蠱毒の贄は夢を見る

庭坂なお

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33話

「───てなことがあって。おじさんもうボロボロだよぉ」

槙野診療所の入院患者用ベッドで、七緒がへらりと笑って頭を搔く。その右目には医療用眼帯が付けられ、肌は血の気が薄い色をしている。
ベッドの傍らには三木、武蔵、左京、主治医のゆう、そして───

「よくもまあ笑って言えたものね?」

怒りを露わにした鈴雪がいた。皆が皆、七緒に言いたいことは山ほどあるが、凍えるような鈴雪の怒気の前に、誰も何も口にはしない。

「いや、でもさ、無事にちゃあんと生きてるわけだし」
「生きてるわけだし、じゃないわよ。鏡花をんだ挙句、右目を失ったですって?それは無事でもなんでもないのよ?分かっているの?」

淡々と責める鈴雪に、七緒は白い眼帯に触れて困ったように笑う。

「いや、でもさあ、あのときはああしなきゃ勝てなかったというか。まあ、結果として小玖哉の死体が見つからないのは、それはそれで問題だけどね。どこかでまだ生き延びてるかもしれないから、早く追撃といきたいところだけど───」
「ダメだよ、七緒君。今の君は霊力と体力のほとんどを消耗している。そんな状態じゃ歩けやしないし、使役なんて以ての外だ。使役妖の実力は使役屋本人の霊力に影響されることもあるんだ、今の君は完全にお荷物さ」
「お荷物、かぁ。初めて言われたよ、有ちゃん」

七緒はぽすん、と背中からベッドに倒れて大きく息を吐いた。相当疲労がきているようで、上体を少し起こしていただけで軽く肩で息をしている。
左京や武蔵は、先に鈴雪と三木から“鏡花”という鬼神のことは聞いていた。どれほど強力か、そしてどれほど狂気に囚われた存在か……話に聞くより、あの七緒がここまで消耗しているのを目の当たりにしてその恐ろしさを認識する。

「まあ、でもこんなになっちゃったけど、結果、鈴雪に看病してもらえるなら───」
『鈴雪?』

どこからか声が問いかけた。底冷えた怨念のような問いに、皆の背が氷を伝ったように震えた。
七緒とベッドの影から現れ出たのは漆黒の女性だった。褐色の肌に濡れ羽色の長髪、影の衣装。鏡花だ。鏡花は七緒に抱きついて鈴雪を見た。

「ねぇ、夏生なつお。この女が“鈴雪”?」

鏡花はじろりと鈴雪を見た。その目には嗔恚しんいと憎悪が光を灯している。その視線に、皆が気づく。この黒の女性が鏡花なのだと。鬼神である彼女が次の瞬間には何をしでかすのか、誰にも予想はつけられない。

「そうよ。貴女が鏡花?初めまして。よくも七緒から目を奪ってくれたわね」
「初めまして。羨ましい?ふふ、私と夏生だけが持つ素敵な宝物よ、うらやましいでしょう?」
「あら、羨ましがるのは貴女の方でしょう?私が七緒の最愛の存在なの。貴女じゃなくて、私がね」
「……殺すわ」
「やってみなさいよ」

バチバチと火花さえ見えそうな視線と敵意のぶつかり合い。次の瞬間には互いの命が削られる、そんな予感がするほどの殺意に当てられる中、七緒は間延びした声で2人をいさめた。

「こらこら、喧嘩しないの」

その一言でこの殺気を片付けようとする七緒の大物っぷりもることながら、彼の言葉で若干ながら2人の威圧感が収まるのもある意味では恐ろしいことだ。

「あぁ、皆、安心して。今の鏡花は神力は無いし、妖力も弱い。誰かに危害を加えたり、何かを壊したりする力は無いよ」

七緒が鏡花の頭を撫でながら断言する。鏡花は力を失ったこともそれを指摘されたことも気にする様子はなく、むしろ七緒のベッドで添い寝しようと布団を剥いでいた。

「神力が無い?妖力が弱まっているのは分かるが……神力を失っているっていうのは一体どういうことだ?」

三木が尋ねると、また小突き合いを始めた鈴雪と鏡花の額にそれぞれデコピンをしながら七緒が答える。

「小玖哉を殺す為にね、神力を圧縮してビーム状に収束、圧縮、発射したんだ。それも神力をあるだけ全部ね。その際に神力と一緒に小玖哉の血毒を放出したんだけど……血毒のせいで神力すら侵されていたから全部放出せざるを得なくなったんだよ。だから、神力を完全に失ったし、解毒も出来たし、鏡花は神性の無いただの妖になったのさ」
「じゃあ、以前の“鬼神”としての危険性は無いんだな?」
「うーん……妖力がどこまで回復するかは分からないし、思考回路は変わらないから、危ないと言っちゃ危ないかな。でも、ちゃんとおじさんの言葉を聞いてくれるから、たぶん大丈夫だよ」
「とりあえず鈴雪は殺すけど、いいわよね、夏生?」
「ダメだよ、仲良くしてね」

全く説得力の無いやり取りに、三木含め一同の不安が膨らむ。今は妖力すら弱まっているから危害性は無いとしても、これから妖力が回復したらどうなるか……七緒にはいずれ決断を迫ることになりそうだ。

「あぁ、でも七緒さんが生きててよかった……安心したらなんだか眠くなってきちゃいました」

左京が笑うと、有は七緒の隣のベッドの布団を剥いだ。真っ白でふかふかなベッドに、左京は目を擦る。

「ここで寝て構わないよ。蠱毒こどくにえは苦労が多そうだからね、ゆっくり休むといいさ」
「あ……じゃあ、お言葉に甘えて」

左京は靴を脱いでベッドに上がると、仰向けになってふぅ、と息を吐いた。数秒もしないうちに寝息を立てた左京に、有が咄嗟に脈を取った。それから瞼を開かせ眼球の様子を見て、七緒に振り返った。

「彼、いつもこんなに眠るのが早いのかい?」
「前に見守ってたときはもっと寝るのに時間かかったよ」
「そうか……」
「確かに寝るには早すぎるけど、何かあるのかい、有ちゃん?」

七緒の問いに、有は難しい顔をして左京を見た。穏やかな寝顔に、彼女の不信感は高まっていく。

「普通ね、とこいて5分以内に眠りにつく人は、気絶しているような状態なんだがね……数秒で眠るというのはかなり異常だ。脈拍や眼球に異常無しだが、なにかしらの外力が働いている可能性が高い」
「まさか、小玖哉がまだ生きてるってことですか!?」

武蔵が声を震わせた。七緒をもってしても彼自身の大きな負担を担ったとしても、それでもまだ祓えていないというのか。武蔵は左京に駆け寄り、その身体を揺すろうとする。が、それをすんでのところで有に止められた。

「なんで止めるんですか?早く起こさないと、また左京君が酷い夢を見て───」
「それでも無理に起こすのは得策じゃない。彼が自然に起きるまでは、彼の身体に異常が出ない限り、そっとしておくしかない」
「そんな……」

武蔵が動揺する中、三木と七緒は当主たる資格でもある冷静な洞察力と判断力で次の手を話し合っていた。

「小玖哉はまだ生きてるね」
「ああ。お前の聞いた話だと、黒い悪鬼が協力関係にあるかもしれないらしいからな、そこに助けを求めて回復しているかもしれない」
「黒い悪鬼が鬼灯だとは限らない。焦っちゃダメだよ」
「……分かってる。俺はこれから札を取りに浄楽庵に戻る。万が一の場合を考えると、今持っている札だけじゃ心許こころもとない」
「分かったよ。もしものときは連絡するから」
「頼む」

三木が部屋を出る。それを引き留めようとした武蔵に七緒が説明し、左京を見守るように言いつけると、七緒はどこかに電話をし始めた。武蔵は両手を胸の前で握りしめる。それは祈る動作にも似ていたが、彼女にとってそれは自身を鼓舞する動作だった。手が震える。それを抑えるように震えた片手で震えるもう片手を包み込む。震えを止める為だけではない。自分の大切な人が苦しんでいるのだから、自分は死んでも守らなければという意志の現れだった。
それほどまでに目の前の左京の寝顔があまりにも穏やかで静かで───それが死に顔にさえ見えたから。







───────



「左京君」

いつもの広間。そこには今日は料理が無くて、その真ん中にいたのはぺたん、と座り込む小玖哉だった。左腕をくし、身体中傷だらけになりながら、無傷の腹部を右手で撫でている。

「お前、死んだんじゃ……」
「まだ死ねません。左京君と同一存在になるまでは、死ねませんよ」

右手の動きは弱々しく、呼吸は浅く早く、今なら左京でも小玖哉を殺せそうな気がした。
左京は近づく。
確かな殺意を持って。
密かな焦燥を抱いて。
僅かな良心に責められ。
見上げた小玖哉は頬が大きく裂け、頭から血を流している。それでも目に光を灯しているのは左京がいるからだろう。

「左京君、僕、子供を守ったんです。僕と左京君の子供を。愛の結晶を。左京君以外はどうでもいいと思っていたのに、この子だけは、この子だけは守りたくて」

身体中が血塗ちまみれで、苦痛にさいなまれているのは痛いほど分かるのに、目の前の小玖哉は笑顔で、幸せそうで───左京はわけが分からなくなった。

「なんで……なんでだよ……」
「左京君?」

首を傾げる小玖哉に、左京は屈みこみ彼女の襟元を掴んだ。何故なのか、考えても分からない。分からないままでいいはずなのに、それが分からないことがどうにも我慢ならない。

「なんでお前は、人を殺したその手で、無垢な赤ん坊を守ろうとするんだ!?人をさげすむその口で、俺なんかに愛を語るんだ!?わけが分からない!お前はどうして命を踏みにじるのに、命を尊ぶんだ……!?」

善人の左京には理解し難いことだった。
好き嫌いがあったとしても、人はおこないをすべきで、善き思考回路であるべきで、結果、善良であるべきだ。そんな、人間でさえ守れぬ“ぜん”を押し付けるつもりは無いが、わざわざ“悪”でいようとする理由が分からない。
それだけでなく、善悪が混同している状態を受け入れられずにいた。
小玖哉は目を丸くして、それから微笑を浮かべた。優しくて、慈しみを持っていて……それは、人を喰らい、他を踏み躙る者がおよそ浮かべるものとは思えなかった。

「左京君は難しいことを言うんですね。だから僕は、簡潔に答えます」

す、と腹部を撫でていた手が左京の頬に触れる。そっと、壊れないように気をつける……そんな手つきで触れられ、左京は困惑する。

「だって、左京君……貴方を愛しているから」

混乱する。何度も聞いてきた言葉だ。だが、今の左京にはその言葉が一層思考の糸を絡ませる一撃となった。

「じゃあ……じゃあ、なんで翔太郎を殺した!?八代大御神やつしろのおおみかみ様や森の皆を傷つけた!?それだけじゃない!祓い屋の人達をたくさん殺しただろ!?武蔵さんだって死にかけた!俺はその人達と変わらない、ただの人間だ!」
「いいえ、違うんです、全然違うんです。左京君は僕を愛してくれた。僕を見てくれた。それだけで他の誰とも違うんです」
「俺はお前だけを見ているわけじゃない!誰にだって優しくする!お前は俺のことを何も知らないだろ!?」

左京は小玖哉の手をはじいて叫んだ。
そうだ、自分はただの人間だ。お人好しなのは誰にでもで、そんなことすら知らないこいつに尽くされる筋合いは無い。身体中を満たしていた怒りが沸騰していく感覚がする。口を開けば怒りが何もかもを塗りつぶして出ていくだろう。
だが、左京は口を開けなかった。
柔らかで薄い唇が重ねられたのだ。
むわ、とむせ返るような血の匂いが鼻腔びこうをつく。驚いて動けないままの左京から唇が離される。そして、にこりと。左京に似た女性の微笑みがたたえられる。

「ヒントを教えてくれてありがとうございます。そうだったんですね。僕達は相互理解がまだ成されていなかった」

そしてコツン、と額と額が合わさる。
瞬間。
左京の眼球の裏に映像が流れる。
思い出と呼ぶには悲劇的で、記録と呼ぶには叙情的で、記憶と呼ぶには温度的で鮮明なイメージ。
感情と言葉と暴力の奔流に呑み込まれ、左京は正気を失った。







───────



『化け物め』

嫌悪。
それは生理的なものでもあり、論理的なものでもあり、精神的なものでもあり。

『殺さないでください……!』

悲壮。
それは縋るようでいて突き放すおこないで。

『死んじまえ!』

殺意。
それは純粋で、それだけが無垢のように語り。

『お前のせいで!』

嗔恚しんい
それは自らが正しいのだと間違えて。

『どうかお戯れはおよしください……!』

恐怖。
それは冬の池に身を投げたかのような弱々しさで。

『化け物!』

憎悪。
それはかたきですらない者に向けられ。


畏怖。憤怒。不安。憐憫れんびん。不寛容。慨然。怨念。憎悪。緊張。義憤。戦慄。危機感。怯弱きょうじゃく


彼に向けられるその全てに一切の慈愛は無く、有るのは愛とはかけ離れたものばかり。
畏怖と敵意と殺意が混ざり合い、感情の歪な大合唱が奏でられる。
言葉に、愛は無い。
行為に、愛は無い。
視線に、愛は無い。
態度に、愛は無い。
ことごとくに、愛は無い。


死ね化け物怖い化け物お前のせいで殺さないで死んじまえやめてくれこちらを見るな嗚呼恐ろしいもしや崇めるべきか哀れだ化け物め殺さなきゃこちらが殺される死ね滑稽だな憎たらしい死んでくれ悪いのは全部お前だ恨めしい声すら呪詛のようだ化け物正しいのが我らでお前は悪だ恐い命だけは化け物つらい苦しい死にたくない死ね憐れだ消えてしまえ化け物死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね───


彼は諦めた。
人間との相互理解を。
自分は化け物だと認めてしまえば全てが楽になった。殺すのも破壊するのも自分が化け物だから……そう思うと胸がすっとした。


動物に化け、妖に化け、そうして何もかもを誤魔化しあざむいて生きてきた。動物の生態に順応出来なければ妖として過ごした。



ある、白猫に化けた雨夜のこと。
彼は車に轢かれた。
打ちどころが悪く、自己再生能力も上手く機能しないまま、さてどうしたものかと道路でぐったりと横たわる。

「あ、猫……!」

誰かが駆け寄る気配があったが、もう目を開けているのも億劫だ。優しく抱きかかえられる。それすらも苦痛で呻くと「ごめんな、もう少しの辛抱だ」と返された。



次に目を覚ますと猫用ケージの中だった。傷口はほとんど塞がり、痛みも少ない。ゲージに顔を覗き込んで笑う青年の姿に、白猫は警戒心を向ける。

「よかった、元気になったみたいだな」

青年は安堵した様子でこぼすと、白衣の女性と何やら話を始めた。どうやらあの雨の夜、自分を助けてくれたのはこの青年らしい、と白猫は気づく。

「ありがとう、実里みのりさん。この子は俺が責任をもって里親探ししますから」
「左京君、猫飼ったことある?里親を見つける間とはいえ飼うんだから、ちゃんと用意はしなきゃダメよ?ほら、これ、必要なもののリストね」
「わぁ!ありがとう!」

青年は左京と言うらしい。
白猫は左京とともに彼の自宅に迎えられ、2、3日そこで過ごした。
左京は白猫を愛でた。水や餌を与え、遊び相手になり、粗相したときにはそれを処理し、寝床を作り、白猫が快適に過ごせるように努めていた。
白猫はそれをどうとも思わなかった。
久々の人間は“猫”という動物に優しい、ただそれだけだ。自分がまた元の姿になれば、化け物だと罵り恐れて突き放すだろう。
白猫は猫じゃらしにじゃれることもなく、自ら左京にすり寄ることもしない。愛想の欠片も無いが、左京はそれでも白猫を愛で続けた。

「名前つけないと不便だよなぁ……」

左京が呟く。撫でようと伸ばした手は引っかかれ、血の滲む傷を消毒しながら何かを思いついたように笑った。

柵康さくやす公園の近くで拾ったから…………サクヤはどうかな?」

そのとき白猫に雷が落ちたかのような衝撃を受けた。遠い昔、まだ自分が人間と共生しようとしていた頃。その頃、そんな名前を呼ばれた。

『小玖哉』

『呼んでみただけ。ふふ。ねぇ、小玖哉』

『これから、小玖哉ってたくさんの人に呼ばれるんだね。それが嬉しくてたまらないの。小玖哉、大好き。ずっと一緒だよ。隣で小玖哉が名前を呼ばれるのを聞いていたいな』

『小玖哉』

『小玖哉』

忘れようとしていた。
いや、人間とは相容れぬ関係なのだと諦めている。それでも、その頃が満たされていたことは記憶の奥底に眠っていたが、確かに存在した。
あの少女は自分のもとから去っていった。
もうその名を呼ぶ者は誰もいないと思っていたのに───

「サクヤ……うん、いい名前じゃないかな?気に入った?」

左京と少女が重なって見えた。
この人間だけ、特別に見えた。
それが錯覚だと知りながら、白猫は混乱してその家を飛び出した。冬の曇りの日だった。雪が降りそうな空模様の下、白猫は走る。この感情はなんだ?とっくに捨てたはずの人間への感情が、ふつふつとこみ上げてくる。
確かめる為に、白猫は約1000年ぶりに人間に化けた。弱々しい、化け物の要素など欠片も感じさせない、そんな老婆に。
左京の姿を車道を挟んだ反対歩道に捉え、老婆は横断歩道を渡る。老婆に細胞単位まで化けた彼には、横断歩道を渡るのも一苦労。半分と渡りきらないうちに青信号は点滅し始める。その意味をなんとなく知っている老婆は、どうしたものかと思案し───再び彼と出会う。

「大丈夫ですか?」

横断歩道を渡る様子もなかった左京が、老婆の姿を見かけた途端に駆け寄ってきて声をかけたのだ。老いた者の喋り方がどんなものだったかと迷いながら、老婆は目を逸らした。目を合わせたら心臓が熱を持って苦しかった。

「赤信号になっちゃいますね……背負いますから、ほら、背中、乗ってください」

左京が背中を向けてしゃがむ。クラクションが鳴らされようとも左京は慌てる様子も厭わしく思う気配もない。
老婆はおずおずと背中に乗る。ふわ、と持ち上げられた感覚が初めてで、老婆は慌てて左京の肩を掴む。苦しげな様子もなく横断歩道を渡りきると、左京は歩道に老婆を降ろして笑いかけた。

「身体、痛めてませんか?目的地まで案内しましょうか?」

老婆は首を振る。すると「お気をつけてくださいね」と左京はその場を立ち去ろうとする。礼をせびることはない。それどころか見ず知らずの老婆のことを案ずるような言葉をかけたのだ。老婆は思わず口を開いた。

「ど、どうして」

振り返る左京に、胸が高鳴っていく。

「どうして、助けてくれたの?」

その問いに、左京は微笑で答える。

「当然のことをしたまでですよ」





老婆は少年になった。
左京は少年を助けた。
少年は犬になった。
左京は犬を助けた。
犬は妙齢の女性になった。
左京は女性を助けた。



彼は苦しんだ。
何故なのか?
何故無償で助けてくれるのか?
何故笑顔を向けてくれるのか?
何故、何故、何故───
自分はどうすればいい?
あの優しさに、何を返せばいい?
あの微笑みに、何と返せばいい?
何を、何を、何を───


『その人間はきっとお前を愛しているのよ』

使役屋の遣いの妖に言われたことで、彼はハッとする。愛している?そんなの、同じ種族同士のまやかしだと言うのに?

『君も彼を愛しているのかい?それは相思相愛だね。素晴らしい』

『同一存在になれたら、それより素敵なことなんてないだろうな』

『愛し合った2人が文字通り一心同体になることは素敵なことだと主が言っていた』


同一存在。
それになれば、もう失わない。
あの少女のように。
あの頃の純新無垢な精神のように。



でも、今でもまだ耳の裏から声がする。

『死ね』『化け物』『恐ろしい』『こっちへ来るな』『命だけはお助けを』『死んじまえ』『憎い』『哀れだ』『化け物め』『殺さないで』『やめてくれ』『全部お前のせいだ』『死ね』『くたばれ』『化け物』『化け物』

アイツらは僕のことを何も知らないくせに恐れ畏まり怒り罵る。それが悲しいことだと、苦しいことだと、知っているからこそ人間から逃げてきた。

化け物だから、と言い訳をして。
そうして人間から離れた。
でも最初は、純新無垢だったあの頃は、人間との共生を望んでいたではないか。

やめてくれ。やめてくれ。
声がする。許さない、と声がする。
同一存在になって幸せになろうなどと許さない、とへばりついて離れない。呪詛のような言葉の数々が粘着質にまとわりついて、岩のような感情の数々が僕の行く道を阻んで、同一存在化を邪魔する。

同一存在になりたい。
左京君になりたい。
左京君になるのならば、少なくとも左京君には愛されるでしょう?


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