忍ぶれど… 兄は俺の光――息が届くほど近くにいるのに、けっして触れてはならぬ想い人

志生帆 海

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色は匂へど……

待宵 9

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 海里先生の診療所に別れを告げてから、また月日が流れた。

 朝からうだるような暑い日に、また彩乃さんに呼び出された。

 今日は横浜みなとみらいの高層ホテルで会いたいと。

 溜息交じりで向かう車中、流は押し黙ったままだった。

 本当にすまない。

 これは流の心を何度も何度も踏みにじる行為だ。

 だが、流は送迎をすると言い続ける。

 一体いつまでこのような時間を過ごさねばならないのか。

 僕はどうしてハッキリと彩乃さんを断れないのか。

 抱く度に、後悔の念が募るくせに。

 薙がせめてもう少し大きくなるまでは、彩乃さんには他の男と遊んで欲しくない。僕が抱かなければ不特定多数の男と寝ると言うのは脅し文句なのか。

 薙のためには、僕がなんとか防波堤にならねば……そんなひとりよがりで滑稽で浅はかな考えで、僕は白昼堂々と彼女を抱いている。

 どんなに修行し精進しても、彼女を抱くことで全てが巻き戻されるような脱力感を感じているのに。

 情けない男だ。

 だが僕はこれも人生の通過点だと捉え、流と目指す場所への努力を怠らない。

 海里先生と出会っていなかったら、きっと自滅していただろう。 

 それほどまでに、先生からいただいた言葉は僕の心を守ってくれている。

「流、行ってくるよ」
「あぁ、待ってる。いつまでも待ってる。俺の元に戻ってくるまで」
「……すまない」
「謝らなくていい……俺がそうしたいんだ」

 ロビーに向かうと、彩乃さんが妖艶な雰囲気で近づいてきた。

 香水の匂いが広がる。

 蜘蛛の糸のように――

「翠さん、こっちよ。今日はまずBARに行きましょうよ」

 胸の大きく開いたドレスに、目のやり場に困る。

「……薙は大丈夫なのか。夕方からなんて珍しいことを」
「薙は昨日からサマーキャンプに行かせたのよ。明後日まで帰って来ないわ」
「えっ、まだ小さいのに?」
「あら、そんなのいまどき当たり前よ。オールイングリッシュで過ごすのよ」
「……そう」

 英語もいいが、まずは美しく優しい日本語を身につけて欲しいものだが。

 僕には親権はなく、口出し出来ない。

 どうして夫婦の別れが親子の別れになってしまうのか。

 一番大切なのは、子供の幸せなのに。

 薙は愛し合って授かった子供、僕にとって大切な息子なのに……

「翠さん、浮かない顔ね」
「薙が心配で」
「教育には口出ししない約束よ」
「……」

 BARのカウンターで、彩乃さんは足を組んで僕にもたれてきた。

 つい身体が強張ってしまう。

「私はマティーニにするわ」
「そんな強いお酒を飲んで大丈夫なのか」

 透き通った見た目の美しさとは裏腹にアルコール度数が高く、飲みすぎると痛い目に遭うのに。僕もあの日、度数のカクテルを飲まされて……あぁ、いつまでもまとわりつく嫌な思い出だ。

「余裕よ、あとは翠さんに介抱してもらうだけ」
「……」
「そろそろ行きましょう」
「……分かった」

 ほろ酔い気分になった彩乃さんを支えるように店の外に出ると、彩乃さんがよろけて、ちょうど入ってきた客にぶつかってしまった。
 
「大丈夫ですか」
「あっ……」

 その声に驚いて顔をあげると、末の弟の丈だった。

 丈は真っ赤な口紅を塗った美しい女性と腕を組んでいた。

「ドクター丈、早く行きましょうよ。そんな人放っておいて」
「……暁香、そうだな」

 丈は顔色一つ変えずにその女性の腰を抱いて、店内に入って行った。彩乃さんは酔っ払っているので、弟だったとは気づいていないようだ。



 僕は丈の様子に違和感を抱いてしまった。

 その女性ではないのでは?

 丈もきっと同じことを思っただろう。

 相手が違うと――

 まだ出逢っていないのか、丈は……

 魂が震えるほどの、胸を焦がす程の相手と。

 僕たちは遠回りをしているのかもしれない。

 僕たちの夜明けは、まだ遠い――


 

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