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第二章
ためらい 3
しおりを挟むいつの間にか眠ってしまったようだ。
窓の外から柔らかな橙色の夕陽が差し込み、ふわりと俺を包み込んでくれていたのに、階下から突然言い争う声が聞こえて来たので、一瞬にして躰が強張ってしまった。
耳をそばだててみれば案じていた通り、それは両親の声だった。
いつまで俺はこの部屋で待てばいいのか。母にばかりに負担をかけられない。思い切って自ら父に事情を話し、許しを請おう。実の両親ならきっと分かってくれるはずだ。そう決心して階段を一段一段……降りた。
だが言い争う声はお互いの言い分に夢中で、俺の足音には全く気が付かなかった。
「あなたは酷いですわ。いくら夕凪が私が腹を痛めた子じゃないからって、そんな無下なこと、到底できません」
「だが大鷹屋の旦那が呼び戻したがっているんだから、しょうがないだろっ」
「今更、嫌です。手放せません。ただでさえ、あなたが勝手に修行にやったのだって私は嫌でしたのに……挙句の果てに行方不明にまでなるなんて。きっと何か嫌な目にあったのよ。辛抱強いあの子が自分から逃げ出してしまう程の辛いことが!」
「まぁいいから、とにかく夕凪を見つけたらすぐに大鷹屋に送り返さないといけない。そのことをお前も心しておけ」
「そんな酷いわ……逃げた場所へまた戻すなんて。あの子がそれではあまりに憐れだわ」
「もう二度とこの家には入れるなよ。お前も絶対に甘い顔をするな。夕凪はもう借金と引き換えに大鷹屋に売ったのだ」
「そっそんな。売っただなんて……乳飲み子からここまで私の手で育てた大事な息子なのに……まさか……あぁ…うっ…うっ…夕凪……私を許して頂戴」
え……今なんと?
なんてことだ。青天の霹靂(へきれき)とはこのことを言うのか。
階段の途中でうっかり聞いてしまった二人の会話は、俺を奈落の底へ突き落す程の衝撃だった。母が腹を痛めた子供ではないとは、一体どういうことだ? では……では一体……俺は誰から生まれたのか、俺の母は誰だ?
幼い頃から俺には、薄々感じては否定し続けていた訳の分からない両親への違和感があった。それがとうとう現実になってしまったということなのか。それにしても何故……大鷹屋にそんなに拘るのだ?
まさか……
いやまさか……
その先を考えるのはひどく恐ろしいことだ。とにかく俺の居場所は、もうこの一宮屋にはなかったのか。ただそのことだけが頭の中をぐるぐる回っていた。
早く出て行かないと。ここはもう俺の居場所ではないのだ。頼れる安心できる場所ではなくなってしまったのだ。そう思うと体がよろめきながらも、自然に動いた。
若旦那になってから和装で過ごすことが多くなっていたが、あえて洋装を選んだ。歩きやすいように逃げやすいように……トランクに当面の着替えなどを詰め込み、机の上に置かれていたあの日の筆も入れた。
最後に部屋を見渡すと、脱ぎ捨てた着物が床に乱れて広がっていた。
あぁ……これは信二郎の作ってくれた着物だ。
俺は律矢さんが作ってくれた京友禅を脱ぎ捨て信二郎と手を取り合ったのに、今度は信二郎からも逃げて、とうとう一人で去ることになってしまった。
だがここを出てどこへ行けばよいのか……大鷹屋にだけは戻りたくない。
信二郎……律矢さん、あなたたち二人を頼るわけには行かない。だが頼るべき人がいない。
一体どうしたらよいのか。
そうだ……今は迷っている場合ではない。父に見つかれば大鷹屋へ戻されてしまう。その前にここを去らねば。この先のことは後々考えればよい。
もう行かねば。
勢いをつけて立ち上がった拍子に、先ほど旅館で庭師からもらったメモ書きがはらりと床に落ちた。
「ふっ……こんな場所へ行くはずがないのに」
ただ、この部屋に残して行くわけにもいかないので、上着のポケットに忍ばせた。
一宮屋へ先ほど一人で入って来た時のように、また裏口から一人で出ようとしていると、背後から母に呼び止められた。
「夕凪さん……」
「母さま」
「……あなた……その荷物はどういうことなの? 」
「もうこれ以上迷惑を掛けれません。今まで育てて下さり、ありがとうございます」
「ま……まさか、あなた……さっきの、聞いてしまったの? 」
母が大粒の涙をぽろりと零したので、俺は無言でコクリと頷いた。
「夕凪……あなたはこの私が育てた子なのよ。何処へ行くつもりなの?あてはあるの?」
「もうここにはいられません。ここではない何処かへ行きます」
「あぁごめんなさい。夕凪……本当にごめんなさい。せめて落ち着いたら私にだけは連絡をして。それから大鷹屋には決して見つからないようにして。あの家はあなたを駄目にするから」
「はい……」
母の口ぶりからも察せられるように、やはり大鷹屋と俺は何か深い繋がりがあるようだ。そのことを深く考えるのは、今は怖い。母は無言で俺の手に白い封筒を握らせた。
「急なことで、あまり用意できなかったけれども、これを持っていきなさい。さぁ父さまに見つからない内にここを出て、必ず……生きていれば良いこともあるはずよ。諦めないで……あなたに何もしてやれない母をどうか許して」
母の眼は涙に溢れていた。
「母さま……お気遣いありがとうございます。俺はもう二十三歳です。しっかり自分の力で生きていける歳になっていますから、そんなに心配しないでください。今までが……何もかも…恵まれすぎていただけです」
惜別の涙が零れ落ちないように見上げれば
広がる夕凪の空
茜色に染まる京の町
今までずっとこの時間は、家に帰れる幸せな時だと思っていたのに……今は独り……生まれ育った家を出て行かなくてはいけない時間になってしまった。
厳格だった父、ただただ優しかった母。
美しい着物で色鮮やかに溢れていた一宮屋。
きっともう二度と戻れない。
いや……戻らない場所になるだろう。
「さようなら…」
第二章 了
あとがき
****
志生帆 海です。いつも『夕凪の空 京の香り』を読んでくださってありがとうございます。
物語は二章から急展開して、ここまで進んできました。
「えっ?信二郎は?律矢さんは?」と、皆様をもやもやとさせてしまっているかと思います。続きは波乱の三章で……
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