蠱毒の贄は夢を見る

庭坂なお

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31話

“彼女”は影から現れた。
七緒の前方の影から、すぅ、と影が浮かび上がったと思うと、それは人型となり、宙に浮く美しい女となった。
腰まで伸びた黒髪は艶やかで、褐色の肌を包むのはからすのように黒い長袖のワンピース。膝丈よりも長い裾をひるがえし、彼女は七緒の背後に回った。するりと七緒の両肩を抱き締め、妖艶に笑う。

「ようやくんでくれた……ずっと待っていたのよ?」

耳元で囁かれた鈴の音のような美しい声が、七緒の耳朶をくすぐる。七緒は抱き締める腕に自らの手を重ねて笑う。

「いやぁ、ごめんね。いつも鈴雪や風音で充分間に合うから」
「私の前で他の誰かの話はやめて」

冷たい牽制けんせいに、七緒は「ごめんね」と笑う。その笑顔に彼女は抱き締める力を強くする。幸せそうに心地よさそうに、彼女は七緒に頬ずりし、笑う。

「ねぇ、夏生なつお。私のこと喚んだってことは……私が必要なんでしょう?」
「そうだね、鏡花きょうかの力を借りたいんだ」

鏡花と呼ばれた女性は笑みを深くすると、ふわりと浮き上がって上から七緒の顔を覗き込む。逆さまに合う視線に、鏡花は満足そうだ。

「私は何をすればいい?夏生の為なら何だってするわ。だって夏生を愛しているんですもの。ねぇ、夏生……夏生は私を愛してる?」

その問いに、七緒は目を閉じる。
彼が本当に愛しているのは鈴雪だ。
しかし、鏡花の力を借りるには、彼女の望む答えを返さなければならない。つまりは『鏡花を愛しているよ』と。
七緒は覚悟を決めて目を開く。
答えを期待して爛々と輝く狂気の瞳が映る。

「オレは───」

言いかけて、逆さまの額に唇を寄せた。唇を離して視線がぶつかると、彼女の目が煌々と瞬いていた。もう、後戻りは出来ない。

「オレは、鈴雪を愛してる」

まっすぐに見つめると、驚いて丸くなった瞳が徐々に嫉妬と嗔恚しんいの炎が揺らめいて大きくなっていくのが分かった。

「でもね、鏡花。鏡花も大切だよ。家族として、愛してるんだ。鈴雪も風音も家の者も三木も武蔵ちゃんも少年も、皆……皆大切な人だ。その大切な人達を守る為に力を借りたい。だから───」
「そう、そうなのね」

鏡花が笑う。喜びの微笑でも怒りの狂笑でもなく、ただただ彼女は笑う。そして何もかもが分かったかのように頷いた。

鈴雪を殺せばいいのね・・・・・・・・・・

七緒の身体がこわばった。
真実を告げれば受け入れてくれると思っていた。
真摯に『君も大切だ』と伝えれば理解してくれると思っていた。
七緒は彼女の狂気をまだ全ては理解していなかった。鏡花との出会いは鈴雪よりも早いが、子供の頃に一度力を借りたきり。そのとき強力で狂気的な力を前に、鈴雪という新たな妖を使役して鏡花を喚ばなくなったのだ。
鏡花は両手で七緒の頬を包み、続ける。

「鈴雪だけじゃない。風音も家の人間も他の人間も妖も、全員殺せばいいのね。そうすれば、私は夏生の唯一になれる。そうでしょう?」
「違うよ、鏡花。そうしなくても鏡花はオレの大切な家族───」
「家族なんて関係は嫌。私は夏生の唯一の関係になりたいの。だから、殺すわ。全てを殺すの。だって、守りたいのよ、この『大好き』を」

狂気的な光を灯した瞳が煌めいて七緒を映す。
純粋な殺意だった。
自分の望むものの為に、手段として殺す。
寵愛を受けるだけの為に、ツールとして殺す。
その盲目的な愛は小玖哉のそれと変わらないようにも見えるが、相思相愛を信じてやまない小玖哉とは違い、相手の愛を受けるまで殺戮を終えないような無慈悲さを持つのが鏡花の愛だ。
鏡花は笑う。笑って、笑って、笑って、唯一愛する者の前で、自分が一番美しく見える表情を浮かべ続ける。

「鈴雪はどこ?風音はどこ?家の人間や他の人間や妖はどこ?まずは鈴雪よね?だってそいつが一番貴方に愛されているんでしょう?八つ裂きにしても足りないわ。存在が塵芥ちりあくたほども残るのも許せない。この世から消し去って───」

そのとき鏡花の向こう側で、バチン、と何かが弾ける音がした。小玖哉の攻撃を鏡花が何かを使って防いだのだと七緒が気づくと同時に、鏡花は顔を上げて七緒の隣にふわりと移動する。

「ねぇ、あいつが鈴雪?」

小玖哉に視線を向けた鏡花が笑みを消して問う。小玖哉の涼し気な敵意に対して、鏡花の敵意は命を絡め取る炎のような性質だ。

「違うよ、あいつは小玖哉。オレが祓いたい……いや、殺したい相手だよ」

「そう」と答えると、鏡花の影がゆらりと質量を持って浮かび上がった。炎が如く揺らめく影。鏡花だけでなく影すらも殺気を纏っている。

「僕を殺す?そんなこと出来るわけないよ。僕は神力を持っているんだ。ただの人間や妖が僕を殺せるわけない」
「あら、奇遇ね」

鏡花が口元に手を当ててくすくすと笑う。何が可笑おかしいのかと小玖哉が眉をひそめると、鏡花はその反応の答えを口にする。

私も持ってるの・・・・・・・神力・・





───────



夜叉やしゃ
それが彼女、鏡花だ。

インドの鬼神とされる夜叉だが、鏡花の生まれは少し違った。インドで生まれ、各国をあてもなく彷徨い、日本に行き着いた。
確かに鬼神としての力を持ち、先天的に神力を備えた存在ではある。だが、出自を純粋な鬼神“夜叉”と名乗るにも、少し差異があった。

彼女は影から生まれた。
神とは本来、信仰により生まれる。
神とは本来、神に選ばれ生まれる。
神とは本来、自然、深山幽谷しんざんゆうこくから生まれる。
鬼とはいえ神として数えられる鬼神である彼女の生まれは、他の天地神明てんちしんめいと比べて異質だったと言えよう。だが、影も自然の生み出すものの一種。それもまた神の生み出す神秘とも言えた。

影から生まれた彼女は人間を多く目にしてきた。
それは歓喜であり。
それは悲哀であり。
それは沈着であり。
それは狂気であり。
それは愛情であり。
それは憎悪であった。
人間の渦巻く感情に、彼女は考える。
───人間とは何か。
何百、何千の年月を経てもなお、その答えは見つからず、さりとて人間というものに飽きることもなかった鏡花は、ある夜、彼女にとって運命的で悲劇的な出会いを果たす。

ある女が、愛する男を殺した。

女は叫んでいた。
「愛している」「愛しているの」と。
女は刃物を振り下ろす。
愛する男の身体に深々と、何度も何度も。
鏡花にはそれが分からなかった。
愛ならばそれは“有”であり、死はどうしようもなく“無”である。愛という“有”を持ちながら、“無”を生み出すその行為が分からなかった。分からず、わからず、鏡花は女に問うてみた。

「どうして殺すの?愛しているのでしょう?」

女は涙を流しながら答える。

「愛してるの。どうしようもないくらい愛しているの。だから、誰にも奪われたくない……私だけのものにしたいから殺すのよ」

なるほど、奪われないように彼の何もかもを奪っておく。なるほど、これほど守るに長けたものはない。

鏡花はその瞬間から奪われたくないと思ったものは殺してきた───すなわち、全てを。
彼女は影から生まれた。
影は“すべて”と光から生まれる。
彼女にとっては“すべて”とは自分を生み出した愛しい存在である。それをいつか老いや破壊で失うよりは、自分が奪って守る方が良いと思ったのだ。
まずは答えた女を殺した。
それから見かけた人間全てを殺した。
自然にある木々や川のせせらぎを壊し、人間の造ったものや人間の営みを壊し、何もかもを奪った。それがどれほどまでに双方理解を隔てることかも知らぬまま、彼女はし続ける。その行為にどこか寂しさを感じながら。
そのうち彼女は七緒家が主導する100名の祓い屋による封印に身を鎮め、その後数百年を眠り続けた。





彼は七緒家に生まれた。

その才は4歳もすればその才を他に知らしめ、同年にして当時の老廊会から直々に稽古をつけてもらえるほどだった。
使役屋の強さ、才能はただひとつ、妖を従える霊力の強さに比例する。使役屋自身の霊力が高ければ高いほど、妖の攻撃的本能や狂気的衝動を抑えることが出来る。妖の性格や性質を変えるとまではいかないものの、主従関係を結ぶだけの理性に訴えかけることが出来るのだ。
彼は、霊力が高かった。そして正しく怪異の知識を得て、臨機応変な判断力、洞察力も持ち合わせていた。歴代の七緒家当主に敵わない部分もあったが、それでも当世の七緒家や十家には彼以上の使役屋はいないとされた。

彼の母親は他所よそで男を作って出ていった。彼の父親はそれを許そうとせず、見つけ出して殺してやるとまで息巻いていた。父親は妻が残した息子を認めることが出来なかった。あの母親なのだから、子である彼もまたどうしようもないクズなのだと身内にも他所にも言い回っていた。
実際には才ある真面目な子に育った彼に、父親は劣等感を抱いた。まだ幼いながら周囲を認めさせる言動を前に、その劣等感はふつふつと膨れ上がり、とうとう父親は超えてはいけない境界線を超えた。

すなわち、鬼神“鏡花”の封印解除。

実の息子に対しての嫌がらせ・・・・として、彼に鏡花を使役するように説いた。
それは途方もなく愚かな行為。
何百年と封印されてきた規格外の化け物を、ただの嫌がらせとして解き放とうとしたのだ。
彼は父親の思惑などつゆ知らず、その封印を解く。鈴雪に出会う僅か2ヶ月前、彼がまだ5歳のときの出来事だった。



そして、2人は巡り会う。



「貴方は……愛する人がいる?」

封印が解かれ、目を覚ました鏡花は開口一番に問う。目の前に立つ彼……七緒の名を継ぐ前の、夏生なつおという子供に。
夏生は震えた。子供ながらに分かる、目の前の女は恐ろしい存在だと。今まで見てきた並の妖は足元にも及ばないような妖力と神力、圧倒的な存在感、その場の重力を増幅させたような威圧感。それを前に、夏生は答えられないでいた。父親はとうに逃げた。自分も逃げなければと思うのに、身体は石のように動かない。

「ねぇ、聞いてる?」

鏡花はふわりと浮遊したまま屈み、夏生の両頬を両手で包み込んだ。夏生の頬に伝わる低い体温。それはまるで日陰のような僅かな温もりだ。夏生は震えたまま口を開いた。

「まだ、いない」

すると鏡花は小さな花のような微笑を浮かべて「そう」と答えた。その手に幼子おさなごの震えが伝わる。それはそうだ、自分は鬼神だ。殺戮と破壊を繰り返してきた自覚は彼女にもある。それを正しいか間違っているかなど考えたことはなかったが、殺戮と破壊が自分の愛する“もの”達への精一杯の愛だと考えていた。だから、彼女は目の前の子供すら殺そうとしていた。殺して、壊して、誰の手にも届かないところに大事に大事に守っていくのだ───それが寂しいと思いながらも、それが正しいのだと自分に言い聞かせて。
鏡花は両手をするりと夏生の首元に移動させる。少し力を入れるだけで折れてしまいそうな首が、唾を飲み込むことでごくん、と喉仏を上下させた。

「あ、あの……鏡花、は……なんで人を殺す、の……?」

夏生はおそるおそる問いかけた。
この封印を解く前に、父親からある程度、鬼神“鏡花”の話は聞いていた。大昔に殺戮と破壊の限りを尽くしたとされることしか代々伝えられた話が無かった為、夏生が聞いた話もそこまでだった。そんな中で、夏生という幼年の子はひとつの疑問を口にしたのだった。
鏡花は首にかけていた手を下ろして答えた。

「愛してるからよ」
「愛してるのに、殺すの?」
「愛してるから、殺すのよ」
「なんで?」
「守る為よ。だって、愛する“もの”がそのままいたら、誰かに奪われてしまうでしょう?だから、奪われる前に私が全部奪って守るの。それって、やっぱり“愛”でしょう?」

鏡花は狂気の色を添えて美しく微笑む。異性も同性もときめかせそうな微笑だが、そこにある狂気は心臓すらも凍てつかせる。夏生はそれを本能的かつ直感的にそれを察知しつつも、子供らしいと言えばらしい無邪気な好奇心を優先させた。

「殺しちゃったら、もうその愛する人には会えないよ。寂しくないの?」

その問いに、鏡花は目を丸くする。
考えてみればそうだ。愛して、壊して、殺して、その後は奪ったっきりで再会は果たせていない。それが寂しかったのか?それじゃない何かが寂しかったのか?
鏡花は混乱する。
愛とは奪うことではないのか?
奪っておくのは守ることではないのか?
この寂しさは正しいのか?
寂しいのは、愛の産物として間違っているのか?
愛とは、とどのつまりどういうものなのか?
疑問が次から次へと浮かび上がり、脳を埋めつくしていく。答えが出ないまま、鏡花は無意識に口を開く。

「じゃあ、“愛”って何かしら?」

夏生は2、3度まばたきをして、それから考える素振りを見せた。考えて、考えて、思いついたことを口にしてみる。

「『大好き』って言うこと……かな?言葉にしなきゃ、大好きな気持ちは伝わらないよ」
「大好き……」

鏡花はその言葉を反芻はんすうする。
考えたこともなかった。言葉にして伝える。今までやってこなかったことだ。
伝えたところで、一体何を守れるのだろう?
伝えたところで、奪われてしまうのではないか?
また疑問が浮かぶ。

「『大好き』って伝えても奪われてしまうわよ?どうやって守るの?」

夏生は考える。そして、答える───それが両親に与えられなかったものだと気づきながら。

「一緒にいれば守れるよ。『大好き』って言って、ずっと一緒にいて、それでもその人が誰かを好きになっちゃったら、『大好き』を大事にそぅっと守っておくんだよ、きっと」

鏡花にはその答えが衝撃的だった。
だって、あの殺人鬼のような女はそんなこと教えてくれなかった。『愛するから奪う』のだとしか教えてくれなかった。
『大好き』を伝える?
ずっと一緒にいる?
もし奪われたら『大好き』を守る?


そうしたら、もう寂しくない?


「……貴方、名前は?」
「夏生」
「そう、夏生……貴方が私のことを起こしたのね?」
「そうだよ。使役屋だから、使役する妖を探してたんだ。鏡花、僕と契約を結んでくれる?」
「ええ、いいわよ。貴方は私に愛を教えてくれた人。貴方を生涯、愛して、守って、『大好き』を大事にするわ、夏生」
「よろしくね、鏡花!」

差し出された手に、鏡花は笑顔で手を取る。握手なんて初めてだ。どうしてこれだけで満たされた気持ちになるのだろう。これが愛なのだろうか。ならば、誰にも奪われてはいけない。誰かに奪われないよう、愛して、守って、『大好き』を大事にして───そして、夏生を奪うもの、害するものを、徹底的に消し去るのだ。



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