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17章
月光の岬、光の矢 79
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朝の回診では、一人一人の患者さんから声を掛けられた。
皆、別れを寂しがってくれる。
ありがたいことだ。
さぁ、最後はこの部屋だ。
「遅くなりました」
クリーム色のカーテンに向かって、声を掛けると、ベッドの上の老婦人が皺の深い手を伸ばしてきた。
「……朝から先生をずっと待っていたの。だって今日が最後なんでしょう?」
「……えぇ、今日で、ここを離れることになりました」
私は申し訳ない気持ちを込めて、少しだけ眉を下げて微笑んだ。
老婦人の手はか細かったが、とても温かかった。
「丈先生、私は先生のおかげで、もう一度秋を迎えられました。先生がいらっしゃらなくなってもリハビリ頑張るわ」
彼女が急に倒れて運ばれてきたのは、夏だった。
一時は危なかったが、手術をし、リハビリの甲斐もあってだいぶ回復した。
どこか洋の祖母に似た面影の女性だったので、気に掛けていた。
「その言葉が、何よりの贈り物です」
「先生、私の次の目標を聞いてくださる?」
「なんでしょう?」
「来月には無事に退院して、先生の由比ヶ浜の診療所にお邪魔することですよ」
「待っていますよ。その時は患者としてではなく、私の友として……一緒に紅茶でも飲みましょう」
「まぁ、嬉しいわ! 絶対元気にならないと」
カーテンの隙間から、看護師たちが私たちの会話を静かに見守っていた。
「では……お元気で」
「先生、ずっとずっと応援しています」
「ありがとう」
他の患者さんからも、廊下ですれ違うたびに声がかかった。
「先生、元気でお過ごし下さいね」
「新しい診療所、絶対行きますよ」
「丈先生にここで会えなくなるなんて、寂しくなるわ」
私はひとりひとりの目を見つめて、丁寧に頭を下げた。
「どうかお元気で。またお会いしましょう」
送別の花束は数え切れず、いただいた手紙は白衣のポケットに入らないほどだった。
有り難いことだ。
人嫌いで人付き合いが苦手だった私が、こんなに人に愛してもらえるようになったのは……きっと
洋のおかげだ。
人を愛することの尊さを教えてくれた。
そして愛される喜びも教えてもらった。
それは、洋だけではない。
両親、翠兄さん、流兄さん、小森くん、菅野くん、宗吾と瑞樹くんに芽生くん、薙……
私には人の優しい繋がりが出来、そのぬくもりが、人が生きていくために必要なものだと知った。
だから総合病院に勤めだした当初は、事務的、機械的な診察しか出来なかったが、患者さんの気持ちに寄り添えるようになった。
ナースステーションで渡された『丈先生ありがとう』の寄せ書きには、一人一人の想いが込められており、視界が霞みそうになり、それを堪えるので、大変だった。
「皆さん、ありがとう。私はここを去りますが、皆さまと繋いだご縁を大切に抱き、次の場所へ行きます」
エレベーターの扉が閉まるまで、職員たちが拍手で見送ってくれた。
その音が、私の心の奥に余韻として優しく残った。
エレベーターを降りると、外はすっかり秋の空だった。
澄みきった空気が肺に入り、微かに金木犀の香りが漂ってくる。
総合病院の最後の日。
送り出してくれた職員たちの拍手の音が、まだ耳に残っていた。
「丈……」
「えっ」
駐車場への扉を開けると、そこには驚いたことに翠兄さんが立っていた。
落ち着いたえんじ色の袈裟をまとい、優美に微笑んでいる。
「翠兄さん? 一体どうして、ここに?」
「……今日は大切な弟の節目だし、僕もこの病院には何度かお世話になったからね」
私は自然と微笑み、兄の隣に並んだ。
車の前に立って鍵を取り出すと、兄さんに取り上げられた。
「今日は僕が運転するよ。丈はすごい荷物だしね」
「花束や手紙を沢山いただいたのです」
「良かったね。本当にお疲れ様」
その一言が嬉しかった。
労いの言葉が、心に溶け込んでいく。
翠兄さんの存在は、まるで秋の夕陽のように柔らかくて穏やかで、じんと胸が熱くなった。
皆、別れを寂しがってくれる。
ありがたいことだ。
さぁ、最後はこの部屋だ。
「遅くなりました」
クリーム色のカーテンに向かって、声を掛けると、ベッドの上の老婦人が皺の深い手を伸ばしてきた。
「……朝から先生をずっと待っていたの。だって今日が最後なんでしょう?」
「……えぇ、今日で、ここを離れることになりました」
私は申し訳ない気持ちを込めて、少しだけ眉を下げて微笑んだ。
老婦人の手はか細かったが、とても温かかった。
「丈先生、私は先生のおかげで、もう一度秋を迎えられました。先生がいらっしゃらなくなってもリハビリ頑張るわ」
彼女が急に倒れて運ばれてきたのは、夏だった。
一時は危なかったが、手術をし、リハビリの甲斐もあってだいぶ回復した。
どこか洋の祖母に似た面影の女性だったので、気に掛けていた。
「その言葉が、何よりの贈り物です」
「先生、私の次の目標を聞いてくださる?」
「なんでしょう?」
「来月には無事に退院して、先生の由比ヶ浜の診療所にお邪魔することですよ」
「待っていますよ。その時は患者としてではなく、私の友として……一緒に紅茶でも飲みましょう」
「まぁ、嬉しいわ! 絶対元気にならないと」
カーテンの隙間から、看護師たちが私たちの会話を静かに見守っていた。
「では……お元気で」
「先生、ずっとずっと応援しています」
「ありがとう」
他の患者さんからも、廊下ですれ違うたびに声がかかった。
「先生、元気でお過ごし下さいね」
「新しい診療所、絶対行きますよ」
「丈先生にここで会えなくなるなんて、寂しくなるわ」
私はひとりひとりの目を見つめて、丁寧に頭を下げた。
「どうかお元気で。またお会いしましょう」
送別の花束は数え切れず、いただいた手紙は白衣のポケットに入らないほどだった。
有り難いことだ。
人嫌いで人付き合いが苦手だった私が、こんなに人に愛してもらえるようになったのは……きっと
洋のおかげだ。
人を愛することの尊さを教えてくれた。
そして愛される喜びも教えてもらった。
それは、洋だけではない。
両親、翠兄さん、流兄さん、小森くん、菅野くん、宗吾と瑞樹くんに芽生くん、薙……
私には人の優しい繋がりが出来、そのぬくもりが、人が生きていくために必要なものだと知った。
だから総合病院に勤めだした当初は、事務的、機械的な診察しか出来なかったが、患者さんの気持ちに寄り添えるようになった。
ナースステーションで渡された『丈先生ありがとう』の寄せ書きには、一人一人の想いが込められており、視界が霞みそうになり、それを堪えるので、大変だった。
「皆さん、ありがとう。私はここを去りますが、皆さまと繋いだご縁を大切に抱き、次の場所へ行きます」
エレベーターの扉が閉まるまで、職員たちが拍手で見送ってくれた。
その音が、私の心の奥に余韻として優しく残った。
エレベーターを降りると、外はすっかり秋の空だった。
澄みきった空気が肺に入り、微かに金木犀の香りが漂ってくる。
総合病院の最後の日。
送り出してくれた職員たちの拍手の音が、まだ耳に残っていた。
「丈……」
「えっ」
駐車場への扉を開けると、そこには驚いたことに翠兄さんが立っていた。
落ち着いたえんじ色の袈裟をまとい、優美に微笑んでいる。
「翠兄さん? 一体どうして、ここに?」
「……今日は大切な弟の節目だし、僕もこの病院には何度かお世話になったからね」
私は自然と微笑み、兄の隣に並んだ。
車の前に立って鍵を取り出すと、兄さんに取り上げられた。
「今日は僕が運転するよ。丈はすごい荷物だしね」
「花束や手紙を沢山いただいたのです」
「良かったね。本当にお疲れ様」
その一言が嬉しかった。
労いの言葉が、心に溶け込んでいく。
翠兄さんの存在は、まるで秋の夕陽のように柔らかくて穏やかで、じんと胸が熱くなった。
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