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目が覚めると、鼻腔をくすぐる良い匂いがした。
出汁の香りだ。
重いまぶたを持ち上げると、そこは昨日と同じく僕の狭いボロアパートだった。けれど、何かが決定的に違っていた。
散乱していたコンビニ弁当の殻も、脱ぎ捨てたスーツもない。埃っぽかった空気は清浄機を通したように澄んでいて、カーテンの隙間からは冬の柔らかな日差しが差し込んでいる。
「目が覚めたか」
キッチンから、男が出てきた。
黒いシャツに黒いズボン。その上から、なんとピンク色の花柄エプロン(実家から送られてきて一度も使っていないやつだ)を着けている。
死神、シエルだった。
「……おはよう、レン。顔色は悪くないな」
「あ、うん……おはよう……って、何してるの?」
「朝食を作った。貴様の身体は栄養失調寸前だ。管理官として、まずは肉体の修復から始める」
シエルは湯気の立つ土鍋をちゃぶ台に置いた。
蓋を開けると、ふわりと湯気が立ち上る。卵とネギが入った、胃に優しそうな粥だ。
「さあ、食え」
「い、いや、食欲ないし……それに会社に行かないと」
「欠勤の連絡は入れておいた」
シエルは平然と言い放った。
「『インフルエンザに罹患したため、年末まで休みます』とな。診断書も偽造して送信済みだ」
「は、はぁ!? 勝手なことしないでくれ! 今日中に終わらせなきゃいけない仕事が……」
「仕事だと?」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
シエルがスプーンを持ったまま、冷徹な瞳で僕を見下ろしている。
「貴様の寿命はあと六日だ。その貴重な時間を、魂を削るだけの労働に費やすつもりか?」
「それは……」
「口を開けろ」
有無を言わせぬ圧に負けて口を開くと、適温に冷まされた粥が流し込まれた。
……美味い。
コンビニ飯ばかりだった身体に、優しい味が染み渡る。不覚にも涙が出そうになった。
シエルは満足げに頷くと、まるで雛鳥に餌を与える親鳥のように、次々と匙を運んでくる。
拒否権はない。彼にとって僕は、管理すべき対象物なのだ。
食事を終えると、次は入浴だった。
「風呂を沸かした。入れ」
「……一人で入れるよ」
「信用できない。湯船で溺死する可能性がある」
「しないよ!」
抵抗も虚しく、僕は脱衣所に押し込まれた。
さすがに一緒には入ってこなかったが、磨りガラス越しのドアの向こうに、黒い影がぴたりと張り付いているのが分かる。
監視されている。
シャワーを浴びながら、僕は溜息をついた。
昨夜の宣告は夢じゃなかった。あと六日で、僕は死ぬ。
なのに、なぜこんなに穏やかなんだろう。温かいご飯を食べて、昼間から風呂に入って。
死ぬ前の最後の贅沢というやつだろうか。
風呂から上がると、シエルがバスタオルを持って待ち構えていた。
僕が手を出そうとするのを無視して、彼は僕の頭からタオルを被せ、濡れた髪を拭き始めた。
「自分でやるって……!」
「じっとしていろ」
シエルの長い指が、髪の隙間に入り込み、頭皮をマッサージするように動く。その手つきは、恐ろしいほど丁寧で、慈しむようだった。
タオル越しに伝わる微かな体温。
昨夜の冷たさとは違う。人肌に近い温もりが、くすぐったい。
「……シエルは、なんでここまでしてくれるの?」
思わず訊ねていた。
ただの管理官なら、死ぬまで放置しておけばいいはずだ。
「言っただろう。予定外の自殺は困る」
「それだけで、ご飯を作ったり、髪を拭いたりする?」
「……」
シエルの手が止まった。
彼はタオルの上から僕の顔を覗き込む。至近距離にある蒼い瞳が、揺らめいていた。
「綺麗な魂で逝かせたいんだ」
彼は静かに言った。
「傷だらけで、ボロボロに痩せ細った魂ではなく……満たされて、幸福な状態で回収したい。それが私の美学だ」
それはきっと、嘘だ。
彼の瞳の奥にある感情は、「美学」なんて言葉で片付けられるほど軽いものじゃない。もっと重たくて、粘り気のある執着のような。
けれど、その時の僕には、その正体が分からなかった。
その夜。
当然のようにシエルは僕のシングルベッドに入り込んできた。
「狭いよ……」
「我慢しろ。貴様の体温が下がらないよう監視する必要がある」
シエルは背後から僕を抱きすくめ、手足を絡めてきた。まるで逃げ出さないように拘束具をつけるかのように。
背中に触れる彼の胸板は硬く、心音は聞こえない。
やっぱり彼は人間じゃないんだ。
死神に抱かれて眠るなんて、悪夢を見るかと思ったけれど。
不思議なことに、その夜はここ数年で一番深く、泥のように眠ることができた。
僕が寝息を立て始めた頃。
シエルがそっと身体を起こし、僕の頬に口づけを落としたことになど、気づきもしないで。
出汁の香りだ。
重いまぶたを持ち上げると、そこは昨日と同じく僕の狭いボロアパートだった。けれど、何かが決定的に違っていた。
散乱していたコンビニ弁当の殻も、脱ぎ捨てたスーツもない。埃っぽかった空気は清浄機を通したように澄んでいて、カーテンの隙間からは冬の柔らかな日差しが差し込んでいる。
「目が覚めたか」
キッチンから、男が出てきた。
黒いシャツに黒いズボン。その上から、なんとピンク色の花柄エプロン(実家から送られてきて一度も使っていないやつだ)を着けている。
死神、シエルだった。
「……おはよう、レン。顔色は悪くないな」
「あ、うん……おはよう……って、何してるの?」
「朝食を作った。貴様の身体は栄養失調寸前だ。管理官として、まずは肉体の修復から始める」
シエルは湯気の立つ土鍋をちゃぶ台に置いた。
蓋を開けると、ふわりと湯気が立ち上る。卵とネギが入った、胃に優しそうな粥だ。
「さあ、食え」
「い、いや、食欲ないし……それに会社に行かないと」
「欠勤の連絡は入れておいた」
シエルは平然と言い放った。
「『インフルエンザに罹患したため、年末まで休みます』とな。診断書も偽造して送信済みだ」
「は、はぁ!? 勝手なことしないでくれ! 今日中に終わらせなきゃいけない仕事が……」
「仕事だと?」
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。
シエルがスプーンを持ったまま、冷徹な瞳で僕を見下ろしている。
「貴様の寿命はあと六日だ。その貴重な時間を、魂を削るだけの労働に費やすつもりか?」
「それは……」
「口を開けろ」
有無を言わせぬ圧に負けて口を開くと、適温に冷まされた粥が流し込まれた。
……美味い。
コンビニ飯ばかりだった身体に、優しい味が染み渡る。不覚にも涙が出そうになった。
シエルは満足げに頷くと、まるで雛鳥に餌を与える親鳥のように、次々と匙を運んでくる。
拒否権はない。彼にとって僕は、管理すべき対象物なのだ。
食事を終えると、次は入浴だった。
「風呂を沸かした。入れ」
「……一人で入れるよ」
「信用できない。湯船で溺死する可能性がある」
「しないよ!」
抵抗も虚しく、僕は脱衣所に押し込まれた。
さすがに一緒には入ってこなかったが、磨りガラス越しのドアの向こうに、黒い影がぴたりと張り付いているのが分かる。
監視されている。
シャワーを浴びながら、僕は溜息をついた。
昨夜の宣告は夢じゃなかった。あと六日で、僕は死ぬ。
なのに、なぜこんなに穏やかなんだろう。温かいご飯を食べて、昼間から風呂に入って。
死ぬ前の最後の贅沢というやつだろうか。
風呂から上がると、シエルがバスタオルを持って待ち構えていた。
僕が手を出そうとするのを無視して、彼は僕の頭からタオルを被せ、濡れた髪を拭き始めた。
「自分でやるって……!」
「じっとしていろ」
シエルの長い指が、髪の隙間に入り込み、頭皮をマッサージするように動く。その手つきは、恐ろしいほど丁寧で、慈しむようだった。
タオル越しに伝わる微かな体温。
昨夜の冷たさとは違う。人肌に近い温もりが、くすぐったい。
「……シエルは、なんでここまでしてくれるの?」
思わず訊ねていた。
ただの管理官なら、死ぬまで放置しておけばいいはずだ。
「言っただろう。予定外の自殺は困る」
「それだけで、ご飯を作ったり、髪を拭いたりする?」
「……」
シエルの手が止まった。
彼はタオルの上から僕の顔を覗き込む。至近距離にある蒼い瞳が、揺らめいていた。
「綺麗な魂で逝かせたいんだ」
彼は静かに言った。
「傷だらけで、ボロボロに痩せ細った魂ではなく……満たされて、幸福な状態で回収したい。それが私の美学だ」
それはきっと、嘘だ。
彼の瞳の奥にある感情は、「美学」なんて言葉で片付けられるほど軽いものじゃない。もっと重たくて、粘り気のある執着のような。
けれど、その時の僕には、その正体が分からなかった。
その夜。
当然のようにシエルは僕のシングルベッドに入り込んできた。
「狭いよ……」
「我慢しろ。貴様の体温が下がらないよう監視する必要がある」
シエルは背後から僕を抱きすくめ、手足を絡めてきた。まるで逃げ出さないように拘束具をつけるかのように。
背中に触れる彼の胸板は硬く、心音は聞こえない。
やっぱり彼は人間じゃないんだ。
死神に抱かれて眠るなんて、悪夢を見るかと思ったけれど。
不思議なことに、その夜はここ数年で一番深く、泥のように眠ることができた。
僕が寝息を立て始めた頃。
シエルがそっと身体を起こし、僕の頬に口づけを落としたことになど、気づきもしないで。
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