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最高に最悪な日
その四
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「智っ!」
「ごめん遅くなった」
江里子は多少の疲れを見せながらも、元気な姿を見せた息子にようやっと一つの荷が降りたと安堵の表情を見せる。
『お兄ちゃん来れたんだね』
「えぇ、今から分娩室に連れて行くわ」
『何かあったら連絡ちょうだい、何時になっても構わないから』
「分かった、一旦切るわね」
江里子は娘からの通話を切った。
「凪咲か?」
「えぇ。テレビで事故のこと知ったからって」
「そうか、ユメの方は?」
「まだよ」
彼女は小野坂の後ろに立っている男性に会釈した。
「家の事情に巻き込んでしまい申し訳ありません、小野坂の母です」
「悌と申します、智さんにはいつもお世話になっております」
「職場の後輩なんだ。吾、頃合い見て帰っていいからな」
「いえ、どのみち渋滞は解消されてないでしょうから待ってますよ」
悌はしれっとした態度で空いている椅子に座る。江里子は再度悌に会釈してから息子を連れて分娩室に向かうと、壊れた眼鏡を手に流血している男性医師に頭を下げている美乃の姿に足を止めてしまった。
「申し訳ございません、親である私が至らぬばかりに」
「なんもなんも。もう親御さんがどうこうこかさる歳は過ぎてられんべ」
医師は怪我の割に平然としており、美乃を責めようとせず慣れていると言わんばかりの態度を見せている。
「そうは仰いましても……せめて眼鏡は弁償させてください」
「そったらこと気になさらんでいいべや」
二人のやり取りを見た小野坂の疲労は更に増す。一体何があったのかと中を気にすると、普段なかなか聞かない妻の罵声が聞こえてきた。
『何してくれてんのよっ!』
『アンタが暴れ回るしたからさ、それに対する処置だべ』
「これって……」
確認せずとも元凶は分かったが、小野坂は難儀の原因がこれかと呆れてしまう。
『ふざけんじゃないわよっ! こんな姿智に見せる気なのっ!』
『そったらみったくねえ嫁のなりなんか見たくないんでないかい?』
『悪ふざけもいい加減にしなさいよっ!』
『いい加減にしてほしいんはこっちだべ、ごんぼほってる暇あらさったらまず息んでけれ!』
医師も看護師もすっかり居直っており、妊婦への口調もキツくなっている。
『ちょっとあんた! これ外しなさいよっ!』
夢子の声と共に何かが揺れ動く音が聞こえてくる。
『冗談でね! これ以上怪我人出されちゃたまんないべ!』
ドア越しからでも彼女の傍若無人振りが十二分に伝わり、江里子はがっくりと肩を落とした。
「これじゃ先が思いやられる」
「今それ言うなよ」
母の本音に小野坂は息子として一応窘めてみせたが、大概のことは許せてもこればかりは幻滅でしかない。
「ご主人ですかい?」
怪我をしている医師が小野坂に気付き声を掛けてきた。
「はい、立ち合いを希望してまして」
「ちょべっと待っててけれ、お勧めはできねえけどさ」
彼は分娩室に入って主治医に小野坂が来た旨を伝えている。
『やっと来たのね智、待ちくたびれたわ』
『そん場で待ってもらっててけれ、ご主人にまで怪我させらんないべ』
『あんたなんて言い草なのよっ! 立ち合い希望してるんだから中に入れなさいよっ!』
「正直入りたくねぇわ」
今度は小野坂が肩を落とし、両隣に入る母二人に無言で窘められた。彼は仕方無く中に入り、入口で待機する選択をする。
「はい息んでー」
医師はやる気ゼロで文句ばかりの夢子の腹をマッサージして出産を促す。
「あぁーっ! 痛いじゃないのっ!」
夢子は再び暴れ出し、看護師が四人がかりでベッドを押さえていた。
「お子さん中で頑張って出ようとしささってんだべよ!」
「お母ちゃんがそったら態度でどうすんだべ!」
うち二人は怪我をしており、応急処置をしている状態で必死に命と向き合っている姿に小野坂は泣きたくなってくる。
「助けて智っ! この人たちが私を虐めるのっ!」
それをまるで馬鹿にするかのような妻の醜態は見るに耐えず、逃げたい気持ちに駆られても腹の子を思うとそうも言っていられない。小野坂は戦場に近付き、看護師と共にベッドを押さえて夢子に話し掛けた。
「虐めてるのはお前だ、ヤル気あるのか?」
「えっ?」
冷ややかな夫の言葉に夢子の表情が変わる。
「これはお前にしかできない、どうやったって代わってやれないんだよ」
「智……」
「子供は俺らの都合で生かされてる、その上勝手な都合で殺す気か? 命は玩具じゃねぇんだぞ」
「だったら来るの遅すぎじゃない、今まで何していたのよ?」
彼女の減らず口に対し、腕に怪我を負っている看護師が露骨にため息を漏らす。
「駅前で事故があらさったんだ、その影響で市内全域の道路事情は今もわやだべ」
主治医はそう言って夢子の腰部に注射を打った。それから数秒で陣痛が再発し、痛い痛いとのたうち回る。
「ごんぼほってる暇あらさったらさっさと息んでけれ、真面目に取り組まさったらとっくにおめでただったんだべよ」
「何訳の分かんないこと言ってんのよっ! 痛いっつってんでしょうがっ!」
そう喚き散らした直後、分娩室内はトイレで嗅ぐことのある臭いで充満し始めた。
「はい、お掃除すんべ~」
その場にいた者たちは出産に伴う生理現象など気にも止めていなかったが、当事者である夢子はまさかの脱糞に恥ずかしさがこみ上げてくる。愛する夫の前で……先程は来るのが遅いと揚げ足を取っておきながら、この期に及んで無駄な乙女心を発動させてまたも大声で泣き出したのだった。
「いやあぁぁぁーっ!」
「はい、そん調子だべよ~。やっと頭出てきたべ」
看護師はお産の状態を気にしながら排泄物をきれいに掃除していた。
「ごめん遅くなった」
江里子は多少の疲れを見せながらも、元気な姿を見せた息子にようやっと一つの荷が降りたと安堵の表情を見せる。
『お兄ちゃん来れたんだね』
「えぇ、今から分娩室に連れて行くわ」
『何かあったら連絡ちょうだい、何時になっても構わないから』
「分かった、一旦切るわね」
江里子は娘からの通話を切った。
「凪咲か?」
「えぇ。テレビで事故のこと知ったからって」
「そうか、ユメの方は?」
「まだよ」
彼女は小野坂の後ろに立っている男性に会釈した。
「家の事情に巻き込んでしまい申し訳ありません、小野坂の母です」
「悌と申します、智さんにはいつもお世話になっております」
「職場の後輩なんだ。吾、頃合い見て帰っていいからな」
「いえ、どのみち渋滞は解消されてないでしょうから待ってますよ」
悌はしれっとした態度で空いている椅子に座る。江里子は再度悌に会釈してから息子を連れて分娩室に向かうと、壊れた眼鏡を手に流血している男性医師に頭を下げている美乃の姿に足を止めてしまった。
「申し訳ございません、親である私が至らぬばかりに」
「なんもなんも。もう親御さんがどうこうこかさる歳は過ぎてられんべ」
医師は怪我の割に平然としており、美乃を責めようとせず慣れていると言わんばかりの態度を見せている。
「そうは仰いましても……せめて眼鏡は弁償させてください」
「そったらこと気になさらんでいいべや」
二人のやり取りを見た小野坂の疲労は更に増す。一体何があったのかと中を気にすると、普段なかなか聞かない妻の罵声が聞こえてきた。
『何してくれてんのよっ!』
『アンタが暴れ回るしたからさ、それに対する処置だべ』
「これって……」
確認せずとも元凶は分かったが、小野坂は難儀の原因がこれかと呆れてしまう。
『ふざけんじゃないわよっ! こんな姿智に見せる気なのっ!』
『そったらみったくねえ嫁のなりなんか見たくないんでないかい?』
『悪ふざけもいい加減にしなさいよっ!』
『いい加減にしてほしいんはこっちだべ、ごんぼほってる暇あらさったらまず息んでけれ!』
医師も看護師もすっかり居直っており、妊婦への口調もキツくなっている。
『ちょっとあんた! これ外しなさいよっ!』
夢子の声と共に何かが揺れ動く音が聞こえてくる。
『冗談でね! これ以上怪我人出されちゃたまんないべ!』
ドア越しからでも彼女の傍若無人振りが十二分に伝わり、江里子はがっくりと肩を落とした。
「これじゃ先が思いやられる」
「今それ言うなよ」
母の本音に小野坂は息子として一応窘めてみせたが、大概のことは許せてもこればかりは幻滅でしかない。
「ご主人ですかい?」
怪我をしている医師が小野坂に気付き声を掛けてきた。
「はい、立ち合いを希望してまして」
「ちょべっと待っててけれ、お勧めはできねえけどさ」
彼は分娩室に入って主治医に小野坂が来た旨を伝えている。
『やっと来たのね智、待ちくたびれたわ』
『そん場で待ってもらっててけれ、ご主人にまで怪我させらんないべ』
『あんたなんて言い草なのよっ! 立ち合い希望してるんだから中に入れなさいよっ!』
「正直入りたくねぇわ」
今度は小野坂が肩を落とし、両隣に入る母二人に無言で窘められた。彼は仕方無く中に入り、入口で待機する選択をする。
「はい息んでー」
医師はやる気ゼロで文句ばかりの夢子の腹をマッサージして出産を促す。
「あぁーっ! 痛いじゃないのっ!」
夢子は再び暴れ出し、看護師が四人がかりでベッドを押さえていた。
「お子さん中で頑張って出ようとしささってんだべよ!」
「お母ちゃんがそったら態度でどうすんだべ!」
うち二人は怪我をしており、応急処置をしている状態で必死に命と向き合っている姿に小野坂は泣きたくなってくる。
「助けて智っ! この人たちが私を虐めるのっ!」
それをまるで馬鹿にするかのような妻の醜態は見るに耐えず、逃げたい気持ちに駆られても腹の子を思うとそうも言っていられない。小野坂は戦場に近付き、看護師と共にベッドを押さえて夢子に話し掛けた。
「虐めてるのはお前だ、ヤル気あるのか?」
「えっ?」
冷ややかな夫の言葉に夢子の表情が変わる。
「これはお前にしかできない、どうやったって代わってやれないんだよ」
「智……」
「子供は俺らの都合で生かされてる、その上勝手な都合で殺す気か? 命は玩具じゃねぇんだぞ」
「だったら来るの遅すぎじゃない、今まで何していたのよ?」
彼女の減らず口に対し、腕に怪我を負っている看護師が露骨にため息を漏らす。
「駅前で事故があらさったんだ、その影響で市内全域の道路事情は今もわやだべ」
主治医はそう言って夢子の腰部に注射を打った。それから数秒で陣痛が再発し、痛い痛いとのたうち回る。
「ごんぼほってる暇あらさったらさっさと息んでけれ、真面目に取り組まさったらとっくにおめでただったんだべよ」
「何訳の分かんないこと言ってんのよっ! 痛いっつってんでしょうがっ!」
そう喚き散らした直後、分娩室内はトイレで嗅ぐことのある臭いで充満し始めた。
「はい、お掃除すんべ~」
その場にいた者たちは出産に伴う生理現象など気にも止めていなかったが、当事者である夢子はまさかの脱糞に恥ずかしさがこみ上げてくる。愛する夫の前で……先程は来るのが遅いと揚げ足を取っておきながら、この期に及んで無駄な乙女心を発動させてまたも大声で泣き出したのだった。
「いやあぁぁぁーっ!」
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