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私サシィ、今日もお仕事がんばります!

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 少女の名前はサシィ。今日からアネーロ中等部の一年生になる、はずであった。
 貧しいながら幸せな家庭で育ってきたサシィは、父親と母親と、二つ年齢の離れた妹のカミルの四人でつつましく暮らしていた。
 お金がないと学校に通うことが出来ないこの国では、サシィもカミルも学問など習うことができないでいた。
 サシィもカミルも、別にそれを不幸なことだと思ったことは一度もない。むしろ、勉強など働くうえで何の役にたつのだろうと疑問さえ覚えていた。
「いい学校へ行けばいい稼ぎの仕事に就けるっていうけれど、いい稼ぎでなくったって、稼ぐことはできるわ」が、サシィの口癖であった。
 それを不憫に思っていたのは、サシィとカミルの両親であった。
 周りの子から「学校にも行けない貧乏人」というレッテルを貼られているのを知っていたからだ。
 だから、中等部にはなんとか通わせようと、両親は頑張って働いた。
 学問の基礎を小等部で学ばなければ、入ったところで勉強についていけず、高い入学金を支払っただけですぐに辞めてしまうものだが、両親はそれを知らなかった。
 二人とも学校へ行ったことがなく、友だちに悪いレッテルを貼られ、つらい人生を過ごしてきたのだ。
 結局父親が病に伏し、高い入学金を払おうとして貯めていたお金はすべて、医療費に使われることとなった。
 そのことを気に病み、一層気持ちをふさぎこませている父親を元気づけようと、サシィは常に笑ってみせた。
「私は勉強なんて嫌いだし、働いているほうが好きなのよ。だから気にしないで、早く元気になって!」
 これはサシィの本音である。
 だが父親は悲しげな表情を和らげることがなかった。

 サシィは今日も仕事場へ向かう。
 貧しくて学校に通える子と通えない子は半々だ。その半分の中の子供たちは、サシィと同じような気持ちの子もいれば、サシィの両親と同じ気持ちの子もいる。
「サシィちゃん、学校行かなかったんだ。もったいないね」
 サシィの両親と同じ考えの子はそう同情を含んだ声で言った。
「そう? 学校に行くほうがお金がもったいないと思うわ。お金は、生活をするために稼ぐものでしょう? 勉学が何の役に立つっていうの?」
「……でも、学校に行かないと、学校に行っている子たちとすれ違うたび、いつも嫌な笑い方されて、指をさされるのよ。みじめな気持ちになるわ」
 その子はそう言って、肩を落として自分の持ち場へと戻っていった。
 サシィの働く工場は、女性が多い。
 男性のように力があれば、もっと体力仕事もできただろうが、サシィはまだ十代前半の少女である。身体の面積も小さいし、筋力もない。今働いている工場で、糸をつむぐ仕事に就くしかない。
 それでもサシィはその仕事に不満を持ったことはない。
 お金はもらえるからだ。
 
 仕事が始まる前の朝礼で、責任者が連絡事項を伝えた。
「今日から一か月、研究生がみんなの仕事を見学する」というものだった。
「研究生?」と首をかしげる子も少なくない。
「研究生とは、アネーロ中等部の学生たちだ。『働く』とはどういうことかを学ぶため、みんなの仕事場を見学する、授業の一環だそうだ。みんな、研究生の方々に失礼のないようにな」
 失礼のないように、とはどういうものだと、サシィもみんなも不満を抱いた。
 工場内は忙しい。
 それを興味範囲の見学で観察されるのはうっとうしいし、なんなら邪魔だ。
 だが、アローナというのは、他の学校の中でも金持ちで頭の良い連中が集まることで有名な学校だ。身分の高い令息や令嬢が多い。
(お父さんはなんで私をそんなところに通わせようとしたのだろう?)
 自分の家では到底手が出ないだろうに、と不思議であった。
 ましてや、小等部にも通っていないのだから、いじめに遭う確率が高いだろうとも思った。
(まあいいか)
 サシィは考えを切り替え、仕事に戻った。
 研究生は男性が多かった。
 女性が多い職場に男性が多く集まるのも不思議な話だが、サシィはあまり物事を深く考えない。
 それはサシィの長所とも言えるし、欠点とも言える。
 研究生の数がわりと多かったので、働き手一人に研究生が二人付くこととなった。圧が二倍になった。
 この仕事は集中力を要されるので、存在感が鬱陶しいが、文句も言わず、従業員は黙々と作業を続けた。
 糸をつむぐ作業がひと段落したとき、ふと視界に入るのは、自分の傍に付く研究生ではなく、他の従業員が他の研究生にちょっかいを出されている場面だ。
(本当に邪魔なんだけどなぁ)
 サシィは腑に落ちないものを感じながら、やはり自分の仕事に集中した。
 幸いなのは、自分に付いた二人の研究生はサシィに一切ちょっかいを出さず、黙ってサシィの仕事を見ていた。
 それはそれで、監視されているようで圧が気になるが、話しかけられるよりずっとマシである。

 お昼休憩のベルが鳴る。
 各々持ち場で、持ってきたお弁当を食べるのだが、その前に、糸をつむぐ作業で凝り固まった身体を上に伸ばしストレッチをした。
「お疲れ様です」
 サシィを見守っていた研究生の少年二人は、休憩に入るサシィを言葉で労った。
「……お、お疲れ様です」
 労われるという行為が初めてなので、どう返したらいいかわからず、とりあえず真似してみた。
 先ほどまでずっと気になっていなかったが、その少年二人が容姿端麗だったので、そのきれいに整った顔にまぶしさを感じ、目を細めてしまった。
「食事一緒に取ってもいいですか?」
 少年の一人がそう訊ねる。
 サシィはお弁当を一人で食べる派であったが、断る理由も思い浮かばなかったので、「どうぞ」と言うしかなかった。
 周囲を見渡せば、周りもサシィと同じような状態になっていた。
 皆気まずそうだが、立場上文句も言えない。
 サシィは朝自分で作った、レタス一枚を粗末なパンくずで包んだ、というよりまぶしたという表現のほうがふさわしいようなサンドウィッチを咀嚼して食べた。
 もぐもぐと咀嚼するサシィを、少年二人が呆然と見つめていた。
(その意味ありげな視線はなんだ?)
 そう思いながらも、口の中に食べ物が入っている間は話さない。それがサシィが自分で決めたルールである。
「それ、食べ物なの?」
「?」
 当たり前のことを不思議そうに尋ねられ、サシィは意味がわからなかった。
 もしやこの二人はサンドウィッチを食べたことがないのだろうか、と思った。
 まだサンドウィッチが口の中に入っていたので、言葉は発さず、こくりとうなずくだけにした。
 少年二人は呆れたようにお互い見合ってから、各々が取り出したお弁当箱から、茶色く丸い何かと、黄色く筒状になった何かを箸でつまみ、サシィの粗末な弁当箱の中に入れた。
「?!」
 突然何をするのだと、口の中に食べ物が残っているのも構わず文句を言おうとしたが、少年の一人が「食べてごらん」と言った。
「食べられるの? これ」
「それ、君の食べていたパンもどきに言いたいんだけど」
「失礼ね。サンドウィッチよ」
「サンド、ウィッチ……?」
 少年が困惑した様子を見せるが、サシィはとりあえず、二人のくれた茶色い物体を口の中に入れた。
「!」
 じゅわっと口の中に広がる旨味に、サシィは興奮した。
「お、おいしぃ……!」
 初めて食べる味だが、とってもおいしかった。
「ハンバーグっていうんだよ」
「ハンバーグ……?」
「そっちも食べてよ。ボクが作った玉子焼き」
「たまご、やき?」
 サシィは首をかしげながらも、躊躇なく黄色い物体を口の中に入れた。
 お菓子とも違う甘い味が、サシィの口の中いっぱいに広がった。
「おいしい!」
「トウヤの故郷では定番なおかずらしいよ」
 トウヤと言われた、玉子焼きという黄色い物体をくれた少年が、照れたような表情で笑って見せた。イケメンは笑ってもイケメンだな、と感じたサシィ。
「あ、そういえば自己紹介がまだだったね。オレはトウヤ。東の国出身で、ある実業家の長男。で、こっちのハンバーグを渡したのが、ロバルト」
 ハンバーグをくれたロバルトは、黒目黒髪のトウヤと違い金髪碧眼だが、トウヤやサシィより背丈があった。
「改めてはじめまして。ボクはロバルトと言います。君は?」
 右手を差し出したロバルトに、サシィは驚いた。
「ご、ごめんなさい! お金はないんです!」
 慌てて顔を真っ青に染めるサシィに、トウヤとロバルトは目を丸くした。
(なんてことでしょう! そうだった、食べ物の代金のことを考えずに食べてしまった! こんな美味しい食べ物、いったいいくらかかるんでしょう!)
「お金?」
 トウヤが困ったように首をかしげる。
「あ、少しならあるのですが、足りませんよね? ……ハンバーグとたまごやきの、代金……」
 サシィがガタガタと震えながら小銭を差し出すのを見て、トウヤとロバルトはおかしそうに笑いだした。
「お金はとらないよ」
「え、だって、右手を差し出して……」
「これは握手をしたいって意味だよ」
 ロバルトはまた右手を差し出して、サシィに笑いかけた。
「握手?」
 またサシィの知らない言葉が出た。
 トウヤとロバルトが、顔を見合わせ、またサシィを振り返った。
「もしかして、握手をしたことがないの?」
「握手って?」
「……なるほど、これは予想外」
 ロバルトが呆れたように笑んだ。
 馬鹿にされたのだと思い、サシィはムッと怒り顔になる。
 そんなサシィに、トウヤが「握手というのは挨拶と同じだよ。相手に武器を持っていない、ということを証明する意味もあってね、相手と友好関係を築きたいときに手を差し出すんだ。それに好意的に返すのなら、手を握り返すのが礼儀なんだよ」と教えてくれた。
「あ、ありがとう!」
 サシィはトウヤに礼を言い、ロバルトの差し出した右手を、同じように右手で握り返した。
「私はサシィ。よろしく」
 サシィはさきほど馬鹿にされたのも忘れ、ロバルトに挨拶を述べた。
 ロバルトはやや呆気にとられたが、やがてとても極上の笑顔で「よろしく」と返してくれた。
 その端整な顔立ちが放つ笑顔に、サシィは照れてしまった。
「サシィよ、よろしく!」
 そうして、この挨拶を教えてくれたトウヤにも右手を差し伸べた。
「……よろしく」
 トウヤは、にこりと笑んで、サシィの右手を握り返してくれた。
「さて、自己紹介とお昼が終わったけど、サシィはまた仕事に戻るのかい?」
「ええ、そうよ」
 ロバルトの確認に、サシィは嬉々として返した。
「そうか。この仕事は楽しいかい?」
「えぇ!」
 笑顔でハキハキ答えるサシィに、ロバルトは「なら、いいか」と会話を切った。
「?」
 何か変なことを言ったのだろうかと気になった。
 だが、ロバルトはもう何も言わなかった。
 仕事の時間になり、周りが仕事を始めたので、サシィもそれ以上何も聞けず、自分の仕事に戻った。


 その日の仕事が終わり、他の研究生や工場の友だちも各々に立ち上がって身支度を行い帰っていった。
 朝の挨拶はするが、仕事の終わりは疲れ果てて、皆話す気力もなく帰っていくのだ。
 サシィは帰り支度をする前に、ロバルトとトウヤに挨拶をした。
「今日はお疲れ様でした」
「いや、ボクたちは何もしていないし」
「こっちこそ、邪魔にならなかった?」
 トウヤの言葉に、サシィはややぎこちない答えをした。
「え、えぇ、まぁ……」
 邪魔ではあったが、午後からは特別気にならなかったので嘘ではない。
「明日はまた別の子に当たるといいな」
 ロバルトがぼそりとつぶやいたのを、サシィは気に留めた。
「え、どういう?」
 サシィは、ロバルトに何か失礼をしたかと困惑した。
「サシィっていい子だけど、頭悪いでしょう。仕事見守るより、話しているほうが疲れた。それとも、他の子もみんなサシィみたいに頭悪いの?」
「え……」
「学校行っていないから、頭悪いのかな」
「え、えっと……頭悪いのがなにか関係あるの?」
「ロバルト」
 トウヤが、厳しい目線でロバルトを睨み静止させた。
「だってトウヤ。握手も知らないんだよ、この子。幼稚園児じゃあるまいし、ボクら同じ年ごろでしょう?」
 幼稚園児じゃあるまいし。
 なにやら状況が読めないが、侮辱されたということだけはわかった。
「頭悪いからなによ! 学校行くのがそんなに偉いの?! あなたたちには糸つむぎの仕事できるの?! やりもしないくせに、偉そうに上から馬鹿にするのやめてよ!」
 さすがにサシィもキレた。
「糸つむぎなんて仕事、ボクらの仕事じゃないよ。ボクらがこんな底辺な仕事するわけないでしょう。こんな仕事をしないために勉強しているんだから。そんなこともわからないから、馬鹿っていうんだよ」
 ロバルトはそこで口をつぐんだ。
 サシィが、目から涙をこぼして泣き出したからだ。
「都合が悪くなると泣くしかできないのって本当頭わる……」
「泣くのは心を静めようとする生理現象だよ。その生理現象を止められないから頭悪いって、どういう根拠があるの?」
 トウヤが冷たい目でロバルトを見やる。
 ロバルトは居心地悪そうにその場を後にした。

「ごめんね。ロバルトは本当、悪い奴じゃないんだ」
 工場から泣きながら帰るサシィを、トウヤがなだめながら追いかけた。
「ちょっと寄り道しない?」
 トウヤに手を引かれて、引かれるがまま、サシィはトウヤの後についていった。

 トウヤに誘われていったのは、裏山である。
 そこからは、町が一望できるし、この時間帯は夕陽が沈んでいく幻想的な景色が見えるのだ。
 その美しい光景を前に、サシィの涙がようやく引いた。
「サシィ。お詫びにいいこと教えてあげる。オレたちはいい仕事に就きたいがために勉強をしているわけじゃない。そりゃ、家のためとか、いい仕事に就きたいって気持ちで働いている人もいる。でも少なくともオレが学ぶ理由は、自由になりたいから学ぶんだよ。学校は情報を豊富に持っている先生がたくさんいる。そういう人を師事して、いろいろ学び得ることが出来るから、学校に行きたいんだ」
「……じゆうになるため? 私も今とても自由だけど」
「本当に? じゃあ、今すぐあの糸つむぎの仕事を辞めることになったとしても、困らない?」
「困るわ。生活できなくなっちゃう」
「じゃあどうするの? 他の仕事探すの?」
「それもできないわ。他の仕事は、力仕事とか頭の良い人しかできない仕事だもの。私にできるのは今の仕事だけだもの」
「そうでしょう? それは自由じゃない。オレがここで言った自由っていうのは、仕事を選べる自由だ。技術や学問が身についていれば、それだけ働ける職種が増える。自分で選べる世界が広がるんだ。それを自由っていう」
「で、でも、私は今糸つむぎの仕事ができているわ。別にわざわざ他の仕事を探さなくても……」
「それに、学ぶっていうのは、唯一人間が得ることが出来る至高の贅沢であり、幸運なんだよ」
「幸運?」
 贅沢、というのはわかる気がした。お金持ちだけが学校に行けるからだ。
「うん。幸運。これは、勉強が好きになってから気づいたことだけど、学ぶことが出来るっていうのはとっても幸運で、そして、楽しいものなんだよ」
 トウヤはその場でくるくる横に回ってみせた。
 沈む夕陽に照らされて、彼はとても輝いて見えた。
「でも、私の家は学校に行くお金がないの。だから、学べないの……」
「そりゃ、学校で学べることは独学より手っ取り早い方法だけど、学校に行かなくても学ぶことはできるよ。字は読める?」
「え? じ、字は……」
 読めなかった。
 それは、勉学の基礎の基礎だと聞いたことがある。
 それを言ったらトウヤに馬鹿にされると思った。
 だが、トウヤは馬鹿にしないし、笑わなかった。
「そうか。じゃあ、一か月。オレが研究生として工場に通う一か月の間、仕事が終わったあと字を教えてあげるよ。どう?」
「え?!」
 それは驚くべき提案であったが、安易に飛び乗ることもできなかった。
 家に帰って夕飯の支度があるからだ。他の家事は母と妹がやるが、料理はサシィの仕事だった。
 しかし、サシィの心の中で何かが動いた。
 勉強ができることにより得られる幸運とは何か。それが知りたかったのだ。
 それはただの興味本位だったかもしれない。だが、サシィの気持ちを動かすには十分な動機であった。
「あの、仕事終わったあとは家の仕事があるの。だから、夜、ご飯を食べ終わったあとか、朝早く、工場が開く前はだめ?」
「いいよ」
 無茶な提案かと思ったが、トウヤはあっさりと承知した。
「じゃあ、朝にしよう。早起きは三文の徳って言ってね、これはオレの故郷の言葉なんだ」
 そう言ってトウヤは下山するべくサシィから離れていった。
「明日、明日の朝にここに来るから!」
 サシィがトウヤの背に呼び掛けると、トウヤは一度止まり、振り返って笑んだ。
「うん!」
 その笑顔がとてもきれいで、サシィは日が暮れるまでそこにポーッと呆けたように立ち尽くしていた。
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