したし、ジュンも以前より安定している。
問題視していた七星もすっかり馴染んでいた……。
そして何より、新しいドラマーの技術は俺とは比較にならないくらい高かった。
正直に言おう。俺はその新しいドラマーに嫉妬した。
実に女々しいけれど俺の場所に別の人間がいるのは本当に悲しいものだ。
1曲目の演奏が走り抜けると休む間もなく2曲目の演奏が始まる。
横を見るとルナちゃんも楽しそうに手を振り上げていた。
2曲目の演奏が終わるとウラは仕切り直すようにステージの中央に戻った。
彼女は息を切らしながら汗を拭い、笑顔を浮かべる。
「改めましてこんにちは! 『The birth of Venus』です! 今日はねー。ウチらとしては初めての野外単独ライブなんだよねー」
ウラは笑みを浮かべた。顔には汗が浮かぶ。
「ツアーファイナルにこんなにたくさん来てもらえるなんて思ってもいなかったから、すんごい嬉しいです! いやマジで最高だよね!」
観客たちは絶叫に近い歓声を上げた。
中にはウラの名前を叫ぶ者もいる。
「ウラちゃん」と「ヘカテーさん」と2種類で呼ばれているのはファンになった時期の問題だろう。(「ウラちゃん」と呼ぶ観客が大半だ)
「したらねー。次の曲行っちゃうよ! みんな準備はいいー?」
観客たちはウラの声に応え、そしてライブは次の曲へ移行していった――。
ライブは大盛況で進んでいった。
まだ明るい時間に始まったのに、気がつけば辺りは夜に飲み込まれている。
『バービナ』の演奏はノンストップで続いた。
ジュンも今回ばかりは疲れた顔をしている。
七星と竹井君はまだまだ元気を持て余しているようだ。
「はい! いやー楽しいねー。半端なく気持ちよかったよー!」
ウラはステージから観客席全体を見渡した。
「この度、『Ambitious!』という私たちにとってとても大切なアルバムが出来ました。そのアルバムを引き下げてこのツアーが出来てすごくすごーく嬉しいです。本当に! ありがとうございます!」
ウラは耳に付けているイヤホンを直しながら続ける。
「このアルバムを作るに当たって、私たちは色んなモノを得て、そして失ってしまいました。得たモノは今回こうしてツアーが出来たこと、そして私たちの曲を聴いてもらえるファンの皆様に出会えたことです! ありがとうございます!」
ウラはそこまで言うと客席に深々と頭を下げた。
他のメンバーも同じように頭を下げる。
「そして……。失ったモノもたくさんありました。なくしてしまったモノにいつまでも執着していたくはないですが、私はその失ったモノを一生忘れずにいようと思います! やっぱり痛い思いとかもしないと学べないこともあるしね!」
ファンの大半はその失ったモノが何なのか理解しているようだ。
「そして、今回! 私たちにとってとても大切な曲が出来ました。これはバンド始まって以来初めて私が作詞作曲した曲です。みんなを笑顔にしたくて、もっとみんなに楽しい気持ちになって欲しいと思って曲を作ったんです。……。でも気がついたら私たちをずっと応援してほしいって楽曲になってしまいました」
実にウラらしい。観客席からも笑い声が溢れる。
「でも……。この曲がみんなを少しでも幸せにしたり、笑顔に出来たら良いなって思います! 今日はこの曲を歌うために来ました! それでは聴いて下さい! 最後の曲です! 『Ambitious!』」
『Ambitious!』のPOPなメロディが会場内を包みこんだ――。
普段の激しい『バービナ』の曲と違い、『Ambitious!』は優しく穏やかに会場に響き渡った。
新しい『バービナ』の姿を見た俺の瞳からは一筋の涙が流れていた。
この涙の意味が何なのか上手く説明することは出来ない……。
ウラの声が響き渡る野音で、俺は永遠に失われたモノについて考えていた。
あと少しで手が届いたはずなのに2度と届かなくなってしまった――。
高嶺裏月は俺にとって大切な人だった。
俺は歌うウラに手を伸ばそうとして、伸ばした手を下ろした。
夜空には大きな満月が浮かび、裏月のこれからを祝福しているようだった――。
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