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色は匂へど……
ひねもす 1
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月日は流水の如く、勢いよく流れていく。
30代になっても翠の美貌は衰えを知らないが、俺たちの関係はこの数年間で自然すぎる程、落ち着いてしまった。
副住職の兄を補助する弟の立場で、しっかり固定されてしまったようだ。
必然的に翠に対する言葉使いも、ますます余所余所しくなり、堅苦しい時間が流れていた。
「流、待たせたね」
「……兄さん、お疲れでは?」
「……大丈夫だよ」
春雨の降る中、檀家さんの納骨式の法要を終えた翠の顔色が冴えないのが気になった。
俺はあれから翠の一挙一動を注視している。
息を潜めるように見守っている。
「本当ですか」
「……あぁ、大丈夫だよ」
ふっ、意地っ張りな所は、相変わらずだな。
「今日はもう何もありませんから、部屋に戻りましょう」
「……流、それなら、あの……」
その先の言葉は言わなくても分かる。
疲れた時に兄さんが求める場所がどこかを俺は知っている。
「いいですよ。着物に着替えたら茶室に案内しますよ」
「いいのか! ありがとう」
中庭の奥に俺が手探りで建てた茶室を、兄さんはこよなく愛してくれている。
(茶室は、月影寺の中で唯一、俺と二人きりになれる場所だから気に入っているのか)
そんな甘ったるい台詞を吐いてみたいが、言葉は言葉となって出てこない。
流、男らしくないぞ。
どんなに身体を鍛えても、肝心の心は相変わらず臆病なままだ。
成長していない。
翠の部屋で袈裟を脱がして肌襦袢姿にする。
「着替えを取ってきます」
「うん」
戻ってくると、一人で肌着を取り替えたようだ。
春の雨に濡れたせいか、柔らかい明るい髪も湿り、綺麗な額にぴたりとついていた。
(艶めかしい……)
そう口に出してしまいそうな程、危うい雰囲気だった。
「どうした?」
「……お待たせしました。今日は 萌黄色《もえぎいろ》の着物にしましょう」
春先に萌え出る若葉のように冴えた黄緑色。
新緑の若木の色から若さを象徴する色であり、平安時代から愛されている伝統色で染め上げた翠だけの着物だ。
「綺麗だね。これも流が染めたの?」
「そうですよ」
翠のために、翠だけの着物だ。
「ふぅん……お前は……どんどん腕を上げるな。僕はどんどん置いて行かれてしまうね」
翠の端麗な笑顔が俺に向けられる。
あぁ……その笑顔だけで、苦労が報われる。
男らしく猛った心を押し込めて、俺は無表情で翠に着物を着せていく。
翠の一番近くにいられるこの時間が好きで、取っ替え引っ替え新しい着物をつい作ってしまう。
「兄さんは、ますます副住職として貫禄が出てきましたね」
「え? 貫禄……そうか……やっぱりもう30代だし、少し最近老けたかも」
「そういう意味では……あぁ、でも目の下に隈が出来ていますね」
翠は恥ずかしそうに目元を染めた。
「実は……寝不足でね。なぁ流、お前は『六根《ろっこん》』という言葉を知っている?」
「それは仏教用語で、眼・耳・鼻・舌・身・意のことですよね」
「そうだよ。仏教では欲や迷いを断ち切り心身を清らかにすることを『六根浄土』というが、この考えをなかなか受け入れなくて……夜になると考えてしまうんだ」
この目で見るもの、耳を澄まして聞くもの、匂いを嗅ぐもの、舌で味わうもの、手で触れるもの……心で感じるものをすべて断ち切る?
そんなことをされたら、俺の世の終わりだ。
俺は六根で翠を感じているのに。
「兄さん、それは駄目だ! そんなことしたら死んでしまう!」
「流? どうした、そんなに声を荒らげて」
気がつくと叫んでいた。
「すみません……その……良いものを吸収して欲しいです。すべて断ち切るのではなく」
「なるほど……そうすれば良いのか。流石、僕の流だ」
僕の流……
ふとした言葉が嬉しい。
翠に優しく包まれている心地になる。
俺を拒絶しないでくれよ。
俺を吸収してくれ。
心の中では悲痛な叫びを上げながら、俺は取り繕った表情で、翠にお抹茶を勧めた。
「どうぞ」
「良い色だね。頂戴するよ」
空には春の鳥のさえずり。
遠くに鳴るのは鹿威しの高い音色。
太い筒が流れ落ちる水を受け止め、傾いて水をこぼすと、反転した筒が石を叩き、高い音色を出す仕掛けだ。
「僕はね、この茶室で聞く、流れる水の音が好きだ」
流水……
流が好きだ……
そう聞こえるように、言ってくれるんだな。
ありがとう、兄さん。
「このまま、ここで少し休みますか」
「いいのか」
雨は止み、春らしい日差しが降り注いでいた。
茶室にやってくる陽だまりに、兄さんは自然と身を委ねていった。
兄さんがまどろみ、ぐっすり寝入ったのを見計らって、畳に押しつけた頭をそっと持ち上げて膝枕してやった。
束の間のすぐに覚めてしまうような夢の時間の到来だ。
翠、ゆっくり眠れよ。
翠の傍にいつもいる。
もう離れない。
ずっと愛している。
伝えたいことが波のように押し寄せてくるが、それはまだ静かに心の中で繰り返す言葉だ。
それでいい。
焦ってすべてを台無しにしたことがあるから……
春の海のように、ゆったりいこう。
春の海 ひねもす のたりのたりかな (与謝蕪村)
30代になっても翠の美貌は衰えを知らないが、俺たちの関係はこの数年間で自然すぎる程、落ち着いてしまった。
副住職の兄を補助する弟の立場で、しっかり固定されてしまったようだ。
必然的に翠に対する言葉使いも、ますます余所余所しくなり、堅苦しい時間が流れていた。
「流、待たせたね」
「……兄さん、お疲れでは?」
「……大丈夫だよ」
春雨の降る中、檀家さんの納骨式の法要を終えた翠の顔色が冴えないのが気になった。
俺はあれから翠の一挙一動を注視している。
息を潜めるように見守っている。
「本当ですか」
「……あぁ、大丈夫だよ」
ふっ、意地っ張りな所は、相変わらずだな。
「今日はもう何もありませんから、部屋に戻りましょう」
「……流、それなら、あの……」
その先の言葉は言わなくても分かる。
疲れた時に兄さんが求める場所がどこかを俺は知っている。
「いいですよ。着物に着替えたら茶室に案内しますよ」
「いいのか! ありがとう」
中庭の奥に俺が手探りで建てた茶室を、兄さんはこよなく愛してくれている。
(茶室は、月影寺の中で唯一、俺と二人きりになれる場所だから気に入っているのか)
そんな甘ったるい台詞を吐いてみたいが、言葉は言葉となって出てこない。
流、男らしくないぞ。
どんなに身体を鍛えても、肝心の心は相変わらず臆病なままだ。
成長していない。
翠の部屋で袈裟を脱がして肌襦袢姿にする。
「着替えを取ってきます」
「うん」
戻ってくると、一人で肌着を取り替えたようだ。
春の雨に濡れたせいか、柔らかい明るい髪も湿り、綺麗な額にぴたりとついていた。
(艶めかしい……)
そう口に出してしまいそうな程、危うい雰囲気だった。
「どうした?」
「……お待たせしました。今日は 萌黄色《もえぎいろ》の着物にしましょう」
春先に萌え出る若葉のように冴えた黄緑色。
新緑の若木の色から若さを象徴する色であり、平安時代から愛されている伝統色で染め上げた翠だけの着物だ。
「綺麗だね。これも流が染めたの?」
「そうですよ」
翠のために、翠だけの着物だ。
「ふぅん……お前は……どんどん腕を上げるな。僕はどんどん置いて行かれてしまうね」
翠の端麗な笑顔が俺に向けられる。
あぁ……その笑顔だけで、苦労が報われる。
男らしく猛った心を押し込めて、俺は無表情で翠に着物を着せていく。
翠の一番近くにいられるこの時間が好きで、取っ替え引っ替え新しい着物をつい作ってしまう。
「兄さんは、ますます副住職として貫禄が出てきましたね」
「え? 貫禄……そうか……やっぱりもう30代だし、少し最近老けたかも」
「そういう意味では……あぁ、でも目の下に隈が出来ていますね」
翠は恥ずかしそうに目元を染めた。
「実は……寝不足でね。なぁ流、お前は『六根《ろっこん》』という言葉を知っている?」
「それは仏教用語で、眼・耳・鼻・舌・身・意のことですよね」
「そうだよ。仏教では欲や迷いを断ち切り心身を清らかにすることを『六根浄土』というが、この考えをなかなか受け入れなくて……夜になると考えてしまうんだ」
この目で見るもの、耳を澄まして聞くもの、匂いを嗅ぐもの、舌で味わうもの、手で触れるもの……心で感じるものをすべて断ち切る?
そんなことをされたら、俺の世の終わりだ。
俺は六根で翠を感じているのに。
「兄さん、それは駄目だ! そんなことしたら死んでしまう!」
「流? どうした、そんなに声を荒らげて」
気がつくと叫んでいた。
「すみません……その……良いものを吸収して欲しいです。すべて断ち切るのではなく」
「なるほど……そうすれば良いのか。流石、僕の流だ」
僕の流……
ふとした言葉が嬉しい。
翠に優しく包まれている心地になる。
俺を拒絶しないでくれよ。
俺を吸収してくれ。
心の中では悲痛な叫びを上げながら、俺は取り繕った表情で、翠にお抹茶を勧めた。
「どうぞ」
「良い色だね。頂戴するよ」
空には春の鳥のさえずり。
遠くに鳴るのは鹿威しの高い音色。
太い筒が流れ落ちる水を受け止め、傾いて水をこぼすと、反転した筒が石を叩き、高い音色を出す仕掛けだ。
「僕はね、この茶室で聞く、流れる水の音が好きだ」
流水……
流が好きだ……
そう聞こえるように、言ってくれるんだな。
ありがとう、兄さん。
「このまま、ここで少し休みますか」
「いいのか」
雨は止み、春らしい日差しが降り注いでいた。
茶室にやってくる陽だまりに、兄さんは自然と身を委ねていった。
兄さんがまどろみ、ぐっすり寝入ったのを見計らって、畳に押しつけた頭をそっと持ち上げて膝枕してやった。
束の間のすぐに覚めてしまうような夢の時間の到来だ。
翠、ゆっくり眠れよ。
翠の傍にいつもいる。
もう離れない。
ずっと愛している。
伝えたいことが波のように押し寄せてくるが、それはまだ静かに心の中で繰り返す言葉だ。
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