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秋の断章 -Tragedy-
幕間4-①
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もうどこにもない過去の話をしよう。
「カマキリの命題?」
俺は思わず、聞いた言葉をそのまま訊き直した。
それほど彼女の口から出た言葉は、彼女には不似合だったし、同じくらい聞き馴染みのない単語だったのだ。
「ええ、人と同じくらいの知能を持ったカマキリのつがいがいたとします。メスは疲労困憊で、今にも力尽きそうな状態です。最後の力を振り絞って交尾を終えて、じゃあオスのカマキリはメスに食べられることを良しとするのでしようか?」
「そのままでは子孫を残すことができないどころか、愛したメスが死んでしまうかもしれない」
「ならばオスは自らの身を捧げるのか、否か。その果てに種自体が絶滅するのか、否か」
そこまで言って、千賀燎火はにこりと深く笑んだ。
*
久しぶりに夢を見た。
頭に焼きついて二度と離れない、俺の人生で一番優しく穏やかだった、あの冬の日々の記憶。
小っぽけな脳が生み出した広大な世界の中で、くすぐったい丁寧な敬語で話す二十五歳の千賀燎火はそんな話題を俺に振ってきた。
病院が用意してくれた部屋で、例の授業ごっこをしていた時だった。
冬の乾いた空気に包まれながら普通の病室よりやや狭い空間で、いつものように俺たちは向かい合って議論をしていた。
元々はキリスト教を踏まえた上での、美術史の話をしていたように思う。
アウグスティヌスだったか、アクィナスだったかの議論を紹介した上で、キリスト教における「愛」という概念を説明していたはずだ。
その途中で、彼女はいきなりそんなことを口にした。
カマキリの命題。
彼女には相応しくないグロテスクな例え話だったので、その単語はよく印象に残っている。
当時の俺はまだ彼女を浮世離れした清廉な存在として、無責任な憧れを投射していたのだろう。
カマキリが人間並の知性を持つ。
そんなことは生理学上ありえないし、あり得たとしてもそれを人間的な尺度で測ることは無理だろう。
仮にライオンが人語を話せたとしても、俺たちにライオンを理解することはできない。
だが思考実験というものは、想定が現実に生起しうるどうかは二の次に考えるのがセオリーだ。
端的な現実として人間並のカマキリがそこにいた場合、果たして彼らは子孫を繋ぐために共食いを良しとするのか。
それとも、エゴの生存を優先して、そのまま種は死に絶えるのか。
「愛を証明しうるのは、ただ自己犠牲のみである。私は今の寓話から、そのような命題が導けると思います。果たして、どうでしょうか?」
俺の目を見据えて、彼女はどこか勝ち誇ったかのように言った。
「愛と、自己犠牲」
その二つの言葉を、俺は反芻するように呟いてみた。
彼女の言葉はきっと正鵠を得ている。
俺には、その言葉の意図をそのまま理解することができた。
考えてみよう。
人はどうやって、恋人や我が子に愛を伝えようとするのか。
「君を愛している」とそう口にすることか、気取った言葉にして高らかに謳うことか、それとも互いの身体を貪ることか。
はたまた、自分がそうだから相手もそうだと無邪気に信じるのか、第三者の力を借りることによって客観性を得ようとするのか。
そのどれも、まったくもって確かではないだろう。
他人に愛を認めさせるには、自らを犠牲にして相手に尽くす行為が必要不可欠だ。
自己犠牲を欠いた愛の囁きなど、何一つとして信用性はない。
それは合理的なデータではなく、直感によって正しいと認められる類の真理だろう。
千賀燎火がそんなペシミスティックな価値観を持っていることに、俺は内心で驚きを隠せなかった。
先ほども綴った通り、その時の俺は彼女を純真無垢の擬人化か何かのように思っていたのだ。
それに千賀燎火の生い立ちを知った今となっては、彼女がそんな価値観を持つのも不思議ではないと納得できる。
母親から疎まれて、まともに愛情を注がれなかった幼い彼女にとって、ただ暴力や暴言に耐え忍ぶことのみが、母への愛情の示し方だったのだろう。
俺にだって、身に覚えがないわけではなかった。
「燎火さんには悪いですけど、それは正しくもあり、同時にまた間違っている考え方だと思います」
だがそこまでだ。
俺は手に持っていた原稿を机に置いて、迷いなく反論を口にした。
彼女は瞳を大きく見開いて、口を半開きにして俺の顔をじっと見つめた。
その視線に失望のニュアンスが混じっていたことを、俺は見逃さなかった。
「愛を証明しうるのは、自己犠牲を置いて他にはない。それは確かに一端としては、真理です。そうして得られた愛が純粋であることも確かでしょう。でもその正しさゆえに、突き詰めれば前提そのものが崩されてしまう。どういう意味か分かりますか?」
しばらく視線を落として、彼女は思案している様子だった。
「……愛は一人ではなく、二人でなければ交わされないもの、だからですか?」
不意に彼女は、震えそうな声で答えた。
「そうです。その格率が適用されてしまえば、愛する相手にも自己犠牲を強いることになってしまうのですから。愛を明かして欲しいがために恋人が傷つく姿を見たいと、果たして誰もが思うでしょうか?」
「自分はそんなことは望んでいない。なのに、相手を愛して自己を犠牲にすればするほど、相手もまた同じように自己を犠牲にしてしまう。つまり、愛するがゆえに、その愛を否定してしまう」
滲み一つないリノリウムの床に視線を向けながら、彼女はしみじみと呟いた。
その横顔を見つめながら、俺はかつて失った少女のことを思い出す。
幼少の頃から役者をしていた、とても美しい女の子だった。
俺はあの時、自分が犠牲になってでも彼女が助かればいいと思って行動を起こした。
だけどそれは今思うと、単なる俺の独りよがりだったのではないか。
演じることができないと独りで泣いていた彼女を助けた時と同じ、ヒーロー然とした自分の選択にただ酔っていただけではないだろうか。
大人になって、少なからずそう考えるようになった。
だが、そんなつまらない感傷に意味はない。
いくら後悔しようが、考えを改めようが、過去が巻き戻るわけがないのだから。
「ねえ、燎火さん。俺は思うんですよ。本当の愛、真実の愛なんてものは存在しない。だって愛っていうものは、深まれば深まるほど、逆に淀んで純粋から逸脱してしまうものなんですから。綺麗過ぎる愛は、愛ではない。恋や愛はいつだって人を悩ませて、迷子にさせる不条理な概念なんです」
それはただでさえ、語ることにある種の羞恥を覚える話題だった。
それが、まさに恋をしている当人となればなおさらの話だ。
あっさり彼女の考えを否定したことで、心象を損ねたかもしれない。
想いを寄せる彼女に、わざわざマイナスな評価を与えるのは得手ではなかっただろう。
しかし俺が躊躇いなく反論したのは、理由があった。
彼女のような、真に人から愛される素質がある人間が、独りよがりな愛の観念に振り回されてしまわないように。
そう願ったのだ。
孤独から抜け出せず、世界に対して異邦人だった俺如きが、そんなことを偉そうに説教できる立場じゃない。
そんなのは重々承知だった。
蟷螂の斧。
その様を、そう表現することだってできるだろう。
傲慢を承知の上で、俺はそのように振る舞った。
燎火さんは深く俯いて、恥じらったように頬を染めながら言った。
「そうですね。きっと正しいのは永輔さんの方です。本当の愛、純粋な愛なんてものは、この世界にはない。愛がいかに犠牲を強いようが、矛盾していようが、変わらず人は誰かに恋し、愛するのでしょうね。……人と同じ知能を持ってしまった、不幸なカマキリたちも、きっと」
「哲学は全てをあるがままにしておく。そんな言葉があった気がします。こういうことを考える時の正しい態度というのは、頭でっかちな思弁じゃない。きっとあるがままに、目の前の世界を眺めることなんでしょう。自己犠牲によってカマキリが繁栄しようが、絶滅しようが、それはただなるようになった、一つの結果でしかない。正しさも純粋さも、美しさも醜さも、全てを呑み込んで愛というものはそこにある」
雄弁に語り過ぎたと思い、恐る恐る彼女の顔色を伺う。
すると彼女は、憑き物が落ちたかのように、打って変わって新鮮な笑みを浮かべた。
「ちょっと、変なことを喋りすぎてしまいましたね」俺は恥ずかしさから頭を掻いて、彼女に頭を下げた。
「いいんです。おかげで何か、目が醒めたような気がします」
彼女は目を閉じて、聞こえるかどうかの小言で何かを言った。
「……愛は呪われている。そして、当たり前のように祝福されている」
その言葉は、やけに印象に残っている。
きっとその時、彼女は祈っていたのだろう。
ずっと後になって、俺はようやくそのことを理解した。
その時になって思い出したことがある。
カマキリという生き物は、その鎌を構える姿から「拝み虫」とか、西洋では「祈る僧侶」などと呼ばれてきたらしい。
まるで何かの符牒のようだ。
その意味ではこれ以上ないぐらい彼女に似合った生き物だったのかもしれない。
「カマキリの命題?」
俺は思わず、聞いた言葉をそのまま訊き直した。
それほど彼女の口から出た言葉は、彼女には不似合だったし、同じくらい聞き馴染みのない単語だったのだ。
「ええ、人と同じくらいの知能を持ったカマキリのつがいがいたとします。メスは疲労困憊で、今にも力尽きそうな状態です。最後の力を振り絞って交尾を終えて、じゃあオスのカマキリはメスに食べられることを良しとするのでしようか?」
「そのままでは子孫を残すことができないどころか、愛したメスが死んでしまうかもしれない」
「ならばオスは自らの身を捧げるのか、否か。その果てに種自体が絶滅するのか、否か」
そこまで言って、千賀燎火はにこりと深く笑んだ。
*
久しぶりに夢を見た。
頭に焼きついて二度と離れない、俺の人生で一番優しく穏やかだった、あの冬の日々の記憶。
小っぽけな脳が生み出した広大な世界の中で、くすぐったい丁寧な敬語で話す二十五歳の千賀燎火はそんな話題を俺に振ってきた。
病院が用意してくれた部屋で、例の授業ごっこをしていた時だった。
冬の乾いた空気に包まれながら普通の病室よりやや狭い空間で、いつものように俺たちは向かい合って議論をしていた。
元々はキリスト教を踏まえた上での、美術史の話をしていたように思う。
アウグスティヌスだったか、アクィナスだったかの議論を紹介した上で、キリスト教における「愛」という概念を説明していたはずだ。
その途中で、彼女はいきなりそんなことを口にした。
カマキリの命題。
彼女には相応しくないグロテスクな例え話だったので、その単語はよく印象に残っている。
当時の俺はまだ彼女を浮世離れした清廉な存在として、無責任な憧れを投射していたのだろう。
カマキリが人間並の知性を持つ。
そんなことは生理学上ありえないし、あり得たとしてもそれを人間的な尺度で測ることは無理だろう。
仮にライオンが人語を話せたとしても、俺たちにライオンを理解することはできない。
だが思考実験というものは、想定が現実に生起しうるどうかは二の次に考えるのがセオリーだ。
端的な現実として人間並のカマキリがそこにいた場合、果たして彼らは子孫を繋ぐために共食いを良しとするのか。
それとも、エゴの生存を優先して、そのまま種は死に絶えるのか。
「愛を証明しうるのは、ただ自己犠牲のみである。私は今の寓話から、そのような命題が導けると思います。果たして、どうでしょうか?」
俺の目を見据えて、彼女はどこか勝ち誇ったかのように言った。
「愛と、自己犠牲」
その二つの言葉を、俺は反芻するように呟いてみた。
彼女の言葉はきっと正鵠を得ている。
俺には、その言葉の意図をそのまま理解することができた。
考えてみよう。
人はどうやって、恋人や我が子に愛を伝えようとするのか。
「君を愛している」とそう口にすることか、気取った言葉にして高らかに謳うことか、それとも互いの身体を貪ることか。
はたまた、自分がそうだから相手もそうだと無邪気に信じるのか、第三者の力を借りることによって客観性を得ようとするのか。
そのどれも、まったくもって確かではないだろう。
他人に愛を認めさせるには、自らを犠牲にして相手に尽くす行為が必要不可欠だ。
自己犠牲を欠いた愛の囁きなど、何一つとして信用性はない。
それは合理的なデータではなく、直感によって正しいと認められる類の真理だろう。
千賀燎火がそんなペシミスティックな価値観を持っていることに、俺は内心で驚きを隠せなかった。
先ほども綴った通り、その時の俺は彼女を純真無垢の擬人化か何かのように思っていたのだ。
それに千賀燎火の生い立ちを知った今となっては、彼女がそんな価値観を持つのも不思議ではないと納得できる。
母親から疎まれて、まともに愛情を注がれなかった幼い彼女にとって、ただ暴力や暴言に耐え忍ぶことのみが、母への愛情の示し方だったのだろう。
俺にだって、身に覚えがないわけではなかった。
「燎火さんには悪いですけど、それは正しくもあり、同時にまた間違っている考え方だと思います」
だがそこまでだ。
俺は手に持っていた原稿を机に置いて、迷いなく反論を口にした。
彼女は瞳を大きく見開いて、口を半開きにして俺の顔をじっと見つめた。
その視線に失望のニュアンスが混じっていたことを、俺は見逃さなかった。
「愛を証明しうるのは、自己犠牲を置いて他にはない。それは確かに一端としては、真理です。そうして得られた愛が純粋であることも確かでしょう。でもその正しさゆえに、突き詰めれば前提そのものが崩されてしまう。どういう意味か分かりますか?」
しばらく視線を落として、彼女は思案している様子だった。
「……愛は一人ではなく、二人でなければ交わされないもの、だからですか?」
不意に彼女は、震えそうな声で答えた。
「そうです。その格率が適用されてしまえば、愛する相手にも自己犠牲を強いることになってしまうのですから。愛を明かして欲しいがために恋人が傷つく姿を見たいと、果たして誰もが思うでしょうか?」
「自分はそんなことは望んでいない。なのに、相手を愛して自己を犠牲にすればするほど、相手もまた同じように自己を犠牲にしてしまう。つまり、愛するがゆえに、その愛を否定してしまう」
滲み一つないリノリウムの床に視線を向けながら、彼女はしみじみと呟いた。
その横顔を見つめながら、俺はかつて失った少女のことを思い出す。
幼少の頃から役者をしていた、とても美しい女の子だった。
俺はあの時、自分が犠牲になってでも彼女が助かればいいと思って行動を起こした。
だけどそれは今思うと、単なる俺の独りよがりだったのではないか。
演じることができないと独りで泣いていた彼女を助けた時と同じ、ヒーロー然とした自分の選択にただ酔っていただけではないだろうか。
大人になって、少なからずそう考えるようになった。
だが、そんなつまらない感傷に意味はない。
いくら後悔しようが、考えを改めようが、過去が巻き戻るわけがないのだから。
「ねえ、燎火さん。俺は思うんですよ。本当の愛、真実の愛なんてものは存在しない。だって愛っていうものは、深まれば深まるほど、逆に淀んで純粋から逸脱してしまうものなんですから。綺麗過ぎる愛は、愛ではない。恋や愛はいつだって人を悩ませて、迷子にさせる不条理な概念なんです」
それはただでさえ、語ることにある種の羞恥を覚える話題だった。
それが、まさに恋をしている当人となればなおさらの話だ。
あっさり彼女の考えを否定したことで、心象を損ねたかもしれない。
想いを寄せる彼女に、わざわざマイナスな評価を与えるのは得手ではなかっただろう。
しかし俺が躊躇いなく反論したのは、理由があった。
彼女のような、真に人から愛される素質がある人間が、独りよがりな愛の観念に振り回されてしまわないように。
そう願ったのだ。
孤独から抜け出せず、世界に対して異邦人だった俺如きが、そんなことを偉そうに説教できる立場じゃない。
そんなのは重々承知だった。
蟷螂の斧。
その様を、そう表現することだってできるだろう。
傲慢を承知の上で、俺はそのように振る舞った。
燎火さんは深く俯いて、恥じらったように頬を染めながら言った。
「そうですね。きっと正しいのは永輔さんの方です。本当の愛、純粋な愛なんてものは、この世界にはない。愛がいかに犠牲を強いようが、矛盾していようが、変わらず人は誰かに恋し、愛するのでしょうね。……人と同じ知能を持ってしまった、不幸なカマキリたちも、きっと」
「哲学は全てをあるがままにしておく。そんな言葉があった気がします。こういうことを考える時の正しい態度というのは、頭でっかちな思弁じゃない。きっとあるがままに、目の前の世界を眺めることなんでしょう。自己犠牲によってカマキリが繁栄しようが、絶滅しようが、それはただなるようになった、一つの結果でしかない。正しさも純粋さも、美しさも醜さも、全てを呑み込んで愛というものはそこにある」
雄弁に語り過ぎたと思い、恐る恐る彼女の顔色を伺う。
すると彼女は、憑き物が落ちたかのように、打って変わって新鮮な笑みを浮かべた。
「ちょっと、変なことを喋りすぎてしまいましたね」俺は恥ずかしさから頭を掻いて、彼女に頭を下げた。
「いいんです。おかげで何か、目が醒めたような気がします」
彼女は目を閉じて、聞こえるかどうかの小言で何かを言った。
「……愛は呪われている。そして、当たり前のように祝福されている」
その言葉は、やけに印象に残っている。
きっとその時、彼女は祈っていたのだろう。
ずっと後になって、俺はようやくそのことを理解した。
その時になって思い出したことがある。
カマキリという生き物は、その鎌を構える姿から「拝み虫」とか、西洋では「祈る僧侶」などと呼ばれてきたらしい。
まるで何かの符牒のようだ。
その意味ではこれ以上ないぐらい彼女に似合った生き物だったのかもしれない。
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