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危機
その四
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石牟礼の淹れたコーヒーは、ひと足先に厨房にいた嶺山と日高にも味見がてら振る舞ったところ反応は上々であった。その後『離れ』に戻ると、在住組の悌と義藤以外に村木、鵜飼、根田、小野坂、更には夢子も同席している。
「夢子さんまでご足労頂き申し訳ありません」
「いえ宜しいんですのよ、産休に入って暇にしておりますので。ところで川瀬さんはいらっしゃらないの?」
「メールはしましたが音沙汰無しですね」
こんな喋り方やったっけ……? 堀江は夢子の変化にちょっとした違和を感じる。企業経営者の元夫人だった時期もあるためそこいらの女性よりは上品にしていたが、初めて出会った時とはまた違うあざとさが出てきているように映っていた。
「礼と俺は飲めねぇから役に立てるかどうか……」
「そったら固うならさらんでも薫りを楽しんだらいくないかい?」
「えぇ、ご無理はなさらずそれで十分です」
石牟礼は秀麗な動きでサイフォンを操る。彼女が立てるコーヒーは、これまでここで漂うことの無かった芳醇な薫りに満ち溢れていた。
「昔嗅いだことがある懐かしい薫りだべ」
「あぁ、トコさんが淹れてたのと似てる」
「トコさん?」
聞き覚えの無い名前に、堀江は小野坂にオウム返ししてしまう。
「前いた時もコーヒー担当の方だったんだ。床並《トコナミ》さんっつって、ご実家が北部で喫茶店営まれてるんだ。商業高校の近くだよ」
「商業高校ら辺いうたらこっからやと結構離れとるな」
堀江は少しずつ覚えている市内地図を脳内で思い浮かべる。
「あぁ。それにご本人は奥さんの転勤で札幌に引越してるから」
「今でも連絡取ってんの?」
「ごくたまに。去年会った時連絡先は交換してるから」
小野坂は昨年の謝罪行脚で、以前働いていた頃の先輩従業員である松前《マツマエ》と床並には直接会って謝罪していた。もう一人の先輩東川は実家である旭川に戻って家業を継いでおり、松前の配慮で電話での謝罪はしている。
「あん三人組懐かしいべ、マツさんとはたまに会うけどさ」
村木も三人と交流を持っており、コーヒーの薫りに誘われて当時を懐かしむ。その勢いのまま飲めないはずのコーヒーをすすって動きが止まった。
「あんれ? 美味いべ」
彼は思わぬ形で苦手を一つ克服した。
「えっ?」
「智、オメェ多分飲めるべ! これトコさんの味だべ!」
村木は小野坂にもコーヒーを勧めるが、夢子がそれを嫌そうに見ていたのを鵜飼が気付く。
「アンタちょべっと押し付けがましいべ、そったらことは智さんが決めらさることだべ」
「んだな。配合変えらさったんかい?」
村木はケロッとして石牟礼に視線を移した。
「いえ、そのまま使用させて頂きました」
「マジですか?」
既にコーヒーを口にしていた悌はカップに残っているコーヒーを覗き込む。
「技術とは別に淹れた人間の感情、場所の雰囲気が変わればそれが移るものなのかも知れませんね」
「なるほど、冷めた飯でも外で食う弁当は美味いと感じますらね」
初対面ながらも案外息の合っている悌と石牟礼の話を聞きながら、小野坂は手元にある黒褐色の魅惑的な飲み物に興味惹かれていた。飲めなくなっている今も薫りに嫌悪感は無く、傍で誰かが飲んでいても全く苦にならない。
「智、止めておきましょう」
「薫りは平気なんだ、ただ何で飲めなくなったのか未だに分かんねぇんだよ」
「へぇ、いつから飲めなくなったんですか?」
その話に根田が興味を示した。
「六年前、一回辞めて東京に戻ってからだよ」
「それだけ床並さんと仰る方のコーヒーが美味しかったんじゃないでしょうか?」
「あぁ、俺が飲んだ中では一、二を争う美味さだよ」
小野坂もまた懐かしい薫りに吸い寄せられる形でカップに顔を近付ける。
「智、いけないわ」
夢子は夫に声を掛けて止めさせようとしたが、それに従うこと無く六年振りにコーヒーを体の中に入れる。その味はかつて衞氏や諸先輩がいた頃の思い出を引き寄せ、彼の表情は最近無いくらいに緩んでいた。
「これだ」
「あの、大丈夫ですか?」
「はい、俺が知ってるここの味です」
心配そうな視線を向ける石牟礼に向けて笑顔を見せた小野坂は、更にもう一口飲もうとしたところで夢子が慌てて引き留める。
「もうやめて智っ!」
彼女は必死な形相で夫の腕を掴む。小野坂はバランスを崩してコーヒーをこぼしそうになり、周囲にいた面々も取り乱す夢子に視線を向けていた。
「えっ? 何?」
夢子の怒号に近い声に義藤がびくっと肩を震わせる。隣にいる根田が義藤をなだめて何とか落ち着かせていたが、こういう場面でも通常運転の村木はなした? と言った。
「いえ何でもございませんわ」
「そこまで強引に止めらさらんでいくないかい?」
「“外野”は黙っててくださらない?」
「ここでいう“外野”はアンタだべ。智、気分悪くならさってないかい?」
「あぁ、何ともねぇ」
小野坂は村木を見て大丈夫だという視線を送ると、それを読み取った村木はにっと笑って頷いた。しかし妻の顔を立てるため仕方無くカップをテーブルに置くと、夢子はそれを夫から遠ざけて満足そうな表情を小野坂に向けていた。
「ごちそうさんでした、ちょっとやることあるんでこれで失礼します」
悌は用が済むとさっと席を立って夢子を一瞥する。
「お粗末様でした」
石牟礼の言葉に会釈してから、悌は自室のある三階に上がっていった。続いて小野坂も席を立ち、石牟礼に頭を下げた。
「すみません、俺にまともなジャッジはできそうにありません」
「お気になさらないでください、苦手なものは仕方がありませんので」
石牟礼は小野坂の気持ちを受け取ったような哀愁ある笑みを見せる。
「仁、俺はお前の決断に従う。帰ろうユメ」
小野坂は再度石牟礼に会釈してから、夢子を連れて『離れ』を出て行った。
「智、それで宜しくて?」
夢子は表情の変わった夫の思いを読み取ろうと、進行を妨げるように前に立つ。
「あぁ、ここのオーナーは仁だ」
小野坂は妻の顔を見ずにそう言った。
「夢子さんまでご足労頂き申し訳ありません」
「いえ宜しいんですのよ、産休に入って暇にしておりますので。ところで川瀬さんはいらっしゃらないの?」
「メールはしましたが音沙汰無しですね」
こんな喋り方やったっけ……? 堀江は夢子の変化にちょっとした違和を感じる。企業経営者の元夫人だった時期もあるためそこいらの女性よりは上品にしていたが、初めて出会った時とはまた違うあざとさが出てきているように映っていた。
「礼と俺は飲めねぇから役に立てるかどうか……」
「そったら固うならさらんでも薫りを楽しんだらいくないかい?」
「えぇ、ご無理はなさらずそれで十分です」
石牟礼は秀麗な動きでサイフォンを操る。彼女が立てるコーヒーは、これまでここで漂うことの無かった芳醇な薫りに満ち溢れていた。
「昔嗅いだことがある懐かしい薫りだべ」
「あぁ、トコさんが淹れてたのと似てる」
「トコさん?」
聞き覚えの無い名前に、堀江は小野坂にオウム返ししてしまう。
「前いた時もコーヒー担当の方だったんだ。床並《トコナミ》さんっつって、ご実家が北部で喫茶店営まれてるんだ。商業高校の近くだよ」
「商業高校ら辺いうたらこっからやと結構離れとるな」
堀江は少しずつ覚えている市内地図を脳内で思い浮かべる。
「あぁ。それにご本人は奥さんの転勤で札幌に引越してるから」
「今でも連絡取ってんの?」
「ごくたまに。去年会った時連絡先は交換してるから」
小野坂は昨年の謝罪行脚で、以前働いていた頃の先輩従業員である松前《マツマエ》と床並には直接会って謝罪していた。もう一人の先輩東川は実家である旭川に戻って家業を継いでおり、松前の配慮で電話での謝罪はしている。
「あん三人組懐かしいべ、マツさんとはたまに会うけどさ」
村木も三人と交流を持っており、コーヒーの薫りに誘われて当時を懐かしむ。その勢いのまま飲めないはずのコーヒーをすすって動きが止まった。
「あんれ? 美味いべ」
彼は思わぬ形で苦手を一つ克服した。
「えっ?」
「智、オメェ多分飲めるべ! これトコさんの味だべ!」
村木は小野坂にもコーヒーを勧めるが、夢子がそれを嫌そうに見ていたのを鵜飼が気付く。
「アンタちょべっと押し付けがましいべ、そったらことは智さんが決めらさることだべ」
「んだな。配合変えらさったんかい?」
村木はケロッとして石牟礼に視線を移した。
「いえ、そのまま使用させて頂きました」
「マジですか?」
既にコーヒーを口にしていた悌はカップに残っているコーヒーを覗き込む。
「技術とは別に淹れた人間の感情、場所の雰囲気が変わればそれが移るものなのかも知れませんね」
「なるほど、冷めた飯でも外で食う弁当は美味いと感じますらね」
初対面ながらも案外息の合っている悌と石牟礼の話を聞きながら、小野坂は手元にある黒褐色の魅惑的な飲み物に興味惹かれていた。飲めなくなっている今も薫りに嫌悪感は無く、傍で誰かが飲んでいても全く苦にならない。
「智、止めておきましょう」
「薫りは平気なんだ、ただ何で飲めなくなったのか未だに分かんねぇんだよ」
「へぇ、いつから飲めなくなったんですか?」
その話に根田が興味を示した。
「六年前、一回辞めて東京に戻ってからだよ」
「それだけ床並さんと仰る方のコーヒーが美味しかったんじゃないでしょうか?」
「あぁ、俺が飲んだ中では一、二を争う美味さだよ」
小野坂もまた懐かしい薫りに吸い寄せられる形でカップに顔を近付ける。
「智、いけないわ」
夢子は夫に声を掛けて止めさせようとしたが、それに従うこと無く六年振りにコーヒーを体の中に入れる。その味はかつて衞氏や諸先輩がいた頃の思い出を引き寄せ、彼の表情は最近無いくらいに緩んでいた。
「これだ」
「あの、大丈夫ですか?」
「はい、俺が知ってるここの味です」
心配そうな視線を向ける石牟礼に向けて笑顔を見せた小野坂は、更にもう一口飲もうとしたところで夢子が慌てて引き留める。
「もうやめて智っ!」
彼女は必死な形相で夫の腕を掴む。小野坂はバランスを崩してコーヒーをこぼしそうになり、周囲にいた面々も取り乱す夢子に視線を向けていた。
「えっ? 何?」
夢子の怒号に近い声に義藤がびくっと肩を震わせる。隣にいる根田が義藤をなだめて何とか落ち着かせていたが、こういう場面でも通常運転の村木はなした? と言った。
「いえ何でもございませんわ」
「そこまで強引に止めらさらんでいくないかい?」
「“外野”は黙っててくださらない?」
「ここでいう“外野”はアンタだべ。智、気分悪くならさってないかい?」
「あぁ、何ともねぇ」
小野坂は村木を見て大丈夫だという視線を送ると、それを読み取った村木はにっと笑って頷いた。しかし妻の顔を立てるため仕方無くカップをテーブルに置くと、夢子はそれを夫から遠ざけて満足そうな表情を小野坂に向けていた。
「ごちそうさんでした、ちょっとやることあるんでこれで失礼します」
悌は用が済むとさっと席を立って夢子を一瞥する。
「お粗末様でした」
石牟礼の言葉に会釈してから、悌は自室のある三階に上がっていった。続いて小野坂も席を立ち、石牟礼に頭を下げた。
「すみません、俺にまともなジャッジはできそうにありません」
「お気になさらないでください、苦手なものは仕方がありませんので」
石牟礼は小野坂の気持ちを受け取ったような哀愁ある笑みを見せる。
「仁、俺はお前の決断に従う。帰ろうユメ」
小野坂は再度石牟礼に会釈してから、夢子を連れて『離れ』を出て行った。
「智、それで宜しくて?」
夢子は表情の変わった夫の思いを読み取ろうと、進行を妨げるように前に立つ。
「あぁ、ここのオーナーは仁だ」
小野坂は妻の顔を見ずにそう言った。
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