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1章 Hello World
3話 変遷
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黒く塗られたタイル。
目を覚まして一番最初に見えたのはそれだった。
そして耳に入るのは、ゆっくりとしたテンポの曲。
これはジャズソングか…。
「………ここは?」
止まっていた脳内クロックが徐々に動き出す。
「おう、お目覚めかい?」
どこからか声がした。
どうやら私は寝ていたようだ。
身体を起こし、辺りを見渡す。
黒いタイルは天井だったことにここで初めて気がつく。
白のテーブルに黒のソファー。
ほのかな暖色系の明かりに照らされ、とても心地好い。
奥の方にはカウンターとずらりと並ぶカウンター席が見える。
「もう起きて大丈夫かい?痛いところとかない?」
後ろから声がする。
すぐ後ろにも席があったらしい。
そこには私と同じくらいの歳の青年がいた。
やや長めの髪型。
眼鏡をかけ、知的そうな目。
さっき、バスの中から見かけたあの集団の彼であった。
「あ………、はい大丈夫です。」
何が大丈夫?
痛いところって…なんで?
一秒ほど考えたところで、走馬灯のように頭の中を映像が駆け巡った。
「わ、私………どうして?」
どうして生きているのか。
私は踏切内に入った子猫を助けようとして………。
「思い出したかい?」
「………あなたが助けてくれたんですか?」
「うん、まあね。」
彼は立ち上がり、私と対面する位置まで歩く。
ここいいかい。と私の反対側のソファーを指差し尋ねた。
私はそれに首肯し、やっとこの場所がどうやら喫茶店か何かの店だと分かった。
「あの……助けてくださってありがとうございました。」
「いやいや、礼なんていらないさ。君が助けを求めたから助けたまでさ。」
彼は柔らかな笑顔を浮かべ、私を見る。
眼鏡をかけたその顔は知的で冷静といったものが初見の印象だったが、笑顔で見事に中和され優しい性格を印象づけた。
「………でも、どうやって私を助けたんですか?どう考えてもあのタイミングで踏切内に飛び込んでも間に合いません。」
そうだ。
私が子猫を投げた時には、電車が目と鼻の先まで来ていたのだ。
「うーん、そうだね。いろいろ質問したいことがあると思うけど、まずは自己紹介といこうか。」
彼は一つ手を叩くと、思い付いたように再び立ち上がった。
「何か飲むかい?ここ一応喫茶店なんでね。」
そう言って彼はカウンターに向かって歩きだした。
「え?えっと…じゃあウーロン茶で。」
まさか彼が経営するお店?
と最初は思ったが、彼は私と同じ制服を着ているのだ。
私の高校は原則としてバイト禁止となっている。
彼が校則を破る不良でなければ、バイトはできない。
「本来ならお金払わなきゃいけないけど、今回ばかりはマスターも許してくれるでしょ。」
彼の言い方だと、どうやら私の分は奢ってくれるらしい。
「あ、ありがとうございます…。」
「お礼ならマスターにね。今日はもういないけど、いつか会えるさ。」
「は、はあ。」
マスターとは要するに店長のことか。
「さて、自己紹介だったね。」
数秒待っているとカウンターの奥からお盆を持った彼が姿を現した。
「俺の名前は京介。君の一つ年上だけど知ってたかな?」
私が二年生、16歳なのだから京介は三年生、17か18歳ということになる。
「仙台トルーパーの面々は後で説明するとして…君の番だ。」
どうも自己紹介とは馴れないものだ。
必然的に名前を明かさないといけないからだ。
だが嫌な顔は決して出さずに口を開いた。
「あ、はい。栗栖未来と言います。」
すると京介は何がおかしいのか、くすりと含みのある笑いをした。
それを見て私が訝しく首を捻ると、京介は慌て両手を前に突き出し否定した。
「いやいや、ゴメン。悪気はないんだよ。ただね俺らの業界だとフルネームは厳禁だからね。ちょっと新鮮だったのさ。」
………業界?
「未来ちゃんね。いい名前じゃないか。」
「ちゃん付けはやめて下さい。あとできれば名前じゃなく苗字で呼んで下さい。」
「どうしてだい?」
京介はさも名前で呼ぶのが当然かのように聞いてくる。
「それは………。」
出会ったばかりの赤の他人に自分の性格を曝すのはどうも気が引ける。
それ故にとっさにごまかしの言葉が出なかった。
「もしかしてあの時、踏切で立ち止まったのと少なからず関係があるのかな?」
「っ………。」
「正解みたいだね。」
京介は意地悪く笑ってみせる。
だが、からかう気はないらしい。
すぐに真顔に戻って、こう続けた。
「無理にとは言わないけど、話してくれるかな?君の助けになるかもしれない。」
冗談や嘘じゃないのは、目つきから分かった。
彼の表情はほとんどが優しい笑顔だが、彼に出会ってから短時間で気づいたのだ。
彼の本質はその表情ではなく、鋭い目つきにある、と。
その目で見られると、つい包み隠さず自分のことを暴露したくなる。
話せば彼は理解するかもしれない。
助けようとするかもしれない。
…しかし。
「何故私が自分の名前を嫌いなのか。私の性格。そして何故私が踏切で立ち止まったのか。全てを話したとしても、私を助けることはできません。」
京介は口を挟むことなく聞く。
続けて、と目で訴えてきたので言われた通りにする。
「私にも一人だけ、友達と呼べる間柄の人がいます。私は彼女にその内容を全て言ってみたことがあります。」
大きく息を吸い、言葉を繋げる。
「ですが彼女の反応はおよそ友達に対して向けるようなものではない、冷たい表情でした。」
「一番親しい彼女でも私を助けることはできませんでした。」
京介は何を考えているのか、沈黙を貫く。
「いえ、助ける気さえなかったのかもしれません。」
さくらのことは恨んでいない。
むしろ自分の性格を恨むのが妥当だろう。
さくらはあんなに頑張って私を変えようとしてくれたのだ。
重い沈黙の中に、場違いなジャズソングが軽快に流れる。
「………。」
沈黙が辛い。
自分からこの空気を作りだしておいて何だが、居心地が悪い。
礼だけ言って立ち去ろうとした時だった。
突然、京介が両の手をパンと打ち付け朗らかに笑った。
「じゃあこうしよう。俺は君を助けた。助けた恩返しとして君は俺に全てを話す義務がある。」
加えて、どうだい?と聞いてくる。
どうだい?じゃない………。
それでは押し付けであって、私の意思なんて無視じゃないか。
「助けて下さったことにはお礼を言います。ですが私はあそこで死んでもよかったんです。あなたに全てを話しはしません。」
冷たく言い放つ。
命の恩人に対して、こんなことを言うのは心が痛んだが、仕方ない。
これでいいのだ。
これで…。
「それは嘘だろう。君は確かに死にたくないと言ったよ。」
「………。」
「だろう?じゃなかったら俺は助けてなかったとさっきも言ったじゃないか。」
「………分かりました。分かりましたよ。」
深くため息をつく。
「全て話します。その代わり話したからには必ず私を助けてくれるんでしょうね?」
「いいや、君の助けになるだけで助けるとは言ってない。助かるのは君一人だけさ。」
「…意味が分かりません。」
「要するに、俺の出る幕は何一つ無く、俺が出来るのは君に解決法を提示するぐらいさ。」
…やっぱり分からない。
「まだよく分かりませんが…。とにかく話します。」
グラスに入ったウーロン茶で喉を潤し、ゆっくり息を吸った。
─何分話しただろうか。
いや、何十分か。
私が話している間、京介は真剣に耳を傾けた。
さくらでさえ、こんなことはなかった。
彼は一体…?
「…というのが私の性格です。踏切内で立ち止まったのも今の説明で想像がつくと思います。」
私が思っていること、小学校から今までのことを全て話した。
「つまり、一言で片付けると私はこの日常的な世界がつまらないんです。」
口を閉じる。
京介は今とても複雑な顔をしていた。
やはり無理か………。
こう考えるのは私だけ。
彼にも理解できなかったようだ。
「理解できないね。」
そう言ったのは京介だった。
ほら、やっぱり。
「つまらないから君は死ぬのかい?」
「同じことの繰り返しなら死んでるも同然です。」
「分からないね。俺は毎日がつまらないなんて思わないけどね。」
「どう思うかは人それぞれです。けど私の場合はどんなに楽しいことでもつまらないと感じてしまうんです。」
「本当にそうかい?君は本当に楽しいことに向き合っているかい?」
京介は身を乗り出して聞いてくる。
「君は逃げているんだろう。」
「………そうですね。私は逃げてるんです。」
もはや開き直るのも億劫だった。
死にたくないなんて言うんじゃなかった。
あそこで死ぬべきだったのだ。
「やれやれ、手に負えないな。ケータイを貸してくれ。」
「はい。………はい?」
京介は右手を出し、少し苛立っているように見えた。
「ケータイを貸してくれ。何も悪いことはしない。」
「………ケータイ持ってないんですか?」
電話でもするのか?と思った。
「自分のは持ってるよ。」
違うようだ。
京介はジーンズのポケットから緑色のケータイを取り出して見せた。
「じゃあ何故です?っていうか、今までの話しと関係あります?」
「大ありだよ。いいから貸すんだ。」
なおも京介は私のケータイを催促してくる。
「………何をするんですか?」
「毎日がつまらないなんて言う君にド肝を抜かせるのさ。きっと楽しすぎて死んじゃうよ。」
「…ふざけないでください。だいたいなんで初対面の人に私の秘密を暴露して、ケータイまで貸さなきゃいけないんですか!?」
「君の意見はごもっともだが、残念ながら今は俺のほうが正しい。」
こいつ…さくらよりしつこい。
「さあ、貸すんだ。」
ここまで言われたからには仕方がない。
ケータイでも何でもくれてやろう。
「分かりましたよ、貸せばいいんでしょうっ。」
私は半ば投げ捨てるようにケータイをテーブルに置いた。
白いケータイだ。
買ってからあまり使っていないので汚れや傷はほとんどない。
白いテーブルの上に置くとまったく目立たない。
京介はやれやれやっとか、というような顔を作り、私のケータイを手に取った。
そして何の遠慮や躊躇もせず、更に私に何の断りもなく、二つ折りのケータイを開き、操作し始めた。
「…あの、なにやってるんです?」
「黙って見ていろ。」
黙ってられるか!
「一応、これでも私乙女ですよ?乙女のケータイを弄るなんて不謹慎じゃないですか?」
「はは、これは失敬。」
京介は自分のケータイを開くと、私のケータイとカメラを撮り合うように互いに向かい合わせた。
「えーっと………、メアド交換?」
「違う。別に交換して欲しいならしてやらんこともないが。」
さくらならツンデレだね!とか言って喜びそうだが、私は喜ばない。
ちなみに私のアドレス帳には、父親しか異性のアドレスがない。
だからと言って、ひゃっほう男のアドレスゲット!!とかは微塵にも思わない。
うん、絶対ない。
「ほら、あとは自分でやるんだ。」
吹っ飛んだ思考回路が京介の声で正常に戻った。
「自分でやる?」
京介は私のケータイを開いたまま、テーブルの上に置いた。
私はケータイのディスプレイを見た。
「名前を入力するんだ。」
黒を基調にした背景に『Put In Youre Name.』と白字で書かれている。
その下には入力フォームがあって、ここに名前を入力するようだ。
「あの…これ何です?SNSですか?私SNSはやりませんよ。さんざん友達に付き合わされて─」
「大丈夫だ、SNSじゃない。確かに同じ名前のSNSはあるがな。」
友達とは無論、さくらのことである。
さくらの勧誘するSNSで厄介ごとに巻き込まれたのは数知れず。
そう、だからこの間さくらが誘ってきたSNSには絶対入るまいと決めたのだ。
名前は何だったか…。
確か………仙台トルーパー。
私はその瞬間、息を呑んだ。
「仙台トルーパー!!」
そう、書いてあるじゃないか!
入力フォームの下。
同じく白字で『Team 仙台トルーパー』と。
「ああ、さっきも言わなかったか?俺らのチーム仙台トルーパーは─」
「あ、あの!もしかして仙台トルーパーって、今日一緒にいた方々が仙台トルーパーですか!?SNSのサークルですか!?」
私は思わず立ち上がり、テーブルに手をつき、身を乗り出す。
「っ!おいおい落ち着け。どうしたSNSには入らないと言った矢先に。」
私はこの時、微かに予感したのだ。
もしかして彼なら本当に私を救ってくれることを。
覚悟するかのように深呼吸をする。
あの集団の仲間入り。
私が思い描いていた非日常。
この先にあるかもしれない。
「名前…入れればいいんですね。」
私はソファーに座り直し、再びディスプレイを見る。
「ああ、名前って言っても偽名でも何でも構わない。ハンドルネームみたいなものだ。」
要するにSNSと同じで、自分で名付けた名前を使って他ユーザーと関わる。ということか?
ならば…。
「私の名前以外なら何でもいいな…。」
「じゃあ敢えて未来にしよう。」
京介はそう言うと、私から電光石火の如くケータイを奪い取った。
「って、あぁ!」
私が奪い返した時には既に遅かった。
入力フォームには『ミク』とカタカナで入力され、もうログイン画面らしきものに移り代わっていた。
「残念。後から変更は不可能だ。」
なんてひどい人だ…。
「さあ、早くそのボタンを押すんだ。何度やってもこの瞬間のワクワクは堪らないね。」
………ボタン。
これのことか。
ディスプレイの中央には派手に装飾された門の絵がある。
というより、それしかない。
カーソルを合わせると、門がわずかに開く仕組みだ。
なかなか凝った作りだが、一体どんなプログラムを組んでいるんだろう?
「これを押せばいいんですね?」
私が聞くと、京介は満面の笑みで頷いた。
まるで子供が楽しみにしていた玩具を開ける時のような笑顔だ。
はたしてこのボタンを押すと、何があるのか。
私を楽しませるものが映るのか。
もしくはあの仙台トルーパーというサークルに関係するものか。
いや、彼はSNSではないと言っていたか。
私は生唾を飲み込み、祈るようにボタンを押した。
最後に聞こえたのは「俺も後から行くよ、楽しみだ。」という言葉。
私の意識は途切れた。
不意に意識が戻る。
意識が戻るのを自覚するなんて変な話しだが、本日二度目の意識喪失に身体が慣れてしまったのか、はっきりと分かった。
いや、そんなことを冷静に述べている場合じゃなかった。
何故私は意識が飛んだのだ。
私は京介の言われるままに、ケータイのボタンを押しただけだ。
一体何が起きたというのだ。
催眠術?
神経ガス?
よく分からない。
意識を失ったのはボタンを押した瞬間だったし、意識を失っている間の時間もかなり短かったような気もする。
周りを見渡す。
場所はさっきの喫茶店と変わりない。
見渡すまでもなく、人影が目に入る。
京介だ。
だが、意識を失う前の京介とかなり違う。
顔や髪型、体格は同じだが…。
彼は黒いジャケットに同じく黒のコートを羽織り、またしても黒のズボンを履いている。
黒ずくめだ。
腿の部分にはホルスターのような物もついている。
この格好から推測するに…。
恐らく………。
「………コスプレですか?」
「馬鹿か、君は。自分の格好もよく見てみろ。」
私…?
はて、私の格好はそんなにおかしかっただろうか?
確か家を出た時は、学校の制服のままだったはず…。
言われる通り、私は自分の姿を見下ろす。
「ひゃあっ!!」
なんたることだ。
私としたことが、アニメでよくある素っ頓狂な甲高い声を上げてしまうなんて。
一生の不覚。
いやいや、そんなことはどうでもいい。
問題は私の格好だ。
私は深緑のインナー、俗に言うアンダーウェアなのか、とにかく体にぴっちりくっつくタイプの服一枚に(もちろん下着はつけているようだが)、肩までゴム状の帯をかけるズボン(マリオが着るやつだ)を着ていた。
京介よりひどいじゃないか…。
なんだか下っ端の傭兵のようだ。
しかもなんと言うか………。
アンダーウェアのせいで体のラインが嫌というほど見えてしまうのだ。
思わず胸の前を腕で隠し、叫ぶ。
「なんで私までコスプレしてるんですか!?しかもこの格好!!っていうかいつの間にこんなの……………って、まさかっ………。」
「いやいやいや、俺じゃない!俺は着せてないぞ!あとコスプレじゃない!」
「じゃあ何ですかっ。説明してくれるんでしょうね?」
私は睨むように京介を見る。
「ああ、分かった、分かった。ただここで説明するのもなんだし、外に出ようか。」
私は唖然とした。
こいつは何を言っているんだ。
「私にコスプレしたまま、外を出歩けって言うんですか!?」
京介は困ったように頭をかくと、後ずさりしながらも口をもごもごと動かす。
「いやコスプレじゃないから。それに外の景色と比べたら相応しい格好をする人なんてそういないし…。」
私が睨みつけたままでいると、京介はお得意のやれやれといった顔で言った。
「とにかく外に出よう。外に出てそれでもなお文句があるならいくらでも聞こう。」
不満や文句はまだまだたくさんあったが、ここはとりあえず京介に従うことにしよう。
正直、この格好のままで街に出歩くなど恥ずかしくて死にそうだが、それは京介も同じだ。
最悪、京介の後ろに隠れていよう。
むすっとしたまま、仕方なく頷くのを見た京介は立ち上がった。
私もそれに続き立ち上がる。
そこで不意に違和感を感じた。
なんだろう?
この感じ。
身体が軽い?
いや、それだけではない。
普段感じている体感というか肌に触れたものの感触がどことなく違うのだ。
喫茶店の出入口であろうドアにさっさと歩いていってしまう京介を追おうとするが、上手く歩くこともままならない。
その様子に気づいたのか、京介はドアの手前で立ち止まる。
「大丈夫かい?いつもと違うように感じるかもしれないが、直に馴れるさ。」
京介は私がドアに近づくまで待ってくれた。
「さあ、このドアの向こうには君の望んでいた非日常がある。」
私は意識を失ってから、何となく気づいていた。
何かが普通ではないと。
「君の性格なんて一変してしまうほどの物凄い非日常がね。」
京介はドアノブに手をかける。
「覚悟はいいかい?」
「何のです?」
「そりゃあ、びっくり仰天する覚悟さ。」
京介は笑いながら答える。
私はそれに静かに頷く。
当然だ。覚悟ならとうに決めた。
京介は手に力を込め、ドアを開けた。
気絶した私を運んでくれた訳だから、ここはあの踏切からそう離れていないと私は思っていた。
だが、京介の肩越しに見える風景は私が知っているものではなかった。
建ち並ぶ建築物は全て木造や石造り。
しかも一つ一つが武家屋敷のように荘厳で目を奪われた。
黒塗りされた瓦屋根には、仄かに光る提灯がぶら下げられ、ドアから見える景色がオレンジ色に輝いていた。
「綺麗だろう?」
そう言って京介は、ドアを片手で押さえたまま、横に一歩避ける。
そうすることで外の景色がよく見えるようになった訳だが、私はもはや言葉が出なかった。
なんだこれは…。
どこだここは………。
武家屋敷なんてもんじゃない。
それが一階二階三階とまるでビルのように連なっているではないか。
その武家屋敷ならぬ武家ビルディングは形は様々違えど、数十個の列を作っている。
少なくともこんな場所、現代の日本には存在しない。
そして過去に遡ってもこんな技術はなかったはずだ。
「一体何が…どうなって………?」
私はよろめくように2、3歩前に進んだ。
そして足で感じる感触。踏んだ時の音で気がついた。
ドアから先、そこも木材を組み合わせて作った床になっている。
どうやらこの喫茶店は建物の二階にあるらしく、私の立つテラスのようなせり出したところから、同じく木製の階段が続き、下に降りれるようになっていた。
「………あ、あの。京介さん?私どこに来ちゃったんですか?」
「はははっ、いい顔だ!狐に化かされたような顔だね。」
狐に化かされた人を見たことがあるのだろうか…?
「なに、安心したまえ。あの踏切から近いところさ。」
踏切から近い?
何を言うか。
私はそこまで土地に野暮ではない。
あの踏切から1km歩いたってこんな場所はない。
彼の定義する『近い』が国を跨ぐほどだったら話しは別だが。
「でもいくら君が女の子で軽いと言っても、ここまで運ぶのは苦労したよ。」
フォローしてるでも馬鹿にしてるでもない言葉を言われても、私は突っ込むことができなかった。
「下に降りようか。アーケードのほうはもっと綺麗だよ。」
京介はそう言いながら階段を降りて行く。
アーケードとは…つまり、あれか。
商店街などを屋根で覆った通路のことか。
………木造で?
「ほら、行かないのか?」
京介は階段の半ばで振り返り、私を呼ぶ。
「あっ、ああ行きます、行きます。」
木造だというのに階段は少しのがたつきもなく、軋む音もない。
表面は漆を塗っているのか、黒く光り輝き、まるで一種の歴史的健造物のようだった。
下に降りると、地面は石畳だった。
これも見事なことに、大小様々な石を組み合わせ、敷き詰めることで、隙間は目立つことなかった。
更に一つ一つの石がしっかりと平らに削られ、歩いても痛くない。
文句なしの舗道だった。
「…すごい。」
私が感嘆している間にも、京介はさっさとその道を歩いていく。
急ぎ足で追いかけながらも、私はまたしても驚くべきものを見た。
私達と同じ方向に向かって歩く人影が見える。
それだけではなく、その人影は私達の服装とは掛け離れている西洋の騎士みたいな格好をしている。
ブロンズの髪をなびかせながら歩くその姿は…なるほど、恐ろしく周りの風景に似合わない。
「私達以外にも人が…。」
前方だけでなく、後方にも、脇道にだって、白い修道服を着ていたり、全身を重そうな鎧で固めている人もいる。
「コスプレパーティーみたいとか言い出すなよ。」
冗談めいた口調で京介は言う。
京介がどこに向かっているかは検討のつけようもないが、歩くにつれ、前方から差し込む光が増え、何やら軽快な音楽と楽しげな会話が聞こえてきた。
道の両脇に連なっていた木造の建物はやがて途絶え、代わりに道は大きな屋根つきの道路にぶつかった。
「どうだい?ここが仮想世界クロノファストで一番栄える商店街だよ。」
愕然という言葉はこういう時に使うのだろう。
私は今まで使い方を間違えていた。
人が本当に驚いた時には、声も出ず、思考も止まり、冷静になれない。
遠くで京介の声がするが、何を言っているかは分からなかった。
私は上手く動きそうにない喉を無理矢理動かし、一心に叫んだ。
「すごいっ!あははっ、すごいすごい!!」
私達の通ってきた道は、ちょうどこの商店街を横切るように繋がっていて、左右にはたくさんの店が建ち並んでいた。
そのどれもが、まさに武家屋敷そのもので、まるで戦国時代にタイムスリップしたようだった。
両脇の屋敷からは、徐々に弧を描くように木材が組み合わされ、アーチ状の屋根が形成されていた。
屋根の天井からは提灯がぶら下げられ、地面の所々には行灯が置かれ、商店街を優しい光で満たしていた。
行き交う人々は皆、思い思いの衣服を身につけ、数々の店を出入りする。
こんな光景は日本のどこを探しても、いやきっと世界中探してもない。
異質だ。
異質すぎる。
もはや非日常なんて通り越して、これは異世界だ。
「どうだ、満足か?度肝抜かれただろう?」
「はい!」
「お勧めの居酒屋があるんだ。見に行くかい?」
「はいっ!」
居酒屋と聞いてすぐに反応できなかったのは、きっと珍しく興奮していたせいだろう。
未成年だから飲酒は出来ないのだが、それを言う前に京介は人ごみの中へ入ってしまった。
私もすぐに京介を追いかけるために、身体を人ごみに紛らせていく。
京介の頭を追いながらも、左右に並ぶ店に私の意識がいっていた。
薬草のような苗を棚に並べている店もあれば、私が見たことのない種類の武器、防具を置いてある店もあった。
そのどれもが私にはキラキラと輝いて見え、私の興味を誘った。
私の知らない世界。
ここには私の知らないものがたくさんある。
自然と胸が高鳴る。
この体で、目で、耳で全てを知りたい。
私は今まで何に悩んでいたのだろう。
少し前に感じていたあのもやもやした感情は、とうに消え失せていた。
人の悩み事は案外簡単で、ほんのささいなことであっさり解決してしまうのかもしれない。
こんなこと昔の自分に言ったらなんて言われるか…。
京介とはぐれないように、急ぎ足で人の波を掻き分ける。
本当に商店街の端から端まで、沢山の人がいる。
遠くまで歩くのかと思いきや、京介は案外早く立ち止まった。
私の方に振り返ると、京介は顔だけ横に向けて言った。
「ここがトルーパーお気に入りの酒場だよ。」
京介の目線の先を私も追う。
商店街に立ち並ぶ店の中にポッカリと穴が空いたように、そこには地下へと続く階段があった。
地下と言っても5、6段降りるだけだが、他と違うだけあって圧倒的な存在感を放っていた。
もちろん階段は木製で、階段の先には同じく木製のドアがある。
ドアは蝶番を使った押し戸や引き戸ではなく、横にスライドさせる障子だ。
障子の手前からは橙色に染められた暖簾が掛けられている。
なるほど確かに『bar bo-vine』と書かれている。
しかし、バーなのに外装が純和風というのはどういうことだろうか。
居酒屋とか、飲み処なんて書かれていればピッタリなのに。
京介と私は階段を降り、京介が障子を引く。
レディーファーストなのか知らないが、京介はどうぞと手で促す。
普通なら大変嬉しいことなのだが、初めて入る居酒屋に私から入れというのは、なかなか迷惑なことだ。
若干睨むように京介を見ながらも、私は大人しく戸をくぐった。
「いらっしゃいませ。二名様で宜しいでしょうか?」
暖かみのある明かりとともに飛び込んできたのは、威勢のいい客寄せ声ではなかった。
低い落ち着いた声で、バーテン服を着た長身の男が私達を出迎えた。
「やあ、渡瀬。お疲れさん。」
そう言ったのは京介だった。
「ああ、京介さん。・・・ってことはこちらが噂の?」
バーテン服の男は京介に気づくと、少しだけ口調を崩して話す。
「うん、彼女一時間も寝てたから流石に焦ったよ。いつもの席空いてるかい?
京介はいつもの笑顔を浮かべながら答えた。
京介の言う彼女とは私のことか?
とすると、私は京介に助けられてから一時間も寝てたのか。
後で謝らないとな・・・。
「ええ、空いてますよ。今日は何飲みます?」
バーテン服の男は 私達を店に引き入れる。
店の内装は外装と同じく、日本の居酒屋のように和風だ。
どう考えてもバーテン服とは似合わないのだが・・・。
バーテン服姿なのは渡瀬という男だけではなかった。
縦長の店にはテーブル席が8つ、店の奥にはカウンター席があり、そこにもバーテン服姿が見える。
「今日は飲みやすいやつ頼むよ。」
京介は店の奥へと向かいながら答える。
どうやらかなりの常連客のようだ。
「承知致しました。すぐにお持ちします。」
渡瀬はそれだけ言うと、カウンター席の裏に入り、見えなくなった。
京介はカウンター席の一番左端に陣取る。
私もそれに従い、京介の隣に座った。
一見ただの椅子なのに、木製のくせして座りやすいようにクルクルと回るのだ。
すごい仕組みだ、いったいどんな仕組みになっているんだろう。
「あの、京介さん。そろそろ教えてくださいよ。ここがどこなのか。」
京介は柔和に微笑み答える。
「知りたいかい?でもここがどこかくらい分かるんじゃないかな?」
私は首を傾ける。
分かるはずがない。
あまりにも非現実的すぎて受け入れたくないのだが、一つ言えるとしたら・・・
「現実世界ではない・・・ですよね。」
「そうだね。」
京介は尚も楽しそうに笑う。
「現実世界でないのに、何故この場所が私に分かると言えるんですか?」
「ここに来るまでの道をよく思い出してごらんよ。絶対見覚えがあるはずさ。」
見覚え・・・?
そんな馬鹿な。
こんな木造だらけの戦国時代みたいな場所なんて、京都かテレビで見た映画村くらいしか知らない。
「見覚えがあるばずがありません!こんな場所があったら私・・・その、死のうなんて考えませんから。」
思わず力が入ってしまい、右手でカウンターテーブルを叩いてしまった。
ヒノキで出来たいいテーブルだ。
微かに香るヒノキの匂いを嗅いで、気を落ち着かせる。
「お待たせしました。レモンスカッシュです。」
渡瀬というバーテン服の男が、盆に二つのグラスを乗せ帰ってきた。
「どうもどうも、レモンスカッシュか。これなら君にも飲めるかもね。」
京介は渡瀬からグラスを受け取ると、もう一つを私に差し出す。
私はそれを受け取りはしたが、顔をしかめる。
「これ、アルコール入ってますけど?」
「そりゃそうだ。バーなんだから。」
京介は何も気にせずグラスに口をつけ、一口飲んだ。
「私未成年ですよ?っていうか京介さん、私の一つ上なんだから京介さんも未成年ですよね?」
「やれやれ、困った子だ。順を追って説明するから黙って聞いてろよ?」
京介は呆れ顔でグラスをテーブルに置き、私と向かいあう。
「なかなか愉快な新入りっすね、京介さん。それじゃあごゆっくり。」
渡瀬は苦笑しながら仕事場に戻っていった。
「まずはさっきの話しに戻るが、君の言う通りここは現実世界ではない。」
京介はさっきまでの笑顔を消し、真剣な眼差しになる。
「ここは仮想世界だ。」
・・・仮想世界。
「いつから露見したかは知らないが、ある日ネット上に奇妙なサイトが見つかったんだ。」
「誰が発見したとか、どうやって発見されたとか詳しいことは分からない。」
「ただそのサイトは明らかに現代のプログラムで作るそれとは全く違っていた。プロのプログラマーに見せてもこんなプログラムは見たことないって言うのさ。」
京介は一拍置いて再び喋り出す。
「それだけなら別にそこまで不思議な話しじゃない。独自のプログラムを使う人もいるしね。」
「ただそのサイトには、現代じゃ考えられない程のギミックがあったんだ。」
「それってもしかして・・・。」
京介は人差し指を立て、意気込む。
「そう。俺達が今いるこの仮想世界への入り口があったんだ。」
この世界に来る前、つまり京介に言われあのサイトを見た時。
黒塗りの壁紙。
無駄に高画質なデザインで描かれた門。
あの門こそが、仮想世界への入り口だったのだ。
「考えられるかい?ケータイのボタン一つ押すだけで、見たことのない世界にひとっ飛び。一番最初にサイトを見つけた人はどんなにビックリしただろうね。」
「あのサイトは誰が作ったか分からない。誰が一番最初に見つけたかも、誰が広めたかも分からない。けどサイトのプログラムは高度で、おまけに現代では実現できない仮想世界ときたら、もうこう考えるしかないのさ。」
私は静かに唾を飲む。
京介が次に言う言葉はおおよそ予想がついた。
「あのサイト、そして世界は未来から来たものなのではないか、ってね。」
暫しの沈黙。
店内にいる他の客の声だけが聞こえてくる。
「・・・もし、そうだとして、私がこの仮想世界に見覚えがあるはずだ、というのはどういうことですか?」
「ああ、そうだ。すっかり忘れてた。」
京介は手を叩き、再び語り出す。
「この世界はね、現実を忠実に再現してるんだよ。仙台駅を中心とした半径5km内をね。」
現実を再現?
私の知る現実はこんなに木だらけの世界ではない。
・・・いや、その木がなかったらどうだ?
私達が今通ってきた道、あれはもしかして・・・。
「アーケード・・・、もしかしてあの道ってアーケードですか!?」
私は体を捻り、店の中から外を見ようとする。
だが残念ながら店のドアは向こう側が見える自動ドアではなく、日本昔ながらの障子なのだ。
外の商店街の様子を見ることは叶わなかったが、その答えは京介から返ってきた。
「ご名答。どんな建物も例外一つなく、この世界は再現してるのさ。」
人口100万人を超える仙台市の流通を担う仙台駅。
そこから南下するように、店を連ねた屋根つきの商店街、通称アーケードがある。
半円型を長く伸ばしたような屋根は正面からみると、かまぼこみたいな形をしている。
木造では建てるのが難しいはずのその形を、この世界では見事に再現していた。
「なるほど・・・。この世界のことは何となく分かりました。」
姿勢を元に戻し、京介の方を見る。
和風のカウンターで、黒のジャケットを羽織る姿は言いようのない違和感を感じる。
「まだよく分からないところもありますけど・・・。」
京介に対して皮肉を込めたその言葉は、京介には理解できなかったらしく、何も言わずにもう一度グラスを煽った。
「まあ、そんなわけだからこの世界には法律がない。」
京介は自分のグラスをテーブルに置き、次に私のグラスを取った。
「法律と同じ制度はあるが、飲酒に関しては禁止されていない。」
京介はさあ飲めと言わんばかりに、私の目の前にグラスを突きつけてくる。
「大丈夫この世界で酔っても現実の自分には何の影響もない。」
私の手を取り、無理やりグラスを持たせる。
これは警察に突き出したら、即逮捕だな・・・。
いや、法律がないということはこの世界に警察はないのか。
だからと言ってこれを現実世界の警察に言ったとしても、異世界のことなんて聞き入れてくれないだろう。
私はおずおずとグラスを受け取った。
透明なグラスはレモンスカッシュの鮮やかな黄色に染まり、中に入った氷が光を受けキラキラと輝いている。
顔を近付けると、柑橘類の匂いと共に仄かにアルコールの匂いが鼻を抜ける。
軽くグラスを揺らすと、氷の間から炭酸の小さな気泡が浮かび上がり、水面でしゅわしゅわと音を立てて弾けた。
見た目は悪くない。
むしろ実に美味しそうだ。
だが…これはお酒なのだ。
いくら仮想世界と言えど、私は現実世界の住人。現実世界のルールに従いたくなる。
躊躇いがちに京介を見たが、京介は満面の笑みで私を見ていた。
そんなに飲んで欲しいか…。
仕方ない。
一口だけでも飲んでやるか。
思い切って私はグラスに口をつけ、一口飲んだ。
口に含んだ瞬間、炭酸が弾け、爽やかなレモンの味が広がる。
飲み込むとお酒の甘みがほんのり感じられ、ジュースにはない深い味わいがあった。
なるほど…これは
「美味しい…。」
グラスをテーブルに置くと、思わずほっとため息が出てしまった。
「美味しいだろう?さあ、もっと飲め飲め。他にも好きなお酒頼んでいいぞ。今日は君の仮想世界デビューの日なんだからな。」
京介は私の感想に満足したのか、顔を綻ばせながら言った。
なんと言うか、本当に笑顔の絶えない人だ。
この人に命を救ってもらったと考えると、なんだか情けない気持ちもあるが、この人だからこそへそ曲がりな私を救えたのかもしれない。
「それじゃあ、続きといこうか。まだこの世界のこれっぽっちしか話してないからね。」
そう言って京介は親指と人差し指で米粒ほどの隙間を作る。
そうだ。
まだまだ知りたいことがたくさんある。
なにせ仮想世界なのだから、今だに信じられないのだ。
一体どういう仕組みでこの世界が存在していて、この世界で彼らは何をしているのか。
湧き上がってくる好奇心を押さえつけようと、私はグラスに手をつけ喉を潤す。
「率直に言ってしまうと、この世界はバトル形式のオンラインゲームだ。」
もう一口飲む。
仮想の飲み物とは思えない程の味わい。
「戦い方は自由。剣を持ってもいいし、銃を使ってもいい。素手で格闘なんてのもありだ。」
一杯。
もう一杯。
「君が所属した仙台トルーパーは銃を基本としたーーー」
もう一杯…。
突然、全身の神経を叩かれたような鋭い感覚に襲われ、私は飛び起きた。
「ここは…。」
「現実世界だよ。」
すぐに返事が返ってきた。
目の前にいるのは京介だった。
ただし先ほどのコスプレみたいな黒いジャケット姿ではなく、元の制服姿に戻っていた。
気づけば私も、あの恥ずかしい格好ではなく、制服を着ていた。
「…戻ってきたんですか?」
たしか私は京介に案内され、居酒屋にいたはず。
だがここは、どうやら仮想世界に入る前にいた喫茶店のようだ。
入る前と同じくケータイを片手に持ち、ソファーに座っている。
「そうだよ、大変だったよ。」
京介がため息をつきながらソファーに深く倒れこむ。
「大変ってなにがです?」
「やっぱり覚えてないか…。」
京介は苦笑いを浮かべ、話す。
「レモンスカッシュがよっぽど美味しかったのか知らないけど、君次々にお酒注文して酔いつぶれてたんだよ。」
レモンスカッシュ飲んだのは覚えている。
大変美味しかった。
が、飲み干した覚えはない。
更に追加注文など全く記憶にない。
「渡瀬の奴も調子に乗ってどんどん酒持ってくるし、君は俺のせっかくの話しを聞いてくれないし、仕方ないから強制ログアウトさせたんだよ。」
京介は酷く疲れた顔をしていた。
なんだかよく分からないが、迷惑かけてしまったらしい。
「えっと…ごめんなさい?」
「まあ、楽しんでもらえたならいいさ。」
京介は急に笑顔になり、ソファーから勢いよく立ち上がった。
「さて、そろそろ帰ろうかな。あ、明日みんなで集まるから明日もここに来てね。」
京介は大きく伸びをすると、何気ない口調でそう言った。
みんなと言うのは例の仙台トルーパーの面々だろうか。
あれ… ?
ちょっと待てよ…。
「京介さん!今何時ですか!?」
うっかりしていた。
家を出たのは15時半、そして私はここに運ばれてきた時には気を失っていたのだ。
京介が言うには、私は一時間も寝ていたらしい。
更にそこから私は仮想世界に入っていた。
そこで酔いつぶれていたということは、かなりの時間が経過しているはず。
京介は一度驚いた顔を見せたが、すぐにいつもの笑顔を浮かべる。
「確かめてみればいいさ。」
私は握っていたケータイを開き、時計を確認する。
そんな馬鹿な…。
「嘘…。まだ5時…?」
私は目を疑った。
酔っていたらしく、記憶はないが少なくとも仮想世界のバーに4時間はいた気がする。
ありえない。
21時くらいになっていてもおかしくないのだ。
これはひょっとすると…。
「現実世界と仮想世界では時間的依存性がない。」
そう言ったのは京介だった。
京介はテーブルに置いてあったティーカップと、私の一口しか飲んでいないウーロン茶のグラスを盆に乗せる。
「正確には現実世界から仮想世界に入るまでに3秒かかる。つまり仮想世界からログアウトして現実世界に戻った時に、仮想世界に入る前から3秒しか経たない。」
グラスの中に入っていた氷は、仮想世界に入る前と変わらず、全く溶けた様子がない。
「……。」
「どうした?」
京介は私の顔を覗き込む。
「ああ、いえ…。」
私は頭を横に振って冷静さを取り戻す。
「なんていうか…こんなにもすごいものがあるのに、私今まで何したんだろうって…。」
「いいじゃないか。今の自分がいいって思えるなら、過去の自分なんて結果オーライさ。」
過去の自分。
変化のない日常に退屈だった自分。
全てのことに否定的で逃げていた自分。
京介と会い、世界を知り、私の中に変化が訪れた。
だが、私のネガティブ思考が完全に治ったわけではない。
しかしそれも、あくまで完全にはという話し。
京介と、そして仙台トルーパーといれば、少しずつかもしれないが、私は変わっていける。
「…そうですね。」
ゆっくりと私は頷く。
「よし、帰るか。家まで送っていくよ。」
京介はカウンターにお盆を片付けながらそう言った。
「え、いやいいですよ…。」
私はソファーから立ち上がる。
今日、京介にはたくさん迷惑をかけてしまった。
これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
「まあまあ、そう言わず。」
京介はドアに向かい、ドアノブに手をかける。
このドアは仮想世界で見たものと全く同じだ。
京介は勢いよくドアを開け、仮想世界でもやったように、私に外の景色を見せる。
「どうだい?こっちの世界も少しは変わって見えるかい?」
仮想世界では木製だったテラスだが、現実世界では少し錆び付いた金属製だ。
そのテラスに立ち、街の風景を眺める。
煌々とネオンが街を照らし、夕陽と混じり合い、不思議なグラデーションを作り出していた。
私は少し笑いながら答えた。
「いつもと変わりません。」
少し間を空けて答える。
「……でも、私は変わりました。」
京介は満足そうに微笑むと、街の景色を一瞥する。
「さ、行こうか。明日から楽しくなるぞ。」
「はい!」
人は変われる。
どんなに変わるのが難しくても、変わるきっかけとなるのは些細なことだ。
今の私はそう思う。
そう思うようになれたのだ。
京介の背を追い、ふと思い出す。
「…京介さん。」
ここに来たことで、すっかり忘れていたが、今ハッキリと思い出した。
「ん?なんだい?」
「レポート用紙とかって…持ってます?」
夕闇に包まれつつある街、仙台に盛大な笑い声がこだました。
目を覚まして一番最初に見えたのはそれだった。
そして耳に入るのは、ゆっくりとしたテンポの曲。
これはジャズソングか…。
「………ここは?」
止まっていた脳内クロックが徐々に動き出す。
「おう、お目覚めかい?」
どこからか声がした。
どうやら私は寝ていたようだ。
身体を起こし、辺りを見渡す。
黒いタイルは天井だったことにここで初めて気がつく。
白のテーブルに黒のソファー。
ほのかな暖色系の明かりに照らされ、とても心地好い。
奥の方にはカウンターとずらりと並ぶカウンター席が見える。
「もう起きて大丈夫かい?痛いところとかない?」
後ろから声がする。
すぐ後ろにも席があったらしい。
そこには私と同じくらいの歳の青年がいた。
やや長めの髪型。
眼鏡をかけ、知的そうな目。
さっき、バスの中から見かけたあの集団の彼であった。
「あ………、はい大丈夫です。」
何が大丈夫?
痛いところって…なんで?
一秒ほど考えたところで、走馬灯のように頭の中を映像が駆け巡った。
「わ、私………どうして?」
どうして生きているのか。
私は踏切内に入った子猫を助けようとして………。
「思い出したかい?」
「………あなたが助けてくれたんですか?」
「うん、まあね。」
彼は立ち上がり、私と対面する位置まで歩く。
ここいいかい。と私の反対側のソファーを指差し尋ねた。
私はそれに首肯し、やっとこの場所がどうやら喫茶店か何かの店だと分かった。
「あの……助けてくださってありがとうございました。」
「いやいや、礼なんていらないさ。君が助けを求めたから助けたまでさ。」
彼は柔らかな笑顔を浮かべ、私を見る。
眼鏡をかけたその顔は知的で冷静といったものが初見の印象だったが、笑顔で見事に中和され優しい性格を印象づけた。
「………でも、どうやって私を助けたんですか?どう考えてもあのタイミングで踏切内に飛び込んでも間に合いません。」
そうだ。
私が子猫を投げた時には、電車が目と鼻の先まで来ていたのだ。
「うーん、そうだね。いろいろ質問したいことがあると思うけど、まずは自己紹介といこうか。」
彼は一つ手を叩くと、思い付いたように再び立ち上がった。
「何か飲むかい?ここ一応喫茶店なんでね。」
そう言って彼はカウンターに向かって歩きだした。
「え?えっと…じゃあウーロン茶で。」
まさか彼が経営するお店?
と最初は思ったが、彼は私と同じ制服を着ているのだ。
私の高校は原則としてバイト禁止となっている。
彼が校則を破る不良でなければ、バイトはできない。
「本来ならお金払わなきゃいけないけど、今回ばかりはマスターも許してくれるでしょ。」
彼の言い方だと、どうやら私の分は奢ってくれるらしい。
「あ、ありがとうございます…。」
「お礼ならマスターにね。今日はもういないけど、いつか会えるさ。」
「は、はあ。」
マスターとは要するに店長のことか。
「さて、自己紹介だったね。」
数秒待っているとカウンターの奥からお盆を持った彼が姿を現した。
「俺の名前は京介。君の一つ年上だけど知ってたかな?」
私が二年生、16歳なのだから京介は三年生、17か18歳ということになる。
「仙台トルーパーの面々は後で説明するとして…君の番だ。」
どうも自己紹介とは馴れないものだ。
必然的に名前を明かさないといけないからだ。
だが嫌な顔は決して出さずに口を開いた。
「あ、はい。栗栖未来と言います。」
すると京介は何がおかしいのか、くすりと含みのある笑いをした。
それを見て私が訝しく首を捻ると、京介は慌て両手を前に突き出し否定した。
「いやいや、ゴメン。悪気はないんだよ。ただね俺らの業界だとフルネームは厳禁だからね。ちょっと新鮮だったのさ。」
………業界?
「未来ちゃんね。いい名前じゃないか。」
「ちゃん付けはやめて下さい。あとできれば名前じゃなく苗字で呼んで下さい。」
「どうしてだい?」
京介はさも名前で呼ぶのが当然かのように聞いてくる。
「それは………。」
出会ったばかりの赤の他人に自分の性格を曝すのはどうも気が引ける。
それ故にとっさにごまかしの言葉が出なかった。
「もしかしてあの時、踏切で立ち止まったのと少なからず関係があるのかな?」
「っ………。」
「正解みたいだね。」
京介は意地悪く笑ってみせる。
だが、からかう気はないらしい。
すぐに真顔に戻って、こう続けた。
「無理にとは言わないけど、話してくれるかな?君の助けになるかもしれない。」
冗談や嘘じゃないのは、目つきから分かった。
彼の表情はほとんどが優しい笑顔だが、彼に出会ってから短時間で気づいたのだ。
彼の本質はその表情ではなく、鋭い目つきにある、と。
その目で見られると、つい包み隠さず自分のことを暴露したくなる。
話せば彼は理解するかもしれない。
助けようとするかもしれない。
…しかし。
「何故私が自分の名前を嫌いなのか。私の性格。そして何故私が踏切で立ち止まったのか。全てを話したとしても、私を助けることはできません。」
京介は口を挟むことなく聞く。
続けて、と目で訴えてきたので言われた通りにする。
「私にも一人だけ、友達と呼べる間柄の人がいます。私は彼女にその内容を全て言ってみたことがあります。」
大きく息を吸い、言葉を繋げる。
「ですが彼女の反応はおよそ友達に対して向けるようなものではない、冷たい表情でした。」
「一番親しい彼女でも私を助けることはできませんでした。」
京介は何を考えているのか、沈黙を貫く。
「いえ、助ける気さえなかったのかもしれません。」
さくらのことは恨んでいない。
むしろ自分の性格を恨むのが妥当だろう。
さくらはあんなに頑張って私を変えようとしてくれたのだ。
重い沈黙の中に、場違いなジャズソングが軽快に流れる。
「………。」
沈黙が辛い。
自分からこの空気を作りだしておいて何だが、居心地が悪い。
礼だけ言って立ち去ろうとした時だった。
突然、京介が両の手をパンと打ち付け朗らかに笑った。
「じゃあこうしよう。俺は君を助けた。助けた恩返しとして君は俺に全てを話す義務がある。」
加えて、どうだい?と聞いてくる。
どうだい?じゃない………。
それでは押し付けであって、私の意思なんて無視じゃないか。
「助けて下さったことにはお礼を言います。ですが私はあそこで死んでもよかったんです。あなたに全てを話しはしません。」
冷たく言い放つ。
命の恩人に対して、こんなことを言うのは心が痛んだが、仕方ない。
これでいいのだ。
これで…。
「それは嘘だろう。君は確かに死にたくないと言ったよ。」
「………。」
「だろう?じゃなかったら俺は助けてなかったとさっきも言ったじゃないか。」
「………分かりました。分かりましたよ。」
深くため息をつく。
「全て話します。その代わり話したからには必ず私を助けてくれるんでしょうね?」
「いいや、君の助けになるだけで助けるとは言ってない。助かるのは君一人だけさ。」
「…意味が分かりません。」
「要するに、俺の出る幕は何一つ無く、俺が出来るのは君に解決法を提示するぐらいさ。」
…やっぱり分からない。
「まだよく分かりませんが…。とにかく話します。」
グラスに入ったウーロン茶で喉を潤し、ゆっくり息を吸った。
─何分話しただろうか。
いや、何十分か。
私が話している間、京介は真剣に耳を傾けた。
さくらでさえ、こんなことはなかった。
彼は一体…?
「…というのが私の性格です。踏切内で立ち止まったのも今の説明で想像がつくと思います。」
私が思っていること、小学校から今までのことを全て話した。
「つまり、一言で片付けると私はこの日常的な世界がつまらないんです。」
口を閉じる。
京介は今とても複雑な顔をしていた。
やはり無理か………。
こう考えるのは私だけ。
彼にも理解できなかったようだ。
「理解できないね。」
そう言ったのは京介だった。
ほら、やっぱり。
「つまらないから君は死ぬのかい?」
「同じことの繰り返しなら死んでるも同然です。」
「分からないね。俺は毎日がつまらないなんて思わないけどね。」
「どう思うかは人それぞれです。けど私の場合はどんなに楽しいことでもつまらないと感じてしまうんです。」
「本当にそうかい?君は本当に楽しいことに向き合っているかい?」
京介は身を乗り出して聞いてくる。
「君は逃げているんだろう。」
「………そうですね。私は逃げてるんです。」
もはや開き直るのも億劫だった。
死にたくないなんて言うんじゃなかった。
あそこで死ぬべきだったのだ。
「やれやれ、手に負えないな。ケータイを貸してくれ。」
「はい。………はい?」
京介は右手を出し、少し苛立っているように見えた。
「ケータイを貸してくれ。何も悪いことはしない。」
「………ケータイ持ってないんですか?」
電話でもするのか?と思った。
「自分のは持ってるよ。」
違うようだ。
京介はジーンズのポケットから緑色のケータイを取り出して見せた。
「じゃあ何故です?っていうか、今までの話しと関係あります?」
「大ありだよ。いいから貸すんだ。」
なおも京介は私のケータイを催促してくる。
「………何をするんですか?」
「毎日がつまらないなんて言う君にド肝を抜かせるのさ。きっと楽しすぎて死んじゃうよ。」
「…ふざけないでください。だいたいなんで初対面の人に私の秘密を暴露して、ケータイまで貸さなきゃいけないんですか!?」
「君の意見はごもっともだが、残念ながら今は俺のほうが正しい。」
こいつ…さくらよりしつこい。
「さあ、貸すんだ。」
ここまで言われたからには仕方がない。
ケータイでも何でもくれてやろう。
「分かりましたよ、貸せばいいんでしょうっ。」
私は半ば投げ捨てるようにケータイをテーブルに置いた。
白いケータイだ。
買ってからあまり使っていないので汚れや傷はほとんどない。
白いテーブルの上に置くとまったく目立たない。
京介はやれやれやっとか、というような顔を作り、私のケータイを手に取った。
そして何の遠慮や躊躇もせず、更に私に何の断りもなく、二つ折りのケータイを開き、操作し始めた。
「…あの、なにやってるんです?」
「黙って見ていろ。」
黙ってられるか!
「一応、これでも私乙女ですよ?乙女のケータイを弄るなんて不謹慎じゃないですか?」
「はは、これは失敬。」
京介は自分のケータイを開くと、私のケータイとカメラを撮り合うように互いに向かい合わせた。
「えーっと………、メアド交換?」
「違う。別に交換して欲しいならしてやらんこともないが。」
さくらならツンデレだね!とか言って喜びそうだが、私は喜ばない。
ちなみに私のアドレス帳には、父親しか異性のアドレスがない。
だからと言って、ひゃっほう男のアドレスゲット!!とかは微塵にも思わない。
うん、絶対ない。
「ほら、あとは自分でやるんだ。」
吹っ飛んだ思考回路が京介の声で正常に戻った。
「自分でやる?」
京介は私のケータイを開いたまま、テーブルの上に置いた。
私はケータイのディスプレイを見た。
「名前を入力するんだ。」
黒を基調にした背景に『Put In Youre Name.』と白字で書かれている。
その下には入力フォームがあって、ここに名前を入力するようだ。
「あの…これ何です?SNSですか?私SNSはやりませんよ。さんざん友達に付き合わされて─」
「大丈夫だ、SNSじゃない。確かに同じ名前のSNSはあるがな。」
友達とは無論、さくらのことである。
さくらの勧誘するSNSで厄介ごとに巻き込まれたのは数知れず。
そう、だからこの間さくらが誘ってきたSNSには絶対入るまいと決めたのだ。
名前は何だったか…。
確か………仙台トルーパー。
私はその瞬間、息を呑んだ。
「仙台トルーパー!!」
そう、書いてあるじゃないか!
入力フォームの下。
同じく白字で『Team 仙台トルーパー』と。
「ああ、さっきも言わなかったか?俺らのチーム仙台トルーパーは─」
「あ、あの!もしかして仙台トルーパーって、今日一緒にいた方々が仙台トルーパーですか!?SNSのサークルですか!?」
私は思わず立ち上がり、テーブルに手をつき、身を乗り出す。
「っ!おいおい落ち着け。どうしたSNSには入らないと言った矢先に。」
私はこの時、微かに予感したのだ。
もしかして彼なら本当に私を救ってくれることを。
覚悟するかのように深呼吸をする。
あの集団の仲間入り。
私が思い描いていた非日常。
この先にあるかもしれない。
「名前…入れればいいんですね。」
私はソファーに座り直し、再びディスプレイを見る。
「ああ、名前って言っても偽名でも何でも構わない。ハンドルネームみたいなものだ。」
要するにSNSと同じで、自分で名付けた名前を使って他ユーザーと関わる。ということか?
ならば…。
「私の名前以外なら何でもいいな…。」
「じゃあ敢えて未来にしよう。」
京介はそう言うと、私から電光石火の如くケータイを奪い取った。
「って、あぁ!」
私が奪い返した時には既に遅かった。
入力フォームには『ミク』とカタカナで入力され、もうログイン画面らしきものに移り代わっていた。
「残念。後から変更は不可能だ。」
なんてひどい人だ…。
「さあ、早くそのボタンを押すんだ。何度やってもこの瞬間のワクワクは堪らないね。」
………ボタン。
これのことか。
ディスプレイの中央には派手に装飾された門の絵がある。
というより、それしかない。
カーソルを合わせると、門がわずかに開く仕組みだ。
なかなか凝った作りだが、一体どんなプログラムを組んでいるんだろう?
「これを押せばいいんですね?」
私が聞くと、京介は満面の笑みで頷いた。
まるで子供が楽しみにしていた玩具を開ける時のような笑顔だ。
はたしてこのボタンを押すと、何があるのか。
私を楽しませるものが映るのか。
もしくはあの仙台トルーパーというサークルに関係するものか。
いや、彼はSNSではないと言っていたか。
私は生唾を飲み込み、祈るようにボタンを押した。
最後に聞こえたのは「俺も後から行くよ、楽しみだ。」という言葉。
私の意識は途切れた。
不意に意識が戻る。
意識が戻るのを自覚するなんて変な話しだが、本日二度目の意識喪失に身体が慣れてしまったのか、はっきりと分かった。
いや、そんなことを冷静に述べている場合じゃなかった。
何故私は意識が飛んだのだ。
私は京介の言われるままに、ケータイのボタンを押しただけだ。
一体何が起きたというのだ。
催眠術?
神経ガス?
よく分からない。
意識を失ったのはボタンを押した瞬間だったし、意識を失っている間の時間もかなり短かったような気もする。
周りを見渡す。
場所はさっきの喫茶店と変わりない。
見渡すまでもなく、人影が目に入る。
京介だ。
だが、意識を失う前の京介とかなり違う。
顔や髪型、体格は同じだが…。
彼は黒いジャケットに同じく黒のコートを羽織り、またしても黒のズボンを履いている。
黒ずくめだ。
腿の部分にはホルスターのような物もついている。
この格好から推測するに…。
恐らく………。
「………コスプレですか?」
「馬鹿か、君は。自分の格好もよく見てみろ。」
私…?
はて、私の格好はそんなにおかしかっただろうか?
確か家を出た時は、学校の制服のままだったはず…。
言われる通り、私は自分の姿を見下ろす。
「ひゃあっ!!」
なんたることだ。
私としたことが、アニメでよくある素っ頓狂な甲高い声を上げてしまうなんて。
一生の不覚。
いやいや、そんなことはどうでもいい。
問題は私の格好だ。
私は深緑のインナー、俗に言うアンダーウェアなのか、とにかく体にぴっちりくっつくタイプの服一枚に(もちろん下着はつけているようだが)、肩までゴム状の帯をかけるズボン(マリオが着るやつだ)を着ていた。
京介よりひどいじゃないか…。
なんだか下っ端の傭兵のようだ。
しかもなんと言うか………。
アンダーウェアのせいで体のラインが嫌というほど見えてしまうのだ。
思わず胸の前を腕で隠し、叫ぶ。
「なんで私までコスプレしてるんですか!?しかもこの格好!!っていうかいつの間にこんなの……………って、まさかっ………。」
「いやいやいや、俺じゃない!俺は着せてないぞ!あとコスプレじゃない!」
「じゃあ何ですかっ。説明してくれるんでしょうね?」
私は睨むように京介を見る。
「ああ、分かった、分かった。ただここで説明するのもなんだし、外に出ようか。」
私は唖然とした。
こいつは何を言っているんだ。
「私にコスプレしたまま、外を出歩けって言うんですか!?」
京介は困ったように頭をかくと、後ずさりしながらも口をもごもごと動かす。
「いやコスプレじゃないから。それに外の景色と比べたら相応しい格好をする人なんてそういないし…。」
私が睨みつけたままでいると、京介はお得意のやれやれといった顔で言った。
「とにかく外に出よう。外に出てそれでもなお文句があるならいくらでも聞こう。」
不満や文句はまだまだたくさんあったが、ここはとりあえず京介に従うことにしよう。
正直、この格好のままで街に出歩くなど恥ずかしくて死にそうだが、それは京介も同じだ。
最悪、京介の後ろに隠れていよう。
むすっとしたまま、仕方なく頷くのを見た京介は立ち上がった。
私もそれに続き立ち上がる。
そこで不意に違和感を感じた。
なんだろう?
この感じ。
身体が軽い?
いや、それだけではない。
普段感じている体感というか肌に触れたものの感触がどことなく違うのだ。
喫茶店の出入口であろうドアにさっさと歩いていってしまう京介を追おうとするが、上手く歩くこともままならない。
その様子に気づいたのか、京介はドアの手前で立ち止まる。
「大丈夫かい?いつもと違うように感じるかもしれないが、直に馴れるさ。」
京介は私がドアに近づくまで待ってくれた。
「さあ、このドアの向こうには君の望んでいた非日常がある。」
私は意識を失ってから、何となく気づいていた。
何かが普通ではないと。
「君の性格なんて一変してしまうほどの物凄い非日常がね。」
京介はドアノブに手をかける。
「覚悟はいいかい?」
「何のです?」
「そりゃあ、びっくり仰天する覚悟さ。」
京介は笑いながら答える。
私はそれに静かに頷く。
当然だ。覚悟ならとうに決めた。
京介は手に力を込め、ドアを開けた。
気絶した私を運んでくれた訳だから、ここはあの踏切からそう離れていないと私は思っていた。
だが、京介の肩越しに見える風景は私が知っているものではなかった。
建ち並ぶ建築物は全て木造や石造り。
しかも一つ一つが武家屋敷のように荘厳で目を奪われた。
黒塗りされた瓦屋根には、仄かに光る提灯がぶら下げられ、ドアから見える景色がオレンジ色に輝いていた。
「綺麗だろう?」
そう言って京介は、ドアを片手で押さえたまま、横に一歩避ける。
そうすることで外の景色がよく見えるようになった訳だが、私はもはや言葉が出なかった。
なんだこれは…。
どこだここは………。
武家屋敷なんてもんじゃない。
それが一階二階三階とまるでビルのように連なっているではないか。
その武家屋敷ならぬ武家ビルディングは形は様々違えど、数十個の列を作っている。
少なくともこんな場所、現代の日本には存在しない。
そして過去に遡ってもこんな技術はなかったはずだ。
「一体何が…どうなって………?」
私はよろめくように2、3歩前に進んだ。
そして足で感じる感触。踏んだ時の音で気がついた。
ドアから先、そこも木材を組み合わせて作った床になっている。
どうやらこの喫茶店は建物の二階にあるらしく、私の立つテラスのようなせり出したところから、同じく木製の階段が続き、下に降りれるようになっていた。
「………あ、あの。京介さん?私どこに来ちゃったんですか?」
「はははっ、いい顔だ!狐に化かされたような顔だね。」
狐に化かされた人を見たことがあるのだろうか…?
「なに、安心したまえ。あの踏切から近いところさ。」
踏切から近い?
何を言うか。
私はそこまで土地に野暮ではない。
あの踏切から1km歩いたってこんな場所はない。
彼の定義する『近い』が国を跨ぐほどだったら話しは別だが。
「でもいくら君が女の子で軽いと言っても、ここまで運ぶのは苦労したよ。」
フォローしてるでも馬鹿にしてるでもない言葉を言われても、私は突っ込むことができなかった。
「下に降りようか。アーケードのほうはもっと綺麗だよ。」
京介はそう言いながら階段を降りて行く。
アーケードとは…つまり、あれか。
商店街などを屋根で覆った通路のことか。
………木造で?
「ほら、行かないのか?」
京介は階段の半ばで振り返り、私を呼ぶ。
「あっ、ああ行きます、行きます。」
木造だというのに階段は少しのがたつきもなく、軋む音もない。
表面は漆を塗っているのか、黒く光り輝き、まるで一種の歴史的健造物のようだった。
下に降りると、地面は石畳だった。
これも見事なことに、大小様々な石を組み合わせ、敷き詰めることで、隙間は目立つことなかった。
更に一つ一つの石がしっかりと平らに削られ、歩いても痛くない。
文句なしの舗道だった。
「…すごい。」
私が感嘆している間にも、京介はさっさとその道を歩いていく。
急ぎ足で追いかけながらも、私はまたしても驚くべきものを見た。
私達と同じ方向に向かって歩く人影が見える。
それだけではなく、その人影は私達の服装とは掛け離れている西洋の騎士みたいな格好をしている。
ブロンズの髪をなびかせながら歩くその姿は…なるほど、恐ろしく周りの風景に似合わない。
「私達以外にも人が…。」
前方だけでなく、後方にも、脇道にだって、白い修道服を着ていたり、全身を重そうな鎧で固めている人もいる。
「コスプレパーティーみたいとか言い出すなよ。」
冗談めいた口調で京介は言う。
京介がどこに向かっているかは検討のつけようもないが、歩くにつれ、前方から差し込む光が増え、何やら軽快な音楽と楽しげな会話が聞こえてきた。
道の両脇に連なっていた木造の建物はやがて途絶え、代わりに道は大きな屋根つきの道路にぶつかった。
「どうだい?ここが仮想世界クロノファストで一番栄える商店街だよ。」
愕然という言葉はこういう時に使うのだろう。
私は今まで使い方を間違えていた。
人が本当に驚いた時には、声も出ず、思考も止まり、冷静になれない。
遠くで京介の声がするが、何を言っているかは分からなかった。
私は上手く動きそうにない喉を無理矢理動かし、一心に叫んだ。
「すごいっ!あははっ、すごいすごい!!」
私達の通ってきた道は、ちょうどこの商店街を横切るように繋がっていて、左右にはたくさんの店が建ち並んでいた。
そのどれもが、まさに武家屋敷そのもので、まるで戦国時代にタイムスリップしたようだった。
両脇の屋敷からは、徐々に弧を描くように木材が組み合わされ、アーチ状の屋根が形成されていた。
屋根の天井からは提灯がぶら下げられ、地面の所々には行灯が置かれ、商店街を優しい光で満たしていた。
行き交う人々は皆、思い思いの衣服を身につけ、数々の店を出入りする。
こんな光景は日本のどこを探しても、いやきっと世界中探してもない。
異質だ。
異質すぎる。
もはや非日常なんて通り越して、これは異世界だ。
「どうだ、満足か?度肝抜かれただろう?」
「はい!」
「お勧めの居酒屋があるんだ。見に行くかい?」
「はいっ!」
居酒屋と聞いてすぐに反応できなかったのは、きっと珍しく興奮していたせいだろう。
未成年だから飲酒は出来ないのだが、それを言う前に京介は人ごみの中へ入ってしまった。
私もすぐに京介を追いかけるために、身体を人ごみに紛らせていく。
京介の頭を追いながらも、左右に並ぶ店に私の意識がいっていた。
薬草のような苗を棚に並べている店もあれば、私が見たことのない種類の武器、防具を置いてある店もあった。
そのどれもが私にはキラキラと輝いて見え、私の興味を誘った。
私の知らない世界。
ここには私の知らないものがたくさんある。
自然と胸が高鳴る。
この体で、目で、耳で全てを知りたい。
私は今まで何に悩んでいたのだろう。
少し前に感じていたあのもやもやした感情は、とうに消え失せていた。
人の悩み事は案外簡単で、ほんのささいなことであっさり解決してしまうのかもしれない。
こんなこと昔の自分に言ったらなんて言われるか…。
京介とはぐれないように、急ぎ足で人の波を掻き分ける。
本当に商店街の端から端まで、沢山の人がいる。
遠くまで歩くのかと思いきや、京介は案外早く立ち止まった。
私の方に振り返ると、京介は顔だけ横に向けて言った。
「ここがトルーパーお気に入りの酒場だよ。」
京介の目線の先を私も追う。
商店街に立ち並ぶ店の中にポッカリと穴が空いたように、そこには地下へと続く階段があった。
地下と言っても5、6段降りるだけだが、他と違うだけあって圧倒的な存在感を放っていた。
もちろん階段は木製で、階段の先には同じく木製のドアがある。
ドアは蝶番を使った押し戸や引き戸ではなく、横にスライドさせる障子だ。
障子の手前からは橙色に染められた暖簾が掛けられている。
なるほど確かに『bar bo-vine』と書かれている。
しかし、バーなのに外装が純和風というのはどういうことだろうか。
居酒屋とか、飲み処なんて書かれていればピッタリなのに。
京介と私は階段を降り、京介が障子を引く。
レディーファーストなのか知らないが、京介はどうぞと手で促す。
普通なら大変嬉しいことなのだが、初めて入る居酒屋に私から入れというのは、なかなか迷惑なことだ。
若干睨むように京介を見ながらも、私は大人しく戸をくぐった。
「いらっしゃいませ。二名様で宜しいでしょうか?」
暖かみのある明かりとともに飛び込んできたのは、威勢のいい客寄せ声ではなかった。
低い落ち着いた声で、バーテン服を着た長身の男が私達を出迎えた。
「やあ、渡瀬。お疲れさん。」
そう言ったのは京介だった。
「ああ、京介さん。・・・ってことはこちらが噂の?」
バーテン服の男は京介に気づくと、少しだけ口調を崩して話す。
「うん、彼女一時間も寝てたから流石に焦ったよ。いつもの席空いてるかい?
京介はいつもの笑顔を浮かべながら答えた。
京介の言う彼女とは私のことか?
とすると、私は京介に助けられてから一時間も寝てたのか。
後で謝らないとな・・・。
「ええ、空いてますよ。今日は何飲みます?」
バーテン服の男は 私達を店に引き入れる。
店の内装は外装と同じく、日本の居酒屋のように和風だ。
どう考えてもバーテン服とは似合わないのだが・・・。
バーテン服姿なのは渡瀬という男だけではなかった。
縦長の店にはテーブル席が8つ、店の奥にはカウンター席があり、そこにもバーテン服姿が見える。
「今日は飲みやすいやつ頼むよ。」
京介は店の奥へと向かいながら答える。
どうやらかなりの常連客のようだ。
「承知致しました。すぐにお持ちします。」
渡瀬はそれだけ言うと、カウンター席の裏に入り、見えなくなった。
京介はカウンター席の一番左端に陣取る。
私もそれに従い、京介の隣に座った。
一見ただの椅子なのに、木製のくせして座りやすいようにクルクルと回るのだ。
すごい仕組みだ、いったいどんな仕組みになっているんだろう。
「あの、京介さん。そろそろ教えてくださいよ。ここがどこなのか。」
京介は柔和に微笑み答える。
「知りたいかい?でもここがどこかくらい分かるんじゃないかな?」
私は首を傾ける。
分かるはずがない。
あまりにも非現実的すぎて受け入れたくないのだが、一つ言えるとしたら・・・
「現実世界ではない・・・ですよね。」
「そうだね。」
京介は尚も楽しそうに笑う。
「現実世界でないのに、何故この場所が私に分かると言えるんですか?」
「ここに来るまでの道をよく思い出してごらんよ。絶対見覚えがあるはずさ。」
見覚え・・・?
そんな馬鹿な。
こんな木造だらけの戦国時代みたいな場所なんて、京都かテレビで見た映画村くらいしか知らない。
「見覚えがあるばずがありません!こんな場所があったら私・・・その、死のうなんて考えませんから。」
思わず力が入ってしまい、右手でカウンターテーブルを叩いてしまった。
ヒノキで出来たいいテーブルだ。
微かに香るヒノキの匂いを嗅いで、気を落ち着かせる。
「お待たせしました。レモンスカッシュです。」
渡瀬というバーテン服の男が、盆に二つのグラスを乗せ帰ってきた。
「どうもどうも、レモンスカッシュか。これなら君にも飲めるかもね。」
京介は渡瀬からグラスを受け取ると、もう一つを私に差し出す。
私はそれを受け取りはしたが、顔をしかめる。
「これ、アルコール入ってますけど?」
「そりゃそうだ。バーなんだから。」
京介は何も気にせずグラスに口をつけ、一口飲んだ。
「私未成年ですよ?っていうか京介さん、私の一つ上なんだから京介さんも未成年ですよね?」
「やれやれ、困った子だ。順を追って説明するから黙って聞いてろよ?」
京介は呆れ顔でグラスをテーブルに置き、私と向かいあう。
「なかなか愉快な新入りっすね、京介さん。それじゃあごゆっくり。」
渡瀬は苦笑しながら仕事場に戻っていった。
「まずはさっきの話しに戻るが、君の言う通りここは現実世界ではない。」
京介はさっきまでの笑顔を消し、真剣な眼差しになる。
「ここは仮想世界だ。」
・・・仮想世界。
「いつから露見したかは知らないが、ある日ネット上に奇妙なサイトが見つかったんだ。」
「誰が発見したとか、どうやって発見されたとか詳しいことは分からない。」
「ただそのサイトは明らかに現代のプログラムで作るそれとは全く違っていた。プロのプログラマーに見せてもこんなプログラムは見たことないって言うのさ。」
京介は一拍置いて再び喋り出す。
「それだけなら別にそこまで不思議な話しじゃない。独自のプログラムを使う人もいるしね。」
「ただそのサイトには、現代じゃ考えられない程のギミックがあったんだ。」
「それってもしかして・・・。」
京介は人差し指を立て、意気込む。
「そう。俺達が今いるこの仮想世界への入り口があったんだ。」
この世界に来る前、つまり京介に言われあのサイトを見た時。
黒塗りの壁紙。
無駄に高画質なデザインで描かれた門。
あの門こそが、仮想世界への入り口だったのだ。
「考えられるかい?ケータイのボタン一つ押すだけで、見たことのない世界にひとっ飛び。一番最初にサイトを見つけた人はどんなにビックリしただろうね。」
「あのサイトは誰が作ったか分からない。誰が一番最初に見つけたかも、誰が広めたかも分からない。けどサイトのプログラムは高度で、おまけに現代では実現できない仮想世界ときたら、もうこう考えるしかないのさ。」
私は静かに唾を飲む。
京介が次に言う言葉はおおよそ予想がついた。
「あのサイト、そして世界は未来から来たものなのではないか、ってね。」
暫しの沈黙。
店内にいる他の客の声だけが聞こえてくる。
「・・・もし、そうだとして、私がこの仮想世界に見覚えがあるはずだ、というのはどういうことですか?」
「ああ、そうだ。すっかり忘れてた。」
京介は手を叩き、再び語り出す。
「この世界はね、現実を忠実に再現してるんだよ。仙台駅を中心とした半径5km内をね。」
現実を再現?
私の知る現実はこんなに木だらけの世界ではない。
・・・いや、その木がなかったらどうだ?
私達が今通ってきた道、あれはもしかして・・・。
「アーケード・・・、もしかしてあの道ってアーケードですか!?」
私は体を捻り、店の中から外を見ようとする。
だが残念ながら店のドアは向こう側が見える自動ドアではなく、日本昔ながらの障子なのだ。
外の商店街の様子を見ることは叶わなかったが、その答えは京介から返ってきた。
「ご名答。どんな建物も例外一つなく、この世界は再現してるのさ。」
人口100万人を超える仙台市の流通を担う仙台駅。
そこから南下するように、店を連ねた屋根つきの商店街、通称アーケードがある。
半円型を長く伸ばしたような屋根は正面からみると、かまぼこみたいな形をしている。
木造では建てるのが難しいはずのその形を、この世界では見事に再現していた。
「なるほど・・・。この世界のことは何となく分かりました。」
姿勢を元に戻し、京介の方を見る。
和風のカウンターで、黒のジャケットを羽織る姿は言いようのない違和感を感じる。
「まだよく分からないところもありますけど・・・。」
京介に対して皮肉を込めたその言葉は、京介には理解できなかったらしく、何も言わずにもう一度グラスを煽った。
「まあ、そんなわけだからこの世界には法律がない。」
京介は自分のグラスをテーブルに置き、次に私のグラスを取った。
「法律と同じ制度はあるが、飲酒に関しては禁止されていない。」
京介はさあ飲めと言わんばかりに、私の目の前にグラスを突きつけてくる。
「大丈夫この世界で酔っても現実の自分には何の影響もない。」
私の手を取り、無理やりグラスを持たせる。
これは警察に突き出したら、即逮捕だな・・・。
いや、法律がないということはこの世界に警察はないのか。
だからと言ってこれを現実世界の警察に言ったとしても、異世界のことなんて聞き入れてくれないだろう。
私はおずおずとグラスを受け取った。
透明なグラスはレモンスカッシュの鮮やかな黄色に染まり、中に入った氷が光を受けキラキラと輝いている。
顔を近付けると、柑橘類の匂いと共に仄かにアルコールの匂いが鼻を抜ける。
軽くグラスを揺らすと、氷の間から炭酸の小さな気泡が浮かび上がり、水面でしゅわしゅわと音を立てて弾けた。
見た目は悪くない。
むしろ実に美味しそうだ。
だが…これはお酒なのだ。
いくら仮想世界と言えど、私は現実世界の住人。現実世界のルールに従いたくなる。
躊躇いがちに京介を見たが、京介は満面の笑みで私を見ていた。
そんなに飲んで欲しいか…。
仕方ない。
一口だけでも飲んでやるか。
思い切って私はグラスに口をつけ、一口飲んだ。
口に含んだ瞬間、炭酸が弾け、爽やかなレモンの味が広がる。
飲み込むとお酒の甘みがほんのり感じられ、ジュースにはない深い味わいがあった。
なるほど…これは
「美味しい…。」
グラスをテーブルに置くと、思わずほっとため息が出てしまった。
「美味しいだろう?さあ、もっと飲め飲め。他にも好きなお酒頼んでいいぞ。今日は君の仮想世界デビューの日なんだからな。」
京介は私の感想に満足したのか、顔を綻ばせながら言った。
なんと言うか、本当に笑顔の絶えない人だ。
この人に命を救ってもらったと考えると、なんだか情けない気持ちもあるが、この人だからこそへそ曲がりな私を救えたのかもしれない。
「それじゃあ、続きといこうか。まだこの世界のこれっぽっちしか話してないからね。」
そう言って京介は親指と人差し指で米粒ほどの隙間を作る。
そうだ。
まだまだ知りたいことがたくさんある。
なにせ仮想世界なのだから、今だに信じられないのだ。
一体どういう仕組みでこの世界が存在していて、この世界で彼らは何をしているのか。
湧き上がってくる好奇心を押さえつけようと、私はグラスに手をつけ喉を潤す。
「率直に言ってしまうと、この世界はバトル形式のオンラインゲームだ。」
もう一口飲む。
仮想の飲み物とは思えない程の味わい。
「戦い方は自由。剣を持ってもいいし、銃を使ってもいい。素手で格闘なんてのもありだ。」
一杯。
もう一杯。
「君が所属した仙台トルーパーは銃を基本としたーーー」
もう一杯…。
突然、全身の神経を叩かれたような鋭い感覚に襲われ、私は飛び起きた。
「ここは…。」
「現実世界だよ。」
すぐに返事が返ってきた。
目の前にいるのは京介だった。
ただし先ほどのコスプレみたいな黒いジャケット姿ではなく、元の制服姿に戻っていた。
気づけば私も、あの恥ずかしい格好ではなく、制服を着ていた。
「…戻ってきたんですか?」
たしか私は京介に案内され、居酒屋にいたはず。
だがここは、どうやら仮想世界に入る前にいた喫茶店のようだ。
入る前と同じくケータイを片手に持ち、ソファーに座っている。
「そうだよ、大変だったよ。」
京介がため息をつきながらソファーに深く倒れこむ。
「大変ってなにがです?」
「やっぱり覚えてないか…。」
京介は苦笑いを浮かべ、話す。
「レモンスカッシュがよっぽど美味しかったのか知らないけど、君次々にお酒注文して酔いつぶれてたんだよ。」
レモンスカッシュ飲んだのは覚えている。
大変美味しかった。
が、飲み干した覚えはない。
更に追加注文など全く記憶にない。
「渡瀬の奴も調子に乗ってどんどん酒持ってくるし、君は俺のせっかくの話しを聞いてくれないし、仕方ないから強制ログアウトさせたんだよ。」
京介は酷く疲れた顔をしていた。
なんだかよく分からないが、迷惑かけてしまったらしい。
「えっと…ごめんなさい?」
「まあ、楽しんでもらえたならいいさ。」
京介は急に笑顔になり、ソファーから勢いよく立ち上がった。
「さて、そろそろ帰ろうかな。あ、明日みんなで集まるから明日もここに来てね。」
京介は大きく伸びをすると、何気ない口調でそう言った。
みんなと言うのは例の仙台トルーパーの面々だろうか。
あれ… ?
ちょっと待てよ…。
「京介さん!今何時ですか!?」
うっかりしていた。
家を出たのは15時半、そして私はここに運ばれてきた時には気を失っていたのだ。
京介が言うには、私は一時間も寝ていたらしい。
更にそこから私は仮想世界に入っていた。
そこで酔いつぶれていたということは、かなりの時間が経過しているはず。
京介は一度驚いた顔を見せたが、すぐにいつもの笑顔を浮かべる。
「確かめてみればいいさ。」
私は握っていたケータイを開き、時計を確認する。
そんな馬鹿な…。
「嘘…。まだ5時…?」
私は目を疑った。
酔っていたらしく、記憶はないが少なくとも仮想世界のバーに4時間はいた気がする。
ありえない。
21時くらいになっていてもおかしくないのだ。
これはひょっとすると…。
「現実世界と仮想世界では時間的依存性がない。」
そう言ったのは京介だった。
京介はテーブルに置いてあったティーカップと、私の一口しか飲んでいないウーロン茶のグラスを盆に乗せる。
「正確には現実世界から仮想世界に入るまでに3秒かかる。つまり仮想世界からログアウトして現実世界に戻った時に、仮想世界に入る前から3秒しか経たない。」
グラスの中に入っていた氷は、仮想世界に入る前と変わらず、全く溶けた様子がない。
「……。」
「どうした?」
京介は私の顔を覗き込む。
「ああ、いえ…。」
私は頭を横に振って冷静さを取り戻す。
「なんていうか…こんなにもすごいものがあるのに、私今まで何したんだろうって…。」
「いいじゃないか。今の自分がいいって思えるなら、過去の自分なんて結果オーライさ。」
過去の自分。
変化のない日常に退屈だった自分。
全てのことに否定的で逃げていた自分。
京介と会い、世界を知り、私の中に変化が訪れた。
だが、私のネガティブ思考が完全に治ったわけではない。
しかしそれも、あくまで完全にはという話し。
京介と、そして仙台トルーパーといれば、少しずつかもしれないが、私は変わっていける。
「…そうですね。」
ゆっくりと私は頷く。
「よし、帰るか。家まで送っていくよ。」
京介はカウンターにお盆を片付けながらそう言った。
「え、いやいいですよ…。」
私はソファーから立ち上がる。
今日、京介にはたくさん迷惑をかけてしまった。
これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
「まあまあ、そう言わず。」
京介はドアに向かい、ドアノブに手をかける。
このドアは仮想世界で見たものと全く同じだ。
京介は勢いよくドアを開け、仮想世界でもやったように、私に外の景色を見せる。
「どうだい?こっちの世界も少しは変わって見えるかい?」
仮想世界では木製だったテラスだが、現実世界では少し錆び付いた金属製だ。
そのテラスに立ち、街の風景を眺める。
煌々とネオンが街を照らし、夕陽と混じり合い、不思議なグラデーションを作り出していた。
私は少し笑いながら答えた。
「いつもと変わりません。」
少し間を空けて答える。
「……でも、私は変わりました。」
京介は満足そうに微笑むと、街の景色を一瞥する。
「さ、行こうか。明日から楽しくなるぞ。」
「はい!」
人は変われる。
どんなに変わるのが難しくても、変わるきっかけとなるのは些細なことだ。
今の私はそう思う。
そう思うようになれたのだ。
京介の背を追い、ふと思い出す。
「…京介さん。」
ここに来たことで、すっかり忘れていたが、今ハッキリと思い出した。
「ん?なんだい?」
「レポート用紙とかって…持ってます?」
夕闇に包まれつつある街、仙台に盛大な笑い声がこだました。
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