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1話
帰宅してすぐにベッドに倒れ込んだ。
ベッドマットに溶け込みそうなほどに疲労した身体だが、意識は完全に覚醒している。眠気はない。昨日洗濯したシーツからは洗剤のいい香りがして、一層起き上がる気力を奪う。夕食も入浴も着替えも何もかも準備すらしていないが、どうでもよいと思ってしまう。眠れそうにはないが、このまま柔らかなシーツの上で無心に横たわるのも良さそうだ。
ジーンズの尻ポケットの中のものが震える。
億劫になりながらも、腕を回してそれを手に取る。明かりをつけていない暗い室内をぼぅ、とスマホの画面が照らす。液晶画面には『翔太郎』の文字。着信だ。気だるいゆっくりとした動きで通話アイコンをタップする。
『左京、大丈夫か?』
「……死んでる」
『応えられるだけまだマシか……もう家着いたのか?』
「一応……あー、もう俺このまま布団になりたい……明日の講義全部休む……」
『かなり参ってるな。気持ちは分からないでもないけどな。ノートは後で貸してやるから気にせず休めよ。あー、そうだ、さっきの噂話のことだけど、気力あるときにでも試したらどうだ?今は噂だろうが頼りたいだろ?』
「……ああ、そうだね、そうするよ」
『ああ、そうしろよ。じゃあ切るから、ゆっくり休めよ』
「ありがとう……おやすみ……」
通話を切る。脱力した腕が、シーツにゆっくりと溶けていく感覚。このままシーツと一体になっても構わない。
数刻前の友人との会話、そしてその中の噂を思い出す。
『明来神社の鳥居、そこの下にコップ1杯の水を用意して、その中に五円玉を入れて、目を瞑って祈る、らしい。で、なんだったか……あぁ、そうだ、鈴の音が聞こえたら目を開く……んだってさ。そうすると───』
『鳥居の向こうに、祓い屋が現れるんだってさ』
『祓い屋っていうのは、妖怪、幽霊、とにかくそういうのを解決してくれる人?みたいなものらしい。あ、そのコップになんたら~の時間は夜、だったかな』
噂。
祓い屋。
確かに今の左京にとって噂でも何でも、頼れるものがあるのなら全て頼りたい。既にいくつもの神社や寺を頼った。それでもなお解決しないこの状況に、酷く鬱屈しているのも確かだった。解決してほしい、と強く願う一方で、解決しないのではないか、と酷く落ち込んでいる。矛盾してはいるが、実際にその2つがせめぎ合っているのだ。
首を少し動かして目覚まし時計を見る。
午後8時。夜と言っていい時間だ。
明来神社はここから徒歩で行ける距離だ。せいぜい10分くらいだろう。自転車ならもっと早く着く。
嘘でもいいから、試してみよう。
「解決してほしい」という思いが辛勝した。
左京は鉛のように重い身体をのそっと起こして、台所に向かう。鉛の身体に岩を背負っているかのような気分だ。冷蔵庫を開けて、水の入った500mlのペットボトルを取り出した。冷蔵庫を力なく閉めて、適当なグラスをバッグに詰める。ペットボトルを入れるとギリギリチャックが締まった。短い廊下が酷く長く見える。スニーカーを履いて、思い出したように財布の所在を確認して外へ出た。鍵を締めると、静かな風が髪を撫でた。4月半ばの夜は春と言えど少し肌寒い。
左京は重い足を進めた。
住宅地の道は飾り気などない。
道の両側に並ぶ家々の他には、街灯と電柱と、時々思い出したように自販機が佇んでいるだけだ。歩くに支障ない灯りに照らされた道を進む。自転車を漕ぐ力はない。徒歩で向かうが、左京には歩くのさえ重労働だ。足裏が、道路がぐにゃぐにゃと歪んでいる感覚を捉える。しかし、たまにすれ違う人は誰もが普通に歩いている。おかしいのは自分だけなのだ。
ふふふふ…………
静かな風と混ざり合い、笑い声が聞こえる。
空耳ではない。“いる”のだ。
ふふ……ふふふ……
女性の声。
周囲に人影はない。近くの家の笑い声が漏れているにしては鮮明だ。
【どこへ行くの?死にに行くのかしら?】
笑い声が、質問に変わった。やはり“いる”。
左京は足を早める。空耳ではない、幻聴ではない、その声から逃げるように。
【死ぬのなら飛び込みましょう?駅はあっちよ】
耳を塞いで、駆ける。早く、神社へ、鳥居へ、そしてコップに水を、五円玉を、それから、確か目を瞑って、祈る……何を祈る?助けてほしい、でいいのか?それから、鈴の音が聞こえるはずだ。聞こえなかったら帰ろう、すぐに。すぐに帰って……それでどうする?またこうしてよく分からないもの達に悩まされる日々が続くのか?
左京は足を懸命に動かしながら、ぐるぐると回る思考を束ねようとする。
【死んだ方が楽よ?楽しいわよ?】
あぁ、そうかもしれない。
でも、どうせ死ぬのなら、あの噂を試してからでも悪くはないだろう。
明来神社が見えてきた。長い階段を登った先に鳥居がある。薄暗い中でもその存在感は異様なほど大きい。遠近法を無視しているかのような印象さえ受ける。
階段を駆け上がる。時にはひとつ飛ばしに、疲れた足に鞭打って駆け昇る。息を切らしながらも、階段を駆け上がることに躊躇いはない。時々足をもつれさせながらも、階段を踏みしめては蹴り出していく。
「は……はぁ……っ、着い、た……っ」
遠目に見たよりずっと大きな真っ赤な鳥居。その下で、肩を大きく上下させて膝をつく。灯りは淡い月光のみ。拝殿や手水舎どころか境内すら薄暗くてぼんやりとしか見えない。絵馬が風でカタカタと鳴る音が笑い声に聞こえる。
バッグを開けて、透明なグラスを地面に置いた。震える手でペットボトルのキャップを開けて、水を注いで───
【早く死にましょう、死んじゃいましょうよ!】
声が語尾を荒らげる。慌てているようだ。もしかしたら、そういう目に見えない奴らは、神社という場所が苦手なのかもしれない。
水をどのくらい注げばよいか分からず、とりあえず八分目まで注ぐと、ポケットの小銭入れをひったくるように取り出した。
【死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ】
壊れたラジオのように繰り返される言葉。耳を塞ぎたくなりながら、小銭入れから五円玉を探し出すと、グラスの水の中に落とした。ちゃぷ、と淡い月明かりに水が煌めく。五円玉がグラスの底に落ちる前に、左京は顔の前で手を組んだ。必死に祈る。心の奥底からの祈りが、細胞レベルで叫んでいる。
(助けてください、助けてください、助けてください!)
【死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死ん───】
チリン
涼やかで、透き通るような音。
それは確かに鈴の音だ。
チリン
透明な音。
女の声はもう聞こえない。
自ら祈っておきながら、「まさか」と驚きを拭えない。しかし、鈴の音は確かに聞こえる。儚げな音だが、しっかりと、鼓膜を震わせた。芯のある音だ。
左京はゆっくりとまぶたを開く。
石畳の灰色の広い道。明るい道。
その両側に提灯が吊られ、ずっと奥まで続いている。色とりどりの提灯は祭りを想起させる。
提灯同士の間には石灯籠が立ち並ぶ。提灯に照らされてはいるが、周囲には淡い闇が広がっている。夜という時間帯に変わりはないようだが、まるで夢心地のような明るく朗らかな景色だ。
「これ……祓い屋の……?」
本当だったのか、と左京はふらふらと立ち上がる。景色の美しさからか、はたまた希望が生まれたことによる活力か、身体はふと軽い。グラスを跨いで、鳥居をくぐった。身体がまた軽くなった気がした。
明るい道を行く足取りのこの軽快さは、何ヶ月ぶりか分からない。ここ数ヶ月は清々しさや健やかさとは程遠い存在になっていた。
提灯灯りのぼんやりとした光から逃れるように闇が遠く見える。
石畳の感触はスニーカー越しに足裏に伝わる。本物だ。しかし、拝殿も手水舎も神社らしきものは何も無い。夢か現か曖昧だ。それでも、不思議と温かな安堵が胸に灯っている。
ととと、と足音が近づいてくる。軽やかで、隙間ない。駆け足のようだ。それも、子供のもののように聞こえる。左京が立ち止まった直後に、石畳の向こうから小さな人影が2つ、こちらへ向かってきた。こんな所に子供とはおかしな話だが、そもそもこの場所すら怪しいのだ。左京は生唾を飲み込んだ。
駆けてきたのは小さな女の子と男の子だ。小学生低学年……あるいは中学年くらいだろうか。女の子は赤い着物、男の子は黒い着物を着ている。
「お客さん!」
「お客さんだね!」
楽しそうにニコニコ笑って、左京の周りをぐるぐると駆け回っている。何周かした後、2人は左京の前で立ち止まって顔を上げた。
子供らしい可愛らしい顔で、頬は紅を差したように紅潮している。熱っぽいわけではないが、ふくふくと健康そうな頬は、口角が上がってよりふっくらと見えた。おかっぱ頭の女の子は丸い目を更に丸くしている。男の子は短いふわふわの髪を揺らして首を傾げている。
「お客さん、変だね」
女の子が悪気など微塵もなさそうにそう言った。目を丸くして、心底不思議そうに言うのだ。まるで子供が大人に「どうしてお空は青いの?」とでも聞くように。
「へ、変……?」
左京がへたれた声で返すと、男の子がけたけたと笑った。幼い笑顔に、中性的な愛らしさが現れる。
「変だよ。人間……なのに、人間じゃないみたい。お客さんはなあに?」
「なあに?」と聞かれるが、何と答えればよいのかと左京は首を傾げる。彼は質問の前に「人間かそうじゃないか」と言っていた。それを明らかにした方が良いのだろうか。
「えっと……人間だよ」
「人間?でも人間っぽくないねぇ」
「ないねぇ。人間っぽくないもん」
子供が顔を見合わせて不思議そうに口をへの字に曲げている。人間っぽくない、と言われて左京は更に疑問を浮かべる。この子達には自分がどう見えているのか……左京は確認の為に問いかける。
「……俺の目はいくつに見える?」
「2つだよ。お客さん、変なこというね」
「ねー」
「じゃあ、腕は?何本?」
「2本。お客さん、自分のことなのに分からないの?変なのー」
「そうだねぇ。変なのー」
子供達がけらけらと笑う。純粋無垢な、悪意などない子供らしい笑顔。どうやら自分は(この子達からしたら)人間ではないらしいが、見た目は人間そのもののようだ。この提灯の道の奥から来たということは、祓い屋を知っているのだろうか。左京は屈んで子供達の目線の高さに近づいた。子供達は怯える様子なくニコニコとしている。
「ねぇ、祓い屋って知ってる?」
「祓い屋……あぁ、ミキちゃんのこと!」
「ミキちゃん?」
「うん!ミキちゃんが祓い屋で、ムサシちゃんがとおせんぼ?してるの!」
「とおせんぼ……通らせてくれないのかな?」
「違うよ。とおせんぼのムサシちゃんはね、ミキちゃんを守るの。ミキちゃんが危ないときに、敵をやっつけるの」
「ムサシちゃん強いんだよ!ミキちゃんも強いの!」
「守る……危ないときに……とおせんぼ……?…………あ、もしかして、“用心棒”?」
「そう!よーじんぼー!」
「ムサシちゃんはよーじんぼーなの!」
どうやら祓い屋の“ミキちゃん”の他に、用心棒の“ムサシちゃん”がいるらしい。その2人が自分のこの悩みを解決してくれるのだろうか……左京は噂が真実であったことを喜びながらも、どこかでまだ不安視していた。神社の神主や寺の住職に頼っても解決しなかった悩み……それが綺麗さっぱり解決する未来のビジョンは全く見えてこない。
それでも、もう他に頼るあてはない。
左京は喉奥の蟠りを呑み込んだ。
「その祓い屋さんに会いたいんだけど、どこに行けば会えるかな?」
「ミキちゃんならムサシちゃんと一緒に“浄楽庵”にいるよ」
「じょうらくあん?」
「うん!ミキちゃんとムサシちゃんと、それから私達みんなのお家!」
「浄楽庵はどこにあるのかな?祓い屋さんの力を借りたいんだ」
「この道をずーっと奥へ行くの」
「一本道だから迷わないよ」
「そっか。ありがとう」
「どういたしましてー!」
「じゃあ僕達はもう行くね!ばいばーい!」
「ばいばーい!」
左京が返す前に2人は駆けて行ってしまった。ととと、と駆ける後ろ姿は、やがて霧の向こうにでもいるかのようにゆらりと揺れて消えた。目をこすってもう一度見ても、子供達はいない。
「……どうなってるんだ……?」
あの子供達もまた人ならざるものなのだろうか……そう考えて身震いした。背中を氷の筆で撫でられたような静かな恐怖。左京は頭を左右に振って立ち上がると、奥の道へと視線を向ける。子供達の言葉が事実なら、この先の浄楽庵という所に目的の祓い屋がいるはずだ。左京は足を踏み出した。
紅、橙、黄、緑、藍、白、黒……様々な色の提灯のぼんやりとした灯りが、安心感と温かさを心に灯してくれる。闇から守ってくれているようだ。現実感のない美しさと夢心地のような身体の軽さが、少し前の悩みすら忘れさせようとしている。
深呼吸をする。肌寒かったはずの空気は既に心地好い温もりを持って、左京の肺を満たした。吐き出した吐息に疲労感でも詰まっていたかのように、身体が自然とリラックスする。
歩いても歩いても、疲れない気がする。足裏の石畳は確かに硬いのに、不快感も痛みもない。
歩いているのに浮いているような、そんな不確かで、でも昔から知っている場所のような安心感。進むことに躊躇いは生まれない。
「あれ、か……?」
遠目に見えてきたのは古民家だった。田舎の旧家のような大きな佇まい。更に近づくと、細かく編まれた竹垣と一段低い生垣に囲まれているのが見えた。あの様子では中は窺えなそうだ。玄関前には人の背より一回り二回りほど高い素朴な竹造りの門が立っている。石畳は門をそのままくぐって玄関口へと続いている。どこをどう見ても古いと分かる、焦げ茶を基調とした静かな佇まい。しかし脆そうだとか不気味だとか、そういう印象はなく、華やかさは無いにしろアンティークのような魅力を感じる。瓦屋根、障子、板絵戸、玄関の格子帯戸……どれも古風な良き日本家屋の風格を纏っている。
門の前で立ち止まる。木板の表札には達筆な筆づかいで『浄楽庵』と書かれている。呼び鈴らしきものはない。勝手に入ってよいものかと、左京は門から声を張った。
「すみませーん!誰かいらっしゃいますかー!」
しばらくして、古民家の中から音が聞こえてきた。足音のようだ。早足なその音が来るのを待っていると、格子帯戸の向こうに人影が見えた。ガラ、と引き戸が開けられると、そこに立っていたのは茶髪の女性だった。左京とは同い年くらいだろうか。肩まで伸びた髪が弱い風に揺れた。
白のブラウスに、桜色のカーディガンを羽織り、その下には膝丈の濃紺のフレアスカート。細身だが健康的なプロポーションで、相貌はどちらかといえば可愛らしい部類だ。大きな瞳が左京を捉えている。
「お客さんね。とにかく中へどうぞ」
微笑むと少女のような愛らしさが花咲いた。
左京は会釈すると門をくぐった。玄関に入ると、勧められるままに靴を脱ぎ、廊下に上がって彼女を追う。木の香りだろうか、古民家特有の懐かしい香りが鼻を擽る。ギ、ギ、と踏みしめる度に鳴る廊下の軋みが、祖父母の家を思い出させる。
「そういえば夕食は食べた?」
「え、あ……いいえ」
「それなら一緒に夕食食べない?私達、ちょうどこれからなの」
「そうなんですか?タイミング悪くてすみません。出直して来た方がいいですか?」
「いいのいいの。小百合と柚子彦が遊びに行っちゃって、余っちゃってるの。一緒に食べてくれた方がありがたいな」
「そういうことなら、お言葉に甘えさせてもらいます」
「よかった」
女性は朗らかにそう言うと、一部屋の前で立ち止まって、障子を静かに開けた。
「お客さんだよ」
「……」
円いちゃぶ台の向こう側に座っている精悍な顔つきの男が、眉間にシワを寄せて左京を見上げる。しかし彼はすぐに持っていた新聞に目を落とした。女性は「どうぞ」と左京を部屋へと促す。招かれるままに左京は男性の向かい側へと腰を下ろした。座布団の上で正座をして、ちゃぶ台の上を見る。古民家だからと純和風料理を想像していたが、そこに並んでいるのはピザや餃子、ローストビーフなど……様々な国の料理だった。和風料理が無い。なんだか既視感を感じる。
女性が部屋に戻ってくると、数枚の取り皿と箸を左京の前に置いた。湯のみに麦茶を注ぎながら、女性が男性を窘めた。
「もう夕食なんだから新聞置いてよ」
「分かってる。で、なんで皿を用意してんだ?」
「夕食まだらしいし、食事がてら話を聞こうと思って。じゃ、食べよっか」
女性が男性の右隣、左京の左隣に腰を下ろすと、手を合わせた。彼女の「いただきます」に倣って、左京も手を合わせて「いただきます」と言った。とはいえ、美味しそうではあるが手をつける気にはならず、2人の顔を見た。
女性は嬉しそうにピザに手を伸ばした。一切れ手にしてパクリと咥えると、チーズがびょん、ととろけて伸びた。それを美味しそうにもそもそと食む姿はなんとも可愛らしい。
男性は箸でローストビーフを摘むと、数切れをいっぺんに口に運んだ。咀嚼する度に、雄々しい顔が歪む。表情は美味しそうに食べるわけではないが、再びローストビーフに箸を向ける様子からして気に入ってはいるようだ。
おそらく、この2人が子供達の言っていた“ミキちゃん”と“ムサシちゃん”だろう。とすると、女性が祓い屋で、男性が用心棒なのだろう。女性の方は、祓い屋というよりはモデルだとか女優だとか華やかな職に就いていそうだが、男性の方は用心棒という言葉にピッタリだ。紺の着物の上からでも、身体に纏う筋肉はストイックに鍛えられたものだろうと推測出来る。ボディービルダーのような太さはないが、きっと用心棒としての仕事は十二分に全うしているのだろう。
左京は両手を膝に置いて、女性の方へ視線を向ける。そして、おそるおそる話題を───ここに来た理由を切り出した。
「あの……ミキさんって、祓い屋……なんですよね?」
「ああ」
───ん?
聞こえた返事は低い男らしい声。女性の唇は咀嚼中で閉じられたままだ。彼女が返事をしたわけではないようだが、それなら誰が───
「お前、勘違いしてるだろ」
男性の声。勘違い?まさか……と左京は右隣に視線を向ける。見上げるそこには、あの精悍な顔の───
「ミキは俺だ」
「…………えぇ!?」
ミキと名乗る男性は、眉間にシワを寄せて左京を見下ろしている。左京は口をあんぐり開けて見上げるしか出来ない。彼の隣で、女性が笑った。
「はははっ、ミキって聞いたら、女性だと思っちゃうよね。小百合と柚子彦から名前しか聞いてなかったのかな?」
「ミキは苗字だ。三つの木、で“三木”だ」
「み、三木……」
「そうそう。で、私がムサシ。ムサシは武器の“武”に、地蔵の“蔵”で“武蔵”」
「武蔵……」
とんだ勘違いをしていたと知って、左京は『人は見かけで判断しないこと』という母親の教えを思い出す。見かけというよりは名前で判断してしまったのだが、そこはそれ。左京は頭を下げた。
「勘違いしてました、すみませんっ」
「いいよ、気にしてないから。それより、三木に相談があるんでしょ?えっと……そうだ、名前聞いてなかったね」
「あ、そうでした……俺は京 左京です。京都の“京”でカナドメ、左に京都の“京”でサキョウです」
「京左京……逆さから読んでも京左京……」
「よく言われます」
小学校からずっと指摘されてきたネタで、今更どうとも思わずに笑って返した。それから、三木の方へと視線を戻した。手のひらが汗で僅かに湿っている。ぎゅっと膝の上で拳を握り締めて、改めて切り出す。
「祓い屋が、妖怪や幽霊みたいな人じゃないものに関係する問題とかを解決してくれるって聞いて来ました。最近俺の身の回りでそういうのが多くて……」
「だろうな。お前、人間にしちゃあそういう怪異に“近すぎる”」
三木が箸を置いて腕組みをした。遠回しに『普通の人間じゃない』と言われていると理解したが、今更驚かなかった。子供達にもそう告げられたこともそうだが、彼の何もかもを見透かすような真っ直ぐな瞳を見ていると、なんとなく納得させられる。
「ここ数ヶ月前から、誰もいないはずなのに声が聞こえたり、人じゃないものを見るようになったんです」
「……例えば?」
「女の声で『死んじゃえ』とかそういう類のことを囁かれたり、その……め、目がひとつの子供が追いかけてきたり……大学の教授に血まみれの男性がへばりついているのも見ました……それから、首の長い女性……ろくろ首って言うんでしょうか、それに襲われて……そのときたまたま居合わせた友人に助けられて……」
「霊と妖、両方か」
三木は顎に手を当てて視線を落とした。料理を見ているのではないのは確かだ。三木はすぐに視線を上げた。
「まあ、先に説明しておくと、人間は誰でも少なからず霊力ってのを持っている。霊力ってのは、簡単に言えば『人じゃないものを感知する力』だ。霊力を全く持っていない人間を探す方が難しい」
「霊力、ですか」
「ああ。霊力を持っていれば、妖……妖怪ってのは見えるし触れる。声も聞ける。だが、霊……幽霊、死霊は、霊力が高い奴じゃないと感知出来ない」
「つまり……俺は霊力が高いってことですか?」
「そういうことだ」
「でも、数ヶ月前よりも以前は、幽霊の声だとか聞いたことなかったし、妖怪だって見たことなかったし……」
「そこだ。たぶん、お前のその“人間なのに怪異に近い”って気配が関係してるんだろう」
「でも、俺は普通の人間ですよ」
「その数ヶ月前に何かきっかけがあったはずだ。何か覚えてないか?」
「そんなこと言われても……」
左京は視線を落とす。数ヶ月も前のことなんて思い出せそうもない。そもそも思い出そうとしているのは、“きっかけ”という曖昧で抽象的なもの。思い出せるわけがない。
武蔵が心配そうに左京の顔を覗き込んだ。
「左京君、とりあえず食べたら?冷めちゃうし……」
「あ……そうですね、いただきま───」
箸に手を伸ばして、はたと止まる。
ちゃぶ台に並ぶ数々の料理。1人分ではなく、多くの───
「ああっ!!」
左京は声を上げた。
思い出した。数ヶ月前、ちょうどこの身や周辺で異変が起き始める前、おかしなことが起きていたこと。そして、それが怪奇現象に関係するワードがいくつか当てはまる事象だったこと。
何故忘れていたのだろうか。
無意識にその記憶を脳の奥に押し込んでいたのかもしれない。でも、こうして思い出すと、何もかもが鮮明に脳裏に浮かんでくる。まるで今まさに体験していることのように。
「思い出しました、料理、料理です!」
「料理……?」
三木が首を傾げてチラリと料理を見る。何かを思いつくでもなく、彼は再び左京に視線を戻した。武蔵も不思議そうに左京の顔を見つめている。
思い出した興奮そのままに、左京は口を開いた。
「俺、夢の中で料理をいっぱい食べたんです。なんかよく分からない和室で、食卓っていうのかな……大きなテーブルいっぱいに料理が並んでて、俺、それ全部食べたんです」
「夢の中で料理?なんでそれがきっかけだと思う?」
三木が目を細めて問う。
左京はひとつ深呼吸をした。思い出した歓喜で忘れかけていたが、言葉にしようとするとその“きっかけ”が如何に不気味なことかをまざまざと思い知らされた。
もうひとつ深呼吸をして、左京はそのおぞましい理由を口にした。
「料理の材料が、妖怪でした」
───────
数えればきりがないほどに並んだ料理の数々。
おどろおどろしい見た目から、高級料理店で出てきそうな美食まで、テーブルいっぱいに並んでいる。ひとつのテーブルでは足りないと、顔を白布で隠した童のような者達が、えっさほいさとテーブルを運んできてはその上にまた料理を載せていく。
左京は最初から置いてあるテーブルの前に正座して、その様子を見守っている。箸やグラスが目の前にあるが、料理に手をつけるでもなく、ただただテーブルや料理が運び込まれる様子を見ていた。
「美味しいですよ」
声を掛けられた。若い男性らしき声だ。童達ではなさそうだ。顔をあげると、遠くまで続くテーブルの向こう───ずっと向こう側に1人の人影が見える。テーブル越し、10mはありそうな距離に白髪の人物がおそらく自分と同じように正座しているようだ。童達と同様に顔に布が垂れていて、表情や容姿は窺えない。童達が染みひとつない真っ白な布だったのに対し、テーブルの向こうの人物の布には何やら黒い紋様のようなものが描かれている。遠い距離。そのはずなのに、何故か遠くにいる彼が眼前にいるかのように鮮明に見てとれる。そのうえ、先程の声はすぐ近くで話しているかのように鮮明に鼓膜を震わせた。部屋は大きなテーブルがいくつ置かれても未だ余裕があるほど広い。宴会をひとつふたつは余裕で開けそうだ。反響もなさそうなのに、何故こんなにハッキリと聞き取れたのだろうか。
「この料理は何ですか?」
左京は問いかける。声を張り上げなければ聞こえない距離のはずなのに、発した自分の声は普通に目の前の人物と会話するかのような声量だった。
「しっかりと見れば、料理名は分かるはずですよ」
向こう側の人物───声からして男性が、そう答える。料理を見るだけで料理名が分かる?唐揚げやハンバーグなどは見れば分かるだろう。それを、今更どう見ろと言うのだろうか。
左京はさっきまでぼぅ、と見ていた料理の数々を、しっかりと焦点を合わせて見つめる。
鵺の唐揚げ。
百目の目玉の塩ゆで。
蛟の蛇酒。
人魚の活け造り。
鬼と餓鬼の合い挽きハンバーグ。
雪女郎の母子丼。
小豆洗いの小豆の汁粉。
猫南瓜のパンプキンパイ。
牛鬼のステーキ。
エトセトラ、エトセトラ…………
料理名どころかメインの材料名までもが脳に流れ込んできた。男の言う通り、見た料理のことを既に知識として得ているかのように脳に浮かび上がってくる。
聞いたこともない食材ばかり。それでも、いくつか分かる材料の名を理解しただけでも、この料理の数々が普通でないことが認識出来た。
男に視線を戻すと、彼の顔の布が微かに揺れた。布越しでも笑っているのがなんとなく分かった。
「ではそろそろ食べ始めましょうか。せっかくの料理が冷めてしまいます」
「この料理は……」
「貴方と、そして僕の為の料理です」
「俺と……貴方の……?」
「ええ。今日は僕達の誕生日ですから」
言われて、左京は首を傾げる。誕生日はまだ数ヶ月先だ。そもそもあの男は京左京という存在を知っているかのような口振りだ。左京には白髪の男にもその声にも心当たりがなかった。自分と同じ誕生日の知り合いも思い当たらない。
「貴方の誕生日は霜月の二十と九つと存じていますとも。今日がその日ではないことも、もちろん認識しております。そもそも僕は己の生まれ落ちた日など覚えてはいません」
「それなら、どうして……」
「今日この時までの僕達が死に、今日この時から新たな僕達が生まれるのです。僕達の新たな誕生日、新たな生……素晴らしいことです」
「ま、待ってください、意味が分からない。今までの俺が、死ぬ?新しい俺ってどういう───」
「さて。空腹も限界でしょう。食べましょう。食べて新たな生を享受しましょう」
「空、腹……?」
その言葉を聞いた瞬間、左京の胃がぐるぐると音を立てた。朝食を食べて数時間経った昼頃のような空腹感ではない。数日間何も口にしていなかったかのような飢えと渇きだ。胃が空虚に悲鳴を上げ、身体の全細胞が食事を、栄養を、水分を、その身の生きる糧となる全てを欲して叫んでいる。舌が味を、食を求めて唾液にまみれる。喉が渇ききっているのに、口内は唾液の分泌が止まらない。
不気味な料理が。
美しい料理が。
残酷な料理が。
芳香を放つ料理が。
湯気を燻らせる料理が。
食べ物にすら見えぬ料理が。
その全てが欲しい。端から全て食いつくし、皿に残る汁さえ残らず味わいつくし、この身を心を満たしたい。
「いただきます」
男が手を合わせて告げた言葉が合図のように、左京の手が箸を掴んだ。近くにあった“何か”の姿焼きを箸で摘んで口に運んだ。その美味な衝撃に左京は目を見開いた。身のしまった肉の、しっかりとした食感。皮が弾けて肉汁が溢れ出す。ソーセージの食感に似ている。味付けは薄めで、食材の味を存分に楽しめる。傍のグラスに注いであった淡い琥珀色の液体を飲む。焼酎のようだ。左京は下戸だが、渇きと食欲に抗えずにぐっと呷った。左京は酒がこんなに美味だとは知らなかった。一気に飲み干してしまったことを後悔してグラスをテーブルに置くと、あの童達のうちの1人が近づいてきた。その手には酒瓶。童がグラスに酒を注ぐのも待てずに、左京はひったくるように酒瓶を奪い取った。酒瓶の中の淡い琥珀色を、一気に口へ、喉へ、胃へ流し込む。空の酒瓶を床に置いてほぅ、と息を吐く。幸福感が胃から全身に染み渡っていく。
童が空瓶を拾って去っていく姿を一瞥もせずに、左京は再び箸を取る。上半身が裸の女性が皿の上に横たわっている。見れば、彼女の下半身は魚で、鮮やかな手捌きを想像するに易い、美しい活け造りにされている。女性の顔はまるで眠っているかのように穏やかだ。柔らかな胸の膨らみが露わになっているが、左京はそれよりも活け造りに夢中だった。透き通るような薄い白身を箸で1枚摘み、口に運ぶ。これもまた美味だ。弾力があり、淡白だが旨みのある身。呑み込む前に気づけば箸で刺身を数枚摘んでいた。
黒々とした料理が目に留まる。粘度のあるスープに、気味の悪いものが浮かんでいる。眼球だ。眼球の他にも歪な肌色の塊が浮かんでいる。黒い水面から突き出ている白いものもあった。皿の傍のスプーンでスープを掬う。シチューのようなとろみだ。飲んでみると、強い苦味と渋味が舌いっぱいに広がった。思わず顔を顰める。コーヒーの苦味だけを何倍も濃く抽出したような苦味に、渋柿の渋味を濃縮したような舌の痺れ。だが、それがどうしようもなくクセになった。2杯、3杯とスプーンで掬い、口に運ぶ。眼球を口に入れて噛むと、葡萄を食んでいるような食感に、どろっとした粘度ある液体が混ざり合った。味は淡白でスープの苦味や渋味で掻き消えてしまう。
「気に入ってもらえてよかった……」
向こうの男はそう言って何かを手に取った。
やはり遠いはずなのに声は鮮明だ。
彼は顔の布の端を少しだけ摘み上げる。顔が見えるほどではなく、その容姿を拝むには至れなかった。男は肌色の何かを口に運んで咀嚼しているようだった。それは料理ではなく、何の加工もされていない人の腕に見えた。
「それは……何を食べているんですか?」
左京はそう問いながら箸を止めない。手を伸ばしてハンバーグを一口大に割る。
「人間です。貴方の為の料理に力を入れすぎましてね、こっちは調理していなくて……でも、生でも美味しいですよ」
男はにこやかに答える。実際笑っているのかは見えないが、声に優しさと楽しさと喜びが交じっている。
人間───そう聞いて、左京は箸をピタリと止めた。唇の前まで運ばれたハンバーグの欠片から、ぽたり、と肉汁が滴り落ちる。デミグラスソースも別の料理の皿に垂れた。真っ白な皿に滴ったそれは、血のように黒々とした赤だ。
「この料理は全部僕が作ったんです。そのハンバーグは鬼の肉と餓鬼の肉の合い挽き肉を使っています。臭み取りにスパイスを使いましたから、きっと美味しく食べられますよ」
促されてハンバーグを食む。噛むと肉汁がぶわ、と口いっぱいに広がる。スパイスの独特の風味が肉と見事に調和され、今まで食べたハンバーグとは明瞭に一線を画す美味だった。
「美味しいですか?」
「はい……すごく、すごく美味しいです」
「よかった。頑張った甲斐がありました。ああ、そうだ……僕に対して敬語なんて使わないでください。僕が貴方を敬うことはあっても、貴方が僕を敬うことなんてないんですから」
「……もしかして、会ったことがある?」
「ええ。何度もお会いしていますよ」
「ご、ごめん……俺、覚えてない……」
「当然ですよ。僕は今こうして顔を隠してますし、仮に顔を見せたところで、貴方はたぶん僕を僕と分からない」
男はそう言って、持っていた腕を噛みちぎった。噛み跡からはぼとぼとと何かが溢れている。遠目でもそれが血なのだろうと思った。液体ではなく、塊のような血だ。
「僕のことは気にせず、料理を楽しんでください。せっかくの誕生日ですから。貴方も僕も、新しく生まれ変わる……僕達は少しずつ互いが近づき、やがて同一存在になるのです」
「同一存在……?」
左京は彼の言葉をひとつも理解出来ない。何度も会っているのに全く記憶にないことも疑問だが、誕生日だとか同一存在だとかこの料理の数々だとか……一切理解の余地がない。
「料理、お口に合いませんか?」
「いや、そんなことはないよ。どれも美味しいし、初めて食べるものばかりだ。この……ぬえ?の唐揚げなんかすごくジューシーで美味しいよ」
「喜んでもらえてよかった……それ、作るのに苦労したんですよ。どんなにぶつ切りにしても、あの不気味な声で鳴くものですから……あ、尾の蛇はちゃんと毒抜きしてありますよ」
声だけでも分かる、男の幸福感。想い人に見目を褒められた少女のように、大人に努力を認められた子供のように、彼は心底幸せそうに吐息混じりの声で笑った。
左京には彼が嬉しそうな理由は分からない。それでも一緒に食事をしている、おそらくは知人であろう存在が心を弾ませていることが純粋に嬉しかった。そもそも京左京という人物は優しい人間であり、他人の一喜一憂に、彼もまた同じく一喜一憂するような性格だった。共感性が高いのだ。
左京もまた幸せそうに料理の感想を伝えながら、料理に舌鼓を打つ。どんなに食べても腹は満たされず、際限なく料理が次から次へと運ばれてくる。
会話が弾みながら、時間と空の皿が積み上がっていった。
───────
「……つまりは、お前、妖を食ったんだな?」
「はい……聞いたこともない名前もあったけど、人魚とか鬼とか小豆洗いとか……それって、妖怪ですよね?」
「分かっててなんで食った?」
「何故かすごく空腹で、喉も渇いてて……何日も何も食べてないんじゃないかってくらいに空腹でした。なんていうか、自分でも異常だと思うくらい、食べ物に執着していたように思います」
「……聞いたことのないケースだな」
「三木でも聞いたことないの?」
「妖が妖を食うなんて話はいくつか聞いたことはある。でも、人間が妖を食うなんてのは……しかも、夢の中……それが“きっかけ”の可能性は充分あるな」
「ね、ね、左京君。その夢の中で一緒に食事した人、心当たりないの?」
「はい。でも、向こうは俺を知ってるみたいでした」
「……」
三木は箸を置いて腕組みをした。眉間のシワが深くなり、料理を見る目付きが険しくなる。左京は今更になって、あの夢の異常さを認識した。夢の中ではあるが、妖怪なるものを口にした。そして、同席していた相手は、人間を食べていた……何故今まで忘れてしまっていたのか、それさえも恐ろしかった。
三木は視線を上げて左京を見た。自然と左京の背筋が伸びる。
「どういう理屈かは知らないが、お前は妖を食って、妖力を得ているらしい」
「妖力……?妖怪の力、みたいな?」
「そんなもんだ。霊力が高く、妖力を持っている。だから人ならざるものとの干渉力が高まり、変に付きまとわれてるんだろうな」
「どうすればいいんですか?俺、もう嫌なんです」
「どうしようもないな。前例はなく、解決策も……俺の知識量じゃ見つからない」
「三木がダメなら、祓い屋業界は全滅かなぁ」
「ぜ、全滅……!?そんな!俺、ずっとこのままなんですか!?」
左京は頭を抱える。この数ヶ月の苦しみが一生続くというのなら、ここに来る前の女の声の通り、死んだ方が良いのではないか。
授業は姿無き声に苦しめられ集中出来ない。
バイトは客に憑く霊に怯えて仕事にならない。
友人と話していても霊の声に震えた。
通りすがりの人の憑き物のせいでろくに顔を上げられない。
夜道に見た怪異に怯えて何度も道を変えた。
どこへ行っても恐怖があった。
「やっぱり、死んだ方が……」
「まあ待て」
俯いて弱音を零した左京を、三木が遮った。でも、左京は顔を上げる気が起きない。今しがた『どうしようもない』『前例がなく解決策も見つからない』『祓い屋業界は全滅』と言われたのだ。もう希望などないのだからこのまま死なせてほしいとさえ思った。
「要は、今の俺にはこの件を解決するのが無理だって話だ。これから調べていきゃあ、解決策も見つかるかもしれねぇしな」
「でも、そんなの『かもしれない』って話でしょう?解決しないかもしれないじゃないですか」
「調べなきゃ見つかるもんも見つからないだろうが。もし調べ尽くして、それでダメなら死んだってかまやしない。好きに死にゃあいい」
「ちょっと、三木!」
「なあ、京、死にたいぐらいしんどいんだろ?俺にはそのしんどさは理解出来ない。だから、お前の自殺を止める権利はない。解決策が見つからないなら、好きに死ねや。俺が『解決策は何も無い』って結論出すまでは希望はあるとでも考えとけ」
「本当に……見つけてくれるんですか?」
左京はゆっくりと顔を上げる。勇ましく雄々しい三木の顔が、少し眉を顰めた。
「見つける、なんて断言しない。そんな無責任なことはしないさ。まあ、それでも出来ることはしてやる」
「あ……ありがとうございます!」
左京は頭を下げた。料理が目の前にある。これではないが、料理が原因の自分の状況だ。目の前に元凶がある。そして、自分と対面する祓い屋は『見つける、なんて断言しない』と言った。希望なんて有りはしないはずだ。それでも、探してもらえるという答えに、歓喜せずにはいられなかった。無責任に『見つけてやる』と言われるより遥かに、三木という祓い屋を信用出来る答えだった。
「よかったね、左京君!」
「はい、ありがとうございます!」
左京が顔を上げて武蔵を見ると、彼女は嬉しそうに顔辺りまで両手を上げていた。左京はよく分からないまま真似ると、彼女は左京の両手にハイタッチした。無愛想な三木と違い、人懐っこくて明るい人柄らしい。
「さ、食べちゃお」と促されるままに左京は箸を取った。近くの生姜焼きを摘んで食べる。あの夢の料理の方が、比べるまでもなく美味だったな、と思った。
───────
「それで、あの……報酬、は……」
武蔵が食器を全て下げてまっさらになったちゃぶ台を挟み、左京はおそるおそる頭の隅で気がかりだったことを話題にあげた。今まで頭の中いっぱいの怪奇現象の悩み事が多少萎んで、他のことに気を回せる余裕が出来ていた。
武蔵は食器を洗いに台所へ行った。左京も手伝うと申し出たが、武蔵にやんわりと断られ、三木と2人きりの空間にいたたまれずに、報酬を問うたのだった。
三木は新聞からちらりと視線だけを上げた。
「報酬とは言ってもな……今回の場合は成功するかも分からないからな」
「でも、タダ……ではないですよね……」
「……まあな」
「ちなみに、相場はどれくらい……?」
「時と場合による」
「なるほど……」
時と場合……それなら、自分の場合はどうなるのだろうか、と左京は値踏みする。桁はいくつだろう、ゼロが数個足りないのでは、と数字をいくつも更新していく。やがて浮かんだ数字に目眩がした。苦学生、という程ではないが、そこそこ苦労の多い生活を細々と営んできた。親からの仕送りとバイト収入、そこから基本的な出費を差し引くと……一体どれくらいもやしだけの食生活になるのだろうか。
「……まあ、ここでバイトするなら少しは割安にしてやれるが」
「ここでですか?」
「ここ浄楽庵には、妖や霊による怪奇現象に悩む人間の他に、悩める妖や霊の助けもしている」
「え、妖や霊もですか!?」
「アイツらだって生きてるからな、悩みくらいある。まあ、霊は死んでるが」
「具体的には、どんな……?」
「人間の方はお前みたいに怪奇現象に悩んでの依頼が多いな。妖や霊だと、他の悪妖や悪霊からの被害や失せ物、暇つぶしに来る奴もいるな」
「妖や霊にとっての、交番みたいなものですか?」
「交番ってより、何でも屋だな。ここでバイトするなら、妖や霊の対応をしてもらうぞ。まあ、祓うのは俺や武蔵だが。対応してもらうって言っても、別に人間を取って食おうって輩じゃないからな、そこは安心していい。悪い輩はそもそもここには来ない。祓われるからな。時々命知らずが来ることもあるが」
「そうですか……」
割安になるのはありがたい。三木達とともにいれば、日々悩まされている妖や霊のことなど、助かることも多いだろう。しかし、今まで怯えていた妖や霊達の対応をするというのは、抵抗があった。
「妖や霊が怖いって二の足を踏んでるんなら言っとくが……お前、ここに来る道で、子供に会わなかったか?」
「赤い着物の女の子と、黒い着物の男の子に会いました」
「そうか。そいつらは赤い方が小百合で、黒い方が柚子彦って言うんだが」
「あ、武蔵さんが言ってましたね」
「アイツらは妖だ」
「え?」
「座敷童子……聞いたことないか?」
「あ……あります。子供の妖怪で、家に憑いてるんですよね?その家は裕福になるけど、座敷童子が去ると貧乏になるって」
「アイツらはその座敷童子だ。別に人間の子供と変わらず、無害だったろ?」
「は、はい……質問にも答えてくれたし、人の子供と全然変わらなくて……」
「妖は大体無害だ。昔……平安時代だとか、それくらい昔はもっと強力で、人間に悪さする輩もいたが、今はおとなしいもんだ。ここを訪れるのはそんな無害中の無害ばかり。怖がるのは別に構わないが、知っといて損はないだろ」
「……そう、ですね……」
小百合と柚子彦と呼ばれる座敷童子は、確かに無害だった。可愛らしい子供にしか見えず、左京の問いに素直に答えてくれていた。そういう無害な妖や霊がいるなら……左京は意を決して頷いた。
「俺、ここでバイトしてもいいですか?」
「俺からの提案だ、断る理由はない」
「ありがとうございます。あ、ここに来るには、あの方法じゃなきゃ来れないんですよね?」
「あの方法……?あぁ、明来神社のか。別にあれはただの鍵みたいなもんだ。大っぴらに店構えてると、冷やかしだのなんだのが来るだろうからな。あの方法を噂として流して、本当に必要に思ってる奴だけここに来れるようにした。冷やかしでやった奴はここには来れないさ」
「そうだったんですか」
「ここに来たきゃ、あの鳥居をくぐる際にこれを持っときゃいい」
三木はのそっと立ち上がり、箪笥の引き出しのひとつを引いて何かを取り出した。引き出しをしまうと、左京に手を伸ばして、4つ折りの白い紙を手渡す。開くと、星と、その5つの先端と星の中心に何やら草書体の文字が書かれている。三木は再び座布団に胡座をかくと、新聞を広げた。
「それを明来神社の神主に見せれば、御守りをくれるはずだ。その御守りに入れて持ち歩いてな。それを持ったまま『浄楽庵に行きたい』と念じれば、朝だろうが夜だろうが、あの鳥居をくぐるだけでここに来れる」
「すごい……」
「時間はそうだな……お前、大学とかなんとか言ってなかったか?」
「あ、はい。上吉大学の2年生です」
「なら、大学の後でいい。大学の後、それと他にバイトがあるんなら終わってからでいい。なるべく毎日来てほしいもんだが……まあ、無理は言わない」
「あ、バイト、クビになりました。お客さんの背後霊?ってのがすごく怖くて、皿割るわ注文ミスするわで、昨日クビになりました」
「……そうか」
「なので、講義が終わり次第来ます。講義がない日は早めにここに来ますね」
「ああ」
三木は短く返事すると、新聞を捲った。そろそろ帰ろうか、と左京が腰を上げると、廊下からパタパタと足音が聞こえた。障子が開いて、エプロン姿の武蔵が左京に微笑んだ。
「あ、左京君。泊まってくでしょ?」
「いえ、そんな、申し訳ないので帰ります」
時計は10時に差し掛かろうとしていた。まだ深夜というわけでもない。食事までご馳走になったのだ、これ以上お邪魔しているわけにもいかない。
「でも、帰り道でまた妖や霊に遭うかもしれないでしょ?」
「う、それは……」
「見ての通り、私と三木だけなのにお屋敷は広いからね。部屋は余ってるんだ」
「あれ?でも、小百合ちゃんと柚子彦君はここを“みんなの家”だって言ってましたよ?」
「ああ。確かに妖や霊、他の祓い屋が立ち寄ったり泊まったりすることもあるよ。それでも部屋は余るし」
「……じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」
「もちろん!布団の用意して来るね」
「あ、手伝います」
「いいのいいの。着替えは……三木、着替え貸してあげて」
「ああ」
障子が閉められ、足音が遠ざかっていく。軽く上げた腰をゆっくりと下ろして、左京は部屋をぐるりと見回す。木製の箪笥、ちゃぶ台、障子に畳……和風の部屋だが、ヒーターやテレビなども置かれている。和洋折衷というものだろうか。
左京はふと食事前の会話から気になっていたことを三木に問う。
「そういえば、武蔵さんの口振りからして、三木さんって祓い屋の中でもすごい人なんですね」
「昔の話だ。今は武蔵頼りなことの方が多い」
「武蔵さんって用心棒なんですよね?お2人ともすごいんですね」
「別に」
ぺら、と新聞が捲られる音と、時計の秒針が刻む音が沈黙の中を過ぎていく。左京は気まずくなって、再び室内に視線を走らせる。時計は丸型で白無地のシンプルな掛け時計。時間は現実世界(ここを非現実世界と呼ぶべきかは別として)と変わらないようだ。この時間ならいつも何をやっているだろうか。テレビを見たり、レポートを書いたり、バイト中だったり、あるいは入浴していたかもしれない。眠ってはいなかったように思える。あまり記憶にない。そもそもここ最近は精神的疲労が蓄積されすぎていて、何もかもが曖昧になっている。そんなことを考えていると、ふあ……と欠伸が零れた。最近のストレスや緊張から解放され、緊張の糸が緩んだようだった。眠気を認識すると、途端に瞼が重くなった。
「風呂に入るか?」
「あ……いいんですか?」
「俺はもう入ったからな。着替えの用意と……あと風呂場に案内してやる」
新聞を綺麗に折りたたんで、ゆっくりと三木が立ち上がる。左京もと立ち上がってうんと背伸びする。肩や腕がぽき、と軽い音がする。しばらく座りっぱなしだったからだろう、下半身も少し凝っている。
廊下に出ると、ひんやりとしていた。いくつかの角を曲がって辿り着いたのは、赤い暖簾と青い暖簾がそれぞれ取り付けられた、2つの入口だった。赤暖簾には“女”、青暖簾には“男”……まるで温泉のようだ。
「見りゃ分かるだろうが、こっちが男湯だ」
「はい」
青い暖簾をくぐり短い通路の角を曲がると、まるで銭湯の脱衣場のようだった。脱衣箱───ロッカーのような木製の棚が設置され、正方形に区切られた各スペースには、籠が置かれている。脱衣場には脱衣箱の他に籐製の椅子が並んでおり、その様子はここが住居ではなく公衆浴場なのではと疑うくらいだ。
「見ての通り、風呂屋みたいなもんだ。浴場もそんな感じだから、まあ使い方は何となく分かるだろ」
「はい、分かりました」
「着替えは用意して、お前の使ってる棚の隣にでも入れておく。浴場の入口の傍に置いてある台、あれにタオルが入ってる。大きい方がバスタオル、小さい方が手拭いだ」
「ありがとうございます」
通路から出ていく大きな後ろ姿を見送る。左京は服を脱いでは軽く畳んで、籠に入れていく。最後に銭湯に行ったのはいつだっけ、などと思い出す。幼い頃、父親の友人が営んでいるとのことで、銭湯にはよく行っていた。「喜一郎のせがれだから」と、番台のおじさんがコーヒー牛乳やフルーツ牛乳を毎回奢ってくれた。よく火照った身体に染み渡る冷たい飲料が、左京は大好きだった。
今は大学進学を機に親元を離れ、一人暮らしを始めて2年が経つ。寂しいと思わないと言えば嘘になるが、数ヶ月前までは平凡な生活をエンジョイしていた。友人に恵まれ、大学生活も充実し、私生活も大学関係も大きな幸福がないにしろ、それなりに楽しく過ごしていた。それが、何故こんなことに…………考えてしまえばまた死にたくなるだろうと頭を振って考えるのをやめた。別のことを考えよう、と思い直す。下着を脱いで籠に入れると、浴場の入口に手をかける。思い出したように手拭いを取り、磨りガラスの引き戸を開ける。もわ、と熱気と湯気が脱衣場に流れ込んでくる。湯気が薄いのは、換気扇が回っているからだろう。洗い場は鏡や蛇口が並び、その前にそれぞれバスチェアが置かれている。一般的な銭湯のそれと同じだ。身体を洗う場所の奥には、大きな浴槽がある。壁には絵は描かれていない、素朴な造り。もしやここは銭湯ありきで、そこに屋敷を増設したのではないだろうか。
左京は手拭いを手に、洗い場のバスチェアに腰掛けた。
───────
武蔵が部屋に戻ると、三木がちょうど電話を切るところだった。雄健な顔つきが、不快に歪んでいる。おそらくは先程この門戸をくぐった客の件だろう。武蔵は盆に乗せていた湯呑みを三木の前に置いた。自分の前にも湯呑みを置いて、武蔵は座布団にそっと腰を下ろす。
「色々聞いてみたが、全員聞いたことがないとさ」
「私だって初耳だよ。妖を食べちゃうなんて。でも、それと同じくらい気になるのが……人間を食べてたっていう、同席者のことだよね」
「まあ、“アイツ”じゃないのは確かだろうな。人間相手に敬語使うなんて考えられない」
「……だよね」
表情を曇らせ、自分の湯呑みをぎゅっと握った。華奢な腕を見れば湯呑みを割る心配などないのだが、三木はちゃぶ台に軽く身を乗り出して武蔵の額へ手を伸ばした。武蔵が反応するより早く、三木の中指が親指に弾かれた。武蔵の白い額のど真ん中に、中指がヒットした。
「痛っ!」
「んな辛気臭い顔すんな」
「だからってデコピンはないでしょ!」
ムッと頬を膨らます武蔵に、三木がふ、と笑みを零した。表情筋の微かな緩みのような微笑に、武蔵も思わず笑った。なかなか笑わない無愛想の塊みたいな彼が笑うのが、武蔵は幼い頃から好きだった。希少な宝物でも見つけたかのように嬉しいのだ。
「京の泊まる部屋はどこだ?」
「廊下の突き当たりを左に曲がって……前に七緒さんが泊まった部屋だよ。どうして?」
「そうか。消灯や戸締りの確認は俺がしておく。お前はさっさと寝ろ」
「私まだ起きてられるよ。それに、お客さん来たらどうするの?」
「客が来たら京にでも『今日はもう終いだ』と追っ払ってもらうさ。お前は早朝から術の練習で疲れてるだろ」
「まだ大丈夫だって」
「寝ろ」
「……はい」
有無を言わせぬ三木の言葉に、武蔵は頷くしかなかった。確かに彼の言う通り、武蔵は今朝、日の出よりも早くに起きてから術の練習をしていた。練習の合間に家事をこなし、買い物を済ませ、客の対応をしていた。彼女の肩書きは用心棒ではあるが、兼ねて祓い屋見習いでもある。しかし“見習い”と付くだけあって、祓い屋としての実力はからっきしなのだ。習い始めに比べればいくつか出来ることも増えたのだが、いかんせん祓い屋としての才能は芳しくないらしい。
武蔵はよいしょ、と立ち上がり湯呑みを持った。
「湯呑み、まだ中身あるんだろ」
「うん。でももう寝るから……」
「俺が貰う。いちいち注ぎに行くのも面倒だ」
「じゃあ、はい」
武蔵は湯呑みを三木の前に置く。「おやすみ」と声を掛けると、「おう、おやすみ」と返された。いつものやり取りだが、変わらず嬉しくて武蔵は頬を緩ませた。
障子をそっと閉めると、軽い足取りで自室へ向かう。愛嬌のない彼に、心配されたのが嬉しかった。明日の練習も頑張れるというものだ。例えそれが上達速度の遅い不得手なものだとしても、活力は湧いてくるものだ。そもそも彼女が祓い屋見習いとして励むのも、彼女自身の意志でのことだ。彼女は誰よりも祓い屋になることを望み、その為の労力は厭わない努力家だ。彼女は祓い屋になる為なら、自らの肢体を犠牲にしようとも構わないとも思っている。それを察しているのが三木であり、彼女のブレーキになっている。三木の存在が、彼女にとって大きいということは、彼らの知り合いなら全員が全員知っている。
「あ!ムサシちゃん!」
「ムサシちゃん、お客さん来た?」
振り返ると、小さな足をパタパタと動かして駆け寄って来る子供達がいた。小百合と柚子彦だ。武蔵は立ち止まって、2人の目線に近づけるよう屈み込んだ。
「うん。お客さん来たよ。2人が場所を教えてくれたの?」
「うん!変なお客さんだったよね。人間っぽくなかった」
「変なお客さん帰っちゃった?」
「今日はここにお泊まりするんだよ。あと、変なお客さんじゃなくて、左京君って言うんだよ」
「さきょーくん」
「さきょーくん」
「そう、左京君。私、これから寝るから、何かあったら左京君とお話してね」
「はーい」
「うん、お話するー」
パタパタと駆けていく姿は、人間の子供と変わらない。2人が玄関口の方へ消えたのを見ると、武蔵は立ち上がって再び自室に向かった。人間の子供なら夜に外へ行くのは止めるだろう。しかしあの子達は妖であり、止める理由などなかった。むしろ妖のほとんどは夜行性である。つまりあれが自然だというものだ。
武蔵は自室の襖を開ける。8畳ほどの和室は、家具が少ないものの暖色を基調に設えてある。襖のすぐ傍のスイッチを押して部屋の灯りをつけた。ガラステーブルやテレビ、座布団、箪笥、ランプ、本棚……和と洋どちらかに統一するでなく、和洋綺麗に整えられている。武蔵は押し入れの襖を開け、敷布団を引っ張り出すと、布団用に空けられたスペースに広げた。それからタオルケット、枕、抱き枕を引っ張り出しては寝る支度をした。それから箪笥からネグリジェを出して着替え始める。カーディガンを脱ぎ、真っ白なブラウスを脱ぐと、白い柔肌が露わになる。その肌には、古い傷痕がいくつか残っていた。切創、火傷、手術痕……嫁入り前の娘が、などと窘める者は祓い屋業界やその関係者にはいない。多少の男尊女卑はあるものの、祓い屋業界は実力が物を言う。強い者は敬われ、弱い者は淘汰されていく。武蔵は後者にだけはなりたくなかった。必死に鍛錬し、仕事をこなし、努力を怠ることはなかった。それでも、まだ足りない。武蔵と同程度の実力を持つ者の中には、悪妖や悪霊に殺された者もいる。同業者間の生存競争に勝てず、祓い屋業の暖簾を下ろした者もいる。武蔵はそうはなりたくなかった。枕元にあるベッドサイドランプの優しい灯りを点けてから天井照明を消した。布団に潜り込むと、ゆっくりと息を吐いて目を閉じる。
瞼越しの優しい温かな光を感じながら、武蔵はいつものように羊を数えた。
───────
風呂を出て、廊下を歩いてしばらくが経つ。
借りた薄手のTシャツはサイズが大きく、腕を少し捲らなければ指先しか見えない。下は灰色のスウェット。着物を着ている三木しか知らないからか、勝手にその洋服があることを意外だと思った。
この屋敷は初見には迷路のようだった。名に庵と付くが、庵というよりは屋敷だ。廊下を何度か曲がってはみたが、似たような襖や障子が並ぶばかりで、既に通った場所か否かも分からない。適当な部屋を開けようかとも思ったが、泊まらせてもらう身として、そんな失礼をするわけにはいかない。左京はぐるぐると歩き回るしかないのだった。誰かしらと会えれば案内してもらえるのだろうが、残念なことに誰とも会うことはない。それどころか気配のひとつさえありはしない。
「あ、そうだ。1回外に出てみよう」
外に出て、玄関の場所さえ分かれば、最初に案内された夕食時の部屋に辿り着けそうだ。あの部屋までは玄関から進んで曲がることはなかった。それなら迷いようがない……はずだ。仮に通り過ぎるか手前で止まったとしても、声を張れば三木か武蔵が気づいてくれるだろう。左京は進行方向を定めて進んだ。何度か壁に当たりながらも、どうにか縁側に辿り着いた。縁側の沓脱石にはサンダルが2組置いてある。そのうち大きい方を借りて庭に降りた。
ししおどし、小さな枯山水や本物の池、松や他の樹木、飛び石に石灯籠……月明かりに淡く照らされた日本庭園は、何か遺産として認定されていそうな雰囲気を醸し出している。苔むした岩々も、侘び寂びがいまいち分からない左京でも風流だと思った。飛び石の上を歩いていく。左京はとんとんと進んでいく。やがて玄関が見えてきた。肌寒い空気から逃れたくて、少し足が早まる。
「あ……すみません、そこの方」
細い声。
どこだろうと見回して見ると、もう一度「すみません」と聞こえた。女性の声だ。足を進めながら探してみると、玄関の前、石畳の先にあの竹の門に人影がひとつ。月明かりの下にぼぅ、と浮かび上がるような白い女性だった。墨のような黒髪を胸元まで流し、真っ白なワンピースを着ている。細い脚は何も纏わず、裸足が痛々しい。整った顔は青ざめ、何か恐ろしいものでも見たかのように歪んでいる。
「どうしたんですか?」
「あの……怖い妖怪に襲われて、慌てて逃げて来たんです……ここには追ってきてないようなんですけど、私、怖くて……」
「そうなんですか!じゃあ早く入ってください、祓い屋を呼んできますから!」
「あ……私、怖くて……足、動かなくて……」
見れば細い脚が震えている。よほど怖い思いをしたのだろう。屋内から裸足で逃げて来たのか、脱ぎ物が途中で脱げてしまったか……どちらにせよ、早急な保護と対応が必要だ。今日からとは言われていないが、バイトとして公認されている身なのだから、客を玄関に上げるくらいの案内は許されるだろう。
「手を、引いていただけますか……?そうしたら、歩ける気がします……」
「はい、分かりました。もう大丈夫ですよ」
左京は女性を安心させるよう微笑んで、優しい声音を意識した。駆け寄って、手を伸ばした。自分も同じ経験をした身だ、どれほど怖い思いをしたか想像に難くない。早く安堵してほしいと、左京はそれだけを考えていた。女性は震える手をゆっくりと伸ばした。白く華奢な手が、左京の手を握って───左京の腕がすごい力で引っ張られた。引かれるがまま、左京は抗う暇すらなく門の外へ倒れた。
おかしい。
倒れた左京は瞬間的に危険を察知し、慌てて門内に戻ろうとしたが、何かが身体に巻きついて圧迫した。足が空を切る。身動きが出来ないまま、首だけを動かして振り向くと、そこにはおぞましいものがあった。
───鬼。
その言葉にピッタリと当てはまるような、恐怖を煽るような形相、頭から生えた2本の角、肌は真っ赤で、憤怒を全身で表しているようだ。口から生えた凶暴な牙は肉食獣を彷彿とさせる。
「う、ああああああああああ!!」
自分が叫んだのは分かったが、左京には全くの無意識なことだった。巻きついていたのがこの鬼の巨大な左手だと気づくことも出来ず、目を見開いて叫ぶことしか出来ない。腕ごと鬼の手に捕まり、出来る抵抗といえば脚をばたつかせるくらいしかない。
「お前が“蠱毒の贄”か」
「な、なに……が……!?」
地の底から這い出でるような、低い声。唸り声かと思ったそれは、確かに人の、日本の言語と同じものを用いていた。その言葉は、問いというよりは確認に近いニュアンスをはらんでいる。
左京がひりつく喉を震わせて返すものの、鬼はクックッと喉を鳴らして嗤うだけだ。もちろん左京は“コドクのニエ”などという名前や異名はないし、そんな言葉を聞いたこともない。丸太のような指が更に左京を圧迫する。左京の肺から絞り出されるような息が漏れる。呼吸がままならない。助けを呼ぼうにも、息苦しさでまともに発声出来ない。
「肉は少なそうだが……コレさえ食えば万の何者にも勝る力が手に入るというのだから、随分と粗末な贄だ」
「食う……っ!?に、贄って……ど、ぅ、いう……!?」
「これで憎き祓い屋どもを皆殺しに出来るというものだ、はははははは!」
何が何だか一欠片も状況把握出来ないが、鬼が自分を食べようとしているのは言葉の端々からかろうじて理解出来た。あの大きな口、象牙のような太い残酷な牙を見るからに、成人男性1人食べることなど造作もないだろう。
抵抗するが、やはり脚を動かすくらいしか叶わず、身を捩ろうとも状況が好転する可能性は無いに等しかった。強張る全身の筋肉の力は戦慄しているからか充分な力を発揮せず、それはどこか諦観しているとさえ錯覚する。
「京ッ!!」
声に振り向くと、下方に三木が日本刀を持って立っていた。日本刀が淡くも鋭い反射光を返している。大きかったはずの三木が自分の足の更に下にある。結構な高さまで持ち上げられているようだ。慄然としていた左京も、三木の姿を見て心に僅かな光が生まれる。妖や霊関連の厄介事を解決してくれる祓い屋が、日本刀という頼もしい武器を持っている。鬼を前に言うのもおかしいが、まさに“鬼に金棒”だ。
「た……っ、助けてください……っ」
「待ってろ、すぐに───」
「あの三木家の祓い屋と言えど、貴様のような“負け犬”に負けることはない!」
ゆっくりと鬼の腕が振り上げられる。高々と掲げられた巨大な岩のような右の拳。あんなものに当たればただではすまないだろう。三木は変わらず左京の頭上を睨めつけている。
ぶん、と風を切る音とともに、拳が三木に振り下ろされる。彼に迫る暴力の塊に、思わず左京は目を瞑った。
ゴッ、と鈍い衝突音。
少し間があって何かが壊れる不快な音。
胸を圧迫する不安感と恐怖。堅い瞼を臆しながらもゆっくりと開く。状況を飲み込もうとして、顔を振るって見回した。次第に輪郭を捉えた左京は、喉の奥にまでせりあげてきた声すら上げられなかった。喉につっかえているものが物理的なもののように、左京の感情が口から発せられるのを拒む。目の前の現実が信じられなかった───信じたくなかった。
「ぁ……み、三木、さ……」
門が壊れており、竹垣の一部も崩れている。左京から見て左方向、その下方、石灯籠が倒れていた。そしてその傍らに、見知った紺の着物。腰から下しか見えていないが、乱れた紺の裾から覗く脚が力なく投げ出されていた。それが三木のものであると理解するに難くなかった。
「はははは!吾が見えぬ木偶の坊など、恐るるに足らず!」
鬼の嗤う声が遠のく。目の前が真っ暗になっている感覚なのに、三木が倒れている姿ははっきりと視認出来る。鬼の声はすぐ近くにあるはずなのに、どこか遠くの地響きに聞こえる。
三木は、彼は、腕の立つ祓い屋のはずだ。
それが、何故?
何故、彼は倒れている?
混乱する頭は疑問ばかり廻転させている。答えなど出るはずもないのに、延々と自問している。その廻転を無意味と気付かぬままに左京は慄く。自分の生が果てを見せる。その予感が脳から全身に毒のように広がっていく。
死にたくはない、死んでなるものか。
再び抗うが、やはり事態が好転することはない。
「邪魔者も消えたことだ、さて……」
左京の身体がぐわん、と揺れる。鬼の顔が左京のすぐ目の前にある。すぐ目の前で食事を期待した口が舌なめずりをした。
死にたくない、死んでなるものか。
ばたつく脚が、次第に絶望で弛緩していく。
大口が開かれる。絞首台にも底なし沼にも見える、残酷な大穴。
「あ……あ、あああああああああ!!」
「左京くんっ!」
ボン、という爆発音。同時にぐらり、と鬼が傾いた。左京は鬼に握られたままに振り回される。ジェットコースターよりもずっと死に近い震盪。頭の中がスムージーにでもなりそうだ。目を瞑り、どうにか耐え切ると、再び爆発音と衝撃。今度は鬼からの圧迫が緩んだ。左京はどうにか身を捩り、全身の筋肉を総動員して指の檻から抜け出した。地面への落下を想定して受け身の体勢をとった。それと同時に地面に衝突した。落下の衝撃で接地した右半身が痛むが、骨折や捻挫などの重傷はどうにか免れたようだ。痛みに奥歯を噛み締めながら、這うように鬼から離れる。その間も爆発音が少しの間を置きながら続いていた。頭を庇いながら少し顔を上げると、淡いピンクのネグリジェを着た武蔵が鬼と対峙している。彼女の手からは白い紙のようなものが飛び出し、一直線に鬼へと向かっている。白い紙が鬼に触れた途端、爆発が起きている。先程からの爆発音と衝撃はあれなのだろう。
「む……っ、武蔵さん……!!」
「左京君!大丈夫!?」
「なんとか大丈夫です!でも、三木さんが……!!」
「三木をよろしく!こっちは私がなんとかするから!」
「は、はいっ」
左京は低姿勢を保ったまま三木へと駆け寄る。石灯籠で隠れていた彼の上半身は、仰向けになっており、額からの出血がまず視界に飛び込んできた。はだけた胸元には倒れた石灯籠の欠片が散らばり、痣が浮かび上がっている。呼吸はある。
「三木さんっ、起きてください、三木さん!」
「っ、ぐ……」
呻きながら、三木の瞼がピクリと動く。二、三度強く顰められた瞼が重々しく開く。揺れる黒目がゆっくりと左京を捉えた。
「かなど、め……」
「大丈夫ですか!?今、武蔵さんが鬼と戦ってて……っ」
左京の言葉に上半身を起こした三木は、すぐに顔を歪ませた。頭部からの出血は顎まで滴り、着物を僅かに濡らしている。動かすのは危険だと分かっているが、鬼という脅威から逃れなければならない。左京は三木の脇に身体を滑り込ませ、どうにか移動しようと試みる。三木の体格故か、左京の筋力不足か、動かすのにはかなり力が要りそうだ。三木は左京のその努力を腕で払うと、辺りを見回した。
「おい、脇差……脇差はどこだ!?」
「脇差って何ですか!?」
「刀だ、俺が持ってた刀!」
「えっと、あれ、どこだ……!?」
左京も前後左右に首を振って刀の行方を探す。倒れた石灯籠の向こうを覗き込むと、黒く濡れた脇差が転がっていた。柄を握りしめて「ありました!」と三木に掲げた。思っていたよりもそれは重かった。濡れた刀身に血を連想し、これが傷つけるものであることをまざまざと思い知らされる。それを持つのも、負傷した三木に手渡すのも恐ろしかったが、三木に手を伸ばされて思わず渡してしまった。三木は刀身に触れ、手に付いた黒を指で擦った。
「くっそ、痛ぇ……だが、血は付いたな……」
「三木さん、とにかく今は退いて───」
「馬鹿か、祓い屋が逃げてどうする」
左京の手を借りながら立ち上がると、三木は刀に付いた黒い液体を確認する。三木がこれを血だと言っていた。この墨汁のようなものが血……鬼の血ということなのだろうか。三木は刀の切っ先を鬼のいる方へと向ける。未だ武蔵による爆撃は続いている。鬼には大したダメージはないようで、武蔵へ反撃に出ている。武蔵は身軽に鬼からの攻撃を避けながら応戦している。見ていて時間の問題だと思わせる戦況だ。
「おい、京」
「はいっ」
「奴がいるのは“あそこ”だな?」
「……え?」
「武蔵が攻撃している、“あっちの方向”にいるんだな?」
「え、あ……はい、そうです!」
「よし」
三木が刀を持ったまま右腕を後ろへ仰け反らせる。そして全身の力を以て前方へ投擲した。三木の身体が一瞬膨らんだかのような力強い投擲。槍投げの選手を思わせるフォームで放たれた脇差は、見事鬼の左側腹部に突き刺さった。鬼が咆哮する。その間も武蔵の爆撃は一定の間隔で鬼を襲う。
「脇差はどこに当たった?」
「どこって……見ての通り腹に当たってるじゃないですか!」
「腹……左右どっちだ?」
「えっと……あ、左、左です!」
「そうか。よし、小百合、柚子彦、持ってきたか」
どこからか、何かを叩く音が2回が聞こえた。
「よし、貸せ」
三木の言葉に応えて、鬼から隠れるように縁側の隅に隠れていた小さな2つの影が駆け寄ってくる。小百合と柚子彦はそれぞれその両手に弓と矢を抱えている。
小百合から弓、柚子彦から矢を1本だけ受け取ると、三木は懐に手を突っ込んで1枚の紙を取り出した。紙に黒い液体を付け、矢に器用に結びつけると、三木は矢を弦に番えながら声を張り上げた。
「武蔵!そいつの右肩を攻撃しろ!」
武蔵は返事こそしなかったものの、見事に右肩部に命中させた。鬼は少し身を仰け反らせただけで、すぐに体勢を立て直す。鬼が右の拳を振り上げる。またあの打撃だ。左京は三木が為す術なく吹き飛ばされたことを思い出して身を震わせた。武蔵の華奢な肢体ならば重傷となってもおかしくはない。
三木が弓を引く。弓は大きく撓み、ギリギリと音を立てる。いっぱいに引かれた弓。鏃は鬼の方向へと向いている。数秒、その状態が続く。早くしなければと焦る左京をよそに、三木は筋肉を隆起されて狙いを定めている。
弦が震え、独特な音を放つ。
矢は一直線に空気を裂く。
吸い込まれるように、鬼の胸元に矢が撃ち込まれる。その瞬間は瞬きよりも一瞬の出来事だった。矢は鬼と比べれば爪楊枝よりも脆弱だが、鬼は心臓を抉り出されたかのように叫び、もがき苦しんでいる。ふらふらと足をもつれさせる度に地が大きく揺れる。矢を抜こうと大きな手で矢に触れたとき───その大きな手が風船のように割れた。手の中に仕組まれていたものが爆ぜたように、鬼の手首から先が崩壊している。
「ヴあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ッッ!!!」
咆哮。鬼が暴れる度に周囲のものが破砕していく。地響きのような叫喚が次第に萎んでいく。鬼が、ぼろぼろと崩れていく。鬼の何もかもが地面に落ちては灰になり、あるいは落ちる前に灰になっていく。
「おい、奴は消えたか?」
「え……」
「消えたのか?」
「ま、まだです……今、身体が崩れていって……」
「そうか。完全に消えたら教えてくれ」
三木の言葉の数々に大きな引っかかりを感じながらも、左京は再び鬼の方へ視線を向けて、消え行く末を認める。さらさらと灰になる鬼が、何か呻いている。
「こ……ロす…………コろ、シてや……る…………」
呻き声に紛れて、恨み言が絞り出される。左京は突っ立ったまま、動けずにいた。あれを見れば、もう襲ってこないと判断しても間違いないだろう。それでも、その呻きが、恨み言が、呪詛として耳に流れ込んできては、五臓六腑、四肢五体、左京を形成する全てを蝕んでいく。
鬼の形がなくなり、灰が風に舞う様子を呆然と視認しながら、左京は力なく三木に返した。
「……完全に、消えました……」
「そうか」
三木は緊張させていた全身を弛緩させ、ゆっくりと息を吐いた。向こうから武蔵が駆けて来る。脅威が去ったのだと分かっていても、左京は鬼のいた場所を慄然と見つめることしか出来なかった。
───────
夕食を摂ったあの部屋で、左京は人形のようにだらりと座っていた。自重に頼った座位は、少しでも他者から力を加えられてしまえば容易に倒れてしまいそうだ。
向かいには三木が、武蔵に手当てをされている。手当てと言っても、この後再度入浴するとのことで、消毒のみが施されている。胡座をかいて堂々としているものの、額の傷が痛々しい。
やがて消毒を終えた武蔵が三木の傍らに正座すると、彼は小さく息を吐いた。疲労ともやるせなさとも気まずさともとれるため息だった。彼から切り出させるのは申し訳なく、左京は自ら重い口を開いた。
「三木さん……あの鬼、見えなかったんですか……?」
正直信じられないことだった。
そして求知心を擽られたことだった。
三木は鬼の場所を何度も左京に確認していた。振り返れば、最初から鬼の言葉に応えることも、鬼の動作に反応することもなかった。思えば、彼の瞳は最後まで、正確に鬼を捉えていなかったように左京の目には映った。
「……ああ。俺には、妖も霊も見えない。声も聞こえない」
一瞬の逡巡の後の答えは、ハッキリとした言葉だった。後ろめたさなどそこになく、ただ事実を告げている、そんな口調だ。
左京は信じられないと武蔵の方にも視線を向けるが、武蔵は俯いて小さく頷くだけだ。
「妖や霊、人ならざるものを相手にする祓い屋が、そいつらが見えないなんて阿呆らしいと思うだろ?だが、本当だ。お前もその目で見ただろ?」
「……はい、見ました」
「ならこれ以上は語ることは無い。目も耳も役に立たない祓い屋が不満なら、他の祓い屋を紹介してやらないこともないが───」
「私が悪いの」
暗い声が三木の言葉を遮った。見れば武蔵は俯いたままだ。視線を集めてもなお項垂れたままに、彼女は続けた。
「私のせいで、三木は鬼に名前を奪われたの」
「名前を……?」
「祓い屋だとか怪異の界隈ではね、表の……人が普通に暮らしている側よりも、名前がずっと重要なの。名前を奪ったり知ったりすることで、対象を支配したり、力を奪ったり、封印したり……つまり、名前……本名はこちら側では“弱み”なの。だから大抵、こちら側では皆苗字だけか偽名を名乗ってるの。私のだって偽名だよ」
「ということは……三木さんは、鬼に名前を奪われて、妖達を見たり聞いたり出来なくなったってことですか?」
「……そう。私のせい。私があのとき、三木の名前を呼んだから───」
バシ、と武蔵の頭が叩かれた。三木の手はそのまま武蔵の頭を粗雑に撫でた。わしゃわしゃと乱れていく髪を気に留めず、武蔵は俯いたままだ。
「そのことはもういいって言ってるだろ。そもそも俺の力が足りていれば、あんな状況にはならなかった。俺の未熟さが起こしたことだ、これ以上蒸し返すな」
「でも」
「次に蒸し返したら稽古つけてやらねぇし、こっから追い出す」
「……分かった」
一度も顔を上げぬままに武蔵はそう力なく零した。三木は武蔵の頭から手を離すと、ガシガシと自分の頭を掻いた。
「まあ、そういうことだ、京。今の俺は霊力が全く無い。怪異には触れるが、見たり聞いたりは出来ない。まあ、妖人体くらいなら見聞き出来る」
「ようじんたい?」
「……武蔵、これは一応説明すべきか?」
「ここでバイトしてもらうなら、話すべきだと思う」
「……京、どうする?こんな木偶の坊な祓い屋の下でもバイトするって言うんなら、妖人体については今ここで説明する。もし別の祓い屋を望むなら、妖人体の説明はその引き継ぎ先の祓い屋に任せる」
「……俺は、ここで働いて、三木さんや武蔵さんを頼りたいです。可能性を信じたい……そう思わせてくれたのは三木さんですから」
「そうか」
三木は目を細めた。笑っているようにも、左京という人間を見極めているようにも見える。しばらくそうした後、三木は腕を組んだ。袖から覗く彼の右手首には痣が見える。
「妖人体ってのは、妖の人の姿だ」
「……ん?妖の、人の姿?妖は妖ですよね?」
「妖はほとんどが、それぞれ人間としての姿を持っている。人間に化けてるって言った方が分かるか?」
「……分かる、ような……?」
「例えば、前にお前を襲ったっていう、ろくろ首。普通にろくろ首が歩いていたら怪しすぎるだろ?」
「そうですね。すぐに噂というか、目撃情報が広がりますし……」
「そのろくろ首が人間の普通の女に化けていたら?」
「それは怖くないし、怪しいとも思いませんよ。……あ、つまりはそういうことですか?」
「簡単に言えば、そういうことだ。人間の世界に上手く擬態してるわけだ。お前の通う大学の講義……その中にも妖がいるかもしれない。だが、見た目にはそれは分からない。それが妖人体だ。妖人体なら、霊力関係なく、人間として感知出来る」
「え、そんな……身近に妖怪がいるなんて……」
「まあ、そんな風にパニックにならないよう、妖人体については祓い屋界隈やその関係者、怪異に関わる者達の中で秘められている」
「なるほど……三木さんは、怪異は感知出来ないけど、怪異が人間の姿に化けていれば感知出来るんですね」
「そういうことだ」
「そんな状態で、どうやって怪異に立ち向かうんですか?」
「昔に書いて貯めておいた札を使っている。書いた際に霊力を込めたから、今の俺でも使える。まあ、大抵は武蔵に任せるんだが、それだけじゃ足りないときにその札を使う。……ああ、もうこんな時間か。風呂に入って寝るか。京、お前は?」
「あ、じゃあ、俺も」
「私ももっかい入ろうかな。疲れたぁ」
それぞれが思い思いに身体を伸ばし、ほぐしながら立ち上がる。自覚すると疲労がどっと押し寄せてくる。恐怖はだいぶ拭えたが、それでも思い出すと身震いした。す、と静かに障子が開いて、小さな顔が2つ覗かせる。小百合と柚子彦が、障子に近い左京の脚をつついた。
「あ、小百合ちゃんと柚子彦君。どうしたの?」
「さきょーくん、大丈夫?」
「大丈夫?」
「あぁ、うん、大丈夫。三木さんと武蔵さんのおかげ。それに、小百合ちゃんと柚子彦君が2人のお手伝いをしてくれたおかげだよ。ありがとう」
「えへへ」
「怖かったけど、頑張ったよ」
「うん、ありがとう」
「ね、ね。皆どこ行くの?」
「お出かけ?」
「今からお風呂に入るんだよ」
「私も入るー!」
「僕もー!」
「じゃあ、小百合は私と一緒に入ろっか。左京君、柚子彦のことお願いしていい?」
「はい、分かりました……あ、そういえば三木さん」
左京は思いついて三木へと振り返る。彼は既に立ち上がり、箪笥の上に置かれた紙を手にしていた。真っ白な紙の上の、墨で書かれた何かの模様と文字らしきもの。あれが“札”というものだろうか。
「今の小百合ちゃんと柚子彦君が見えないのなら、2人に妖人体になってもらえばコミュニケーションが取れるんですよね?」
「ああ。だが、妖人体になるときに使う体力や妖力には個体差がある。チビ達はすぐに疲れるから妖人体にさせていない」
「そうだったんですか」
「それにね、左京君。今の小百合と柚子彦の姿が子供だからといって、妖人体も子供だとは限らないの。女性の怪異が男性の妖人体になることもあるし、その逆もあるんだよ」
「えっ、そうなんですか?じゃあ、2人の妖人体ってどんな姿なんですか?」
「さきょーくん、気になる?」
「気になるの?」
「うん、気になる」
「でも内緒ー」
「教えなーい」
「えぇ。残念」
左京が少しオーバーにガッカリしてみせると、小百合と柚子彦はからからと笑った。それが嬉しくて、左京も思わず笑みを零した。
左京はねだられるままに柚子彦を抱き上げて、三木とともに風呂場へ向かう。既に案内してもらったはずだからか見覚えは多少あるが、あまりピンとはこない。三木の足取りは先刻の案内のときと変わらない。怪我の方は大丈夫なのだろうか、左京は視線を落とす。
「どうしたの、さきょーくん」
「ううん、何でもないよ」
「ふーん……ね、さきょーくんも頭の輪っか使わないで頭洗える?」
「頭の輪っか……三木さん、頭の輪っかって分かります?」
「頭の輪?なんだそりゃ」
「よく分からないんですけど、柚子彦君が頭洗うとき使うみたいです」
「……シャンプーハットだな」
「ああ、なるほど。俺は使わないで洗えるよ。柚子彦君は使うんだね」
「うん。ミキちゃんも使わないんだよ。大人だねぇ」
「柚子彦君もシャンプーハット卒業したいの?」
「うん。そしたら大人みたいでしょ?でも、上手く出来なくて、目に入っちゃうの」
「そっか……そしたら、俺が洗うの手伝おうか?」
「ほんと!?あっ、やっぱり、手伝うんじゃなくてさきょーくんが洗って!」
「うん、いいよ」
「やったぁ!久しぶりに頭わしゃーってしてもらえる!」
「久しぶり……?あ、三木さんに洗ってもらったことあるのか」
「うん!ミキちゃんが僕らを見えなくなる前だから……たぶん、10年以上前くらいかな?」
「10年以上……?柚子彦君って何歳……?それに、三木さんって何歳……?」
「29だ。小百合と柚子彦はうちの家にずっと憑いてた座敷童子だからな、かれこれ300年以上じゃないか?たぶん、戦国時代の頃にはもう生まれてたはずだ」
「戦国時代!?」
「えへへ。こう見えてもおじいちゃんなんだよ。でも見た目も中身もずーっとこのままなの。小百合は小百合のままだし、僕は僕のままだよ」
ニコニコと笑う柚子彦。悠久の刻を過ごしてきたとは思えぬ、屈託のない笑顔だ。つられて笑みが零れた。
風呂場、脱衣場に着くと、並んで衣服を脱いだ。視界の端に映った強健な肉体に、思わず視線をそっと彼へと視線を向ける。他人の裸体を見るのはどうかと思ったが、その鍛え上げられた肉体は何か見えない力を持って目を引いている。血色の良い肌の起伏は、同じ男として憧れるものがある。身体のあちこちに傷痕が残っている。先程の戦闘時のものと思わしき新しい傷の他に、治りかけのものや、肌の色が褪せた古い痕がある。
「なんだ」
「えっ、あ、いえ……その、逞しいな、って……」
「そうか。京はもっと鍛えた方が良さそうだな」
「う……腹筋とか、腕立て伏せあたりから始めようかな……ここでお世話になるわけだし、足手まといにならないようにしないと……」
「お、やる気か?なら少し祓術を学んでみるか?」
「はらえじゅつ……ってなんですか?」
「分かりやすく言うなら、祓術は怪異を倒したり、穢れを清めたりする術だ。厳密には色々と分類があるんだが、まあそこはいいだろ」
「俺でも出来るんですか?」
「才能次第、霊力次第だ。才能や霊力があっても努力次第。お前は……まあ、才能はともかく、お前は霊力どころか妖力も持っているからな、基礎的な能力は申し分ない」
「もしかして俺、妖をたくさん食べたから妖の力とか使えたり……?」
「鶏肉を食べても飛べないだろ」
「……それもそうですね」
妖を食べたことはおぞましい事実だが、それが何かの役に立てば救われる気がした。結局ただ食べただけだと知り、少なからず落胆した。
ガラ、と引き戸が開かれ、三木が浴場に入っていく。それについて行く柚子彦。開いた引き戸を小走りでくぐろうとしたが。
「あ、柚子彦君危ない、止まってっ」
三木が引き戸を後ろ手に閉めてしまい、左京の制止虚しく柚子彦は引き戸に衝突してしまった。柚子彦が屈んで額をさすっていると、再び引き戸が開いた。三木は膝をついて屈んで、申し訳なさそうに眉根を下げた。
「悪い、柚子彦。大丈夫か?」
「うん、大丈夫……」
「大丈夫だそうです」
「そうか……ごめんな、これからは気をつける」
「……ごめんなさいしてくれたからいいよ」
「許してくれるそうですよ」
「ありがとうな。お詫びに今度望月屋の大福買ってきてやるからな」
「やったぁ!小百合の分も買ってね!」
「小百合ちゃんの分もって言ってますよ」
「ああ、もちろんだ。柚子彦と小百合は何でも一緒だもんな」
三木の顔はとても優しかった。雄々しい顔は優しい眼差しに和らぎ、彼の無愛想が少し綻んだ。子供の扱いに慣れているようだ。廊下で話を聞いた限りだと、彼は柚子彦達と長い付き合いらしい。それが理由だろうか。
左京も柚子彦に続いて浴場に足を踏み入れる。本日2度目だが、やはりここが住居内の風呂場とは思えない。
三木が腰掛けるバスチェアの隣には、既に柚子彦が座っている。左京は柚子彦の隣に腰を下ろして洗面器にお湯を張った。
「ね、さきょーくん、頭洗って!」
「うん、そうだね、先に洗っちゃおうか」
バスチェアを柚子彦の後ろに移動させて、シャワーを手に取った。鏡を見ると、柚子彦がぎゅ、と目を強く瞑っている。なんだかそれが可愛らしくて、左京は思わず吹き出した。
「じゃあ、柚子彦君。上を向いて」
「上?」
柚子彦が目を瞑ったまま上を向くと、左京はシャワーの温度を確かめる。熱すぎず、かといって温いわけでもない。左京は柚子彦の前髪を掻き上げて、その生え際の少し下を手で押さえながらシャワーで髪を濡らしていく。手がシャワーの湯を堰き止め、柚子彦の顔は濡れずに済む。全体的に髪が濡れたのを確認すると、髪を軽く絞った。シャワーを止め、シャンプーを手のひらに2プッシュして「もう顔下げて大丈夫だよ」と髪にシャンプーを馴染ませ始めた。最初は後頭部に、そして側頭部、頭頂部、そして前頭部……少しずつ泡立ちを広げていく。
「今のこの状況、三木さんにはどんな風に見えてます?」
「泡が浮いてるように見える。にしても手馴れてるな」
「年の離れた弟がいるので、よくこうして洗ってやってました。あぁ、でも、弟っていうより、猫を思い出すなぁ。柚子彦君、猫っ毛だから」
「猫飼ってるのか」
「あぁ、いえ。だいぶ前に猫を拾ったんですよ。首輪のない、たぶん野良猫で……怪我してたので放っておけなくて、動物病院に連れて行ったんです。それから新しい飼い主を見つけるまで飼ってました。1週間くらいですけど。白猫ですごく可愛くてよく懐いてくれて……でも、結局その新しい飼い主のとこからも逃げちゃったみたいで」
「随分お人好しというか、優しすぎるとこがあるんだな。ほどほどにしておけよ、いつか後悔することがあるかもしれないからな」
「後悔することなんてあるんですかね……?」
「あるかもしれないだろ」
ぶっきらぼうに言われたその言葉に、左京は頷かなかった。他者に親切にして後悔することなどあるのだろうか。むしろ親切にしなかったことで、自責や後悔が生まれるのではないのだろうか。心根の優しい善人の左京には、三木の言葉は青天の霹靂だった。
柚子彦の髪をまんべんなく洗えたようなので、再度柚子彦に上を向かせ、シャワーで流してやる。後頭部や側頭部など、前頭部を避けて流すと、しゅわしゅわと泡が溶けて流れ落ちていく。最後に残った前頭部の泡は、額の生え際に手を当てて湯を堰き止めながら流した。結果、柚子彦の顔は数筋の湯が垂れて濡れていたが、目に入ってしまう事態は免れていた。柚子彦は嬉しそうに左京に礼を言うと、次はリンスをねだった。姉の影響でコンディショナーやトリートメントを使っていた左京には、リンスと書かれた容器が懐かしく思えた。
両親は大きな病気ひとつなく健在で、姉は既に社会人として実家を離れている。自分も実家から出て一人暮らしをしている。時々電話をする弟もまた元気そうで、楽しそうにその日の出来事や学校での流行りを話してくれる。他の家族の事情は知らないが、京家は大きな喧嘩はなく、子供達が非行に走ることもなく、平和に続いている。家庭円満を絵に描いたような家族だ。姉の方の頻度は耳にしていないが、左京は定期的に連絡をしたり実家に帰ったりしている。
しばらく、それも難しそうだ。
実家に帰れば、自分の身に起きている不運な状況に家族が巻き込まれてしまうかもしれない。
電話をしても、「元気だよ」「何も心配ないよ」などという小さな嘘が心に靄を生む。
電話くらいなら大丈夫かもしれないが、実家に帰るのも、家族に会うのも今は避けた方がいいだろう。
「よし、リンスも終わったよ。身体は自分で洗ってね」
笑顔で頷く幼い子供が、弟の幼少期と重なって、少し寂しくなった。
───────
三木に案内されたのはトイレの近くの部屋だった。近くと言っても、一度廊下の交差点を曲がり、部屋5つ分くらい直進して行くような距離だ。夜中手洗いに立つ際に迷わないと、この配置の部屋が選ばれたとのことだ。三木や武蔵の部屋の近くは書斎や物置などが多いらしく、その辺りで空いていて掃除も行き届いている部屋は今はないと三木が言っていた。
布団の傍のベッドサイドランプの暖かな光の先に静かな夜闇が広がっている。ここ最近はその闇が恐ろしかった。あの異形の何かが闇から現れ出るのではないか、そして自分をどうにかしてしまうのだろうか、そんなことが頭を占拠して眠気を奪い取った。別れ際に、庵の屋内なら襲われる心配はない、大丈夫だ、と三木が言ってくれた。門に魔除けの札が貼ってあり、悪しきものはこの庵には入れないらしい。先程は門が壊れ、札が破けた為鬼の侵入を許したが、今は新しい札を貼ったそうだ。その言葉の数々にどれほど救われたか……その喜びと安堵は計り知れない。
久々に安心感に包まれながら、ベッドサイドランプの明かりを消す。視界を支配する暗闇は、今は怖くはなかった。
ベッドマットに溶け込みそうなほどに疲労した身体だが、意識は完全に覚醒している。眠気はない。昨日洗濯したシーツからは洗剤のいい香りがして、一層起き上がる気力を奪う。夕食も入浴も着替えも何もかも準備すらしていないが、どうでもよいと思ってしまう。眠れそうにはないが、このまま柔らかなシーツの上で無心に横たわるのも良さそうだ。
ジーンズの尻ポケットの中のものが震える。
億劫になりながらも、腕を回してそれを手に取る。明かりをつけていない暗い室内をぼぅ、とスマホの画面が照らす。液晶画面には『翔太郎』の文字。着信だ。気だるいゆっくりとした動きで通話アイコンをタップする。
『左京、大丈夫か?』
「……死んでる」
『応えられるだけまだマシか……もう家着いたのか?』
「一応……あー、もう俺このまま布団になりたい……明日の講義全部休む……」
『かなり参ってるな。気持ちは分からないでもないけどな。ノートは後で貸してやるから気にせず休めよ。あー、そうだ、さっきの噂話のことだけど、気力あるときにでも試したらどうだ?今は噂だろうが頼りたいだろ?』
「……ああ、そうだね、そうするよ」
『ああ、そうしろよ。じゃあ切るから、ゆっくり休めよ』
「ありがとう……おやすみ……」
通話を切る。脱力した腕が、シーツにゆっくりと溶けていく感覚。このままシーツと一体になっても構わない。
数刻前の友人との会話、そしてその中の噂を思い出す。
『明来神社の鳥居、そこの下にコップ1杯の水を用意して、その中に五円玉を入れて、目を瞑って祈る、らしい。で、なんだったか……あぁ、そうだ、鈴の音が聞こえたら目を開く……んだってさ。そうすると───』
『鳥居の向こうに、祓い屋が現れるんだってさ』
『祓い屋っていうのは、妖怪、幽霊、とにかくそういうのを解決してくれる人?みたいなものらしい。あ、そのコップになんたら~の時間は夜、だったかな』
噂。
祓い屋。
確かに今の左京にとって噂でも何でも、頼れるものがあるのなら全て頼りたい。既にいくつもの神社や寺を頼った。それでもなお解決しないこの状況に、酷く鬱屈しているのも確かだった。解決してほしい、と強く願う一方で、解決しないのではないか、と酷く落ち込んでいる。矛盾してはいるが、実際にその2つがせめぎ合っているのだ。
首を少し動かして目覚まし時計を見る。
午後8時。夜と言っていい時間だ。
明来神社はここから徒歩で行ける距離だ。せいぜい10分くらいだろう。自転車ならもっと早く着く。
嘘でもいいから、試してみよう。
「解決してほしい」という思いが辛勝した。
左京は鉛のように重い身体をのそっと起こして、台所に向かう。鉛の身体に岩を背負っているかのような気分だ。冷蔵庫を開けて、水の入った500mlのペットボトルを取り出した。冷蔵庫を力なく閉めて、適当なグラスをバッグに詰める。ペットボトルを入れるとギリギリチャックが締まった。短い廊下が酷く長く見える。スニーカーを履いて、思い出したように財布の所在を確認して外へ出た。鍵を締めると、静かな風が髪を撫でた。4月半ばの夜は春と言えど少し肌寒い。
左京は重い足を進めた。
住宅地の道は飾り気などない。
道の両側に並ぶ家々の他には、街灯と電柱と、時々思い出したように自販機が佇んでいるだけだ。歩くに支障ない灯りに照らされた道を進む。自転車を漕ぐ力はない。徒歩で向かうが、左京には歩くのさえ重労働だ。足裏が、道路がぐにゃぐにゃと歪んでいる感覚を捉える。しかし、たまにすれ違う人は誰もが普通に歩いている。おかしいのは自分だけなのだ。
ふふふふ…………
静かな風と混ざり合い、笑い声が聞こえる。
空耳ではない。“いる”のだ。
ふふ……ふふふ……
女性の声。
周囲に人影はない。近くの家の笑い声が漏れているにしては鮮明だ。
【どこへ行くの?死にに行くのかしら?】
笑い声が、質問に変わった。やはり“いる”。
左京は足を早める。空耳ではない、幻聴ではない、その声から逃げるように。
【死ぬのなら飛び込みましょう?駅はあっちよ】
耳を塞いで、駆ける。早く、神社へ、鳥居へ、そしてコップに水を、五円玉を、それから、確か目を瞑って、祈る……何を祈る?助けてほしい、でいいのか?それから、鈴の音が聞こえるはずだ。聞こえなかったら帰ろう、すぐに。すぐに帰って……それでどうする?またこうしてよく分からないもの達に悩まされる日々が続くのか?
左京は足を懸命に動かしながら、ぐるぐると回る思考を束ねようとする。
【死んだ方が楽よ?楽しいわよ?】
あぁ、そうかもしれない。
でも、どうせ死ぬのなら、あの噂を試してからでも悪くはないだろう。
明来神社が見えてきた。長い階段を登った先に鳥居がある。薄暗い中でもその存在感は異様なほど大きい。遠近法を無視しているかのような印象さえ受ける。
階段を駆け上がる。時にはひとつ飛ばしに、疲れた足に鞭打って駆け昇る。息を切らしながらも、階段を駆け上がることに躊躇いはない。時々足をもつれさせながらも、階段を踏みしめては蹴り出していく。
「は……はぁ……っ、着い、た……っ」
遠目に見たよりずっと大きな真っ赤な鳥居。その下で、肩を大きく上下させて膝をつく。灯りは淡い月光のみ。拝殿や手水舎どころか境内すら薄暗くてぼんやりとしか見えない。絵馬が風でカタカタと鳴る音が笑い声に聞こえる。
バッグを開けて、透明なグラスを地面に置いた。震える手でペットボトルのキャップを開けて、水を注いで───
【早く死にましょう、死んじゃいましょうよ!】
声が語尾を荒らげる。慌てているようだ。もしかしたら、そういう目に見えない奴らは、神社という場所が苦手なのかもしれない。
水をどのくらい注げばよいか分からず、とりあえず八分目まで注ぐと、ポケットの小銭入れをひったくるように取り出した。
【死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ】
壊れたラジオのように繰り返される言葉。耳を塞ぎたくなりながら、小銭入れから五円玉を探し出すと、グラスの水の中に落とした。ちゃぷ、と淡い月明かりに水が煌めく。五円玉がグラスの底に落ちる前に、左京は顔の前で手を組んだ。必死に祈る。心の奥底からの祈りが、細胞レベルで叫んでいる。
(助けてください、助けてください、助けてください!)
【死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死ん───】
チリン
涼やかで、透き通るような音。
それは確かに鈴の音だ。
チリン
透明な音。
女の声はもう聞こえない。
自ら祈っておきながら、「まさか」と驚きを拭えない。しかし、鈴の音は確かに聞こえる。儚げな音だが、しっかりと、鼓膜を震わせた。芯のある音だ。
左京はゆっくりとまぶたを開く。
石畳の灰色の広い道。明るい道。
その両側に提灯が吊られ、ずっと奥まで続いている。色とりどりの提灯は祭りを想起させる。
提灯同士の間には石灯籠が立ち並ぶ。提灯に照らされてはいるが、周囲には淡い闇が広がっている。夜という時間帯に変わりはないようだが、まるで夢心地のような明るく朗らかな景色だ。
「これ……祓い屋の……?」
本当だったのか、と左京はふらふらと立ち上がる。景色の美しさからか、はたまた希望が生まれたことによる活力か、身体はふと軽い。グラスを跨いで、鳥居をくぐった。身体がまた軽くなった気がした。
明るい道を行く足取りのこの軽快さは、何ヶ月ぶりか分からない。ここ数ヶ月は清々しさや健やかさとは程遠い存在になっていた。
提灯灯りのぼんやりとした光から逃れるように闇が遠く見える。
石畳の感触はスニーカー越しに足裏に伝わる。本物だ。しかし、拝殿も手水舎も神社らしきものは何も無い。夢か現か曖昧だ。それでも、不思議と温かな安堵が胸に灯っている。
ととと、と足音が近づいてくる。軽やかで、隙間ない。駆け足のようだ。それも、子供のもののように聞こえる。左京が立ち止まった直後に、石畳の向こうから小さな人影が2つ、こちらへ向かってきた。こんな所に子供とはおかしな話だが、そもそもこの場所すら怪しいのだ。左京は生唾を飲み込んだ。
駆けてきたのは小さな女の子と男の子だ。小学生低学年……あるいは中学年くらいだろうか。女の子は赤い着物、男の子は黒い着物を着ている。
「お客さん!」
「お客さんだね!」
楽しそうにニコニコ笑って、左京の周りをぐるぐると駆け回っている。何周かした後、2人は左京の前で立ち止まって顔を上げた。
子供らしい可愛らしい顔で、頬は紅を差したように紅潮している。熱っぽいわけではないが、ふくふくと健康そうな頬は、口角が上がってよりふっくらと見えた。おかっぱ頭の女の子は丸い目を更に丸くしている。男の子は短いふわふわの髪を揺らして首を傾げている。
「お客さん、変だね」
女の子が悪気など微塵もなさそうにそう言った。目を丸くして、心底不思議そうに言うのだ。まるで子供が大人に「どうしてお空は青いの?」とでも聞くように。
「へ、変……?」
左京がへたれた声で返すと、男の子がけたけたと笑った。幼い笑顔に、中性的な愛らしさが現れる。
「変だよ。人間……なのに、人間じゃないみたい。お客さんはなあに?」
「なあに?」と聞かれるが、何と答えればよいのかと左京は首を傾げる。彼は質問の前に「人間かそうじゃないか」と言っていた。それを明らかにした方が良いのだろうか。
「えっと……人間だよ」
「人間?でも人間っぽくないねぇ」
「ないねぇ。人間っぽくないもん」
子供が顔を見合わせて不思議そうに口をへの字に曲げている。人間っぽくない、と言われて左京は更に疑問を浮かべる。この子達には自分がどう見えているのか……左京は確認の為に問いかける。
「……俺の目はいくつに見える?」
「2つだよ。お客さん、変なこというね」
「ねー」
「じゃあ、腕は?何本?」
「2本。お客さん、自分のことなのに分からないの?変なのー」
「そうだねぇ。変なのー」
子供達がけらけらと笑う。純粋無垢な、悪意などない子供らしい笑顔。どうやら自分は(この子達からしたら)人間ではないらしいが、見た目は人間そのもののようだ。この提灯の道の奥から来たということは、祓い屋を知っているのだろうか。左京は屈んで子供達の目線の高さに近づいた。子供達は怯える様子なくニコニコとしている。
「ねぇ、祓い屋って知ってる?」
「祓い屋……あぁ、ミキちゃんのこと!」
「ミキちゃん?」
「うん!ミキちゃんが祓い屋で、ムサシちゃんがとおせんぼ?してるの!」
「とおせんぼ……通らせてくれないのかな?」
「違うよ。とおせんぼのムサシちゃんはね、ミキちゃんを守るの。ミキちゃんが危ないときに、敵をやっつけるの」
「ムサシちゃん強いんだよ!ミキちゃんも強いの!」
「守る……危ないときに……とおせんぼ……?…………あ、もしかして、“用心棒”?」
「そう!よーじんぼー!」
「ムサシちゃんはよーじんぼーなの!」
どうやら祓い屋の“ミキちゃん”の他に、用心棒の“ムサシちゃん”がいるらしい。その2人が自分のこの悩みを解決してくれるのだろうか……左京は噂が真実であったことを喜びながらも、どこかでまだ不安視していた。神社の神主や寺の住職に頼っても解決しなかった悩み……それが綺麗さっぱり解決する未来のビジョンは全く見えてこない。
それでも、もう他に頼るあてはない。
左京は喉奥の蟠りを呑み込んだ。
「その祓い屋さんに会いたいんだけど、どこに行けば会えるかな?」
「ミキちゃんならムサシちゃんと一緒に“浄楽庵”にいるよ」
「じょうらくあん?」
「うん!ミキちゃんとムサシちゃんと、それから私達みんなのお家!」
「浄楽庵はどこにあるのかな?祓い屋さんの力を借りたいんだ」
「この道をずーっと奥へ行くの」
「一本道だから迷わないよ」
「そっか。ありがとう」
「どういたしましてー!」
「じゃあ僕達はもう行くね!ばいばーい!」
「ばいばーい!」
左京が返す前に2人は駆けて行ってしまった。ととと、と駆ける後ろ姿は、やがて霧の向こうにでもいるかのようにゆらりと揺れて消えた。目をこすってもう一度見ても、子供達はいない。
「……どうなってるんだ……?」
あの子供達もまた人ならざるものなのだろうか……そう考えて身震いした。背中を氷の筆で撫でられたような静かな恐怖。左京は頭を左右に振って立ち上がると、奥の道へと視線を向ける。子供達の言葉が事実なら、この先の浄楽庵という所に目的の祓い屋がいるはずだ。左京は足を踏み出した。
紅、橙、黄、緑、藍、白、黒……様々な色の提灯のぼんやりとした灯りが、安心感と温かさを心に灯してくれる。闇から守ってくれているようだ。現実感のない美しさと夢心地のような身体の軽さが、少し前の悩みすら忘れさせようとしている。
深呼吸をする。肌寒かったはずの空気は既に心地好い温もりを持って、左京の肺を満たした。吐き出した吐息に疲労感でも詰まっていたかのように、身体が自然とリラックスする。
歩いても歩いても、疲れない気がする。足裏の石畳は確かに硬いのに、不快感も痛みもない。
歩いているのに浮いているような、そんな不確かで、でも昔から知っている場所のような安心感。進むことに躊躇いは生まれない。
「あれ、か……?」
遠目に見えてきたのは古民家だった。田舎の旧家のような大きな佇まい。更に近づくと、細かく編まれた竹垣と一段低い生垣に囲まれているのが見えた。あの様子では中は窺えなそうだ。玄関前には人の背より一回り二回りほど高い素朴な竹造りの門が立っている。石畳は門をそのままくぐって玄関口へと続いている。どこをどう見ても古いと分かる、焦げ茶を基調とした静かな佇まい。しかし脆そうだとか不気味だとか、そういう印象はなく、華やかさは無いにしろアンティークのような魅力を感じる。瓦屋根、障子、板絵戸、玄関の格子帯戸……どれも古風な良き日本家屋の風格を纏っている。
門の前で立ち止まる。木板の表札には達筆な筆づかいで『浄楽庵』と書かれている。呼び鈴らしきものはない。勝手に入ってよいものかと、左京は門から声を張った。
「すみませーん!誰かいらっしゃいますかー!」
しばらくして、古民家の中から音が聞こえてきた。足音のようだ。早足なその音が来るのを待っていると、格子帯戸の向こうに人影が見えた。ガラ、と引き戸が開けられると、そこに立っていたのは茶髪の女性だった。左京とは同い年くらいだろうか。肩まで伸びた髪が弱い風に揺れた。
白のブラウスに、桜色のカーディガンを羽織り、その下には膝丈の濃紺のフレアスカート。細身だが健康的なプロポーションで、相貌はどちらかといえば可愛らしい部類だ。大きな瞳が左京を捉えている。
「お客さんね。とにかく中へどうぞ」
微笑むと少女のような愛らしさが花咲いた。
左京は会釈すると門をくぐった。玄関に入ると、勧められるままに靴を脱ぎ、廊下に上がって彼女を追う。木の香りだろうか、古民家特有の懐かしい香りが鼻を擽る。ギ、ギ、と踏みしめる度に鳴る廊下の軋みが、祖父母の家を思い出させる。
「そういえば夕食は食べた?」
「え、あ……いいえ」
「それなら一緒に夕食食べない?私達、ちょうどこれからなの」
「そうなんですか?タイミング悪くてすみません。出直して来た方がいいですか?」
「いいのいいの。小百合と柚子彦が遊びに行っちゃって、余っちゃってるの。一緒に食べてくれた方がありがたいな」
「そういうことなら、お言葉に甘えさせてもらいます」
「よかった」
女性は朗らかにそう言うと、一部屋の前で立ち止まって、障子を静かに開けた。
「お客さんだよ」
「……」
円いちゃぶ台の向こう側に座っている精悍な顔つきの男が、眉間にシワを寄せて左京を見上げる。しかし彼はすぐに持っていた新聞に目を落とした。女性は「どうぞ」と左京を部屋へと促す。招かれるままに左京は男性の向かい側へと腰を下ろした。座布団の上で正座をして、ちゃぶ台の上を見る。古民家だからと純和風料理を想像していたが、そこに並んでいるのはピザや餃子、ローストビーフなど……様々な国の料理だった。和風料理が無い。なんだか既視感を感じる。
女性が部屋に戻ってくると、数枚の取り皿と箸を左京の前に置いた。湯のみに麦茶を注ぎながら、女性が男性を窘めた。
「もう夕食なんだから新聞置いてよ」
「分かってる。で、なんで皿を用意してんだ?」
「夕食まだらしいし、食事がてら話を聞こうと思って。じゃ、食べよっか」
女性が男性の右隣、左京の左隣に腰を下ろすと、手を合わせた。彼女の「いただきます」に倣って、左京も手を合わせて「いただきます」と言った。とはいえ、美味しそうではあるが手をつける気にはならず、2人の顔を見た。
女性は嬉しそうにピザに手を伸ばした。一切れ手にしてパクリと咥えると、チーズがびょん、ととろけて伸びた。それを美味しそうにもそもそと食む姿はなんとも可愛らしい。
男性は箸でローストビーフを摘むと、数切れをいっぺんに口に運んだ。咀嚼する度に、雄々しい顔が歪む。表情は美味しそうに食べるわけではないが、再びローストビーフに箸を向ける様子からして気に入ってはいるようだ。
おそらく、この2人が子供達の言っていた“ミキちゃん”と“ムサシちゃん”だろう。とすると、女性が祓い屋で、男性が用心棒なのだろう。女性の方は、祓い屋というよりはモデルだとか女優だとか華やかな職に就いていそうだが、男性の方は用心棒という言葉にピッタリだ。紺の着物の上からでも、身体に纏う筋肉はストイックに鍛えられたものだろうと推測出来る。ボディービルダーのような太さはないが、きっと用心棒としての仕事は十二分に全うしているのだろう。
左京は両手を膝に置いて、女性の方へ視線を向ける。そして、おそるおそる話題を───ここに来た理由を切り出した。
「あの……ミキさんって、祓い屋……なんですよね?」
「ああ」
───ん?
聞こえた返事は低い男らしい声。女性の唇は咀嚼中で閉じられたままだ。彼女が返事をしたわけではないようだが、それなら誰が───
「お前、勘違いしてるだろ」
男性の声。勘違い?まさか……と左京は右隣に視線を向ける。見上げるそこには、あの精悍な顔の───
「ミキは俺だ」
「…………えぇ!?」
ミキと名乗る男性は、眉間にシワを寄せて左京を見下ろしている。左京は口をあんぐり開けて見上げるしか出来ない。彼の隣で、女性が笑った。
「はははっ、ミキって聞いたら、女性だと思っちゃうよね。小百合と柚子彦から名前しか聞いてなかったのかな?」
「ミキは苗字だ。三つの木、で“三木”だ」
「み、三木……」
「そうそう。で、私がムサシ。ムサシは武器の“武”に、地蔵の“蔵”で“武蔵”」
「武蔵……」
とんだ勘違いをしていたと知って、左京は『人は見かけで判断しないこと』という母親の教えを思い出す。見かけというよりは名前で判断してしまったのだが、そこはそれ。左京は頭を下げた。
「勘違いしてました、すみませんっ」
「いいよ、気にしてないから。それより、三木に相談があるんでしょ?えっと……そうだ、名前聞いてなかったね」
「あ、そうでした……俺は京 左京です。京都の“京”でカナドメ、左に京都の“京”でサキョウです」
「京左京……逆さから読んでも京左京……」
「よく言われます」
小学校からずっと指摘されてきたネタで、今更どうとも思わずに笑って返した。それから、三木の方へと視線を戻した。手のひらが汗で僅かに湿っている。ぎゅっと膝の上で拳を握り締めて、改めて切り出す。
「祓い屋が、妖怪や幽霊みたいな人じゃないものに関係する問題とかを解決してくれるって聞いて来ました。最近俺の身の回りでそういうのが多くて……」
「だろうな。お前、人間にしちゃあそういう怪異に“近すぎる”」
三木が箸を置いて腕組みをした。遠回しに『普通の人間じゃない』と言われていると理解したが、今更驚かなかった。子供達にもそう告げられたこともそうだが、彼の何もかもを見透かすような真っ直ぐな瞳を見ていると、なんとなく納得させられる。
「ここ数ヶ月前から、誰もいないはずなのに声が聞こえたり、人じゃないものを見るようになったんです」
「……例えば?」
「女の声で『死んじゃえ』とかそういう類のことを囁かれたり、その……め、目がひとつの子供が追いかけてきたり……大学の教授に血まみれの男性がへばりついているのも見ました……それから、首の長い女性……ろくろ首って言うんでしょうか、それに襲われて……そのときたまたま居合わせた友人に助けられて……」
「霊と妖、両方か」
三木は顎に手を当てて視線を落とした。料理を見ているのではないのは確かだ。三木はすぐに視線を上げた。
「まあ、先に説明しておくと、人間は誰でも少なからず霊力ってのを持っている。霊力ってのは、簡単に言えば『人じゃないものを感知する力』だ。霊力を全く持っていない人間を探す方が難しい」
「霊力、ですか」
「ああ。霊力を持っていれば、妖……妖怪ってのは見えるし触れる。声も聞ける。だが、霊……幽霊、死霊は、霊力が高い奴じゃないと感知出来ない」
「つまり……俺は霊力が高いってことですか?」
「そういうことだ」
「でも、数ヶ月前よりも以前は、幽霊の声だとか聞いたことなかったし、妖怪だって見たことなかったし……」
「そこだ。たぶん、お前のその“人間なのに怪異に近い”って気配が関係してるんだろう」
「でも、俺は普通の人間ですよ」
「その数ヶ月前に何かきっかけがあったはずだ。何か覚えてないか?」
「そんなこと言われても……」
左京は視線を落とす。数ヶ月も前のことなんて思い出せそうもない。そもそも思い出そうとしているのは、“きっかけ”という曖昧で抽象的なもの。思い出せるわけがない。
武蔵が心配そうに左京の顔を覗き込んだ。
「左京君、とりあえず食べたら?冷めちゃうし……」
「あ……そうですね、いただきま───」
箸に手を伸ばして、はたと止まる。
ちゃぶ台に並ぶ数々の料理。1人分ではなく、多くの───
「ああっ!!」
左京は声を上げた。
思い出した。数ヶ月前、ちょうどこの身や周辺で異変が起き始める前、おかしなことが起きていたこと。そして、それが怪奇現象に関係するワードがいくつか当てはまる事象だったこと。
何故忘れていたのだろうか。
無意識にその記憶を脳の奥に押し込んでいたのかもしれない。でも、こうして思い出すと、何もかもが鮮明に脳裏に浮かんでくる。まるで今まさに体験していることのように。
「思い出しました、料理、料理です!」
「料理……?」
三木が首を傾げてチラリと料理を見る。何かを思いつくでもなく、彼は再び左京に視線を戻した。武蔵も不思議そうに左京の顔を見つめている。
思い出した興奮そのままに、左京は口を開いた。
「俺、夢の中で料理をいっぱい食べたんです。なんかよく分からない和室で、食卓っていうのかな……大きなテーブルいっぱいに料理が並んでて、俺、それ全部食べたんです」
「夢の中で料理?なんでそれがきっかけだと思う?」
三木が目を細めて問う。
左京はひとつ深呼吸をした。思い出した歓喜で忘れかけていたが、言葉にしようとするとその“きっかけ”が如何に不気味なことかをまざまざと思い知らされた。
もうひとつ深呼吸をして、左京はそのおぞましい理由を口にした。
「料理の材料が、妖怪でした」
───────
数えればきりがないほどに並んだ料理の数々。
おどろおどろしい見た目から、高級料理店で出てきそうな美食まで、テーブルいっぱいに並んでいる。ひとつのテーブルでは足りないと、顔を白布で隠した童のような者達が、えっさほいさとテーブルを運んできてはその上にまた料理を載せていく。
左京は最初から置いてあるテーブルの前に正座して、その様子を見守っている。箸やグラスが目の前にあるが、料理に手をつけるでもなく、ただただテーブルや料理が運び込まれる様子を見ていた。
「美味しいですよ」
声を掛けられた。若い男性らしき声だ。童達ではなさそうだ。顔をあげると、遠くまで続くテーブルの向こう───ずっと向こう側に1人の人影が見える。テーブル越し、10mはありそうな距離に白髪の人物がおそらく自分と同じように正座しているようだ。童達と同様に顔に布が垂れていて、表情や容姿は窺えない。童達が染みひとつない真っ白な布だったのに対し、テーブルの向こうの人物の布には何やら黒い紋様のようなものが描かれている。遠い距離。そのはずなのに、何故か遠くにいる彼が眼前にいるかのように鮮明に見てとれる。そのうえ、先程の声はすぐ近くで話しているかのように鮮明に鼓膜を震わせた。部屋は大きなテーブルがいくつ置かれても未だ余裕があるほど広い。宴会をひとつふたつは余裕で開けそうだ。反響もなさそうなのに、何故こんなにハッキリと聞き取れたのだろうか。
「この料理は何ですか?」
左京は問いかける。声を張り上げなければ聞こえない距離のはずなのに、発した自分の声は普通に目の前の人物と会話するかのような声量だった。
「しっかりと見れば、料理名は分かるはずですよ」
向こう側の人物───声からして男性が、そう答える。料理を見るだけで料理名が分かる?唐揚げやハンバーグなどは見れば分かるだろう。それを、今更どう見ろと言うのだろうか。
左京はさっきまでぼぅ、と見ていた料理の数々を、しっかりと焦点を合わせて見つめる。
鵺の唐揚げ。
百目の目玉の塩ゆで。
蛟の蛇酒。
人魚の活け造り。
鬼と餓鬼の合い挽きハンバーグ。
雪女郎の母子丼。
小豆洗いの小豆の汁粉。
猫南瓜のパンプキンパイ。
牛鬼のステーキ。
エトセトラ、エトセトラ…………
料理名どころかメインの材料名までもが脳に流れ込んできた。男の言う通り、見た料理のことを既に知識として得ているかのように脳に浮かび上がってくる。
聞いたこともない食材ばかり。それでも、いくつか分かる材料の名を理解しただけでも、この料理の数々が普通でないことが認識出来た。
男に視線を戻すと、彼の顔の布が微かに揺れた。布越しでも笑っているのがなんとなく分かった。
「ではそろそろ食べ始めましょうか。せっかくの料理が冷めてしまいます」
「この料理は……」
「貴方と、そして僕の為の料理です」
「俺と……貴方の……?」
「ええ。今日は僕達の誕生日ですから」
言われて、左京は首を傾げる。誕生日はまだ数ヶ月先だ。そもそもあの男は京左京という存在を知っているかのような口振りだ。左京には白髪の男にもその声にも心当たりがなかった。自分と同じ誕生日の知り合いも思い当たらない。
「貴方の誕生日は霜月の二十と九つと存じていますとも。今日がその日ではないことも、もちろん認識しております。そもそも僕は己の生まれ落ちた日など覚えてはいません」
「それなら、どうして……」
「今日この時までの僕達が死に、今日この時から新たな僕達が生まれるのです。僕達の新たな誕生日、新たな生……素晴らしいことです」
「ま、待ってください、意味が分からない。今までの俺が、死ぬ?新しい俺ってどういう───」
「さて。空腹も限界でしょう。食べましょう。食べて新たな生を享受しましょう」
「空、腹……?」
その言葉を聞いた瞬間、左京の胃がぐるぐると音を立てた。朝食を食べて数時間経った昼頃のような空腹感ではない。数日間何も口にしていなかったかのような飢えと渇きだ。胃が空虚に悲鳴を上げ、身体の全細胞が食事を、栄養を、水分を、その身の生きる糧となる全てを欲して叫んでいる。舌が味を、食を求めて唾液にまみれる。喉が渇ききっているのに、口内は唾液の分泌が止まらない。
不気味な料理が。
美しい料理が。
残酷な料理が。
芳香を放つ料理が。
湯気を燻らせる料理が。
食べ物にすら見えぬ料理が。
その全てが欲しい。端から全て食いつくし、皿に残る汁さえ残らず味わいつくし、この身を心を満たしたい。
「いただきます」
男が手を合わせて告げた言葉が合図のように、左京の手が箸を掴んだ。近くにあった“何か”の姿焼きを箸で摘んで口に運んだ。その美味な衝撃に左京は目を見開いた。身のしまった肉の、しっかりとした食感。皮が弾けて肉汁が溢れ出す。ソーセージの食感に似ている。味付けは薄めで、食材の味を存分に楽しめる。傍のグラスに注いであった淡い琥珀色の液体を飲む。焼酎のようだ。左京は下戸だが、渇きと食欲に抗えずにぐっと呷った。左京は酒がこんなに美味だとは知らなかった。一気に飲み干してしまったことを後悔してグラスをテーブルに置くと、あの童達のうちの1人が近づいてきた。その手には酒瓶。童がグラスに酒を注ぐのも待てずに、左京はひったくるように酒瓶を奪い取った。酒瓶の中の淡い琥珀色を、一気に口へ、喉へ、胃へ流し込む。空の酒瓶を床に置いてほぅ、と息を吐く。幸福感が胃から全身に染み渡っていく。
童が空瓶を拾って去っていく姿を一瞥もせずに、左京は再び箸を取る。上半身が裸の女性が皿の上に横たわっている。見れば、彼女の下半身は魚で、鮮やかな手捌きを想像するに易い、美しい活け造りにされている。女性の顔はまるで眠っているかのように穏やかだ。柔らかな胸の膨らみが露わになっているが、左京はそれよりも活け造りに夢中だった。透き通るような薄い白身を箸で1枚摘み、口に運ぶ。これもまた美味だ。弾力があり、淡白だが旨みのある身。呑み込む前に気づけば箸で刺身を数枚摘んでいた。
黒々とした料理が目に留まる。粘度のあるスープに、気味の悪いものが浮かんでいる。眼球だ。眼球の他にも歪な肌色の塊が浮かんでいる。黒い水面から突き出ている白いものもあった。皿の傍のスプーンでスープを掬う。シチューのようなとろみだ。飲んでみると、強い苦味と渋味が舌いっぱいに広がった。思わず顔を顰める。コーヒーの苦味だけを何倍も濃く抽出したような苦味に、渋柿の渋味を濃縮したような舌の痺れ。だが、それがどうしようもなくクセになった。2杯、3杯とスプーンで掬い、口に運ぶ。眼球を口に入れて噛むと、葡萄を食んでいるような食感に、どろっとした粘度ある液体が混ざり合った。味は淡白でスープの苦味や渋味で掻き消えてしまう。
「気に入ってもらえてよかった……」
向こうの男はそう言って何かを手に取った。
やはり遠いはずなのに声は鮮明だ。
彼は顔の布の端を少しだけ摘み上げる。顔が見えるほどではなく、その容姿を拝むには至れなかった。男は肌色の何かを口に運んで咀嚼しているようだった。それは料理ではなく、何の加工もされていない人の腕に見えた。
「それは……何を食べているんですか?」
左京はそう問いながら箸を止めない。手を伸ばしてハンバーグを一口大に割る。
「人間です。貴方の為の料理に力を入れすぎましてね、こっちは調理していなくて……でも、生でも美味しいですよ」
男はにこやかに答える。実際笑っているのかは見えないが、声に優しさと楽しさと喜びが交じっている。
人間───そう聞いて、左京は箸をピタリと止めた。唇の前まで運ばれたハンバーグの欠片から、ぽたり、と肉汁が滴り落ちる。デミグラスソースも別の料理の皿に垂れた。真っ白な皿に滴ったそれは、血のように黒々とした赤だ。
「この料理は全部僕が作ったんです。そのハンバーグは鬼の肉と餓鬼の肉の合い挽き肉を使っています。臭み取りにスパイスを使いましたから、きっと美味しく食べられますよ」
促されてハンバーグを食む。噛むと肉汁がぶわ、と口いっぱいに広がる。スパイスの独特の風味が肉と見事に調和され、今まで食べたハンバーグとは明瞭に一線を画す美味だった。
「美味しいですか?」
「はい……すごく、すごく美味しいです」
「よかった。頑張った甲斐がありました。ああ、そうだ……僕に対して敬語なんて使わないでください。僕が貴方を敬うことはあっても、貴方が僕を敬うことなんてないんですから」
「……もしかして、会ったことがある?」
「ええ。何度もお会いしていますよ」
「ご、ごめん……俺、覚えてない……」
「当然ですよ。僕は今こうして顔を隠してますし、仮に顔を見せたところで、貴方はたぶん僕を僕と分からない」
男はそう言って、持っていた腕を噛みちぎった。噛み跡からはぼとぼとと何かが溢れている。遠目でもそれが血なのだろうと思った。液体ではなく、塊のような血だ。
「僕のことは気にせず、料理を楽しんでください。せっかくの誕生日ですから。貴方も僕も、新しく生まれ変わる……僕達は少しずつ互いが近づき、やがて同一存在になるのです」
「同一存在……?」
左京は彼の言葉をひとつも理解出来ない。何度も会っているのに全く記憶にないことも疑問だが、誕生日だとか同一存在だとかこの料理の数々だとか……一切理解の余地がない。
「料理、お口に合いませんか?」
「いや、そんなことはないよ。どれも美味しいし、初めて食べるものばかりだ。この……ぬえ?の唐揚げなんかすごくジューシーで美味しいよ」
「喜んでもらえてよかった……それ、作るのに苦労したんですよ。どんなにぶつ切りにしても、あの不気味な声で鳴くものですから……あ、尾の蛇はちゃんと毒抜きしてありますよ」
声だけでも分かる、男の幸福感。想い人に見目を褒められた少女のように、大人に努力を認められた子供のように、彼は心底幸せそうに吐息混じりの声で笑った。
左京には彼が嬉しそうな理由は分からない。それでも一緒に食事をしている、おそらくは知人であろう存在が心を弾ませていることが純粋に嬉しかった。そもそも京左京という人物は優しい人間であり、他人の一喜一憂に、彼もまた同じく一喜一憂するような性格だった。共感性が高いのだ。
左京もまた幸せそうに料理の感想を伝えながら、料理に舌鼓を打つ。どんなに食べても腹は満たされず、際限なく料理が次から次へと運ばれてくる。
会話が弾みながら、時間と空の皿が積み上がっていった。
───────
「……つまりは、お前、妖を食ったんだな?」
「はい……聞いたこともない名前もあったけど、人魚とか鬼とか小豆洗いとか……それって、妖怪ですよね?」
「分かっててなんで食った?」
「何故かすごく空腹で、喉も渇いてて……何日も何も食べてないんじゃないかってくらいに空腹でした。なんていうか、自分でも異常だと思うくらい、食べ物に執着していたように思います」
「……聞いたことのないケースだな」
「三木でも聞いたことないの?」
「妖が妖を食うなんて話はいくつか聞いたことはある。でも、人間が妖を食うなんてのは……しかも、夢の中……それが“きっかけ”の可能性は充分あるな」
「ね、ね、左京君。その夢の中で一緒に食事した人、心当たりないの?」
「はい。でも、向こうは俺を知ってるみたいでした」
「……」
三木は箸を置いて腕組みをした。眉間のシワが深くなり、料理を見る目付きが険しくなる。左京は今更になって、あの夢の異常さを認識した。夢の中ではあるが、妖怪なるものを口にした。そして、同席していた相手は、人間を食べていた……何故今まで忘れてしまっていたのか、それさえも恐ろしかった。
三木は視線を上げて左京を見た。自然と左京の背筋が伸びる。
「どういう理屈かは知らないが、お前は妖を食って、妖力を得ているらしい」
「妖力……?妖怪の力、みたいな?」
「そんなもんだ。霊力が高く、妖力を持っている。だから人ならざるものとの干渉力が高まり、変に付きまとわれてるんだろうな」
「どうすればいいんですか?俺、もう嫌なんです」
「どうしようもないな。前例はなく、解決策も……俺の知識量じゃ見つからない」
「三木がダメなら、祓い屋業界は全滅かなぁ」
「ぜ、全滅……!?そんな!俺、ずっとこのままなんですか!?」
左京は頭を抱える。この数ヶ月の苦しみが一生続くというのなら、ここに来る前の女の声の通り、死んだ方が良いのではないか。
授業は姿無き声に苦しめられ集中出来ない。
バイトは客に憑く霊に怯えて仕事にならない。
友人と話していても霊の声に震えた。
通りすがりの人の憑き物のせいでろくに顔を上げられない。
夜道に見た怪異に怯えて何度も道を変えた。
どこへ行っても恐怖があった。
「やっぱり、死んだ方が……」
「まあ待て」
俯いて弱音を零した左京を、三木が遮った。でも、左京は顔を上げる気が起きない。今しがた『どうしようもない』『前例がなく解決策も見つからない』『祓い屋業界は全滅』と言われたのだ。もう希望などないのだからこのまま死なせてほしいとさえ思った。
「要は、今の俺にはこの件を解決するのが無理だって話だ。これから調べていきゃあ、解決策も見つかるかもしれねぇしな」
「でも、そんなの『かもしれない』って話でしょう?解決しないかもしれないじゃないですか」
「調べなきゃ見つかるもんも見つからないだろうが。もし調べ尽くして、それでダメなら死んだってかまやしない。好きに死にゃあいい」
「ちょっと、三木!」
「なあ、京、死にたいぐらいしんどいんだろ?俺にはそのしんどさは理解出来ない。だから、お前の自殺を止める権利はない。解決策が見つからないなら、好きに死ねや。俺が『解決策は何も無い』って結論出すまでは希望はあるとでも考えとけ」
「本当に……見つけてくれるんですか?」
左京はゆっくりと顔を上げる。勇ましく雄々しい三木の顔が、少し眉を顰めた。
「見つける、なんて断言しない。そんな無責任なことはしないさ。まあ、それでも出来ることはしてやる」
「あ……ありがとうございます!」
左京は頭を下げた。料理が目の前にある。これではないが、料理が原因の自分の状況だ。目の前に元凶がある。そして、自分と対面する祓い屋は『見つける、なんて断言しない』と言った。希望なんて有りはしないはずだ。それでも、探してもらえるという答えに、歓喜せずにはいられなかった。無責任に『見つけてやる』と言われるより遥かに、三木という祓い屋を信用出来る答えだった。
「よかったね、左京君!」
「はい、ありがとうございます!」
左京が顔を上げて武蔵を見ると、彼女は嬉しそうに顔辺りまで両手を上げていた。左京はよく分からないまま真似ると、彼女は左京の両手にハイタッチした。無愛想な三木と違い、人懐っこくて明るい人柄らしい。
「さ、食べちゃお」と促されるままに左京は箸を取った。近くの生姜焼きを摘んで食べる。あの夢の料理の方が、比べるまでもなく美味だったな、と思った。
───────
「それで、あの……報酬、は……」
武蔵が食器を全て下げてまっさらになったちゃぶ台を挟み、左京はおそるおそる頭の隅で気がかりだったことを話題にあげた。今まで頭の中いっぱいの怪奇現象の悩み事が多少萎んで、他のことに気を回せる余裕が出来ていた。
武蔵は食器を洗いに台所へ行った。左京も手伝うと申し出たが、武蔵にやんわりと断られ、三木と2人きりの空間にいたたまれずに、報酬を問うたのだった。
三木は新聞からちらりと視線だけを上げた。
「報酬とは言ってもな……今回の場合は成功するかも分からないからな」
「でも、タダ……ではないですよね……」
「……まあな」
「ちなみに、相場はどれくらい……?」
「時と場合による」
「なるほど……」
時と場合……それなら、自分の場合はどうなるのだろうか、と左京は値踏みする。桁はいくつだろう、ゼロが数個足りないのでは、と数字をいくつも更新していく。やがて浮かんだ数字に目眩がした。苦学生、という程ではないが、そこそこ苦労の多い生活を細々と営んできた。親からの仕送りとバイト収入、そこから基本的な出費を差し引くと……一体どれくらいもやしだけの食生活になるのだろうか。
「……まあ、ここでバイトするなら少しは割安にしてやれるが」
「ここでですか?」
「ここ浄楽庵には、妖や霊による怪奇現象に悩む人間の他に、悩める妖や霊の助けもしている」
「え、妖や霊もですか!?」
「アイツらだって生きてるからな、悩みくらいある。まあ、霊は死んでるが」
「具体的には、どんな……?」
「人間の方はお前みたいに怪奇現象に悩んでの依頼が多いな。妖や霊だと、他の悪妖や悪霊からの被害や失せ物、暇つぶしに来る奴もいるな」
「妖や霊にとっての、交番みたいなものですか?」
「交番ってより、何でも屋だな。ここでバイトするなら、妖や霊の対応をしてもらうぞ。まあ、祓うのは俺や武蔵だが。対応してもらうって言っても、別に人間を取って食おうって輩じゃないからな、そこは安心していい。悪い輩はそもそもここには来ない。祓われるからな。時々命知らずが来ることもあるが」
「そうですか……」
割安になるのはありがたい。三木達とともにいれば、日々悩まされている妖や霊のことなど、助かることも多いだろう。しかし、今まで怯えていた妖や霊達の対応をするというのは、抵抗があった。
「妖や霊が怖いって二の足を踏んでるんなら言っとくが……お前、ここに来る道で、子供に会わなかったか?」
「赤い着物の女の子と、黒い着物の男の子に会いました」
「そうか。そいつらは赤い方が小百合で、黒い方が柚子彦って言うんだが」
「あ、武蔵さんが言ってましたね」
「アイツらは妖だ」
「え?」
「座敷童子……聞いたことないか?」
「あ……あります。子供の妖怪で、家に憑いてるんですよね?その家は裕福になるけど、座敷童子が去ると貧乏になるって」
「アイツらはその座敷童子だ。別に人間の子供と変わらず、無害だったろ?」
「は、はい……質問にも答えてくれたし、人の子供と全然変わらなくて……」
「妖は大体無害だ。昔……平安時代だとか、それくらい昔はもっと強力で、人間に悪さする輩もいたが、今はおとなしいもんだ。ここを訪れるのはそんな無害中の無害ばかり。怖がるのは別に構わないが、知っといて損はないだろ」
「……そう、ですね……」
小百合と柚子彦と呼ばれる座敷童子は、確かに無害だった。可愛らしい子供にしか見えず、左京の問いに素直に答えてくれていた。そういう無害な妖や霊がいるなら……左京は意を決して頷いた。
「俺、ここでバイトしてもいいですか?」
「俺からの提案だ、断る理由はない」
「ありがとうございます。あ、ここに来るには、あの方法じゃなきゃ来れないんですよね?」
「あの方法……?あぁ、明来神社のか。別にあれはただの鍵みたいなもんだ。大っぴらに店構えてると、冷やかしだのなんだのが来るだろうからな。あの方法を噂として流して、本当に必要に思ってる奴だけここに来れるようにした。冷やかしでやった奴はここには来れないさ」
「そうだったんですか」
「ここに来たきゃ、あの鳥居をくぐる際にこれを持っときゃいい」
三木はのそっと立ち上がり、箪笥の引き出しのひとつを引いて何かを取り出した。引き出しをしまうと、左京に手を伸ばして、4つ折りの白い紙を手渡す。開くと、星と、その5つの先端と星の中心に何やら草書体の文字が書かれている。三木は再び座布団に胡座をかくと、新聞を広げた。
「それを明来神社の神主に見せれば、御守りをくれるはずだ。その御守りに入れて持ち歩いてな。それを持ったまま『浄楽庵に行きたい』と念じれば、朝だろうが夜だろうが、あの鳥居をくぐるだけでここに来れる」
「すごい……」
「時間はそうだな……お前、大学とかなんとか言ってなかったか?」
「あ、はい。上吉大学の2年生です」
「なら、大学の後でいい。大学の後、それと他にバイトがあるんなら終わってからでいい。なるべく毎日来てほしいもんだが……まあ、無理は言わない」
「あ、バイト、クビになりました。お客さんの背後霊?ってのがすごく怖くて、皿割るわ注文ミスするわで、昨日クビになりました」
「……そうか」
「なので、講義が終わり次第来ます。講義がない日は早めにここに来ますね」
「ああ」
三木は短く返事すると、新聞を捲った。そろそろ帰ろうか、と左京が腰を上げると、廊下からパタパタと足音が聞こえた。障子が開いて、エプロン姿の武蔵が左京に微笑んだ。
「あ、左京君。泊まってくでしょ?」
「いえ、そんな、申し訳ないので帰ります」
時計は10時に差し掛かろうとしていた。まだ深夜というわけでもない。食事までご馳走になったのだ、これ以上お邪魔しているわけにもいかない。
「でも、帰り道でまた妖や霊に遭うかもしれないでしょ?」
「う、それは……」
「見ての通り、私と三木だけなのにお屋敷は広いからね。部屋は余ってるんだ」
「あれ?でも、小百合ちゃんと柚子彦君はここを“みんなの家”だって言ってましたよ?」
「ああ。確かに妖や霊、他の祓い屋が立ち寄ったり泊まったりすることもあるよ。それでも部屋は余るし」
「……じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」
「もちろん!布団の用意して来るね」
「あ、手伝います」
「いいのいいの。着替えは……三木、着替え貸してあげて」
「ああ」
障子が閉められ、足音が遠ざかっていく。軽く上げた腰をゆっくりと下ろして、左京は部屋をぐるりと見回す。木製の箪笥、ちゃぶ台、障子に畳……和風の部屋だが、ヒーターやテレビなども置かれている。和洋折衷というものだろうか。
左京はふと食事前の会話から気になっていたことを三木に問う。
「そういえば、武蔵さんの口振りからして、三木さんって祓い屋の中でもすごい人なんですね」
「昔の話だ。今は武蔵頼りなことの方が多い」
「武蔵さんって用心棒なんですよね?お2人ともすごいんですね」
「別に」
ぺら、と新聞が捲られる音と、時計の秒針が刻む音が沈黙の中を過ぎていく。左京は気まずくなって、再び室内に視線を走らせる。時計は丸型で白無地のシンプルな掛け時計。時間は現実世界(ここを非現実世界と呼ぶべきかは別として)と変わらないようだ。この時間ならいつも何をやっているだろうか。テレビを見たり、レポートを書いたり、バイト中だったり、あるいは入浴していたかもしれない。眠ってはいなかったように思える。あまり記憶にない。そもそもここ最近は精神的疲労が蓄積されすぎていて、何もかもが曖昧になっている。そんなことを考えていると、ふあ……と欠伸が零れた。最近のストレスや緊張から解放され、緊張の糸が緩んだようだった。眠気を認識すると、途端に瞼が重くなった。
「風呂に入るか?」
「あ……いいんですか?」
「俺はもう入ったからな。着替えの用意と……あと風呂場に案内してやる」
新聞を綺麗に折りたたんで、ゆっくりと三木が立ち上がる。左京もと立ち上がってうんと背伸びする。肩や腕がぽき、と軽い音がする。しばらく座りっぱなしだったからだろう、下半身も少し凝っている。
廊下に出ると、ひんやりとしていた。いくつかの角を曲がって辿り着いたのは、赤い暖簾と青い暖簾がそれぞれ取り付けられた、2つの入口だった。赤暖簾には“女”、青暖簾には“男”……まるで温泉のようだ。
「見りゃ分かるだろうが、こっちが男湯だ」
「はい」
青い暖簾をくぐり短い通路の角を曲がると、まるで銭湯の脱衣場のようだった。脱衣箱───ロッカーのような木製の棚が設置され、正方形に区切られた各スペースには、籠が置かれている。脱衣場には脱衣箱の他に籐製の椅子が並んでおり、その様子はここが住居ではなく公衆浴場なのではと疑うくらいだ。
「見ての通り、風呂屋みたいなもんだ。浴場もそんな感じだから、まあ使い方は何となく分かるだろ」
「はい、分かりました」
「着替えは用意して、お前の使ってる棚の隣にでも入れておく。浴場の入口の傍に置いてある台、あれにタオルが入ってる。大きい方がバスタオル、小さい方が手拭いだ」
「ありがとうございます」
通路から出ていく大きな後ろ姿を見送る。左京は服を脱いでは軽く畳んで、籠に入れていく。最後に銭湯に行ったのはいつだっけ、などと思い出す。幼い頃、父親の友人が営んでいるとのことで、銭湯にはよく行っていた。「喜一郎のせがれだから」と、番台のおじさんがコーヒー牛乳やフルーツ牛乳を毎回奢ってくれた。よく火照った身体に染み渡る冷たい飲料が、左京は大好きだった。
今は大学進学を機に親元を離れ、一人暮らしを始めて2年が経つ。寂しいと思わないと言えば嘘になるが、数ヶ月前までは平凡な生活をエンジョイしていた。友人に恵まれ、大学生活も充実し、私生活も大学関係も大きな幸福がないにしろ、それなりに楽しく過ごしていた。それが、何故こんなことに…………考えてしまえばまた死にたくなるだろうと頭を振って考えるのをやめた。別のことを考えよう、と思い直す。下着を脱いで籠に入れると、浴場の入口に手をかける。思い出したように手拭いを取り、磨りガラスの引き戸を開ける。もわ、と熱気と湯気が脱衣場に流れ込んでくる。湯気が薄いのは、換気扇が回っているからだろう。洗い場は鏡や蛇口が並び、その前にそれぞれバスチェアが置かれている。一般的な銭湯のそれと同じだ。身体を洗う場所の奥には、大きな浴槽がある。壁には絵は描かれていない、素朴な造り。もしやここは銭湯ありきで、そこに屋敷を増設したのではないだろうか。
左京は手拭いを手に、洗い場のバスチェアに腰掛けた。
───────
武蔵が部屋に戻ると、三木がちょうど電話を切るところだった。雄健な顔つきが、不快に歪んでいる。おそらくは先程この門戸をくぐった客の件だろう。武蔵は盆に乗せていた湯呑みを三木の前に置いた。自分の前にも湯呑みを置いて、武蔵は座布団にそっと腰を下ろす。
「色々聞いてみたが、全員聞いたことがないとさ」
「私だって初耳だよ。妖を食べちゃうなんて。でも、それと同じくらい気になるのが……人間を食べてたっていう、同席者のことだよね」
「まあ、“アイツ”じゃないのは確かだろうな。人間相手に敬語使うなんて考えられない」
「……だよね」
表情を曇らせ、自分の湯呑みをぎゅっと握った。華奢な腕を見れば湯呑みを割る心配などないのだが、三木はちゃぶ台に軽く身を乗り出して武蔵の額へ手を伸ばした。武蔵が反応するより早く、三木の中指が親指に弾かれた。武蔵の白い額のど真ん中に、中指がヒットした。
「痛っ!」
「んな辛気臭い顔すんな」
「だからってデコピンはないでしょ!」
ムッと頬を膨らます武蔵に、三木がふ、と笑みを零した。表情筋の微かな緩みのような微笑に、武蔵も思わず笑った。なかなか笑わない無愛想の塊みたいな彼が笑うのが、武蔵は幼い頃から好きだった。希少な宝物でも見つけたかのように嬉しいのだ。
「京の泊まる部屋はどこだ?」
「廊下の突き当たりを左に曲がって……前に七緒さんが泊まった部屋だよ。どうして?」
「そうか。消灯や戸締りの確認は俺がしておく。お前はさっさと寝ろ」
「私まだ起きてられるよ。それに、お客さん来たらどうするの?」
「客が来たら京にでも『今日はもう終いだ』と追っ払ってもらうさ。お前は早朝から術の練習で疲れてるだろ」
「まだ大丈夫だって」
「寝ろ」
「……はい」
有無を言わせぬ三木の言葉に、武蔵は頷くしかなかった。確かに彼の言う通り、武蔵は今朝、日の出よりも早くに起きてから術の練習をしていた。練習の合間に家事をこなし、買い物を済ませ、客の対応をしていた。彼女の肩書きは用心棒ではあるが、兼ねて祓い屋見習いでもある。しかし“見習い”と付くだけあって、祓い屋としての実力はからっきしなのだ。習い始めに比べればいくつか出来ることも増えたのだが、いかんせん祓い屋としての才能は芳しくないらしい。
武蔵はよいしょ、と立ち上がり湯呑みを持った。
「湯呑み、まだ中身あるんだろ」
「うん。でももう寝るから……」
「俺が貰う。いちいち注ぎに行くのも面倒だ」
「じゃあ、はい」
武蔵は湯呑みを三木の前に置く。「おやすみ」と声を掛けると、「おう、おやすみ」と返された。いつものやり取りだが、変わらず嬉しくて武蔵は頬を緩ませた。
障子をそっと閉めると、軽い足取りで自室へ向かう。愛嬌のない彼に、心配されたのが嬉しかった。明日の練習も頑張れるというものだ。例えそれが上達速度の遅い不得手なものだとしても、活力は湧いてくるものだ。そもそも彼女が祓い屋見習いとして励むのも、彼女自身の意志でのことだ。彼女は誰よりも祓い屋になることを望み、その為の労力は厭わない努力家だ。彼女は祓い屋になる為なら、自らの肢体を犠牲にしようとも構わないとも思っている。それを察しているのが三木であり、彼女のブレーキになっている。三木の存在が、彼女にとって大きいということは、彼らの知り合いなら全員が全員知っている。
「あ!ムサシちゃん!」
「ムサシちゃん、お客さん来た?」
振り返ると、小さな足をパタパタと動かして駆け寄って来る子供達がいた。小百合と柚子彦だ。武蔵は立ち止まって、2人の目線に近づけるよう屈み込んだ。
「うん。お客さん来たよ。2人が場所を教えてくれたの?」
「うん!変なお客さんだったよね。人間っぽくなかった」
「変なお客さん帰っちゃった?」
「今日はここにお泊まりするんだよ。あと、変なお客さんじゃなくて、左京君って言うんだよ」
「さきょーくん」
「さきょーくん」
「そう、左京君。私、これから寝るから、何かあったら左京君とお話してね」
「はーい」
「うん、お話するー」
パタパタと駆けていく姿は、人間の子供と変わらない。2人が玄関口の方へ消えたのを見ると、武蔵は立ち上がって再び自室に向かった。人間の子供なら夜に外へ行くのは止めるだろう。しかしあの子達は妖であり、止める理由などなかった。むしろ妖のほとんどは夜行性である。つまりあれが自然だというものだ。
武蔵は自室の襖を開ける。8畳ほどの和室は、家具が少ないものの暖色を基調に設えてある。襖のすぐ傍のスイッチを押して部屋の灯りをつけた。ガラステーブルやテレビ、座布団、箪笥、ランプ、本棚……和と洋どちらかに統一するでなく、和洋綺麗に整えられている。武蔵は押し入れの襖を開け、敷布団を引っ張り出すと、布団用に空けられたスペースに広げた。それからタオルケット、枕、抱き枕を引っ張り出しては寝る支度をした。それから箪笥からネグリジェを出して着替え始める。カーディガンを脱ぎ、真っ白なブラウスを脱ぐと、白い柔肌が露わになる。その肌には、古い傷痕がいくつか残っていた。切創、火傷、手術痕……嫁入り前の娘が、などと窘める者は祓い屋業界やその関係者にはいない。多少の男尊女卑はあるものの、祓い屋業界は実力が物を言う。強い者は敬われ、弱い者は淘汰されていく。武蔵は後者にだけはなりたくなかった。必死に鍛錬し、仕事をこなし、努力を怠ることはなかった。それでも、まだ足りない。武蔵と同程度の実力を持つ者の中には、悪妖や悪霊に殺された者もいる。同業者間の生存競争に勝てず、祓い屋業の暖簾を下ろした者もいる。武蔵はそうはなりたくなかった。枕元にあるベッドサイドランプの優しい灯りを点けてから天井照明を消した。布団に潜り込むと、ゆっくりと息を吐いて目を閉じる。
瞼越しの優しい温かな光を感じながら、武蔵はいつものように羊を数えた。
───────
風呂を出て、廊下を歩いてしばらくが経つ。
借りた薄手のTシャツはサイズが大きく、腕を少し捲らなければ指先しか見えない。下は灰色のスウェット。着物を着ている三木しか知らないからか、勝手にその洋服があることを意外だと思った。
この屋敷は初見には迷路のようだった。名に庵と付くが、庵というよりは屋敷だ。廊下を何度か曲がってはみたが、似たような襖や障子が並ぶばかりで、既に通った場所か否かも分からない。適当な部屋を開けようかとも思ったが、泊まらせてもらう身として、そんな失礼をするわけにはいかない。左京はぐるぐると歩き回るしかないのだった。誰かしらと会えれば案内してもらえるのだろうが、残念なことに誰とも会うことはない。それどころか気配のひとつさえありはしない。
「あ、そうだ。1回外に出てみよう」
外に出て、玄関の場所さえ分かれば、最初に案内された夕食時の部屋に辿り着けそうだ。あの部屋までは玄関から進んで曲がることはなかった。それなら迷いようがない……はずだ。仮に通り過ぎるか手前で止まったとしても、声を張れば三木か武蔵が気づいてくれるだろう。左京は進行方向を定めて進んだ。何度か壁に当たりながらも、どうにか縁側に辿り着いた。縁側の沓脱石にはサンダルが2組置いてある。そのうち大きい方を借りて庭に降りた。
ししおどし、小さな枯山水や本物の池、松や他の樹木、飛び石に石灯籠……月明かりに淡く照らされた日本庭園は、何か遺産として認定されていそうな雰囲気を醸し出している。苔むした岩々も、侘び寂びがいまいち分からない左京でも風流だと思った。飛び石の上を歩いていく。左京はとんとんと進んでいく。やがて玄関が見えてきた。肌寒い空気から逃れたくて、少し足が早まる。
「あ……すみません、そこの方」
細い声。
どこだろうと見回して見ると、もう一度「すみません」と聞こえた。女性の声だ。足を進めながら探してみると、玄関の前、石畳の先にあの竹の門に人影がひとつ。月明かりの下にぼぅ、と浮かび上がるような白い女性だった。墨のような黒髪を胸元まで流し、真っ白なワンピースを着ている。細い脚は何も纏わず、裸足が痛々しい。整った顔は青ざめ、何か恐ろしいものでも見たかのように歪んでいる。
「どうしたんですか?」
「あの……怖い妖怪に襲われて、慌てて逃げて来たんです……ここには追ってきてないようなんですけど、私、怖くて……」
「そうなんですか!じゃあ早く入ってください、祓い屋を呼んできますから!」
「あ……私、怖くて……足、動かなくて……」
見れば細い脚が震えている。よほど怖い思いをしたのだろう。屋内から裸足で逃げて来たのか、脱ぎ物が途中で脱げてしまったか……どちらにせよ、早急な保護と対応が必要だ。今日からとは言われていないが、バイトとして公認されている身なのだから、客を玄関に上げるくらいの案内は許されるだろう。
「手を、引いていただけますか……?そうしたら、歩ける気がします……」
「はい、分かりました。もう大丈夫ですよ」
左京は女性を安心させるよう微笑んで、優しい声音を意識した。駆け寄って、手を伸ばした。自分も同じ経験をした身だ、どれほど怖い思いをしたか想像に難くない。早く安堵してほしいと、左京はそれだけを考えていた。女性は震える手をゆっくりと伸ばした。白く華奢な手が、左京の手を握って───左京の腕がすごい力で引っ張られた。引かれるがまま、左京は抗う暇すらなく門の外へ倒れた。
おかしい。
倒れた左京は瞬間的に危険を察知し、慌てて門内に戻ろうとしたが、何かが身体に巻きついて圧迫した。足が空を切る。身動きが出来ないまま、首だけを動かして振り向くと、そこにはおぞましいものがあった。
───鬼。
その言葉にピッタリと当てはまるような、恐怖を煽るような形相、頭から生えた2本の角、肌は真っ赤で、憤怒を全身で表しているようだ。口から生えた凶暴な牙は肉食獣を彷彿とさせる。
「う、ああああああああああ!!」
自分が叫んだのは分かったが、左京には全くの無意識なことだった。巻きついていたのがこの鬼の巨大な左手だと気づくことも出来ず、目を見開いて叫ぶことしか出来ない。腕ごと鬼の手に捕まり、出来る抵抗といえば脚をばたつかせるくらいしかない。
「お前が“蠱毒の贄”か」
「な、なに……が……!?」
地の底から這い出でるような、低い声。唸り声かと思ったそれは、確かに人の、日本の言語と同じものを用いていた。その言葉は、問いというよりは確認に近いニュアンスをはらんでいる。
左京がひりつく喉を震わせて返すものの、鬼はクックッと喉を鳴らして嗤うだけだ。もちろん左京は“コドクのニエ”などという名前や異名はないし、そんな言葉を聞いたこともない。丸太のような指が更に左京を圧迫する。左京の肺から絞り出されるような息が漏れる。呼吸がままならない。助けを呼ぼうにも、息苦しさでまともに発声出来ない。
「肉は少なそうだが……コレさえ食えば万の何者にも勝る力が手に入るというのだから、随分と粗末な贄だ」
「食う……っ!?に、贄って……ど、ぅ、いう……!?」
「これで憎き祓い屋どもを皆殺しに出来るというものだ、はははははは!」
何が何だか一欠片も状況把握出来ないが、鬼が自分を食べようとしているのは言葉の端々からかろうじて理解出来た。あの大きな口、象牙のような太い残酷な牙を見るからに、成人男性1人食べることなど造作もないだろう。
抵抗するが、やはり脚を動かすくらいしか叶わず、身を捩ろうとも状況が好転する可能性は無いに等しかった。強張る全身の筋肉の力は戦慄しているからか充分な力を発揮せず、それはどこか諦観しているとさえ錯覚する。
「京ッ!!」
声に振り向くと、下方に三木が日本刀を持って立っていた。日本刀が淡くも鋭い反射光を返している。大きかったはずの三木が自分の足の更に下にある。結構な高さまで持ち上げられているようだ。慄然としていた左京も、三木の姿を見て心に僅かな光が生まれる。妖や霊関連の厄介事を解決してくれる祓い屋が、日本刀という頼もしい武器を持っている。鬼を前に言うのもおかしいが、まさに“鬼に金棒”だ。
「た……っ、助けてください……っ」
「待ってろ、すぐに───」
「あの三木家の祓い屋と言えど、貴様のような“負け犬”に負けることはない!」
ゆっくりと鬼の腕が振り上げられる。高々と掲げられた巨大な岩のような右の拳。あんなものに当たればただではすまないだろう。三木は変わらず左京の頭上を睨めつけている。
ぶん、と風を切る音とともに、拳が三木に振り下ろされる。彼に迫る暴力の塊に、思わず左京は目を瞑った。
ゴッ、と鈍い衝突音。
少し間があって何かが壊れる不快な音。
胸を圧迫する不安感と恐怖。堅い瞼を臆しながらもゆっくりと開く。状況を飲み込もうとして、顔を振るって見回した。次第に輪郭を捉えた左京は、喉の奥にまでせりあげてきた声すら上げられなかった。喉につっかえているものが物理的なもののように、左京の感情が口から発せられるのを拒む。目の前の現実が信じられなかった───信じたくなかった。
「ぁ……み、三木、さ……」
門が壊れており、竹垣の一部も崩れている。左京から見て左方向、その下方、石灯籠が倒れていた。そしてその傍らに、見知った紺の着物。腰から下しか見えていないが、乱れた紺の裾から覗く脚が力なく投げ出されていた。それが三木のものであると理解するに難くなかった。
「はははは!吾が見えぬ木偶の坊など、恐るるに足らず!」
鬼の嗤う声が遠のく。目の前が真っ暗になっている感覚なのに、三木が倒れている姿ははっきりと視認出来る。鬼の声はすぐ近くにあるはずなのに、どこか遠くの地響きに聞こえる。
三木は、彼は、腕の立つ祓い屋のはずだ。
それが、何故?
何故、彼は倒れている?
混乱する頭は疑問ばかり廻転させている。答えなど出るはずもないのに、延々と自問している。その廻転を無意味と気付かぬままに左京は慄く。自分の生が果てを見せる。その予感が脳から全身に毒のように広がっていく。
死にたくはない、死んでなるものか。
再び抗うが、やはり事態が好転することはない。
「邪魔者も消えたことだ、さて……」
左京の身体がぐわん、と揺れる。鬼の顔が左京のすぐ目の前にある。すぐ目の前で食事を期待した口が舌なめずりをした。
死にたくない、死んでなるものか。
ばたつく脚が、次第に絶望で弛緩していく。
大口が開かれる。絞首台にも底なし沼にも見える、残酷な大穴。
「あ……あ、あああああああああ!!」
「左京くんっ!」
ボン、という爆発音。同時にぐらり、と鬼が傾いた。左京は鬼に握られたままに振り回される。ジェットコースターよりもずっと死に近い震盪。頭の中がスムージーにでもなりそうだ。目を瞑り、どうにか耐え切ると、再び爆発音と衝撃。今度は鬼からの圧迫が緩んだ。左京はどうにか身を捩り、全身の筋肉を総動員して指の檻から抜け出した。地面への落下を想定して受け身の体勢をとった。それと同時に地面に衝突した。落下の衝撃で接地した右半身が痛むが、骨折や捻挫などの重傷はどうにか免れたようだ。痛みに奥歯を噛み締めながら、這うように鬼から離れる。その間も爆発音が少しの間を置きながら続いていた。頭を庇いながら少し顔を上げると、淡いピンクのネグリジェを着た武蔵が鬼と対峙している。彼女の手からは白い紙のようなものが飛び出し、一直線に鬼へと向かっている。白い紙が鬼に触れた途端、爆発が起きている。先程からの爆発音と衝撃はあれなのだろう。
「む……っ、武蔵さん……!!」
「左京君!大丈夫!?」
「なんとか大丈夫です!でも、三木さんが……!!」
「三木をよろしく!こっちは私がなんとかするから!」
「は、はいっ」
左京は低姿勢を保ったまま三木へと駆け寄る。石灯籠で隠れていた彼の上半身は、仰向けになっており、額からの出血がまず視界に飛び込んできた。はだけた胸元には倒れた石灯籠の欠片が散らばり、痣が浮かび上がっている。呼吸はある。
「三木さんっ、起きてください、三木さん!」
「っ、ぐ……」
呻きながら、三木の瞼がピクリと動く。二、三度強く顰められた瞼が重々しく開く。揺れる黒目がゆっくりと左京を捉えた。
「かなど、め……」
「大丈夫ですか!?今、武蔵さんが鬼と戦ってて……っ」
左京の言葉に上半身を起こした三木は、すぐに顔を歪ませた。頭部からの出血は顎まで滴り、着物を僅かに濡らしている。動かすのは危険だと分かっているが、鬼という脅威から逃れなければならない。左京は三木の脇に身体を滑り込ませ、どうにか移動しようと試みる。三木の体格故か、左京の筋力不足か、動かすのにはかなり力が要りそうだ。三木は左京のその努力を腕で払うと、辺りを見回した。
「おい、脇差……脇差はどこだ!?」
「脇差って何ですか!?」
「刀だ、俺が持ってた刀!」
「えっと、あれ、どこだ……!?」
左京も前後左右に首を振って刀の行方を探す。倒れた石灯籠の向こうを覗き込むと、黒く濡れた脇差が転がっていた。柄を握りしめて「ありました!」と三木に掲げた。思っていたよりもそれは重かった。濡れた刀身に血を連想し、これが傷つけるものであることをまざまざと思い知らされる。それを持つのも、負傷した三木に手渡すのも恐ろしかったが、三木に手を伸ばされて思わず渡してしまった。三木は刀身に触れ、手に付いた黒を指で擦った。
「くっそ、痛ぇ……だが、血は付いたな……」
「三木さん、とにかく今は退いて───」
「馬鹿か、祓い屋が逃げてどうする」
左京の手を借りながら立ち上がると、三木は刀に付いた黒い液体を確認する。三木がこれを血だと言っていた。この墨汁のようなものが血……鬼の血ということなのだろうか。三木は刀の切っ先を鬼のいる方へと向ける。未だ武蔵による爆撃は続いている。鬼には大したダメージはないようで、武蔵へ反撃に出ている。武蔵は身軽に鬼からの攻撃を避けながら応戦している。見ていて時間の問題だと思わせる戦況だ。
「おい、京」
「はいっ」
「奴がいるのは“あそこ”だな?」
「……え?」
「武蔵が攻撃している、“あっちの方向”にいるんだな?」
「え、あ……はい、そうです!」
「よし」
三木が刀を持ったまま右腕を後ろへ仰け反らせる。そして全身の力を以て前方へ投擲した。三木の身体が一瞬膨らんだかのような力強い投擲。槍投げの選手を思わせるフォームで放たれた脇差は、見事鬼の左側腹部に突き刺さった。鬼が咆哮する。その間も武蔵の爆撃は一定の間隔で鬼を襲う。
「脇差はどこに当たった?」
「どこって……見ての通り腹に当たってるじゃないですか!」
「腹……左右どっちだ?」
「えっと……あ、左、左です!」
「そうか。よし、小百合、柚子彦、持ってきたか」
どこからか、何かを叩く音が2回が聞こえた。
「よし、貸せ」
三木の言葉に応えて、鬼から隠れるように縁側の隅に隠れていた小さな2つの影が駆け寄ってくる。小百合と柚子彦はそれぞれその両手に弓と矢を抱えている。
小百合から弓、柚子彦から矢を1本だけ受け取ると、三木は懐に手を突っ込んで1枚の紙を取り出した。紙に黒い液体を付け、矢に器用に結びつけると、三木は矢を弦に番えながら声を張り上げた。
「武蔵!そいつの右肩を攻撃しろ!」
武蔵は返事こそしなかったものの、見事に右肩部に命中させた。鬼は少し身を仰け反らせただけで、すぐに体勢を立て直す。鬼が右の拳を振り上げる。またあの打撃だ。左京は三木が為す術なく吹き飛ばされたことを思い出して身を震わせた。武蔵の華奢な肢体ならば重傷となってもおかしくはない。
三木が弓を引く。弓は大きく撓み、ギリギリと音を立てる。いっぱいに引かれた弓。鏃は鬼の方向へと向いている。数秒、その状態が続く。早くしなければと焦る左京をよそに、三木は筋肉を隆起されて狙いを定めている。
弦が震え、独特な音を放つ。
矢は一直線に空気を裂く。
吸い込まれるように、鬼の胸元に矢が撃ち込まれる。その瞬間は瞬きよりも一瞬の出来事だった。矢は鬼と比べれば爪楊枝よりも脆弱だが、鬼は心臓を抉り出されたかのように叫び、もがき苦しんでいる。ふらふらと足をもつれさせる度に地が大きく揺れる。矢を抜こうと大きな手で矢に触れたとき───その大きな手が風船のように割れた。手の中に仕組まれていたものが爆ぜたように、鬼の手首から先が崩壊している。
「ヴあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ッッ!!!」
咆哮。鬼が暴れる度に周囲のものが破砕していく。地響きのような叫喚が次第に萎んでいく。鬼が、ぼろぼろと崩れていく。鬼の何もかもが地面に落ちては灰になり、あるいは落ちる前に灰になっていく。
「おい、奴は消えたか?」
「え……」
「消えたのか?」
「ま、まだです……今、身体が崩れていって……」
「そうか。完全に消えたら教えてくれ」
三木の言葉の数々に大きな引っかかりを感じながらも、左京は再び鬼の方へ視線を向けて、消え行く末を認める。さらさらと灰になる鬼が、何か呻いている。
「こ……ロす…………コろ、シてや……る…………」
呻き声に紛れて、恨み言が絞り出される。左京は突っ立ったまま、動けずにいた。あれを見れば、もう襲ってこないと判断しても間違いないだろう。それでも、その呻きが、恨み言が、呪詛として耳に流れ込んできては、五臓六腑、四肢五体、左京を形成する全てを蝕んでいく。
鬼の形がなくなり、灰が風に舞う様子を呆然と視認しながら、左京は力なく三木に返した。
「……完全に、消えました……」
「そうか」
三木は緊張させていた全身を弛緩させ、ゆっくりと息を吐いた。向こうから武蔵が駆けて来る。脅威が去ったのだと分かっていても、左京は鬼のいた場所を慄然と見つめることしか出来なかった。
───────
夕食を摂ったあの部屋で、左京は人形のようにだらりと座っていた。自重に頼った座位は、少しでも他者から力を加えられてしまえば容易に倒れてしまいそうだ。
向かいには三木が、武蔵に手当てをされている。手当てと言っても、この後再度入浴するとのことで、消毒のみが施されている。胡座をかいて堂々としているものの、額の傷が痛々しい。
やがて消毒を終えた武蔵が三木の傍らに正座すると、彼は小さく息を吐いた。疲労ともやるせなさとも気まずさともとれるため息だった。彼から切り出させるのは申し訳なく、左京は自ら重い口を開いた。
「三木さん……あの鬼、見えなかったんですか……?」
正直信じられないことだった。
そして求知心を擽られたことだった。
三木は鬼の場所を何度も左京に確認していた。振り返れば、最初から鬼の言葉に応えることも、鬼の動作に反応することもなかった。思えば、彼の瞳は最後まで、正確に鬼を捉えていなかったように左京の目には映った。
「……ああ。俺には、妖も霊も見えない。声も聞こえない」
一瞬の逡巡の後の答えは、ハッキリとした言葉だった。後ろめたさなどそこになく、ただ事実を告げている、そんな口調だ。
左京は信じられないと武蔵の方にも視線を向けるが、武蔵は俯いて小さく頷くだけだ。
「妖や霊、人ならざるものを相手にする祓い屋が、そいつらが見えないなんて阿呆らしいと思うだろ?だが、本当だ。お前もその目で見ただろ?」
「……はい、見ました」
「ならこれ以上は語ることは無い。目も耳も役に立たない祓い屋が不満なら、他の祓い屋を紹介してやらないこともないが───」
「私が悪いの」
暗い声が三木の言葉を遮った。見れば武蔵は俯いたままだ。視線を集めてもなお項垂れたままに、彼女は続けた。
「私のせいで、三木は鬼に名前を奪われたの」
「名前を……?」
「祓い屋だとか怪異の界隈ではね、表の……人が普通に暮らしている側よりも、名前がずっと重要なの。名前を奪ったり知ったりすることで、対象を支配したり、力を奪ったり、封印したり……つまり、名前……本名はこちら側では“弱み”なの。だから大抵、こちら側では皆苗字だけか偽名を名乗ってるの。私のだって偽名だよ」
「ということは……三木さんは、鬼に名前を奪われて、妖達を見たり聞いたり出来なくなったってことですか?」
「……そう。私のせい。私があのとき、三木の名前を呼んだから───」
バシ、と武蔵の頭が叩かれた。三木の手はそのまま武蔵の頭を粗雑に撫でた。わしゃわしゃと乱れていく髪を気に留めず、武蔵は俯いたままだ。
「そのことはもういいって言ってるだろ。そもそも俺の力が足りていれば、あんな状況にはならなかった。俺の未熟さが起こしたことだ、これ以上蒸し返すな」
「でも」
「次に蒸し返したら稽古つけてやらねぇし、こっから追い出す」
「……分かった」
一度も顔を上げぬままに武蔵はそう力なく零した。三木は武蔵の頭から手を離すと、ガシガシと自分の頭を掻いた。
「まあ、そういうことだ、京。今の俺は霊力が全く無い。怪異には触れるが、見たり聞いたりは出来ない。まあ、妖人体くらいなら見聞き出来る」
「ようじんたい?」
「……武蔵、これは一応説明すべきか?」
「ここでバイトしてもらうなら、話すべきだと思う」
「……京、どうする?こんな木偶の坊な祓い屋の下でもバイトするって言うんなら、妖人体については今ここで説明する。もし別の祓い屋を望むなら、妖人体の説明はその引き継ぎ先の祓い屋に任せる」
「……俺は、ここで働いて、三木さんや武蔵さんを頼りたいです。可能性を信じたい……そう思わせてくれたのは三木さんですから」
「そうか」
三木は目を細めた。笑っているようにも、左京という人間を見極めているようにも見える。しばらくそうした後、三木は腕を組んだ。袖から覗く彼の右手首には痣が見える。
「妖人体ってのは、妖の人の姿だ」
「……ん?妖の、人の姿?妖は妖ですよね?」
「妖はほとんどが、それぞれ人間としての姿を持っている。人間に化けてるって言った方が分かるか?」
「……分かる、ような……?」
「例えば、前にお前を襲ったっていう、ろくろ首。普通にろくろ首が歩いていたら怪しすぎるだろ?」
「そうですね。すぐに噂というか、目撃情報が広がりますし……」
「そのろくろ首が人間の普通の女に化けていたら?」
「それは怖くないし、怪しいとも思いませんよ。……あ、つまりはそういうことですか?」
「簡単に言えば、そういうことだ。人間の世界に上手く擬態してるわけだ。お前の通う大学の講義……その中にも妖がいるかもしれない。だが、見た目にはそれは分からない。それが妖人体だ。妖人体なら、霊力関係なく、人間として感知出来る」
「え、そんな……身近に妖怪がいるなんて……」
「まあ、そんな風にパニックにならないよう、妖人体については祓い屋界隈やその関係者、怪異に関わる者達の中で秘められている」
「なるほど……三木さんは、怪異は感知出来ないけど、怪異が人間の姿に化けていれば感知出来るんですね」
「そういうことだ」
「そんな状態で、どうやって怪異に立ち向かうんですか?」
「昔に書いて貯めておいた札を使っている。書いた際に霊力を込めたから、今の俺でも使える。まあ、大抵は武蔵に任せるんだが、それだけじゃ足りないときにその札を使う。……ああ、もうこんな時間か。風呂に入って寝るか。京、お前は?」
「あ、じゃあ、俺も」
「私ももっかい入ろうかな。疲れたぁ」
それぞれが思い思いに身体を伸ばし、ほぐしながら立ち上がる。自覚すると疲労がどっと押し寄せてくる。恐怖はだいぶ拭えたが、それでも思い出すと身震いした。す、と静かに障子が開いて、小さな顔が2つ覗かせる。小百合と柚子彦が、障子に近い左京の脚をつついた。
「あ、小百合ちゃんと柚子彦君。どうしたの?」
「さきょーくん、大丈夫?」
「大丈夫?」
「あぁ、うん、大丈夫。三木さんと武蔵さんのおかげ。それに、小百合ちゃんと柚子彦君が2人のお手伝いをしてくれたおかげだよ。ありがとう」
「えへへ」
「怖かったけど、頑張ったよ」
「うん、ありがとう」
「ね、ね。皆どこ行くの?」
「お出かけ?」
「今からお風呂に入るんだよ」
「私も入るー!」
「僕もー!」
「じゃあ、小百合は私と一緒に入ろっか。左京君、柚子彦のことお願いしていい?」
「はい、分かりました……あ、そういえば三木さん」
左京は思いついて三木へと振り返る。彼は既に立ち上がり、箪笥の上に置かれた紙を手にしていた。真っ白な紙の上の、墨で書かれた何かの模様と文字らしきもの。あれが“札”というものだろうか。
「今の小百合ちゃんと柚子彦君が見えないのなら、2人に妖人体になってもらえばコミュニケーションが取れるんですよね?」
「ああ。だが、妖人体になるときに使う体力や妖力には個体差がある。チビ達はすぐに疲れるから妖人体にさせていない」
「そうだったんですか」
「それにね、左京君。今の小百合と柚子彦の姿が子供だからといって、妖人体も子供だとは限らないの。女性の怪異が男性の妖人体になることもあるし、その逆もあるんだよ」
「えっ、そうなんですか?じゃあ、2人の妖人体ってどんな姿なんですか?」
「さきょーくん、気になる?」
「気になるの?」
「うん、気になる」
「でも内緒ー」
「教えなーい」
「えぇ。残念」
左京が少しオーバーにガッカリしてみせると、小百合と柚子彦はからからと笑った。それが嬉しくて、左京も思わず笑みを零した。
左京はねだられるままに柚子彦を抱き上げて、三木とともに風呂場へ向かう。既に案内してもらったはずだからか見覚えは多少あるが、あまりピンとはこない。三木の足取りは先刻の案内のときと変わらない。怪我の方は大丈夫なのだろうか、左京は視線を落とす。
「どうしたの、さきょーくん」
「ううん、何でもないよ」
「ふーん……ね、さきょーくんも頭の輪っか使わないで頭洗える?」
「頭の輪っか……三木さん、頭の輪っかって分かります?」
「頭の輪?なんだそりゃ」
「よく分からないんですけど、柚子彦君が頭洗うとき使うみたいです」
「……シャンプーハットだな」
「ああ、なるほど。俺は使わないで洗えるよ。柚子彦君は使うんだね」
「うん。ミキちゃんも使わないんだよ。大人だねぇ」
「柚子彦君もシャンプーハット卒業したいの?」
「うん。そしたら大人みたいでしょ?でも、上手く出来なくて、目に入っちゃうの」
「そっか……そしたら、俺が洗うの手伝おうか?」
「ほんと!?あっ、やっぱり、手伝うんじゃなくてさきょーくんが洗って!」
「うん、いいよ」
「やったぁ!久しぶりに頭わしゃーってしてもらえる!」
「久しぶり……?あ、三木さんに洗ってもらったことあるのか」
「うん!ミキちゃんが僕らを見えなくなる前だから……たぶん、10年以上前くらいかな?」
「10年以上……?柚子彦君って何歳……?それに、三木さんって何歳……?」
「29だ。小百合と柚子彦はうちの家にずっと憑いてた座敷童子だからな、かれこれ300年以上じゃないか?たぶん、戦国時代の頃にはもう生まれてたはずだ」
「戦国時代!?」
「えへへ。こう見えてもおじいちゃんなんだよ。でも見た目も中身もずーっとこのままなの。小百合は小百合のままだし、僕は僕のままだよ」
ニコニコと笑う柚子彦。悠久の刻を過ごしてきたとは思えぬ、屈託のない笑顔だ。つられて笑みが零れた。
風呂場、脱衣場に着くと、並んで衣服を脱いだ。視界の端に映った強健な肉体に、思わず視線をそっと彼へと視線を向ける。他人の裸体を見るのはどうかと思ったが、その鍛え上げられた肉体は何か見えない力を持って目を引いている。血色の良い肌の起伏は、同じ男として憧れるものがある。身体のあちこちに傷痕が残っている。先程の戦闘時のものと思わしき新しい傷の他に、治りかけのものや、肌の色が褪せた古い痕がある。
「なんだ」
「えっ、あ、いえ……その、逞しいな、って……」
「そうか。京はもっと鍛えた方が良さそうだな」
「う……腹筋とか、腕立て伏せあたりから始めようかな……ここでお世話になるわけだし、足手まといにならないようにしないと……」
「お、やる気か?なら少し祓術を学んでみるか?」
「はらえじゅつ……ってなんですか?」
「分かりやすく言うなら、祓術は怪異を倒したり、穢れを清めたりする術だ。厳密には色々と分類があるんだが、まあそこはいいだろ」
「俺でも出来るんですか?」
「才能次第、霊力次第だ。才能や霊力があっても努力次第。お前は……まあ、才能はともかく、お前は霊力どころか妖力も持っているからな、基礎的な能力は申し分ない」
「もしかして俺、妖をたくさん食べたから妖の力とか使えたり……?」
「鶏肉を食べても飛べないだろ」
「……それもそうですね」
妖を食べたことはおぞましい事実だが、それが何かの役に立てば救われる気がした。結局ただ食べただけだと知り、少なからず落胆した。
ガラ、と引き戸が開かれ、三木が浴場に入っていく。それについて行く柚子彦。開いた引き戸を小走りでくぐろうとしたが。
「あ、柚子彦君危ない、止まってっ」
三木が引き戸を後ろ手に閉めてしまい、左京の制止虚しく柚子彦は引き戸に衝突してしまった。柚子彦が屈んで額をさすっていると、再び引き戸が開いた。三木は膝をついて屈んで、申し訳なさそうに眉根を下げた。
「悪い、柚子彦。大丈夫か?」
「うん、大丈夫……」
「大丈夫だそうです」
「そうか……ごめんな、これからは気をつける」
「……ごめんなさいしてくれたからいいよ」
「許してくれるそうですよ」
「ありがとうな。お詫びに今度望月屋の大福買ってきてやるからな」
「やったぁ!小百合の分も買ってね!」
「小百合ちゃんの分もって言ってますよ」
「ああ、もちろんだ。柚子彦と小百合は何でも一緒だもんな」
三木の顔はとても優しかった。雄々しい顔は優しい眼差しに和らぎ、彼の無愛想が少し綻んだ。子供の扱いに慣れているようだ。廊下で話を聞いた限りだと、彼は柚子彦達と長い付き合いらしい。それが理由だろうか。
左京も柚子彦に続いて浴場に足を踏み入れる。本日2度目だが、やはりここが住居内の風呂場とは思えない。
三木が腰掛けるバスチェアの隣には、既に柚子彦が座っている。左京は柚子彦の隣に腰を下ろして洗面器にお湯を張った。
「ね、さきょーくん、頭洗って!」
「うん、そうだね、先に洗っちゃおうか」
バスチェアを柚子彦の後ろに移動させて、シャワーを手に取った。鏡を見ると、柚子彦がぎゅ、と目を強く瞑っている。なんだかそれが可愛らしくて、左京は思わず吹き出した。
「じゃあ、柚子彦君。上を向いて」
「上?」
柚子彦が目を瞑ったまま上を向くと、左京はシャワーの温度を確かめる。熱すぎず、かといって温いわけでもない。左京は柚子彦の前髪を掻き上げて、その生え際の少し下を手で押さえながらシャワーで髪を濡らしていく。手がシャワーの湯を堰き止め、柚子彦の顔は濡れずに済む。全体的に髪が濡れたのを確認すると、髪を軽く絞った。シャワーを止め、シャンプーを手のひらに2プッシュして「もう顔下げて大丈夫だよ」と髪にシャンプーを馴染ませ始めた。最初は後頭部に、そして側頭部、頭頂部、そして前頭部……少しずつ泡立ちを広げていく。
「今のこの状況、三木さんにはどんな風に見えてます?」
「泡が浮いてるように見える。にしても手馴れてるな」
「年の離れた弟がいるので、よくこうして洗ってやってました。あぁ、でも、弟っていうより、猫を思い出すなぁ。柚子彦君、猫っ毛だから」
「猫飼ってるのか」
「あぁ、いえ。だいぶ前に猫を拾ったんですよ。首輪のない、たぶん野良猫で……怪我してたので放っておけなくて、動物病院に連れて行ったんです。それから新しい飼い主を見つけるまで飼ってました。1週間くらいですけど。白猫ですごく可愛くてよく懐いてくれて……でも、結局その新しい飼い主のとこからも逃げちゃったみたいで」
「随分お人好しというか、優しすぎるとこがあるんだな。ほどほどにしておけよ、いつか後悔することがあるかもしれないからな」
「後悔することなんてあるんですかね……?」
「あるかもしれないだろ」
ぶっきらぼうに言われたその言葉に、左京は頷かなかった。他者に親切にして後悔することなどあるのだろうか。むしろ親切にしなかったことで、自責や後悔が生まれるのではないのだろうか。心根の優しい善人の左京には、三木の言葉は青天の霹靂だった。
柚子彦の髪をまんべんなく洗えたようなので、再度柚子彦に上を向かせ、シャワーで流してやる。後頭部や側頭部など、前頭部を避けて流すと、しゅわしゅわと泡が溶けて流れ落ちていく。最後に残った前頭部の泡は、額の生え際に手を当てて湯を堰き止めながら流した。結果、柚子彦の顔は数筋の湯が垂れて濡れていたが、目に入ってしまう事態は免れていた。柚子彦は嬉しそうに左京に礼を言うと、次はリンスをねだった。姉の影響でコンディショナーやトリートメントを使っていた左京には、リンスと書かれた容器が懐かしく思えた。
両親は大きな病気ひとつなく健在で、姉は既に社会人として実家を離れている。自分も実家から出て一人暮らしをしている。時々電話をする弟もまた元気そうで、楽しそうにその日の出来事や学校での流行りを話してくれる。他の家族の事情は知らないが、京家は大きな喧嘩はなく、子供達が非行に走ることもなく、平和に続いている。家庭円満を絵に描いたような家族だ。姉の方の頻度は耳にしていないが、左京は定期的に連絡をしたり実家に帰ったりしている。
しばらく、それも難しそうだ。
実家に帰れば、自分の身に起きている不運な状況に家族が巻き込まれてしまうかもしれない。
電話をしても、「元気だよ」「何も心配ないよ」などという小さな嘘が心に靄を生む。
電話くらいなら大丈夫かもしれないが、実家に帰るのも、家族に会うのも今は避けた方がいいだろう。
「よし、リンスも終わったよ。身体は自分で洗ってね」
笑顔で頷く幼い子供が、弟の幼少期と重なって、少し寂しくなった。
───────
三木に案内されたのはトイレの近くの部屋だった。近くと言っても、一度廊下の交差点を曲がり、部屋5つ分くらい直進して行くような距離だ。夜中手洗いに立つ際に迷わないと、この配置の部屋が選ばれたとのことだ。三木や武蔵の部屋の近くは書斎や物置などが多いらしく、その辺りで空いていて掃除も行き届いている部屋は今はないと三木が言っていた。
布団の傍のベッドサイドランプの暖かな光の先に静かな夜闇が広がっている。ここ最近はその闇が恐ろしかった。あの異形の何かが闇から現れ出るのではないか、そして自分をどうにかしてしまうのだろうか、そんなことが頭を占拠して眠気を奪い取った。別れ際に、庵の屋内なら襲われる心配はない、大丈夫だ、と三木が言ってくれた。門に魔除けの札が貼ってあり、悪しきものはこの庵には入れないらしい。先程は門が壊れ、札が破けた為鬼の侵入を許したが、今は新しい札を貼ったそうだ。その言葉の数々にどれほど救われたか……その喜びと安堵は計り知れない。
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