魔法少女じゃなくなる日まで

八百屋 成美

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 穏やかな逃亡生活は、陽葵が小学校の最終学年に上がってすぐ、桜の花が散りきる前に終わりを告げた。
 その日の夕暮れ、梓と陽葵がアパートに戻ると、見慣れない黒塗りの車が停まっていた。そして、スーツを着た二人の男が、感情の読めない顔でこちらを見ていた。梓はその男たちに見覚えがあった。かつての同僚。厚生労働省 特殊児童福祉対策局の人間だった。
 終わった。
 梓は、驚くほど冷静にそう理解した。
 陽葵は、知らない男たちの存在に怯えて梓の背中に隠れる。梓は、震える陽葵の頭を優しく撫でた。

「大丈夫。大丈夫よ、陽葵ちゃん」

 男たちの一人が、事務的な口調で告げる。

「水野梓。未成年者略取及び誘拐の容疑で、同行願います」

 梓は抵抗しなかった。むしろ、心のどこかで、この日が来るのをずっと待っていたような気さえした。陽葵はもう11歳。魔法少女の適性年齢はとうに過ぎている。もうあの子は兵器として使い潰されることはない。
 だがその覚悟とは裏腹に、梓の背中に隠れた陽葵の体が小刻みに震えているのが伝わってくる。その震えが梓の心をナイフのように抉った。

「行かないで!」

 男の一人が梓の腕を掴んだ瞬間、陽葵が叫びながら梓の前に飛び出した。小さな両腕をいっぱいに広げ、まるで梓を守る盾になるかのように男たちの前に立ちはだかる。

「この人はなにも悪いことしてない! 私が、私がお願いしたの! 一緒にいてくださいって!」

 その必死の叫びに男たちは表情一つ変えない。もう一人が事務的な動作で陽葵の肩に手を置き、梓から引き離そうとする。

「いや! 離して! 先生、先生!」

 泣きじゃくりながら、陽葵は梓に手を伸ばす。その小さな指先が、空を切る。
 自分の役目は終わったのだ。
 そう、頭では理解しているのに心は悲鳴を上げていた。この手を振り払い、一人で行かなければならない。この温もりを自ら手放さなければならない。
 梓は今にも崩れ落ちそうな自分を叱咤し、陽葵に向かって精一杯の笑顔を作った。

「陽葵ちゃん。大丈夫よ。先生は、ちょっと昔のお仕事の話をしに行くだけ。すぐ戻るから。ね?」

 嘘だ。もう二度とこの子の隣に戻ることはできない。
 それでも、陽葵を安心させるためには、そう言うしかなかった。その言葉がどれほど残酷な希望を与えることになるとしても。
 車に押し込まれ無情にもドアが閉められる。
 動き出した車の後部座席から、梓は必死に後を追ってくる陽葵の姿をただ目に焼き付けていた。転びそうになりながら、何度も「先生!」と叫んでいる。その声はもうガラスに隔てられて梓には聞こえない。
 梓は泣きじゃくる陽葵の姿に胸が張り裂けそうだったが、これでよかったのだと自分に言い聞かせた。
 
 あの子は、これから普通の子供として、友達と笑い、喧嘩し、恋をする人生を送るのだ。
 その未来のために、この胸の痛みは、自分が支払うべき当然の代償だった。
 遠ざかっていく陽葵の姿が夕陽の中に溶けて、やがて小さな点になった。
 それを守れたのだから、自分は―――。
 満足、だった。
 
 梓は流れ落ちる涙を拭うこともせず、ただ静かにその事実を噛み締めていた。


 取り調べはかつて自分が毎日通っていた庁舎の一室で行われた。
 目の前に座っているのは第七管理室室長、黒田だった。数年の時を経ても、その冷徹な眼差しは変わらない。

「久しぶりだな、水野君。ずいぶんと、我々を手間取らせてくれた」
「……陽葵は、あの子はどうなりますか」

 梓の問いに、黒田は意外にも穏やかに答えた。

「心配せずとも、保護施設で手厚く保護している。もっとも、彼女に魔法少女の適性はない。ただの、少し魔力の扱いに長けた一般人に過ぎんよ。君の望み通りにな」

 その言葉に梓は安堵の息を漏らした。
 よかった。自分の行いは、無駄ではなかった。
 そんな梓の表情を読み取ったかのように、黒田は口の端を歪めて、皮肉な笑みを浮かべた。

「だが、礼を言わなければならんな、水野君。君のおかげだ」
「……何が、ですか」
「君が起こした、この『悲劇的な誘拐事件』。これが世論を大きく動かしてくれたのだよ」

 黒田はそう言うと、壁の大型モニターのスイッチを入れた。
 映し出されたのは、ニュース番組の特集映像だった。

『いたいけな魔法少女、過酷な運命から救うためか? 元管理官、愛憎の逃避行』
『魔法少女の人権は? 幼すぎる英雄たちに今こそ保護の手を!』

 センセーショナルな見出しと共に、陽葵の幼い頃の写真が映し出される。コメンテーターたちが国の管理体制の不備を嘆き、より手厚い保護の必要性を訴えている。

「君の事件はな、国民に魔法少女への同情と関心を一気に集めさせた。『あんな幼い子を危険な目にあわせるなんて』という声が、我々の計画を後押ししてくれたのだ」

 黒田がリモコンを操作すると映像が切り替わった。新しく建設された、清潔で巨大な施設の映像。

「国民の圧倒的な支持のもと、先月、かねてからの懸案だった新法が成立した。『次世代魔法少女保護育成法』だ」

 ガラス張りの、明るい保育室のような部屋が映る。その中にはベビーベッドがずらりと並び、たくさんの赤ん坊が眠っていた。

「我々は魔法少女の才能をより早期に―――場合によっては、胎児の段階で発見する技術を確立した。そしてこの法律は適性のある子供が生まれた瞬間、親権を国が管理し、この専門施設で『保護』することを定めている」

 梓は、息を呑んだ。
 画面の中では白衣を着た職員たちが、赤ん坊たちを流れ作業のように世話している。親から完全に隔離された環境。外部からの余計な情報や感情に惑わされることなく、純粋な心を保ったまま、最高の効率で「兵器」として育て上げるための、完璧なシステム。

「もう君のような人間が、個人的な感情でシステムに介入する余地はない。彼女たちは物心つく前から、国のために戦うことが自らの存在意義だと教え込まれる。迷いも、苦しみも、恐怖も知らない。ただ、ひたすらに純粋で、強力な、最高の魔法少女となるのだ」

 梓の血の気が、すっと引いていく。
 自分がしたことは、何だったのだ。
 一人の少女を救った?
 違う。
 自分の自己満足な正義が、システムを批判する世論に火をつけ、その結果、国に完璧な口実を与えてしまった。より強固で、より残酷で、そして、誰にも逃げ出すことのできない、完成された地獄を作り上げるための、最後のピースになってしまった。
 自分が救ったはずの陽葵一人の犠牲の上に、これから生まれる全ての才能が、永遠に逃れられない運命に縛り付けられることになったのだ。

「君はある意味で英雄だよ、水野君」

 黒田が、心底愉快そうに笑う。

「君の行動が、我々が理想とするシステムを完成させてくれたのだからな」

 その言葉が、梓の心にとどめを刺した。
 満足感などどこにもなかった。
 あるのは、途方もない絶望と、自分の愚かさに対する底なしの無力感だけだった。
 モニターの隅で、新しい施設の紹介映像がテロップ付きで流れている。

『未来を守る、小さな希望。私たちは、魔法少女たちと共に歩みます』

 その偽善に満ちた言葉を背景に、ガラスの向こうで無邪気に笑う赤ん坊の顔がアップになる。
 その顔がかつて自分が守ろうとした陽葵の笑顔と重なった瞬間、
 水野梓の顔から、全ての表情が消え失せた。
 光のない瞳が、ただ虚空を見つめている。
 それは、生きながらにして、心が死んだ人間の顔だった。
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