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17章
月光の岬、光の矢 96
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ポストに投函された一枚のチラシを手に取った瞬間、指先がわずかに震えた。
『由比ヶ浜 丈診療所・内覧会のご案内』
この住所て、やっぱり、あそこよね。
内覧会って、どういうこと?
あの空き家だった洋館が、もしかして、また病院になるの?
しかも今日の午後だなんて。
行ってみたい。……ううん、行かなくちゃ。
診療所へと向かう道すがら、胸の奥がじわじわと熱くなっていくのを感じていた。
自宅から海へと続くまっすぐな道。
ここは、まだ娘が幼かった頃――抱っこして、おんぶして、手を引いて、何度も何度も通った道だった。
白い洋館を由比ガ浜の住人は、皆、『海里先生の病院』と呼んでいた。
当たり前のようにそこにあって、困った時にはいつでも頼れる場所。
娘が中学生になり、病院に行くこともなくなってしばらく経ったある日、私自身が高熱を出してふらふらになり、久しぶりにあの場所を訪れた。
だけど、扉を開けた瞬間に広がっていたのは、かつての賑わいとは違う、しんと静まり返った空気だった。
待合室の奥で、少し年を重ねた海里先生が、穏やかにこう言った。
「お久しぶりですね、典子さん」
「先生、ご無沙汰してしまってすみません……」
「とんでもない。えりこちゃんはお元気ですか?」
「はい。元気で、毎日部活ばかりです。また先生に会いたいって言ってました」
「それはよかったですね。……ですが、残念ですが、明日でこの病院は閉めることになりまして」
あまりに突然の言葉に、心臓がどくんと跳ねた。
そんなこと、知らなかった。
これから娘が悩んだとき、話を聞いてもらえる場所として、ここがあると信じていたのに。
「えっ、そんな……。私、ずっと……ここがあるって、思ってました」
気づけば、涙がぽろぽろとこぼれていた。
海里先生は、そんな私の手をそっと包み込むように握ってくれた。
「あなたのように、この場所を大切に思ってくださる方がいらして、私は幸せ者です。……実を言うと、いつか私の大切な人の縁者が、この地に診療所を開いてくれる気がしているんです。その日が来たら、どうかその人を信じて、通ってあげてください。人を想う力に、きっと長けていますから」
あのときは――慰めのように、やさしいおまじないのように聞こえたその言葉が。
……いま、現実になったのね。
陽光にきらめく海を背に、懐かしい建物が見えてきた。
診療所の前には、風に揺れる旗が立っている。
『本日 内覧会開催中』
やわらかな筆跡で書かれたその文字が、まるで「ようこそ」と手を振っているかのようだった。
私は吸い寄せられるように足を踏み出した。
一歩足を踏み入れると、木の香りがふわっと広がった。
新しく整えられた内装はどこか凛としていながらも、かつての面影を残していて――まるで家族のように、私を迎えてくれた。
靴を脱いでスリッパに足を通すと、懐かしいやわらかさが足裏に伝わる。
「おかえり」――そんな声が聴こえた気がした。
すぐに受付の向こうに立つ、白衣姿の男性が目に入った。
すらりとした背丈。年配の女性と話すその姿勢は、丁寧に腰を屈めて相手の目線に寄り添っている。
――きっと、あの方が丈先生なのね。
声は遠くて聞こえないけれど、その所作のひとつひとつに、どこか海里先生を思わせるやさしさが滲んでいた。
ああ、なるほど。
あの方が、海里先生が話していた「人を想うことに長けた人」なのね。
ふと視線を移すと、待合スペースの一角に小さな本棚が見えた。
手作りかしら?
前はここに、絵本の入った古い木箱があったのよね。
そっと近づいてみると、一番下の段に絵本コーナーがあった。
しゃがんでみると、懐かしい背表紙が目に入った。
『おやすみなさい、ちいさなうみ』
ああ――これって!
娘が高熱でぐずった日も、注射を嫌がって泣いたあとも、この本を読めばいつの間にか笑っていた。
海の町に住む色とりどりの魚たちが、月の光に包まれて静かに眠っていく――そんな、やさしいやさしい絵本。
ボロボロになるまで読んだから、我が家にも同じものを買ったのよね。
そっとページをめくると、ふわりとあの頃の空気が香る気がした。
そのとき、すぐ近くから、こんな声が耳に届いた。
「この診療所ってね、あの海里先生がお別れの日に話していた愛弟子さんが継いだんですって。ほんとうれしいわ。海里先生は最後まで私たちのことを考えてくださっていたのね」
聞こえてきたのは、私と同じように年を重ねた女性たちの、懐かしさに染まった声。
もう一度、丈先生のほうへ目を向けた。
やってきた人に頭を丁寧に下げ、声をかけるその横顔には、きっとまだ緊張もあるはずなのに、どこか静かで、あたたかかった。
心の奥にぽっと灯りがともる。
――ああ、よかった。
あの日の言葉は、夢じゃなかった。
この場所は、再び、海里先生の想いを受け継ぐ人の手で動き始めたのね。
丈先生、どうぞよろしくお願いします。
またここで、たくさんの思い出が育っていきますように。
心から――大歓迎です。
『由比ヶ浜 丈診療所・内覧会のご案内』
この住所て、やっぱり、あそこよね。
内覧会って、どういうこと?
あの空き家だった洋館が、もしかして、また病院になるの?
しかも今日の午後だなんて。
行ってみたい。……ううん、行かなくちゃ。
診療所へと向かう道すがら、胸の奥がじわじわと熱くなっていくのを感じていた。
自宅から海へと続くまっすぐな道。
ここは、まだ娘が幼かった頃――抱っこして、おんぶして、手を引いて、何度も何度も通った道だった。
白い洋館を由比ガ浜の住人は、皆、『海里先生の病院』と呼んでいた。
当たり前のようにそこにあって、困った時にはいつでも頼れる場所。
娘が中学生になり、病院に行くこともなくなってしばらく経ったある日、私自身が高熱を出してふらふらになり、久しぶりにあの場所を訪れた。
だけど、扉を開けた瞬間に広がっていたのは、かつての賑わいとは違う、しんと静まり返った空気だった。
待合室の奥で、少し年を重ねた海里先生が、穏やかにこう言った。
「お久しぶりですね、典子さん」
「先生、ご無沙汰してしまってすみません……」
「とんでもない。えりこちゃんはお元気ですか?」
「はい。元気で、毎日部活ばかりです。また先生に会いたいって言ってました」
「それはよかったですね。……ですが、残念ですが、明日でこの病院は閉めることになりまして」
あまりに突然の言葉に、心臓がどくんと跳ねた。
そんなこと、知らなかった。
これから娘が悩んだとき、話を聞いてもらえる場所として、ここがあると信じていたのに。
「えっ、そんな……。私、ずっと……ここがあるって、思ってました」
気づけば、涙がぽろぽろとこぼれていた。
海里先生は、そんな私の手をそっと包み込むように握ってくれた。
「あなたのように、この場所を大切に思ってくださる方がいらして、私は幸せ者です。……実を言うと、いつか私の大切な人の縁者が、この地に診療所を開いてくれる気がしているんです。その日が来たら、どうかその人を信じて、通ってあげてください。人を想う力に、きっと長けていますから」
あのときは――慰めのように、やさしいおまじないのように聞こえたその言葉が。
……いま、現実になったのね。
陽光にきらめく海を背に、懐かしい建物が見えてきた。
診療所の前には、風に揺れる旗が立っている。
『本日 内覧会開催中』
やわらかな筆跡で書かれたその文字が、まるで「ようこそ」と手を振っているかのようだった。
私は吸い寄せられるように足を踏み出した。
一歩足を踏み入れると、木の香りがふわっと広がった。
新しく整えられた内装はどこか凛としていながらも、かつての面影を残していて――まるで家族のように、私を迎えてくれた。
靴を脱いでスリッパに足を通すと、懐かしいやわらかさが足裏に伝わる。
「おかえり」――そんな声が聴こえた気がした。
すぐに受付の向こうに立つ、白衣姿の男性が目に入った。
すらりとした背丈。年配の女性と話すその姿勢は、丁寧に腰を屈めて相手の目線に寄り添っている。
――きっと、あの方が丈先生なのね。
声は遠くて聞こえないけれど、その所作のひとつひとつに、どこか海里先生を思わせるやさしさが滲んでいた。
ああ、なるほど。
あの方が、海里先生が話していた「人を想うことに長けた人」なのね。
ふと視線を移すと、待合スペースの一角に小さな本棚が見えた。
手作りかしら?
前はここに、絵本の入った古い木箱があったのよね。
そっと近づいてみると、一番下の段に絵本コーナーがあった。
しゃがんでみると、懐かしい背表紙が目に入った。
『おやすみなさい、ちいさなうみ』
ああ――これって!
娘が高熱でぐずった日も、注射を嫌がって泣いたあとも、この本を読めばいつの間にか笑っていた。
海の町に住む色とりどりの魚たちが、月の光に包まれて静かに眠っていく――そんな、やさしいやさしい絵本。
ボロボロになるまで読んだから、我が家にも同じものを買ったのよね。
そっとページをめくると、ふわりとあの頃の空気が香る気がした。
そのとき、すぐ近くから、こんな声が耳に届いた。
「この診療所ってね、あの海里先生がお別れの日に話していた愛弟子さんが継いだんですって。ほんとうれしいわ。海里先生は最後まで私たちのことを考えてくださっていたのね」
聞こえてきたのは、私と同じように年を重ねた女性たちの、懐かしさに染まった声。
もう一度、丈先生のほうへ目を向けた。
やってきた人に頭を丁寧に下げ、声をかけるその横顔には、きっとまだ緊張もあるはずなのに、どこか静かで、あたたかかった。
心の奥にぽっと灯りがともる。
――ああ、よかった。
あの日の言葉は、夢じゃなかった。
この場所は、再び、海里先生の想いを受け継ぐ人の手で動き始めたのね。
丈先生、どうぞよろしくお願いします。
またここで、たくさんの思い出が育っていきますように。
心から――大歓迎です。
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