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第三章 【炎と水の因果】
5.
しおりを挟むネリウスが乗車した後、理人は後ろから二人の騎士に無理矢理乗車させられた。
馬車の中に入れられると、すぐにひとつの椅子に座らされ、椅子の脚に連なる拘束具を足首に装着される。すぐに立つことも出来ぬように、太腿と腰、二の腕にも重たい拘束具が回され、施錠された。後ろ手に回されていた手錠にも、椅子の背面にある拘束具と連結され、強度を確かめるために情け容赦なく鎖を引かれる。ぎりと音を立てて食い込んだ鎖が、理人の肌を締め付けた。
ご丁寧なことに、椅子は馬車と脚が連結しており、椅子を倒せない仕組みになっているようだ。この馬車はやはり囚人の搬送用か。
椅子に拘束された理人の正面では、いかにも高級な布地に包まれた深いソファーに、ネリウスが腰かけて長い脚を組んでいる。肘を突き、自らの顎に手を掛けて、ネリウスは拘束されている理人の様子を見るともなしに眺めていた。
「首輪は要らぬ」
「はっ」
短い言葉に不審に思うと、椅子の背面から鎖の音が聞こえる。手と脚のみならず、首も拘束して動かさないように出来るらしい。ここまでくると理人は呆れた思いもしたが、何せ同乗しているのは国の殿下だ。用心に用心を重ねても用心しすぎはしないのだろう。
騎士たちが理人の拘束を終え、拘束具の鍵をネリウスに渡すと馬車から降りていく。ネリウスと二人きりの空間になるらしい。とはいえ、この拘束を自力で外し、或いはネリウスから鍵を奪い逃げるなど、理人にはどう算段しても出来る未来が見えない。
すぐに車輪が回り始め、理人の背の方向に向かって馬車が動き始めた。
カーテンが閉め切られている窓から、外の様子は見えない。ここまでして集まってくれていた民たちに手を出されるとは思えない。ただ、無念に打ちひしがれる思いを抱えていなければいいのだが。
じっと見えない窓の外に目を向ける理人に、ネリウスが口火を切った。
「ヴァルトリエ侯爵は民思いのようだ」
感想か、皮肉か。そのどちらでもあるように聞こえる。理人が後ろ髪を引かれる思いで馬車の中に目を戻すと、ネリウスは体勢を変えないまま理人の姿をまた眺めた。
「私と顔を合わせぬ間に、侯爵は随分と変わったらしい」
それは山小屋の中で、リアンにも言われた言葉だ。お前は世間の評価と随分違う、と。
これが一番、理人が突かれると答えにくい。理人はどうあってもエルネストに会えない上に、エルネストを誰かに尋ねられないからだ。
時間がある限り、理人はヴァルトリエ侯爵邸に残された書類や、バルナバスに聞ける範囲で、この世界の常識やエルネストの人物像を得ようとしていた。
ただ、あまりにも膨大すぎて間に合っていない。日本で漫然と暮らしていた頃は、それでも幼年期から日本や地球という世界の仕組みを、家庭や義務教育を経て徐々に知っていた。そういった地盤がないままにこちらの世界の知識を頭に詰めても、分からないものが多すぎる。
そしてこちらの世界では常識であり、問えば不審な目を返されてしまう問いも多くある。
例えば、この世界にはどうやら術という概念があり、不思議な能力を使う者がいる。それはフロリアであり、モルカスであった。術の概念は知ったが、何故それが使える者が居て、使えない者がいるのかは分からない。日本のように教科書があり読めば分かればよいが、口頭で教えられる知識も周囲の会話から得る知識も多く、理人は自分でも知識がちぐはぐとなっている自覚がある。
深い知識を得ていると思えば、誰もが知る常識を知らない。術がなぜ使えるのかと聞けば、不審に思われる可能性が高い。常識かどうかの判断自体を誤るときもある。それが繰り返されれば、違和感が募るのは当然だった。
例えばネリウスという存在は王国の殿下であると知識では知っていても、肖像画がない故に顔が一致しなかった。バルバナスが名を告げて、初めて目の前の漆黒の髪と目を持つ秀麗な男なのだと理解した。
ネリウスの言葉を信じるならば、彼とエルネストは面識を得ていたらしい。殿下と侯爵ならばおかしくはない。その時、どう振る舞い、何を答えたかなど、問われても理人には分からない。ネリウスに問うなど、出来るはずもない。
「人は変わります、殿下。置かれた環境と学びたいと願う本人の意思によって」
短く答えると、ネリウスの指が理人の顎を捕えた。氷が染み渡るように、その指は冷たい。
「成程。一理はある。変わるとは、状態が異なったものになるという意味合いの言葉だ。貴殿が貴殿の状態から、変わったとも言えよう」
ネリウスの顔が近付いた。漆黒の瞳が理人の青い目を捕える。瞬きも許されない視線が絡み合い、理人の背に汗が伝った。
理人がエルネストではないのだと、リアンに知られるのとネリウスに知られるのとでは、全く意味合いが違う。
エルネストを理人が乗っ取ったと言われれば、詐称の罪が課せられるのではないか。エルネスト自身を殺害し成り代わったと言われても、否定はできても、していない事実を証明が出来ない。理人自身、エルネストが何処にいるのか分からないのだから。
「私はバルナバスから報告を受け、貴殿を調べ尽くしている。故に、私自身が貴殿の姿を見、確信を得る必要があった」
「……」
「そして、確信を得た。私は、貴殿がヴァルトリエ侯爵ではないのだと仮定すれば、貴殿の一連の行動に納得ができる」
流麗に続く声に、理人は背に伝う汗を感じる。吐くか、黙秘か。白を切るか。
リアンは引いた。だが、ネリウスは恐らくそうではない。何を選べば、死した大地を再生させるために、最善なのか。
「突然変異種の魔物退治に、賢者への協力の依頼。そして、グリモワール公爵令嬢との離縁。並べるほどに、私の知るヴァルトリエ侯爵が取らぬ選択ばかりだ。ヴァルトリエ侯爵は、民など思いもせぬ。残した民を思い、私に媚びず窓の外を眺めるなど、せぬ」
無知とはかくも厄介か。エルネストの振りをするならば、理人が連れていかれる際に立ち向かった彼たちをネリウスに差し出し、見捨てなければならなかったのか。
そんなことは出来ない。
理人の口が渇いた。言葉を紡ごうと動いたそれを見て、ネリウスが言う。
「申し開きがあるならば申せ。私も興味はある。貴殿が一体、何者なのか――誰が、王家の転覆を目論んでいるのかと」
動こうとした口が止まる。
――ネリウスは何の話をしている?
当然ながら、理人は王家の転覆など考えたことはない。何かをネリウスが掴み、その嫌疑が不審な行動を取っているように見える理人に掛けられているのか。
「私は、私です。ネリウス殿下。私は王家より領地を預かっております。その運営に全力を注ごうと改心したのみです」
「貴殿の言葉に嘘はないな。真摯である。それは認めよう。しかし、私の質問の本質には答えていない」
突然、理人の周囲に水泡が浮かび上がった。揺らめく水面を閉じ込めた透明な水が、球となり浮いている。それを顎から外した指で手繰り寄せたネリウスが、徐々に理人の顔へと近づけていく。
球の中にある水が、最初に鼻先に触れる。本物の水だ。ヴァルトリエ領では得られない、清浄で美しい水だった。
「人の呼吸は精々、九十秒も止められれば限界を迎える。己の身を持って、試してみるか」
殿下と、呼ぶことは許されなかった。理人の顔の周囲に浮いた水球が、瞬時に透明な水を称える。鼻と口を水で押さえられ、咄嗟に上を向くがそこにも水が嵩を増し、襲い掛かってきた。
拘束された腕が戦慄く。唇を閉じ、水球から逃れようと身を捩るが、空しく拘束具が軋むだけであった。拘束されたまま抗う理人の様子を、ネリウスは眺めている。
やがて耐えきれず口を開いた瞬間に、空気が水の中に放たれ水泡となって音を立てた。身体の力が弛緩し、ふっと意識が遠くなったところで、水球は弾けて消える。
理人の身体に水が降り注ぎ、やっと得られた酸素に肺が夢中で空気を取り込んだ。
「――は……っ、はぁっ、」
唇を戦慄かせるしか出来ない理人の顔を、ネリウスは強引に掴む。
「我が問いに答える気になったか」
生理的に涙が滲んだ青い目で、理人はネリウスを見た。
これも術なのか。水球はまた姿を現し、ネリウスの周囲を漂い始める。二個、三個、次々に姿を表す。
「貴殿は誰だ」
首を横に振ると、また呼吸を塞がれた。踏みしめた脚が馬車の床を押しても、身体は全く動かない。一回目よりも長く、水が理人の呼吸を奪う。
そして、また意識が落ちそうになると解放された。割れた水球から水流が身体に降り注ぎ、徐々に体温が下がる。馬車の床に落ちる水滴が、氷の姿に変わっていく。理人が濡れた水もまた、冷たく身体に張り付いた。
無我夢中で喘ぐように呼吸をし、咳き込む理人に詰問は続く。
「謀反者の名を挙げよ。誰の指示だ。それとも貴殿自身が、首謀者か」
「でん、か」
三度、整わぬまま呼吸を塞がれ、理人は我を忘れて首を振った。逃げようもないが、逃げようとする素振りを抑え込むことも出来なくなっている。抑え込もうとする意思を越えて、身体が本能的に逃げようと暴れる。
――苦しい。
呼吸を止められる耐性は、回数を重ねられるごとに落ちていく。無意識に眉を寄せて閉じていた目が勝手に見開かれ馬車の天井を収縮する瞳孔が見つめる。がくりと首が揺れた拍子に眦から生理的に涙が落ちた。そのままふっと意識が遠のくと、また、ネリウスの意思によって水球が割れる。
何故、理人は耐えているのか。答えたくないのか、答えられないのか、理人自身の思考の輪郭が曖昧になる。
「がっ……! はっ、っはぁ、」
「覚えておくといい。ヴァルトリエ侯爵」
酸欠で力を失った身体を、ネリウスが無慈悲な目で眺める。理人は最早、意識を繋げ留めておけない。全身を震わせ、拘束された椅子に身体を投げ出し、見開いた目で天を仰ぐ。徐々に黒く染まる視界の中で、ネリウスの絶対零度の瞳と、彼に従う水の漂う姿が見える。
これがあと、何度続く。
「この国において、変容とは罪なのだ」
――不動こそが、王家と国の絶対である。
再びネリウスの水球が理人の呼吸を奪った時、不覚にも理人は全身を跳ねさせてから虚脱し、それを最後に意識を失っていた。
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