忍ぶれど… 兄は俺の光――息が届くほど近くにいるのに、けっして触れてはならぬ想い人

志生帆 海

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忍ぶれど……

忘れ潮 7

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「兄さん?」

 急に、身に覚えのある懐かしい視線を感じた。

 兄さん?

 兄さんの視線を、俺が逃すはずはない。

 だがそれは俺が目指す海の方向からではなく、すぐ横を走る国道からだった。

「どこだ? 兄さんっ」

 目を一度閉じて、意識を集中させていく。

 車……車の中か。

 必死に辺りを見渡すが行き交う車の量が多くて辿れない。

 心の灯のように理解出来たのは、もう海に行っても兄さんには会えないということだけだった。

「くそっ、ここでまたすれ違いなのか。永遠に俺と兄さんの間はこんな風に空回りしていくのかよ!」

 諦めかけた時になって駅に向かって走り出した一台のタクシーの後部座席に、兄さんの横顔を見つけた。だが対向車のヘッドライトに照らされた兄さんは真っすぐに駅方面を見つめていた。

「兄さんっ!」

 どんなに大声で呼んでも叫んでも、雑踏に俺の声はかき消されて消えてしまう。

 もうここまでだ。

 お前たち兄弟の縁はここまでだと、最後通告されたようで恨めしい。

(諦めるな! お前はそんな態度をとっている場合じゃないだろう。今生であの人と同じ時を生きているだけでも奇跡的なことなのに、どんなに望んでも俺には叶わなかったことなのに、何故そうやって時間を無駄にする?)

 どこからともなく吹いてくる風のような言葉に、意味を見出せない。

 そんなの知るかよ!

 もう無理だ。

 もう俺と翠は無理だ。
 
 
****

 それは発作的に北鎌倉に帰ってしまった翌週の事だった。

 彩乃さんが職場から一本の電話をかけてきてた。

 僕は意味が分からないまま、仕事帰りに高層ホテルのバーに向かった。

 薙は実家に預けたと言っていたが、一体何の用事だろう。

 不安ばかりが募る。

 夜になり指定されたホテルのエレベーターを58階で降りると、眼下には宝石箱をひっくり返したかのような煌びやかな夜景が広がっていた。こんな派手な場所には不慣れで戸惑ってしまう。

「いらっしゃいませ、お待ち合わせですか」
「ええ、森で予約していると思うのですが」
「あちらでお連れ様が既にお待ちです」

 案内された席は夜景が見えるカウンターではなく、奥まったソファ席だった。暗い照明の中に彩乃さんが気怠そうにひとりで足を組んで座っていた。

 彼女はいつになく胸の開いた開放的なワンピースに高いハイヒールを履いていた。

「あら翠さん」
「彩乃さん一体どうしたんだい? その恰好も……」
「まぁ何言っているの? これが普段の私よ」
「……」
「全く無頓着なあなたらしいわ。でも、その服ちゃんと着てくれたのね」

 僕の服は結婚してから全部彩乃さんが選んだものだった。

 僕が実家から持ってきた服は全て処分されてしまった。母や流と選んだ大事な服ばかりだったのに、どうやら彩乃さんの好みに合わなかったらしい。

 僕は優しい穏やかな和の色合いのものが好きだが、彩乃さんはモノトーンやビビットなカラーを好んでいた。今日の服もそうだ。黒いタイトなパンツなんて窮屈で仕方がないのに、袈裟姿の方がどんなに落ち着くことか。

「ところでこんな場所に呼び出して……話って何?」
「……家じゃ冷静になれないから、あえてここにしたのよ」
「冷静になれない事なのか」

 まったく見当がつかないので、質問ばかりしてしまう。

「翠さん、あのね……私と離婚してくれない?」
「えっ……今なんて?」

 突然だった。

 あまりに突然すぎる内容で、思わず聞き返してしまった。

「あぁ薙のことなら心配しないで、ちゃんと引き取るから。だからあなたはもう北鎌倉に帰っていいわよ」
「どうして……そんなことを……急に? 一方的に決めてしまうんだ?」

 人間あまりに驚くと、上手く会話出来ないものだと思った。

「もしかして僕がこの前勝手に北鎌倉に帰ったことを、まだ怒っているのか」
「それもあるけど、それだけじゃないわ。私、もう嫌なの。あなたはいつも外をばかり見て、まるで閉じ込められた籠の鳥のように悲し気な目をして……もう、うんざりなのよ! もう見たくない。そんなに都内で暮らすのが嫌だった? そんなに私のことが嫌だった? いつだって実家に帰りたそうにして……本当の私を見てくれなかった」

 なんてことだ。僕は彼女の心にこんなにも負担をかけてしまっていたのか。流と疎遠になってからの僕の態度は、確かに言われた通りだったかもしれない。でも離婚だなんて、急過ぎる! 

 可愛い息子の薙はやっと五歳になったばかりだ。

 薙のためにも離婚は、なんとしてでも回避したい。

「お願いだ。考え直してくれ。僕も態度を改めるから」
「もう決めたのよ。無駄に抗わないで」

 無駄? 無駄なことなのか。

 ピシャリと釘を刺された。

 まるで心臓に真っすぐに釘を打たれたように、その貫かれたような痛みに、思考がぴたりと停止してしまった。

「嫌だ……離婚なんて……家族がバラバラになるなんて……薙と離れて暮らすなんて」
「今更だわ。もちろん薙とは定期的に会う機会を設けるわ。それに、私は、あなたのことを嫌いになったわけじゃない」
「じゃあ何故?」
「……私を見ないあなたのことを見たくなくなったの」
「……そんな」
「今日は薙は実家に泊まるの。上に部屋を取ったの。だから私を抱いてよ」
「……」

 言っている意味が分からない。

 この状況で、離婚を切り出した口で、何故そんなことを口走ることが出来るのか、全く理解出来ない。

「……意外そうな表情ね。翠さん。これは……私を散々悲しませた罰よ」




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