上 下
22 / 22

苦情のインターフォン

しおりを挟む
「おにいちゃん」
 普段温厚な雰囲気を醸し出す睦月の、いつもと変わらぬ表情が怖かった。
 表情はいつものように穏やかに笑っている、はずなのに、醸し出す空気冷たい空気のようで、服で覆われていない素肌が気のせいかもしれないが、ピリピリとひりつくのだ。
 今食卓を囲んでいるとはいえ、矛先が自分ではない紬がこうなのだから、その凍てつくような空気をもろに受けている兜は大丈夫だろうかとやや心配になった。
『……睦月ちゃん、だって』
「だってじゃないでしょう。何度言ったらわかるの? ご近所さんのご迷惑にはならなくても、原稿とお仕事で疲れている紬さんを、どうしてあんな起こし方しかできないの?」
 会話が完全に母親に怒られる子ども、である。
(どっちが年上なんだか……)
 詳しい年齢はわからないが、兜のほうが先に生まれたと聞いた。睦月も兜のことを「おにいちゃん」と呼んでいるから、兜のほうが年上であっているはずだ。
 しかしこの会話を聞いていると、姿見が緑の球体であることもあって、兜のほうが幼く感じられてしまう。
 どうしたものかと考えていると、ピンポーンと家のインターフォンが鳴った。
 睦月が反射的に玄関まで向かったため、お説教は中断され、紬は急いで、兜をはじめとする元座敷わらしたちに部屋へ隠れるように伝えた。
 部屋の中に緑の光る球体がふわふわ浮いているなんて、蛍でも飼っていると思われるかもしれないが、あまり確認されないに越したことはない。
「はい」
 ドアを開くと、ドアの前に小太りな女性が立っていた。
 小綺麗な恰好の、少し若い顔つきの女性が「飯山さん」と苦々しい声を発した。
「な、なんでしょう、大家さん」
 その威圧的な声に、睦月はやや気圧され気味だ。
『睦月ちゃんに圧をかけるとは、あんの女はなんだ、飯山紬』
「なんでこっちに来ちゃうんですか!」
 わざわざ睦月の部屋にみんなを入れたというのに、なぜか兜が紬の部屋に移動したので、ほかの緑の光も一緒に紬の部屋へ入ってきてしまったのだ。
 仕方ないから自分の部屋へ招き入れ、睦月の助太刀に行こう部屋を出る直前で、兜以外の緑の光がみな一斉に、睦月の部屋に飛び出して行った。
 睦月の部屋に通るまでに玄関のあるリビングを通ることになるため、おそらく『大家さん』と睦月が呼んだ女性にも、緑の光の大群が移動するという異常事態を目にしたのではないだろうか。
「? なにかありました」
 大家さんが、何か通ったことに気づいたようで、首をかしげて睦月に話しかけた。
「え?」
 振り返った睦月と目が合った。
 どうやら、大家の目には緑の光は見えなかったようで、紬はほっと胸を撫でおろした。
「あら? 蛍ですか?」
 大家は息をついた紬に気づき挨拶をしようと軽く会釈して、何かに目を留めたらしい。
 何かとはわざわざ答えを聞かずとも、「蛍ですか?」の問いで何を指しているのか察した。
「……蛍です。む、虫かごから出ちゃって」
 紬の頭上を飛び回る兜をそのままに、力のない声で返事をした。
「あら、珍しいわね。ところで飯山さん、おたく最近朝少しうるさいですよ。近所から苦情が来ています。夫婦なら喧嘩も致し方ないかもしれませんが、近所に配慮してください。旦那さんも、あんなに怒鳴りつけては奥さんに失礼ですよ。ほどほどになさってくださいね」
「す、すみません!」
「すみません……」
 睦月と紬が慌てて頭を下げ、大家がドアを閉めるまでずっと頭を下げ続けていた。
 バタンとドアが閉まって、ようやく睦月と紬が一息ついた。
「ごめんなさい……私がお兄ちゃんを強く怒鳴りすぎたから……」
「いえ、オレこそ、睦月さんに苦情を押し付けてしまったようで……」
 睦月と紬がペコペコと頭を下げている頭上で、兜がふわふわと飛び回っていた。
『あの女、偉そうにしやがって……』
「偉そうとかじゃない! 大家さんなの! 家を貸してくれる偉い人なの! あの人が家を出ていけって言われたら、出て行かなくちゃいけないんだから。住むところが無くなっちゃうの! だから決まりは守らないといけないの!」
『そ、そうなんか。それは、守らないとな……』
 住むところが無くなる、というのは、座敷わらしには命に係わる重大なことらしい。
 地主と大家には勝てないのだ。
「これからは、静かにお兄ちゃんを締め上げるから」
 睦月がそう告げると、兜はゾッとしたものを感じたようで、緑の球体に鳥肌が立っているように見えた。表情豊かな球体だ。
「いや、そんなことしたらお兄さんが悲鳴あげるでしょう。その声でまた苦情来ますよ?」
『あ?』
 兜が紬に何か言おうとするより先に、睦月が会話に割って入った。
「大丈夫ですよ。……姿と名前を失った元座敷わらしは、本来人間には認識されません。姿は、たまに人に見えるかもしれないけれど、声は座敷わらしにしか聞こえません」
「え? だってオレ、ずっと兜さんとお話出来ているじゃないですか」
「それは、ちょっと気になっていましたが、多分座敷わらしである私とともに暮らしていたから、座敷わらしを見ることに目が慣れたのかと」
「目が、慣れる?」
「こういう霊障は、そこに『ある』と思って視るのと、『ある』と思わないで視るのとでは視えるものが全然違ってくるんです。そして、そこに『ある』と思ってみているうちに、目が認識しだすんです。声は、多分紬さんは霊感がおありとか、そういうことじゃないですかね?」
「最後のほう雑じゃないですか?」
「ざ、雑じゃないですよ!」
『睦月ちゃんの解説に不満があんのかぁ? 飯山紬ィ』
「いえ、とてもわかりやすいお話本当にありがとうございました」
 いつもならここで睦月が兜にお小言タイムを設けるところだが、先ほどの注意があったばかりなので、睦月はじろっと兜を冷たい目でにらみつけるだけにした。
 だがそのほうが兜には堪えたらしく、球体を揺らされた水風船のように震わせた。
 それは、恐怖している、というより、捨てられた子犬のような姿に見えた気がした。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...