【完結】エルネスト・ルク・ヴァルトリエの責務

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第三章 【炎と水の因果】

1.

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 理人とリアンが侯爵邸の前に辿り着くと、庭ではセレナとバルナバスが何かを話していた。セレナは身振り手振りでバルナバスに何かを語り、バルナバスは微笑を浮かべてセレナの言葉を聞いている。緑の少ない庭園で、そこだけ花が咲いているようであった。
 外に出られるようになったのか。理人は安堵し、息を吐く。

「安心してる場合じゃねぇぞ、お前」
 
 隣で理人を支えているリアンの声は、呆れ半分だった。
 モルカスは一言挨拶を残すと街の方へと既に消え、リアンだけは「エルネストが家に帰るまでが遠足だ」と、訳の分からないことを言ってここまで同行している。
 
 馬の蹄の音が聞こえたのか、セレナが辺りを見渡す。途端に若草の目は理人を捉え、歓喜に満ちた色を浮かべた後に悲痛な悲鳴に変わった。
 
「え、エルネスト様……っ! どうしてそんなお怪我を!?」

 細いヒールの音を立てて、セレナが駆け寄ってくる。抱き着こうとした手は逡巡して止まり、ただエルネストの腕に彼女はしがみついた。
 バルナバスもすぐにエルネストの元へやってくる。老執事の目は剣呑な光を宿して、理人の隣に立ったリアンを密かに睨んだ。リアンは視線に肩を上げて下ろす。リアンにしてみれば執事の怒りは当然であったから、特段言い訳はしない。

「只今戻った。長らく留守にしてすまない」

 セレナの腕をそっと叩き、理人が告げる。セレナは理人の顔を見上げ、大きな目に涙を浮かべた。セレナの目に映る理人の姿は確かに満身創痍も良いところで、身支度を整えられてからセレナには会った方がよかったのかもしれないと後から気付いた。

「エルネスト様、そんなことより手当、手当です。どうしていっつもこんなに酷いお怪我をして帰ってくるの!? このままじゃエルネスト様が死んじゃう!」
「フロリアを呼んで参ります」

 理人が止める暇もなく、すぐにバルナバスが街に向かって走り出す。理人を隣で支えているリアンが、セレナを宥めるようにして少し膝を屈めた。

「なぁ、こいつを中に運んでやりたい。手伝えるか?」

 セレナはこくこくと頷く。顔が上下した動作に合わせて、音が立たないことが不思議なほど、大きな涙の粒が落ちた。理人の中で憐憫の情が沸き、リアンに支えられている腕から離れようとする。実際、もう理人は歩けると、思う。

「いや、私はもう歩ける。セレナはあまり触らない方が」
「うるせぇ。黙れ」

 離そうとした手は、それ以上の力で元に戻された。見上げたリアンの顔は一切理人の方を向かず、不機嫌そのものの横顔を晒している。理人は物言わぬ圧に押されて、口を閉じた。たまにこうしてリアンが黙らせようとしてくるときには理人にも言い分はあるのだが、如何せんセレナの前で言い争うなど今は避けたい。
 セレナはリアンの様子に気付く余裕もないのか、慌てて理人のもう片方の肩を支えるようにし、リアンに言う。

「リアン、エルネスト様のお部屋へ……お願い!」
「ああ。案内を頼むぜ」



 湯あみで身なりを清潔にし、自室と言うにはまだ馴染みがないが、エルネストの部屋のベッドに身体を横たえる。肩口の傷は出立前の数日で軽くリアンが処置を施してくれたが、まだ塞がり切らずに醜い傷跡を残していた。他に転倒した際に打ち付けた脚や腕にも痣は残っているものの、そちらは大した問題ではない。
 
 しかしセレナは傷跡を見、青紫に変色した肌を見、ベッドの隣で膝をついて理人の腕に力なく手を添えた。
 小さくて暖かい掌である。

「エルネスト様……エルネスト様ぁ……」
「そんな顔をしなくても大丈夫だ、セレナ」

 声を掛けてもセレナは安心した笑顔を見せない。セレナの後ろにいるリアンは、腕を組んで壁に背を預け、何か考えに耽っているようであった。
 セレナはまた今すぐにも泣き出しそうに、瞳に涙の膜を張る。

「エルネスト様、死んじゃいやよ。お願い、死なないで」
「セレナ、私は死なない。まだやるべきことが残っている」

 セレナは大きく首を横に振った。桜色の髪が雪崩れて、彼女の額に張り付く。
 
「だったら、エルネスト様はやるべきことがなくなっちゃったら死んじゃうの!? いや! エルネスト様が死ぬのが嫌なの! セレナのことが嫌いになってもいい、セレナの旦那様じゃなくてもいい、だから、だから、エルネスト様、死なないで……」

 理人は一瞬、言葉に窮して口を閉ざす。セレナの言に対しては簡単に約束ができない。
 そもそも理人はいつまで此処にいるのかも、自分では分からないのだ。セレナが指しているのが、エルネストの死か、理人の死か。恐らくエルネストの死だとして、それならば理人が死んだとき、この身体はエルネストに還るのだろうか。
――理人はセレナに、エルネストを返せるのだろうか。

 選択は連続する。選択には責任が生じる。誰もそこから逃げることは出来ない。

「セレナ。私は、責務がある。そのために為さなければならないことがある。その結果傷を負おうとも、私は果たさなければならない。その先にセレナやバルナバス、ジムザ、フロリアたち……此処に生きる人たちの大切な生活があるからだ」

 理人は出来る限りセレナが分かるように話したつもりだった。しかし、セレナは耐えきれないように叫んだ。

「セレナは、セレナは、エルネスト様に痛い思いをしてほしくないの! エルネスト様が痛い思いをしてまで、欲しい生活なんてない――!」

 その瞬間であった。
 リアンが瞠目して、壁から背を離す。理人も驚いて目を見張った。

 セレナが触れた掌に暖かい光が灯り、理人の身体に沁み込んでいく。大きく開いていた肩口の傷が徐々に盛り上がり、薄い膜を張り始めた。必死な面持ちのセレナは、理人やリアンの反応を見もしない。
 ただひたすらに光に集中するセレナの横顔に、ぞっとした寒気を覚え、理人は咄嗟に彼女の肩を掴んでいた。

「セレナ……セレナ!」

 はっと理人を見たセレナの顔中に汗が流れている。エルネスト様、と小さく呟いた彼女は顔色が悪く、ふらりと背から倒れそうになる。すぐにリアンが手を伸ばし、彼女の背を支えた。
 どさっと何かが落ちる音が扉から聞こえる。バルナバスの背後で、フロリアが布を詰めた鞄を取り落とした音だった。

「エルネスト様……セレナ様……」

 フロリアが驚愕に満ちた声音で名を呼ぶのに、バルナバスが思わずといったていで呟く。
 
「セレナ様は、癒療術の素質をお持ちであったのですね」

 理人は愕然してリアンに支えられたセレナの姿を見た。彼女はただ真っ直ぐに理人を見つめている。若草の目を純粋に歪め、希望に縋るように唇が戦慄く。

「エルネスト様、お怪我、治った? もう痛くないですか?」
「セレナ……」

 胸が痛み、理人は彼女の肩を抱いた。セレナの体温は理人のそれより高く、暖かい。

「大丈夫だ、セレナ。私は、もう大丈夫だ」
「良かった」

 ようやく安堵したらしい彼女は、理人と目を合わせ、疲弊した顔に微笑みを浮かべる。

「あのね、エルネスト様。セレナ、いっぱい考えたの。エルネスト様が望むなら、離縁してもいいです。それだけセレナはいっぱいエルネスト様に我儘を言ってきたから……。エルネスト様の責任ってセレナには何度言われても分からないけれど、セレナも街のみんなと話すたびに、セレナがやってきたことの何かがセレナに返ってくるのかもと思ってたの。それをセレナは受け入れなきゃいけないんだって。だってセレナがしてきたことなんだもの」

 街に出て広がったセレナの世界の中で、彼女も出会うものがあったのだろう。
 痛みと慈愛で理人は彼女の告白を聞く。成長は喜ばしく、同時に何処か痛い。ようやく我儘を言えた少女の束の間の春の時代が終わりゆく。

「でも、でもね、エルネスト様。もう少しだけ、ここに居させてください。セレナ、ここを追い出されたらまだ何処にも行く場所がないの。必ず何処かを見つけるから……だから、もう少しだけエルネスト様のお傍にいさせて……」

 哀願に見える瞳に、理人は再び彼女の肩を掴んだ手に力を込めた。
 理人は彼女からも奪おうとしている。理人の事情がどうであれ、セレナから平穏な日常を奪うことに変わりはない。これもまた、理人の傲慢さであった。
 モルカスとの交流で身を持って実感した。人に幸せであって欲しいなどと、口で抜かせるほどに理人は何も出来はしないのに。

「いつまでも、此処に居ていいんだ」
「え、でも、エルネスト様……」
「例え離縁しても、セレナが大切な人であることに変わりはない。ただ、夫と妻という関係性ではなくなるだけだ」

 詭弁だと人は言うだろうか。それでも今、理人が考えられる限り最善であると信じたい。

「セレナをヴァルトリエ家の養女として迎えたい。少し手続きはあるが、書類だけの問題だ。セレナは自分が生きたいと思う選択とその道が分かるまで、此処にずっと居て欲しい。勿論、セレナが望むならだ。セレナが望むなら、行きたいときに何処にでも行けるし、此処にずっと居ることも出来る。ここはセレナの家だ。例え何処かに行っても、いつでも帰ってきていいんだ。誰の許可も必要ではない」

――セレナ、君は自由だ。
 少女は若草の瞳を瞬かせて、理人の青い目を見つめ返す。理人の言葉のひとつずつをゆっくりと解釈しているようであった。

「――セレナが望むなら、此処に、ずっと居てもいいの……?」

 小さな囁きに理人は頷いた。セレナは澄んだ青い目を見つめ、みるみるうちに瞳に涙を溜める。やがて大声を上げて泣き出した少女の背を、リアンは呆れ半分、慈しみ半分の表情を浮かべ叩いた。
 フロリアが部屋に足を踏み入れ、セレナに寄り添う。バルナバスと理人の視線は合い、バルナバスが静かに目を伏せた。
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