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第二章
屏風の向こうに 2
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筆で紅をさされた。
「夕凪、鏡見ろよ。すごく似合っているぞ」
うっとりとした口調で律矢さんに囁かれるが、ちっとも心は晴れない。
「律矢さん、こんなのおかしい……こんな姿を人前に晒すのは嫌だ」
「そんなことない。こんな完璧な女装姿見たことがない。きっと誰もが美しい女性だと思うよ」
そう言われても鏡に映る自分の女装姿に心が萎んでいく。いくら美しい訪問着を着せてもらっても、日本髪の鬘に白粉、紅をひかれても……俺は男だ。こんな馬鹿みたいな姿で着物の展示会になんて行きたくない。若旦那時代の知り合いも来るだろう。生き恥をさらすようなものだ。
「嫌だ。怖い……嫌……」
うわ言のように呟いていると、律矢さんに唇を塞がれた。
「んっやめ……」
逃げようとすると手首を白壁にぎゅっと押さえつけられ、力を込められてしまった。
「痛っ……」
こんな姿……自分が標本の蝶になったような悲しい気持ちになる。
「夕凪、あまり駄々を捏ねるなよ。屏風の向こうにいればいい。俺は夕凪をここに一人で置いていくのが心配で連れて行くんだから、誰の相手もしなくていい。ただ俺の近くにいてくれ。なっ分かったな」
半ば強引に迎えに来た黒塗りの自家用車に乗せられてしまった。一体何日ぶりに外の世界に出たのだろう。だが、この女装姿が逃げられない足枷の様に俺を辱めていた。
****
「流石京都一の大鷹屋。屋敷凄く広いな」
「あっああ……そうだな」
「どうしたんだよ。信二郎はさっきからうわの空だな」
この家に夕凪を探しに来た日のことを思い出す。あの祇園で夕凪を助けた男が車に乗って出て来たのもここだった。今日ならあの男も来ているのだろうか。あの男なら夕凪の行方を知っている気がする。
「いらっしゃいませ」
恭しい挨拶が響く中、京都中の着物関連の強者どもが集まって来ているのが分かる。そうそうたる顔ぶれだ。この連中の中に『薫』という友禅作家もいるのだろうか。そちらも気になってしょうがない。
京都一の呉服屋、大鷹屋が自ら広大な屋敷を解放して開催する着物展示会には、膨大な数の着物が集まる。同時にそれは京都が誇る著名な作家の待望の新作着物に出会える場でもあるのだ。著名な着物作家が織りなす珠玉の名品の数々を見ることができる素晴らしい場で、前回は私の着物も取り扱ってもらったのだが、私が唯一完全に負けたと思った作品があった。
それは京友禅作家の『薫』のものだった。
「お客様、こちらが屋敷の展示案内図になります、どなたかお目当ての作家がおありですか?」
案内係にそう聞かれたので迷わず答えた。
「『薫』の作品は今回も出品されているのか」
「『薫』ですね。ええもちろんです。ご案内いたしましょうか」
「ぜひ頼む」
「ではこちらへ」
導かれるように、大鷹屋の長い廊下を渡っていく。もしかしてどこかに夕凪がいないか……小部屋を通り過ぎる度に気になってしまう。
****
「夕凪着いたよ、疲れなかったか」
「……大丈夫です」
律矢さんと俺が乗った自家用車は、大鷹屋の裏門にひっそりと停められた。
「ここからなら人目に付かずに屋敷に入れるからな」
「律矢さん……一体俺はどこで待てばいいのですか」
「こっちだよ」
通されたのは『夕顔の間』と書かれた展示会場の一室だった。
「ここ俺専用の展示場だ。ここにあるすべては全部俺の作品なんだ」
「えっこれ全てが……すごい」
部屋の中には色とりどりの着物が並べられ、まるで虹のような世界だった。
一宮屋の若旦那としてまだ経験は浅いが、それなりに一流の京友禅に触れて来たつもりだが、この部屋に展示されている着物は見たことがないほど素晴らしい。色合いも構図もどれも夢幻で堪らない。
「あの……この部屋のどこにいれば?」
「そうだな。あまり人目に付くのは嫌だろうから……そうだ、あの屏風の後ろで待っていてくれ」
「えっ律矢さんはどこへ? 」
「あっ俺か。実は京友禅作家というのは俺のもう一つの顔なんだ。作家としての俺を見た奴はいないんじゃないかな。まぁその方が話題性があっていいんだよ。それに今日の展示会では、この大鷹屋の若旦那として働かないといけないから、ここにはいられない」
「そんな、じゃあこの部屋に誰か来たらどうすればいいんですか」
「そうだな。夕凪は俺の弟子ってことにしよう。まぁ実際明日からはそうなるんだから、いいよな」
「そんなっ無謀なこと!」
「無謀じゃないよ、明日から絵を教えてやるって言っただろう」
律矢さんは俺の顎を指でくいっと摘まんで、軽く口づけをした。まだ誰もいない部屋にちゅっと甘ったるい音が響き恥ずかしさで埋もれたくなった。
「ふっ可愛いな」
滲んだ口紅を指で整えてくれた。
「じゃあこの屏風の向こうからは絶対に出るなよ」
「分かりました……でも……あの…」
「んっ? 」
「あの……早く戻ってきて欲しい。一人は怖いから……」
律矢さんは嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
「へぇ……夕凪。随分可愛いこと言ってくれるようになったな。昼飯持ってまた来るから、大人しくしていろよ」
「はい……」
「ほらここで待っていろ」
屏風の後ろに置いた椅子に俺を座らせると、律矢さんは部屋から出て行ってしまった。
こんな女装姿を他の誰かに見られたらと思うと背筋が凍る思いだ。恥ずかしくてこの場から消えたくて顔をあげていられず俯くと、足元に作家の紹介が書かれた紙が落ちているのに気がついた。
「これは……」
ーーーー
京友禅作家『薫』
遠山 夕顔氏、藤平 夕顔氏と続く女流作家「夕顔」の系譜を受け継ぎ、伝統的な文様を基礎としながら、若さ溢れる現代風の草花文様を優しい色使いで繊細に仕上げております。
ーーーー
これって、この『薫』というのが律矢さんの作家名なのだろうか。それに、夕顔」の系譜って何だろう。とても気になる。
「夕凪、鏡見ろよ。すごく似合っているぞ」
うっとりとした口調で律矢さんに囁かれるが、ちっとも心は晴れない。
「律矢さん、こんなのおかしい……こんな姿を人前に晒すのは嫌だ」
「そんなことない。こんな完璧な女装姿見たことがない。きっと誰もが美しい女性だと思うよ」
そう言われても鏡に映る自分の女装姿に心が萎んでいく。いくら美しい訪問着を着せてもらっても、日本髪の鬘に白粉、紅をひかれても……俺は男だ。こんな馬鹿みたいな姿で着物の展示会になんて行きたくない。若旦那時代の知り合いも来るだろう。生き恥をさらすようなものだ。
「嫌だ。怖い……嫌……」
うわ言のように呟いていると、律矢さんに唇を塞がれた。
「んっやめ……」
逃げようとすると手首を白壁にぎゅっと押さえつけられ、力を込められてしまった。
「痛っ……」
こんな姿……自分が標本の蝶になったような悲しい気持ちになる。
「夕凪、あまり駄々を捏ねるなよ。屏風の向こうにいればいい。俺は夕凪をここに一人で置いていくのが心配で連れて行くんだから、誰の相手もしなくていい。ただ俺の近くにいてくれ。なっ分かったな」
半ば強引に迎えに来た黒塗りの自家用車に乗せられてしまった。一体何日ぶりに外の世界に出たのだろう。だが、この女装姿が逃げられない足枷の様に俺を辱めていた。
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「流石京都一の大鷹屋。屋敷凄く広いな」
「あっああ……そうだな」
「どうしたんだよ。信二郎はさっきからうわの空だな」
この家に夕凪を探しに来た日のことを思い出す。あの祇園で夕凪を助けた男が車に乗って出て来たのもここだった。今日ならあの男も来ているのだろうか。あの男なら夕凪の行方を知っている気がする。
「いらっしゃいませ」
恭しい挨拶が響く中、京都中の着物関連の強者どもが集まって来ているのが分かる。そうそうたる顔ぶれだ。この連中の中に『薫』という友禅作家もいるのだろうか。そちらも気になってしょうがない。
京都一の呉服屋、大鷹屋が自ら広大な屋敷を解放して開催する着物展示会には、膨大な数の着物が集まる。同時にそれは京都が誇る著名な作家の待望の新作着物に出会える場でもあるのだ。著名な着物作家が織りなす珠玉の名品の数々を見ることができる素晴らしい場で、前回は私の着物も取り扱ってもらったのだが、私が唯一完全に負けたと思った作品があった。
それは京友禅作家の『薫』のものだった。
「お客様、こちらが屋敷の展示案内図になります、どなたかお目当ての作家がおありですか?」
案内係にそう聞かれたので迷わず答えた。
「『薫』の作品は今回も出品されているのか」
「『薫』ですね。ええもちろんです。ご案内いたしましょうか」
「ぜひ頼む」
「ではこちらへ」
導かれるように、大鷹屋の長い廊下を渡っていく。もしかしてどこかに夕凪がいないか……小部屋を通り過ぎる度に気になってしまう。
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「夕凪着いたよ、疲れなかったか」
「……大丈夫です」
律矢さんと俺が乗った自家用車は、大鷹屋の裏門にひっそりと停められた。
「ここからなら人目に付かずに屋敷に入れるからな」
「律矢さん……一体俺はどこで待てばいいのですか」
「こっちだよ」
通されたのは『夕顔の間』と書かれた展示会場の一室だった。
「ここ俺専用の展示場だ。ここにあるすべては全部俺の作品なんだ」
「えっこれ全てが……すごい」
部屋の中には色とりどりの着物が並べられ、まるで虹のような世界だった。
一宮屋の若旦那としてまだ経験は浅いが、それなりに一流の京友禅に触れて来たつもりだが、この部屋に展示されている着物は見たことがないほど素晴らしい。色合いも構図もどれも夢幻で堪らない。
「あの……この部屋のどこにいれば?」
「そうだな。あまり人目に付くのは嫌だろうから……そうだ、あの屏風の後ろで待っていてくれ」
「えっ律矢さんはどこへ? 」
「あっ俺か。実は京友禅作家というのは俺のもう一つの顔なんだ。作家としての俺を見た奴はいないんじゃないかな。まぁその方が話題性があっていいんだよ。それに今日の展示会では、この大鷹屋の若旦那として働かないといけないから、ここにはいられない」
「そんな、じゃあこの部屋に誰か来たらどうすればいいんですか」
「そうだな。夕凪は俺の弟子ってことにしよう。まぁ実際明日からはそうなるんだから、いいよな」
「そんなっ無謀なこと!」
「無謀じゃないよ、明日から絵を教えてやるって言っただろう」
律矢さんは俺の顎を指でくいっと摘まんで、軽く口づけをした。まだ誰もいない部屋にちゅっと甘ったるい音が響き恥ずかしさで埋もれたくなった。
「ふっ可愛いな」
滲んだ口紅を指で整えてくれた。
「じゃあこの屏風の向こうからは絶対に出るなよ」
「分かりました……でも……あの…」
「んっ? 」
「あの……早く戻ってきて欲しい。一人は怖いから……」
律矢さんは嬉しそうに目を細めて微笑んだ。
「へぇ……夕凪。随分可愛いこと言ってくれるようになったな。昼飯持ってまた来るから、大人しくしていろよ」
「はい……」
「ほらここで待っていろ」
屏風の後ろに置いた椅子に俺を座らせると、律矢さんは部屋から出て行ってしまった。
こんな女装姿を他の誰かに見られたらと思うと背筋が凍る思いだ。恥ずかしくてこの場から消えたくて顔をあげていられず俯くと、足元に作家の紹介が書かれた紙が落ちているのに気がついた。
「これは……」
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京友禅作家『薫』
遠山 夕顔氏、藤平 夕顔氏と続く女流作家「夕顔」の系譜を受け継ぎ、伝統的な文様を基礎としながら、若さ溢れる現代風の草花文様を優しい色使いで繊細に仕上げております。
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これって、この『薫』というのが律矢さんの作家名なのだろうか。それに、夕顔」の系譜って何だろう。とても気になる。
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