悪魔の手の中 改訂版

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前編

月夜の歪み

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必死に転げるように走った。
足の感覚がなくなっていくのを感じながら、どこを通って帰ってきたのかも分からなかった。

その間、スマホの着信音がしつこく耳にまとわりつくように鳴り響いていた。画面を見る余裕もなかった。でも俺に、電話をかけてくる人物は一人しか思い浮かばなかった。

自宅のドアを開けるといつもの夕食の香りはしなかった。今朝、昔の仕事仲間と久しぶりに食事に出かけるから、と嬉しそうに話していた母親の顔を思い出した。

母親がいなくて良かった。

風呂場まで直行し、制服を乱暴に脱ぎ捨てる。
シャツの袖がひじに引っかかって上手く脱げなかった。繊維の破ける音を無視して、無理矢理引き抜いた。もう足首まで精液が垂れていた。濡れた足で風呂場のタイルに踏み入る。

壁に張り付いた小さな鏡に映る、自分の裸から反射的に目を背けた。正面から見つめる勇気がなかった。

ボディタオルに泡をつけ、皮膚が赤くなるまで何度も何度も擦る。

落ちろ。落ちろ。落ちろ。

体を入念に洗う。耳の裏、首筋、背中、太もも、腰、お尻、自分の体の隅々に三好の手の感触が、痕跡がこびりついて消えそうになかった。

「なんで…っ、」

混乱しながらも一番、触れたくない場所に震えた指で触れた。

中のものを掻き出す必要があった。

裂けた薄い皮膚に泡が染みて、ピリッと痛んだ。
人差し指を恐る恐る奥に押し込んでいく。

「んぅっ…、」

楓とする時も中に出されることはあった。でも事後に優しく、俺の体に触れて綺麗にしてくれていたから自分で触れるのは初めてだった。

三好に無理矢理犯されたそこの粘膜が、押し込んだ指を咥え込む。焼けつくような熱を孕んでいた。ズキズキと鈍く響く痛みに、中がひどく傷ついていることが分かった。

痛みに耐えながら、必死に掻き出していく。

その時、ぷっくりと膨れ上がったしこりを指先で強く引っ掻いてしまった。

「ひッ…!」

つま先立ちになり、中の指をぎゅうっと締め付けてしまう。倒れそうになり、慌てて風呂場の壁に手をついた。

熱を帯び、傷で疼くそこに一瞬、何か別の感覚が走った。

「お前、みさかえなく気持ちよくなって恥ずかしくねぇの?」

あの埃っぽい空き教室で言われた三好の言葉が、今更、鋭利な刃となって容赦なく、心の内側をえぐった。

違う…。こんなの、俺じゃない。

「ぐっ…、うぇっ、…ゔっ…、」

喉奥から迫り上がってき液体が、風呂場のタイルをべちゃりと汚した。胃液と食べ物の残骸が混じり合ったきつい臭いが鼻腔を突き刺す。えづきながらも、体の奥に残る三好の残滓を掻き出す指を止めなかった。





真っ暗闇の自室の扉が静かな音を立てて、開いた。

「…真澄っ。」

いつもの柔らかくて落ち着いた声は切羽詰まっていて、呼吸はわずかに荒かった。

ベッドで掛け布団を頭までかぶり、身動き一つできないでいたが、その声にビクリと体が反応する。

ぜんぶ、ぜんぶ、楓と体の関係を持った自分が悪かったのだ。求められるなら、肉欲でも構わないそう思っていた自分はとてつもなく浅はかだった。偽りかもしれない安らぎに身を委ねた、その結果がこの最悪な出来事を招いたのだ。

でも、あの時、楓が俺を求めてこなかったら?
そんなふうにも思ってしまう。

掛け布団越しに光が入ってくることはなかった。

俺の状態を見て、すぐに何かを感じ取ったのだろう。楓は部屋の電気をつけなかった。些細な気遣いはするのに近づいてくる足音は止まらない。

お願いだから俺のそばいないでほしい。
じゃないと、楓のことも責めて傷つけてしまいそうで。

ああ、違う。こんな綺麗な気持ちではない。

本当は楓のことも責めたいのだ。
でもそれ以上に、俺の価値を見出してくれる存在をまだ手離せなかった。

だから楓へ矛先を向けてしまいそうな今、そばにいてほしくなかった。

ギシッとベッドが軋む音がして、掛け布団から少しはみ出した背中に楓の手がそっと触れる。咄嗟に、体が触れられることを拒むように動いた。

見捨てられたらと、考えるだけで怖いくせに。

「……俺が怖い?」

ふわりと爽やかな香りとともに汗の匂いがした。水瀬に付き合わされサッカー部の練習をした後、シャワーも浴びずに俺のところに来たんだろう。いつも清潔なシャツに身を纏って、乱れのない完璧な姿でいる楓に、その汗の匂いはとても不釣り合いに思えた。

「真澄が小さい頃、元気ないと真澄のお母さん…こうやって体に触れてたよね?」

返事もしない俺に、楓はひとりでに話し出す。

「なにしてるんだろうって思ってさ、聞いてみたんだ…。そしたら…傷ついた人を手のひらから出る温かくて優しい力で癒すんだって教えてくれたんだ。正直、その時は嘘くさいな、って思ったよ。ごめんね。」

楓の口から否定的な言葉を初めて聞いた。だからこそ、楓から紡がれる言葉に一片の嘘もないと思えた。

「でも、今は本当か分からないようなその力があったらって思うよ。真澄の心に寄り添える力があったらって…」

楓の落ち着きを取り戻した声とまっすぐな言葉が、心に染み渡っていく。

水瀬とは違い、楓は何があったのか強引に問いたださなかった。それが今の俺の心をずいぶんと落ち着かせてくれた。

枯れ切ったと思っていた涙が静かに頬を伝う。

怖かった。
穢れた自分の姿を見られるのが。
情けなく涙を流し、自分の形を保つのが精一杯のボロボロの姿を見られるのが。
心の奥底に隠した卑怯な感情を悟られるのが。

でもそれでも楓にこの心の傷を、歪さを、丸ごと受け入れてほしかったのかもしれない。一人で抱えるには俺は弱すぎた。

カーテンの隙間から、真っ暗闇な部屋に一筋の月の光が差し込んでいた。

掛け布団から這い出て振り返ると、月明かりに照らされて不思議な色をして輝く瞳と目が合った。

その瞳の色は捉えようのない感情があるように見えた。

震える手で楓の手を引き寄せ、自分の胸の上に当てる。小さな頃、母親がしてくれていたように。

その手から伝わる温もりを拒むことなく、受け入れることができた。とくんとくんと、乱れていたはずの鼓動が正常な動きを繰り返す。

楓の前では、まだ俺は俺の存在をかろうじて保てる気がする。

瞬きをすると、また涙が一雫こぼれた。

そんな俺の姿を楓は美しい瞳でジッと捉えて、ただ見つめていた。その瞳の奥がふと揺れて、隠されていた別の色が滲んだ。

「もう一時も目を離さないから。」

その言葉に、曖昧なままにしていた楓への違和感の輪郭が、また浮かび上がる。

それでも今はそれでいいと思えたーー。
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