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父である公爵の決定は、絶対だった。
三人の兄たちがどれだけ反対しようとも、エリオットの社交界デビューは覆ることなく、着々と準備が進められていった。最高級の生地で仕立てられる礼服。王都一の宝飾店から届けられる装飾品の数々。しかし、そのきらびやかな準備とは裏腹に、公爵邸の空気は日に日に重く、冷たくなっていくようだった。
そして、夜会の二週間前。アレクシスは、夕食の席で静かに、しかし有無を言わせぬ口調で宣言した。
「父上。エリオットを夜会へ出すというのなら、一つ条件があります。彼のデビューに際しての最終的な教育は、この私が責任を持って行います。リンドール公爵家の名に、僅かでも傷をつけるわけにはいきませんからな」
その言葉に、クリスとゼムが何か言いたげに眉をひそめたが、アレクシスの怜悧な青い瞳に射竦められ、口を噤んだ。公爵も、完璧主義者である長男の申し出に異を唱える理由はなく、その提案を了承した。
その日から、エリオットの地獄のような個人レッスンが始まった。
場所は、城の東棟にある、普段は使われていない広い音楽室。アレクシスは、宰相補佐官の激務の合間を縫って時間を作ると、エリオットをそこに呼び出した。
「まずは、ダンスからだ。夜会では、数えきれないほどの申し込みがあるだろう。その全てを完璧にこなせなくとも、少なくとも王家の人間や有力貴族を相手にしたときに、恥ずかしくないステップを踏めなければ話にならん」
アレクシスの指導は、彼の仕事ぶりそのものだった。一切の無駄がなく、的確で、そして一切の妥協を許さない。
ワルツのステップ一つ、腕を上げる角度、視線の流し方。わずかでも乱れば、「違う」「やり直しだ」という冷たい声が飛んでくる。エリオットは、必死にその指導についていったが、元来おっとりとした気質のため、なかなか兄の要求する完璧なレベルには達することができなかった。
何度も同じ箇所を繰り返させられ、エリオットの額には玉の汗が浮かび、息も上がってくる。
「はぁ……はぁ……あに、さま……少し、休憩を……」
「まだだ。夜会の間、踊り続ける体力もないようでは困る」
アレクシスは、まるで機械のように正確なステップを踏みながら、エリオットを容赦なくリードする。彼の身体は、騎士であるクリスとは違う、しなやかで引き締まった筋肉に覆われていた。ダンスの体勢で密着した身体から伝わってくる、硬さと熱。エリオットは、それが訓練のためだと頭では分かっていながらも、妙な緊張感に心臓が早鐘を打つのを感じていた。
テーブルマナーのレッスンでも、それは同じだった。
ナイフとフォークが皿に当たる音、ワイングラスを傾ける角度、ナプキンの使い方。アレクシスの前では、僅かな音や所作の乱れも許されない。失敗すれば、その冷たい指先で、手首をぴしゃりと叩かれた。その痛みよりも、彼に触れられたという事実の方が、エリオットの心を乱した。
なぜ、これほどまでに。
兄は、なぜこれほどまでに自分を「完璧」にしようとするのだろう。それは本当に、公爵家の名誉のためだけなのだろうか。
そんなある日のレッスンの最中だった。
疲労困憊のエリオットは、ふと、気を紛らわせるように他愛ない話題を口にしてしまった。
「そういえば、先日クリス兄様が話していました。騎士団に、とてもダンスの上手い方がいるそうです。確か……レオン様、と……」
それは、本当に何気ない一言だった。
その瞬間、アレクシスの動きが、ぴたりと止まった。
音楽室を流れていた優雅なワルツの音色が、やけに大きく聞こえる。エリオットの腰を支えていたアレクシスの手に、ぐっと力が込められた。その力は、まるで鉄の枷のように強く、エリオットは思わず息をのんだ。
「……今、何と?」
耳元で囁かれた声は、氷のように冷たかった。いつもの厳しさとは違う、底冷えのするような響き。エリオットは、自分が致命的な失言をしたことを悟った。
「い、いえ……あの……」
「お前の口から」
アレクシスは、ゆっくりと、一言一言区切るように言った。
「私以外の男の名を聞きたくない」
厳しい声とは裏腹に、エリオットの腰を抱くその手は、尋常ではない熱を帯びていた。そして、背中にぴたりと押し付けられた兄の身体の中心が、硬く熱を持っていることに気づいてしまった。
「あ……あに、さま……?」
「お前は、私が教えたことだけを覚えていればいい。私の動きにだけ、合わせていればいいのだ。他の男のことなど、お前が知る必要はない」
それは、教育者の言葉ではなかった。嫉妬に狂った、独占者の言葉だった。
アレクシスは、恐怖に固まるエリオットの身体を、さらに強く自分へと引き寄せた。二人の身体の間に、隙間がなくなる。
「お前を完璧に仕上げて、誰にも指一本触れさせない。誰もがお前を遠くから賛美するだけで、手を出すことなどできぬようにしてやる。お前は、私の最高傑作になるんだ、エリオット」
その怜悧な青い瞳の奥で、暗く、歪んだ炎が燃え上がっているのを、エリオットは見た。
それは、純粋な愛情などではない。美しい人形を、自分の思い通りに作り上げ、誰にも渡さずに永遠に飾り続けたいと願う、狂気的な支配欲そのものだった。
三人の兄たちがどれだけ反対しようとも、エリオットの社交界デビューは覆ることなく、着々と準備が進められていった。最高級の生地で仕立てられる礼服。王都一の宝飾店から届けられる装飾品の数々。しかし、そのきらびやかな準備とは裏腹に、公爵邸の空気は日に日に重く、冷たくなっていくようだった。
そして、夜会の二週間前。アレクシスは、夕食の席で静かに、しかし有無を言わせぬ口調で宣言した。
「父上。エリオットを夜会へ出すというのなら、一つ条件があります。彼のデビューに際しての最終的な教育は、この私が責任を持って行います。リンドール公爵家の名に、僅かでも傷をつけるわけにはいきませんからな」
その言葉に、クリスとゼムが何か言いたげに眉をひそめたが、アレクシスの怜悧な青い瞳に射竦められ、口を噤んだ。公爵も、完璧主義者である長男の申し出に異を唱える理由はなく、その提案を了承した。
その日から、エリオットの地獄のような個人レッスンが始まった。
場所は、城の東棟にある、普段は使われていない広い音楽室。アレクシスは、宰相補佐官の激務の合間を縫って時間を作ると、エリオットをそこに呼び出した。
「まずは、ダンスからだ。夜会では、数えきれないほどの申し込みがあるだろう。その全てを完璧にこなせなくとも、少なくとも王家の人間や有力貴族を相手にしたときに、恥ずかしくないステップを踏めなければ話にならん」
アレクシスの指導は、彼の仕事ぶりそのものだった。一切の無駄がなく、的確で、そして一切の妥協を許さない。
ワルツのステップ一つ、腕を上げる角度、視線の流し方。わずかでも乱れば、「違う」「やり直しだ」という冷たい声が飛んでくる。エリオットは、必死にその指導についていったが、元来おっとりとした気質のため、なかなか兄の要求する完璧なレベルには達することができなかった。
何度も同じ箇所を繰り返させられ、エリオットの額には玉の汗が浮かび、息も上がってくる。
「はぁ……はぁ……あに、さま……少し、休憩を……」
「まだだ。夜会の間、踊り続ける体力もないようでは困る」
アレクシスは、まるで機械のように正確なステップを踏みながら、エリオットを容赦なくリードする。彼の身体は、騎士であるクリスとは違う、しなやかで引き締まった筋肉に覆われていた。ダンスの体勢で密着した身体から伝わってくる、硬さと熱。エリオットは、それが訓練のためだと頭では分かっていながらも、妙な緊張感に心臓が早鐘を打つのを感じていた。
テーブルマナーのレッスンでも、それは同じだった。
ナイフとフォークが皿に当たる音、ワイングラスを傾ける角度、ナプキンの使い方。アレクシスの前では、僅かな音や所作の乱れも許されない。失敗すれば、その冷たい指先で、手首をぴしゃりと叩かれた。その痛みよりも、彼に触れられたという事実の方が、エリオットの心を乱した。
なぜ、これほどまでに。
兄は、なぜこれほどまでに自分を「完璧」にしようとするのだろう。それは本当に、公爵家の名誉のためだけなのだろうか。
そんなある日のレッスンの最中だった。
疲労困憊のエリオットは、ふと、気を紛らわせるように他愛ない話題を口にしてしまった。
「そういえば、先日クリス兄様が話していました。騎士団に、とてもダンスの上手い方がいるそうです。確か……レオン様、と……」
それは、本当に何気ない一言だった。
その瞬間、アレクシスの動きが、ぴたりと止まった。
音楽室を流れていた優雅なワルツの音色が、やけに大きく聞こえる。エリオットの腰を支えていたアレクシスの手に、ぐっと力が込められた。その力は、まるで鉄の枷のように強く、エリオットは思わず息をのんだ。
「……今、何と?」
耳元で囁かれた声は、氷のように冷たかった。いつもの厳しさとは違う、底冷えのするような響き。エリオットは、自分が致命的な失言をしたことを悟った。
「い、いえ……あの……」
「お前の口から」
アレクシスは、ゆっくりと、一言一言区切るように言った。
「私以外の男の名を聞きたくない」
厳しい声とは裏腹に、エリオットの腰を抱くその手は、尋常ではない熱を帯びていた。そして、背中にぴたりと押し付けられた兄の身体の中心が、硬く熱を持っていることに気づいてしまった。
「あ……あに、さま……?」
「お前は、私が教えたことだけを覚えていればいい。私の動きにだけ、合わせていればいいのだ。他の男のことなど、お前が知る必要はない」
それは、教育者の言葉ではなかった。嫉妬に狂った、独占者の言葉だった。
アレクシスは、恐怖に固まるエリオットの身体を、さらに強く自分へと引き寄せた。二人の身体の間に、隙間がなくなる。
「お前を完璧に仕上げて、誰にも指一本触れさせない。誰もがお前を遠くから賛美するだけで、手を出すことなどできぬようにしてやる。お前は、私の最高傑作になるんだ、エリオット」
その怜悧な青い瞳の奥で、暗く、歪んだ炎が燃え上がっているのを、エリオットは見た。
それは、純粋な愛情などではない。美しい人形を、自分の思い通りに作り上げ、誰にも渡さずに永遠に飾り続けたいと願う、狂気的な支配欲そのものだった。
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