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第三章
月影寺にて 7
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「そういうわけで、夕凪がまだ八カ月の赤ん坊の時に、この寺から養子に出されたのだ。父や母は未練を持つな。綺麗に忘れた方が夕凪の新しい人生のためだと僕たち諭した」
湖翠さんから聞いた俺の生い立ちは壮絶だった。
「そんな事情があったなんて……俺は……俺は何も知らずに今まで生きて来ました」
「いや無理もない。すべては夕凪がまだ小さな赤ん坊頃の話だ。だから自分を責めるな」
「俺は何も思い出せません。でもここは何故だか……懐かしい」
その気持ちは本当だ。さっきから妙に懐かしい気配を感じているのだから。
「そうだろう。この部屋はもともと僕と流水の子供部屋だったのだ。幼い君もこの部屋で僕たちと共に寝起きしていたのだよ。夜中に乳を欲しがり泣いたことや、熱を出して一晩中看病されたこと……当たり前だが覚えてないのだな」
綺麗に整った和室をぐるりと眺めても記憶は蘇らない。本当に青天の霹靂とはこのことを言うのか、全く身に覚えがない話にただ驚いた。だが微かな本能で覚えているのだろうか。それともこの右肘の火傷の痕が、俺の躰にその思い出を刻んでいるのか。全く覚えていないはずなのに、懐かしいという感情が確かに沸いていた。
「夕凪……君に会いたかったよ。手放したくなかった。僕の弟だ」
「そうだとも、ずっと秘かに俺達兄弟はお前との再会を夢見ていた。こんな再会ではあったが、それでも嬉しい。もう安心しろ。お前のことは俺たちが守ってやるから」
湖翠さんと流水さんが俺の肩をぎゅっと安心させるかのように抱いてくれた。
「うっ……」
途端に、ずっと張りつめていた糸が切れたように涙がはらはらと零れ落ちて行った。温かい信用できる人の心遣いが、命を絶ちたくなるほどの辱めを受けた躰に染み入った。
「ううっ……」
「夕凪、あぁ安心しろ。まずは躰を休めろ。ここはお前の家でもあるのだ。もう俺たちの両親はこの世にいない。湖翠兄さんがこの寺の住職だ。だからもうお前を邪魔者扱いするものはいないのだから大丈夫だから。なっ」
「母の墓……そこへ案内していただけますか」
「だが、まだ躰が」
「大丈夫です。それだけはまずさせてください」
「……そうか、そうだな。分かった」
床から立ち上がろうとしたら、躰の痛みで不覚にもよろけてしまった。
「大丈夫か。さぁ掴まれ」
「えっ! あっ降ろして下さい」
「何言ってる? 小さい頃はこうやって横抱きにいつもしていた。それにしてもお前軽いな」
「なっ」
打撲と裂傷で傷ついた躰はすぐに動かせなかった。だが……かといって流水さんに軽々と横抱きにされるのは恥ずかしかった。
横抱きにされたまま庭先へ降りると、頬を掠める風は爽やかで心地よかった。寺の美しい庭を通り抜けた先には、広大な墓地があった。そして奥まった墓地の前でやっと降ろされた。
「ここだよ……夕顔さんの墓は、※十万石青御影石を使っていて、落ち着いているだろう」
綺麗に整えられた美しい墓だった。青みを持つ石の色は、まるで母の心の深さを表しているようだ。
ここに眠る女性が、俺の産みの親なのか。まだ実感がわかないが、確かな話なのだろう。
すべては導かれるように……俺は今ここに立っているのだから。
墓石に刻まれた名に触れてみる。
「夕顔……」
母の名前なのか。夕顔とは……
「母様……」
今度はそう呼んでみた。
ぐっと込み上げてくるものを感じる。
墓の前に手向けられた白き花が儚げに風に揺れていた。
ふと棹石の正面に刻まれた彫刻をみると和歌が彫られていた。
「あの……これは?」
「あぁこれは故人の個性や思いを表したものを刻んでいるのだよ。「心」「想」「愛」「感謝」などの文字のほか、詩、和歌・俳句などが多い。夕顔さんの生前の願いでこの和歌を彫刻したのを覚えている」
****
天の海に 雲の波たち月の舟 星の林にこぎ隠る見ゆ
万葉集・柿本朝臣人麿
現代語訳・天の海に雲の波が立ち月の船が星の林に漕ぎ隠れていくのが見えるよ
歌の内容は「天」を「海」、「雲」を「波」、「月」を「船」、「星」を「林」に見立てて詠んだ壮大な1首です。
****
その和歌を口ずさんだ瞬間に、ぐらりと地面が揺れたように感じた。そのまま目の前の光景が幕を閉じたように一瞬で暗くなり、焦って瞬きをすると昼間のはずがいつの間にか夜になっていた。
不思議に思い夜空を見上げれば……大きな下弦の月が頭上に浮かんでいた。
その月の船に乗り、俺は旅に出る。
雲の波を避け、星の林を避けながら……行先遠い遠い時間が経った、そのまた先の世界。
時空を超える旅に出る。
何故かそうしていることを理解できていた。
再び辿り着いたその先は、やはり夕顔の墓の前だった。
そこには二人の青年が、墓の前でしゃがんで手を合わせ拝んでいた。
「誰だ? 君たちは……」
俺の声に反応した濃紺の浴衣を着た若い青年が、はっと頭上を見上げれば、月の船に乗った俺と目が合った。
長い睫毛の下で揺れる儚げな瞳、薄い桜色の唇。
この顔には見覚えがある。これは俺の顔だ。
「君は……俺なのか」
青年にも俺が見えるらしく、目を見開いて驚いていた。
「君は……君も俺なのか」
そして片手を月に触れるほど高く伸ばして来た。もう片方の手を見れば、隣に立つ背の高い青年と、しっかり繋ぎ合っていた。
俺とそっくりなその若い青年は、幸せそうに微笑んでいた。
そうか……そうなんだな。
「君は幸せなんだね、君が幸せなら……よかった」
手を触れられそうな距離なのに、どうしても触れられない世界。
これは夕顔の墓が見せてくれた幻なのか、それとも………
****
※細目で青みを持つ、落ち着いた石目が特徴の石材。
本日は『重なる月』とリンクしていく内容でした。夕凪が見た二人とは『重なる月』の丈と洋……
湖翠さんから聞いた俺の生い立ちは壮絶だった。
「そんな事情があったなんて……俺は……俺は何も知らずに今まで生きて来ました」
「いや無理もない。すべては夕凪がまだ小さな赤ん坊頃の話だ。だから自分を責めるな」
「俺は何も思い出せません。でもここは何故だか……懐かしい」
その気持ちは本当だ。さっきから妙に懐かしい気配を感じているのだから。
「そうだろう。この部屋はもともと僕と流水の子供部屋だったのだ。幼い君もこの部屋で僕たちと共に寝起きしていたのだよ。夜中に乳を欲しがり泣いたことや、熱を出して一晩中看病されたこと……当たり前だが覚えてないのだな」
綺麗に整った和室をぐるりと眺めても記憶は蘇らない。本当に青天の霹靂とはこのことを言うのか、全く身に覚えがない話にただ驚いた。だが微かな本能で覚えているのだろうか。それともこの右肘の火傷の痕が、俺の躰にその思い出を刻んでいるのか。全く覚えていないはずなのに、懐かしいという感情が確かに沸いていた。
「夕凪……君に会いたかったよ。手放したくなかった。僕の弟だ」
「そうだとも、ずっと秘かに俺達兄弟はお前との再会を夢見ていた。こんな再会ではあったが、それでも嬉しい。もう安心しろ。お前のことは俺たちが守ってやるから」
湖翠さんと流水さんが俺の肩をぎゅっと安心させるかのように抱いてくれた。
「うっ……」
途端に、ずっと張りつめていた糸が切れたように涙がはらはらと零れ落ちて行った。温かい信用できる人の心遣いが、命を絶ちたくなるほどの辱めを受けた躰に染み入った。
「ううっ……」
「夕凪、あぁ安心しろ。まずは躰を休めろ。ここはお前の家でもあるのだ。もう俺たちの両親はこの世にいない。湖翠兄さんがこの寺の住職だ。だからもうお前を邪魔者扱いするものはいないのだから大丈夫だから。なっ」
「母の墓……そこへ案内していただけますか」
「だが、まだ躰が」
「大丈夫です。それだけはまずさせてください」
「……そうか、そうだな。分かった」
床から立ち上がろうとしたら、躰の痛みで不覚にもよろけてしまった。
「大丈夫か。さぁ掴まれ」
「えっ! あっ降ろして下さい」
「何言ってる? 小さい頃はこうやって横抱きにいつもしていた。それにしてもお前軽いな」
「なっ」
打撲と裂傷で傷ついた躰はすぐに動かせなかった。だが……かといって流水さんに軽々と横抱きにされるのは恥ずかしかった。
横抱きにされたまま庭先へ降りると、頬を掠める風は爽やかで心地よかった。寺の美しい庭を通り抜けた先には、広大な墓地があった。そして奥まった墓地の前でやっと降ろされた。
「ここだよ……夕顔さんの墓は、※十万石青御影石を使っていて、落ち着いているだろう」
綺麗に整えられた美しい墓だった。青みを持つ石の色は、まるで母の心の深さを表しているようだ。
ここに眠る女性が、俺の産みの親なのか。まだ実感がわかないが、確かな話なのだろう。
すべては導かれるように……俺は今ここに立っているのだから。
墓石に刻まれた名に触れてみる。
「夕顔……」
母の名前なのか。夕顔とは……
「母様……」
今度はそう呼んでみた。
ぐっと込み上げてくるものを感じる。
墓の前に手向けられた白き花が儚げに風に揺れていた。
ふと棹石の正面に刻まれた彫刻をみると和歌が彫られていた。
「あの……これは?」
「あぁこれは故人の個性や思いを表したものを刻んでいるのだよ。「心」「想」「愛」「感謝」などの文字のほか、詩、和歌・俳句などが多い。夕顔さんの生前の願いでこの和歌を彫刻したのを覚えている」
****
天の海に 雲の波たち月の舟 星の林にこぎ隠る見ゆ
万葉集・柿本朝臣人麿
現代語訳・天の海に雲の波が立ち月の船が星の林に漕ぎ隠れていくのが見えるよ
歌の内容は「天」を「海」、「雲」を「波」、「月」を「船」、「星」を「林」に見立てて詠んだ壮大な1首です。
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その和歌を口ずさんだ瞬間に、ぐらりと地面が揺れたように感じた。そのまま目の前の光景が幕を閉じたように一瞬で暗くなり、焦って瞬きをすると昼間のはずがいつの間にか夜になっていた。
不思議に思い夜空を見上げれば……大きな下弦の月が頭上に浮かんでいた。
その月の船に乗り、俺は旅に出る。
雲の波を避け、星の林を避けながら……行先遠い遠い時間が経った、そのまた先の世界。
時空を超える旅に出る。
何故かそうしていることを理解できていた。
再び辿り着いたその先は、やはり夕顔の墓の前だった。
そこには二人の青年が、墓の前でしゃがんで手を合わせ拝んでいた。
「誰だ? 君たちは……」
俺の声に反応した濃紺の浴衣を着た若い青年が、はっと頭上を見上げれば、月の船に乗った俺と目が合った。
長い睫毛の下で揺れる儚げな瞳、薄い桜色の唇。
この顔には見覚えがある。これは俺の顔だ。
「君は……俺なのか」
青年にも俺が見えるらしく、目を見開いて驚いていた。
「君は……君も俺なのか」
そして片手を月に触れるほど高く伸ばして来た。もう片方の手を見れば、隣に立つ背の高い青年と、しっかり繋ぎ合っていた。
俺とそっくりなその若い青年は、幸せそうに微笑んでいた。
そうか……そうなんだな。
「君は幸せなんだね、君が幸せなら……よかった」
手を触れられそうな距離なのに、どうしても触れられない世界。
これは夕顔の墓が見せてくれた幻なのか、それとも………
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※細目で青みを持つ、落ち着いた石目が特徴の石材。
本日は『重なる月』とリンクしていく内容でした。夕凪が見た二人とは『重なる月』の丈と洋……
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