夕凪の空 京の香り

志生帆 海

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第三章

月影寺にて 3

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 本名を名乗るのが躊躇われて『夕』と名乗ったことがいけなかったのだろうか。流水さんとそのお兄さんの湖翠さんの顔色が、さっと変わった。

「夕か……あの方もご自分のことをそう呼ぶように言っていた」
「あの……一体?」
「あぁ悪い、きちんと説明しなくてはな。もう二十年以上も前のことだ。君の顔とよく似た女性が、乳飲み子を抱えてこの寺に駆け込んできたのは。私と弟はまだ少年だったが、その時のことをよく覚えている。少し話してもよいか」
「ええ、ぜひ教えてください」
「あれはまだ僕が12歳の少年の頃のことだった」

****

「流水いい加減にそろそろ寝るぞ、早く寝ないと明日の朝もまた寝坊してしまうよ。写経の時間に間に合わないと、また父様に叱られるぞ」
「うん……でも湖翠兄さん、さっきから何か外で物音がしない?」
「そうかな? 」

 微かに寺の山門を叩く微かな音が聞こえたのは、そろそろ床に入ろうと部屋の灯りを消したばかりの時だった。二つ下の弟の流水は普段から勘が良く耳も良いので間違いないようだった。

「ほら、また聴こえた」

 僕もじっと息を潜め耳を澄ませば、今度は山門を叩く音以外に風にのって赤ん坊の泣き声も聞こえて来た。

「本当だ……赤ん坊がいるようだ! 流水っ行ってみよう!」

 慌てて玄関へ駆け下り裸足に下駄を履いて、弟と真っ暗な山門を目指した。

「あそこだ! 兄さん、やっぱり赤ん坊だ! ほらっ赤ん坊のお母さんも一緒だ!」
「流水っ、急いで母様を呼んで来い」

 僕の生まれ育った鎌倉の山奥の古寺は、巷では『駆け込み寺』という異名を持っていることは幼いながらにも知っていた。だが実際にこうやって本当に切羽詰まった女性が目の前で行き倒れているのを見るのは初めてで焦ってしまった。

 それにその女性はまるで物語に出て来る天女のように美しく、その胸に抱かれ、か細い声で泣く赤ん坊も仏様の御子のように健やかで美しい顔をしていた。こんなに美しい女性と赤子は見たことがない。

 辿り着いたことに安堵したらしい女性は、山門の木戸にもたれて意識を失ってしまっていた。僕は咄嗟にその胸で息苦しそうに泣いている赤ん坊をそっと抱きあげてやった。すると、「ふぇふぇ」っとか細い鳴き声と共に、僕の袖を楓のように小さな手できゅっと掴んで来た。

 途端に胸を掴まれたような心地になった。こんなに小さいのに必死に生きようとして……愛おしさが込み上げてくるよ。

 その女性は産後の肥立ちが悪かったらしく、無事に寺に保護されたもののそのまま床に臥せってしまった。産後すぐの無理な旅が祟ったのだろう。どうやら随分遠くから逃げて来たらしかった。

 母親が床に臥せって起き上がれない状態だったので、その赤ん坊は同じように駆け込み寺にいた他の女性から乳を分けてもらい、その他は俺達兄弟が面倒を見ることになった。

「にっ兄さま。俺達で大丈夫かな? こんなに小さな赤ん坊、壊しそうで怖いよ」

 いつも外を駆け回っていたやんちゃな弟の流水は最初戸惑っていたが、僕は小さい頃の流水をふと思い出して、ただただ愛おしく感じていた。赤ん坊はまだ本当に生まれて間もなく小さかったのに、僕が抱けば泣き止み、にこにこと笑ってくれた。

 それからしばらく経った頃だろうか。コンコンと咳が止まらず、ずっと床に臥せっていた赤ん坊の母親と僕が初めて会話を交わしたのは。僕の胸元で小さな赤ん坊は、すぅすぅと心地良さそうに寝息を立てていた。

「坊ちゃま、ありがとうございます。息子の面倒をいつも見て下さって、可愛がって下さって…」
「あの……いい加減に、この子の名前を教えてくれませんか」
「実はこの子には、まだ名前がないのですよ。私はこの子を隠れて産んで……それで」
「そんなっご自分が産んだお子なのに名前をつけないなんて……変だ!」
「……本当にそうですよね」

 女性は今にも消え入りそうなほど儚い笑顔を作ってみせた。

「では……坊ちゃんがつけて下さいませんか」
「いいのか? 名前がないのは僕も弟も、その……何かと不便なのだ」
「ええ、この子を実の弟のように可愛がってくださっている坊ちゃんにつけていただきたいです」
「そうか、じゃあ、あなたのお名前は、なんというのです? お母さまにちなんだお名前がよろしいでしょう」
「私は……夕顔、いえ『夕』とお呼び下さいませ」
「夕か」
「そうです」

 いきなり、この胸に抱く小さな赤子の名付け親になってくれと言われて戸惑ってしまった。だが、ありがたいことだとも思った。せめて母親にちなんだ名前をつけてやりたい。すぐに名前は浮かんだ。私が大好きな時の名前をこの子に与えてやりたい。

「じゃあ、この子は『夕凪(ゆうなぎ)』と名付けよう」
「まぁとても綺麗な名前ですね。どんな意味を込めて下さいましたの?」
「この寺から真っすぐ山を下れば広い海が開けている、私は夕刻の無風の時が好きだからだ。僕にとって『夕凪』とは、どんな状況でも自分を見失わず保っていくという決意みたいな意味で……あの……気に入ってもらえましたか」
「ええ、とても。坊ちゃま、ありがとうございます」

 夕と名乗る女性は、青白い顔で精一杯の笑顔を作ってくれた。その澄んだ目には涙が浮かび、水晶のように輝いていた。儚げな今にも消え入りそうな姿に、この方は赤ん坊の成長を無事に見守ることが出来るのだろうかと不安が過ってしまった。

「夕凪……」

 この美しい赤ん坊は、その日からそう呼ばれるようになったのだ。
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