忍ぶれど… 兄は俺の光――息が届くほど近くにいるのに、けっして触れてはならぬ想い人

志生帆 海

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色は匂へど……

波の綾 14

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「着いたぞ」

 由比ヶ浜の海を臨む白い洋館が二棟。

 左手には『海里診療所』と看板が掲げられていた。

「流、こんな所に診療所があったなんて気付かなかったね」
「そうだな、いつの間に出来たのか。おっと渋滞してなかったから早く着きすぎたな」

 時計を見ると、まだ約束の時間よりも30分も前だった。

「兄さん、少し海に行かないか」
「そうだね。流石に早すぎるよね」

 ところが翠は座席から動かない。

 シートベルトを外すには俺の係だと、さり気なく目で訴えてくる。

 可愛い顔をしてんな。

 もしかして俺が自然に近づける機会を与えてくれているのか。

 そんな風に解釈してしまう。

 自分で出来ることを、あえて俺にさせてくれるのは。

 誤解してしまう。

 期待してしまう。

 すっと身を寄せて、カチッとシートベルトを外してやる。
 
 その瞬間、欲望が生まれる。

 翠の胸に耳をあてて心臓の音を聴いてみたい。

 少しは鼓動を早めてくれているか。

 なぁ、俺を意識してくれないか。

 弟ではなく一人の男として

 ただの『流』として――

 それを直接確かめたい衝動に駆られるが、必死に抑え込んだ。

 翠の小さな喉仏が、物欲しそうにコクンと上下する。

 もう限界だ。

 翠のそこはかとない色気にヤラレル!

「ほ、ほら、もう自由だ! 降りるぞ」

 俺は慌てて手を引っ込め、車から降りて深呼吸した。
 
 翠も助手席から降りて俺の横に立つと、少し大きめのポロシャツが海風にはためいていた。

「流、僕はこんな色のポロシャツ持っていたかな?」
「気に入らないか」
「その逆だよ。とても落ち着く色で大好きだ」
「そうか、それは兄さんの色だよ」
「僕の?」
「あぁ、俺が生み出した色だ」


……

 結婚してから、兄さんの服装のトーンがガラリと変わってしまった。

 スーツならともかく、普段着まで黒やグレーなどのシャープでカチッとした物ばかりを着ている。ただでさえ生真面目で長男気質の責任感の塊みたいな人なのに、普段着までこれでは気の毒だ。

 兄さんを窒息させるつもりか!

 だが……そんなことは嫁さんを前に口に出せない。

 何時ぞやは……俺が選んだマフラーを目の前で外され、逆上したこともあった。
 
 あの頃から俺は翠を視界から徹底的に葬り出した。
 
 兄さんが帰省する時は必ず家を空け、日本全国放浪の旅に出て、兄さんを見ないようにした。

 あの年も……

 兄さんが珍しく秋休みで帰省するというので、俺は慌てて家を出た。

 行き先に迷ったが、深まる秋を感じたくて京都に向かった。

 だがまだ紅葉には早かった。それで電車で大阪にあてもなく向かったのさ。

 道頓堀あたりで飲もうと思ったが時間が早かったので、川の流れを感じながらぶらぶら歩いていると、ほのかな甘い香りがした。どうやら公会堂や図書館などレトロなビルだけだと思っていた場所に、薔薇園があるようだ。

 背中を押されるように、ふらりと足を踏み入れた。

「そうか、今は秋薔薇の季節なのか」

 華やかな春薔薇とは違い、秋薔薇は濃い色と豊かな香りが魅力的だ。

 寒暖差が大きくなるとゆっくりと蕾が膨んで開花するので、シックな深い花色になりグッとくる。

 鮮やかな春薔薇に比べると豪華さでは劣るが、一輪ずつが美しいので、色・形・香りと見ごたえは充分だ。

 俺は秋薔薇が好きだ。

 競い合うように咲く春の薔薇よりも、凜とした佇まいの一輪に心引かれる。

 そう、あんな色が好きだ。

 兄さんを彷彿する……

 淡く紫がかったピンク色の薔薇に足を止める。

 こんな色を着て欲しい。

 こんな色を着せてやりたい。

 俺のこの手で染め上げたい。

 兄さんは、もう縁を切った人だ。
 
 そう思うのに、湧き上がるのは兄さんへの情ばかり。

 薔薇の名前は『しのぶれど』
 
 そのプレートを見た瞬間、感情が爆発した。

「翠……」
「俺の翠……」

 はたして……

 いつかそう呼べる日がくるのだろうか。
 いつまで待てば、報われるのだろうか。

 忍ぶれど  色に出でにけり わが恋は
 物や思ふと 人の問ふまで

(平兼盛)


 もう隠しきれない、この忍ぶ恋。
 狂おしいほどの切なる想いが募り、ただひたすらに、胸が苦しい。
 
 
……

「流、どうした?」
「あぁ、昔を思い出していた。その色を見つけた時のことを」
「僕を見つけてくれたのか」
「あぁ……旅先で、そこから生まれた色だ」
「そうか、流の想いが籠もった色なんだね。僕はこの色が好きだよ」

 強い風が吹いてくる。

 これは追い風なのか、それとも俺たちを分かつ風なのか。

「流……僕の流……」

 翠の心の言葉が溢れ出した。

 これは夢か幻か……

「苦しいね……だがどんなに苦しくても、僕たちはもう離れない。だから生涯一緒にいよう」

 あんなに願った人と生涯の誓いを立てられるのに、その肌に深く触れてはならぬなんて。

 手出し出来ないのがこんなに辛いなんて、俺はなんと欲深い生き物なのか。

「……流、そろそろ時間だよ。行こう」
「あぁ、そうだな」
「今は今、未来は分からないよ。僕たち、流れに任せてみよう」



 翠は俺を絶望させない。

 希望を与えてくれる。

 だから焦らない。

 今は焦らず時が熟すのを待つべきだ。

 もう二度と失敗してはならぬ。



 



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