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公爵家の広大な庭園に咲き誇る、純白の薔薇。その甘い香りが、開け放たれた窓から部屋の中へと流れ込んでくる。窓辺の椅子に座り、一冊の詩集に目を落としながらも、エリオットの意識はどこか上の空だった。
このリンドール公爵家に、養子として引き取られてから五年が過ぎた。
かつては辺境の小貴族の嫡男として何不自由なく暮らしていたが、悪性の流行り病が、彼の両親と穏やかな日常のすべてを奪い去った。天涯孤独の身となった幼いエリオットに手を差し伸べてくれたのが、父の無二の親友であった現リンドール公爵、その人だった。
公爵夫妻は、彼を実の子のように慈しんでくれた。そして、三人の義理の兄たちもまた、突然現れた血の繋がらない弟を、驚くほど自然に受け入れてくれた。
そのはずだった。
「エリオット、姿勢が悪い。公爵家の人間として、常に人に見られているという意識を持ちなさい」
背後からかけられた、低く、理知的な声。振り返るまでもない。長兄のアレクシスだ。彼は王国宰相補佐官という要職にありながら、家にいる時は常にエリオットの作法や学問に目を光らせている。その怜悧な青い瞳に見つめられると、エリオットはいつも少しだけ身が竦む思いがした。
「申し訳ありません、アレクシス兄様」
慌てて背筋を伸ばすエリオットの肩に、たくましい腕が回された。
「まぁまぁ、兄上もそんなに固いこと言わずにさ。エリオットは本を読んでただけじゃないか」
太陽のように明るい声。王国騎士団にその人ありと謳われる次兄、クリスだった。彼は鍛錬の帰りなのか、汗の匂いをさせながら、エリオットの色素の薄い髪を犬の子のようにわしゃわしゃと撫で回す。そのスキンシップはいつも過剰で、少しだけ息苦しい。
「クリス、お前はもう少し節度というものを覚えろ。エリオットが迷惑しているだろう」
「えー? 迷惑じゃないよな、エリオット?」
緑の瞳で覗き込まれ、エリオットは困ったように微笑むことしかできない。
すると、部屋の隅の影から、静かな声がした。
「二人とも、騒々しいよ。僕の研究の邪魔になる」
本棚の陰で、何やら難解な魔術書を読んでいたのは三兄のゼム。王立魔術師団に所属する彼は、滅多に感情を表に出さないが、エリオットが側にいる時だけは、そのミステリアスな紫の瞳を和らげる。
「エリオット、その詩集を読み終わったら、僕の研究室においで。新しい防御魔術の実験台になってほしいんだ。もちろん、君に危険はないように万全の結界を張るから」
「はい、ゼム兄様」
これが、エリオットの日常。
三人の完璧な義兄たちによって与えられる、息が詰まるほどの幸福。まるで美しい硝子でできた箱の中に大切に収められ、外の風雨から守られているような日々。その過剰なまでの庇護と愛情を、身寄りのない自分への憐れみと優しさなのだと、エリオットは感謝し、受け入れていた。
その予感が、決定的な恐怖へと変わる出来事が起きたのは、父である公爵が、夕食の席で一つの発表をした時だった。
「エリオット、お前ももう十八歳だ。そろそろ、社交界にも顔を見せるべきだろう。来月の王宮夜会で、お前を正式に披露しようと思う」
公爵の言葉に、エリオットは驚きと不安で胸がいっぱいになった。自分が、あの華やかな場所に?
しかし、それ以上に驚くべきは、兄たちの反応だった。
今まで、どんな時も穏やかだった食卓の空気が、一瞬で凍りついた。
カチャリ、とアレクシスがナイフを置く音が、やけに大きく響く。
「……父上、それは少し早すぎるのでは? エリオットはまだ、外の世界の汚さを知りません」
その声は、いつも以上に冷たく、理知的というよりは拒絶の色を帯びていた。
「そうですよ、父さん! あんなハイエナみたいにギラギラした奴らがうろついてる場所に、エリオットを行かせるなんて! 俺が許しません!」
クリスは、いつも快活な笑顔を消し、露骨な敵意を滲ませていた。
ゼムでさえ、静かに異を唱えた。
「夜会には、素性の知れない魔術を使う者も紛れ込みます。エリオットの稀有な魔力親和性は、そういった輩の格好の的になりかねない。僕たちが側にいて守っているのが一番安全です」
三者三様の、しかし同じ結論の反対意見。それは、弟を心配する家族の言葉というには、あまりに必死で、どこか常軌を逸していた。彼らの瞳の奥に宿るのは、庇護欲などという生易しいものではない。もっと暗く、粘着質で、執拗な光――剥き出しの独占欲だった。
「お前たち、少し落ち着きなさい。エリオットも、いつまでも我々の庇護下にあるわけにはいかないのだ」
公爵がそう言って場を収めたが、兄たちの間に流れる不穏で冷たい空気は消えなかった。
その夜、エリオットは自室のベッドの中で、言いようのない恐怖に震えていた。
兄たちの愛情は、自分が思っていたような、温かく穏やかなものではなかったのかもしれない。
あれは、稀少な宝石を自分たちだけのものにしたくて、決して鍵のかかった宝箱の外には出したくないと願う、蒐集家のエゴだ。
そして自分は、その美しい宝石として、この先もずっと、この甘やかな牢獄の中で愛され続けるしかないのだろうか。
エリオットは、初めて、兄たちの与える幸福から逃げ出したいと、心の底から願ったのだった。
このリンドール公爵家に、養子として引き取られてから五年が過ぎた。
かつては辺境の小貴族の嫡男として何不自由なく暮らしていたが、悪性の流行り病が、彼の両親と穏やかな日常のすべてを奪い去った。天涯孤独の身となった幼いエリオットに手を差し伸べてくれたのが、父の無二の親友であった現リンドール公爵、その人だった。
公爵夫妻は、彼を実の子のように慈しんでくれた。そして、三人の義理の兄たちもまた、突然現れた血の繋がらない弟を、驚くほど自然に受け入れてくれた。
そのはずだった。
「エリオット、姿勢が悪い。公爵家の人間として、常に人に見られているという意識を持ちなさい」
背後からかけられた、低く、理知的な声。振り返るまでもない。長兄のアレクシスだ。彼は王国宰相補佐官という要職にありながら、家にいる時は常にエリオットの作法や学問に目を光らせている。その怜悧な青い瞳に見つめられると、エリオットはいつも少しだけ身が竦む思いがした。
「申し訳ありません、アレクシス兄様」
慌てて背筋を伸ばすエリオットの肩に、たくましい腕が回された。
「まぁまぁ、兄上もそんなに固いこと言わずにさ。エリオットは本を読んでただけじゃないか」
太陽のように明るい声。王国騎士団にその人ありと謳われる次兄、クリスだった。彼は鍛錬の帰りなのか、汗の匂いをさせながら、エリオットの色素の薄い髪を犬の子のようにわしゃわしゃと撫で回す。そのスキンシップはいつも過剰で、少しだけ息苦しい。
「クリス、お前はもう少し節度というものを覚えろ。エリオットが迷惑しているだろう」
「えー? 迷惑じゃないよな、エリオット?」
緑の瞳で覗き込まれ、エリオットは困ったように微笑むことしかできない。
すると、部屋の隅の影から、静かな声がした。
「二人とも、騒々しいよ。僕の研究の邪魔になる」
本棚の陰で、何やら難解な魔術書を読んでいたのは三兄のゼム。王立魔術師団に所属する彼は、滅多に感情を表に出さないが、エリオットが側にいる時だけは、そのミステリアスな紫の瞳を和らげる。
「エリオット、その詩集を読み終わったら、僕の研究室においで。新しい防御魔術の実験台になってほしいんだ。もちろん、君に危険はないように万全の結界を張るから」
「はい、ゼム兄様」
これが、エリオットの日常。
三人の完璧な義兄たちによって与えられる、息が詰まるほどの幸福。まるで美しい硝子でできた箱の中に大切に収められ、外の風雨から守られているような日々。その過剰なまでの庇護と愛情を、身寄りのない自分への憐れみと優しさなのだと、エリオットは感謝し、受け入れていた。
その予感が、決定的な恐怖へと変わる出来事が起きたのは、父である公爵が、夕食の席で一つの発表をした時だった。
「エリオット、お前ももう十八歳だ。そろそろ、社交界にも顔を見せるべきだろう。来月の王宮夜会で、お前を正式に披露しようと思う」
公爵の言葉に、エリオットは驚きと不安で胸がいっぱいになった。自分が、あの華やかな場所に?
しかし、それ以上に驚くべきは、兄たちの反応だった。
今まで、どんな時も穏やかだった食卓の空気が、一瞬で凍りついた。
カチャリ、とアレクシスがナイフを置く音が、やけに大きく響く。
「……父上、それは少し早すぎるのでは? エリオットはまだ、外の世界の汚さを知りません」
その声は、いつも以上に冷たく、理知的というよりは拒絶の色を帯びていた。
「そうですよ、父さん! あんなハイエナみたいにギラギラした奴らがうろついてる場所に、エリオットを行かせるなんて! 俺が許しません!」
クリスは、いつも快活な笑顔を消し、露骨な敵意を滲ませていた。
ゼムでさえ、静かに異を唱えた。
「夜会には、素性の知れない魔術を使う者も紛れ込みます。エリオットの稀有な魔力親和性は、そういった輩の格好の的になりかねない。僕たちが側にいて守っているのが一番安全です」
三者三様の、しかし同じ結論の反対意見。それは、弟を心配する家族の言葉というには、あまりに必死で、どこか常軌を逸していた。彼らの瞳の奥に宿るのは、庇護欲などという生易しいものではない。もっと暗く、粘着質で、執拗な光――剥き出しの独占欲だった。
「お前たち、少し落ち着きなさい。エリオットも、いつまでも我々の庇護下にあるわけにはいかないのだ」
公爵がそう言って場を収めたが、兄たちの間に流れる不穏で冷たい空気は消えなかった。
その夜、エリオットは自室のベッドの中で、言いようのない恐怖に震えていた。
兄たちの愛情は、自分が思っていたような、温かく穏やかなものではなかったのかもしれない。
あれは、稀少な宝石を自分たちだけのものにしたくて、決して鍵のかかった宝箱の外には出したくないと願う、蒐集家のエゴだ。
そして自分は、その美しい宝石として、この先もずっと、この甘やかな牢獄の中で愛され続けるしかないのだろうか。
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